主にキリスト教が関連している倫理的諸問題について、教えてください。

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A 回答 (1件)

現在、キリスト教が関連している諸問題と解釈してよいのでしょうか。


そう解釈すれば、最も重要な問題は生命倫理―特に安楽死や(障害児の)妊娠中絶の問題―が挙げられると思います。
最も右派的なキリスト教団体(特にアメリカに多い)では両者共にほとんど否定されていますが、ローマ・カトリック教会の道徳神学者や道徳哲学者は死ぬことに任せる「消極的安楽死」については事実上、認めているようです(中絶問題については申し訳ないのですが、わかりません)。
それはある一つの行為が二つの結果をもたらすときに主張される「二重結果の理論」に基づいています。もっといえば、直接の意図が道徳的規範を犯さない有益なものである限り、その行為は許される、という理論です。
安楽死の問題に則すと、患者の苦しみを取り除くことを直接の目的とするのであれば、「消極的安楽死」は患者にこれ以上苦しみを与えないというのが、主たる目的であって、死は望まれぬ副次的な結果とされるわけです。
この理論にはかなり違和感を感じると思いますが、これ以上この問題に言及すると、話がずれてくるので、とりあえず「こうした考え方もある」ということだけを念頭においてくだされば、幸いです。
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こんばんは。

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仕事柄、高校生と接することが多く、
この8年間、年々、学習能力が落ちていると実感するからです。
(※もちろん、そうじゃないコも多くいるのもわかっております。)

ゆとり教育以降、
小・中学校だけでなく高校でも宿題を出さない学校が増えました。

その結果、自分で勉強する習慣がかなりなくなったように感じています。

びっくりしたのは、
予習・復習の経験がなく、
「テスト前じゃないんだから勉強する必要がないじゃん」と言い切った高校生が
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そもそも授業に付いて行けないのでは…と自分の体験ではそう思うのですが…。

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なので、定期テストまでなくなったら
より一層、勉強しないコが増えるだろうと思うからです。


人間は、よっぽどしっかりいて自分で戒めることができない限り、
ラクな方へラクな方へと行ってしまうと思います。

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大学生も同じ。
高校よりも決まり事が少なくなる分、
はっちゃけやすくだらけやすい環境なので、
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また、評価を付ける側としても
基準があいまいになるとも思います。

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それは、天地を創造し、イエスキリストをこの地に授けてくださった、父なる神お一人です^^
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1 ムハンマドは自意識として、その人生をユダヤ教徒として出発したのですか、キリスト教徒として出発したのですか、いずれでもないのですか。
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よろしくお願いします。

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偉大な宗教家として歴史に名を残した人は、えてして、単なる宗教家ではなく、政治的な能力でもすぐれていることが多いような気がします。そう、まさに今、チベットのために戦っているダライ・ラマ14世のように。彼は、インド、中国、米国、日本などの大国間の政治力学を利用してチベットのために戦っており、極めて社交的な性格であるうえに、ウィットに富み説得力のある話術を英語で使いこなし、世界中の世論を味方につける能力を持っています。

キリストの場合は、ユダヤ人国家がローマの属国であったという状況の中、ローマへの反逆も辞さない一部過激はとは一線をかくした人物です。聖書の中には、キリストを憎悪するユダヤ人たちが、なんとかしてキリストに反ローマ過激派のレッテルを貼ろうと試みるものの、キリストが政治的センスにすぐれ温厚な性格であることによって、彼をわなにはめようという試みは、ほとんど失敗してしまうシーンが出てきます。あの、「神のものは神へ、カエサル(皇帝)のものは皇帝に返せば良い」という有名なセリフは、別に宗教的に深いことを語っているのではなく、「ローマによる穏健かつ寛容な支配が不満なのか。税金くらい払え」という意味であるように思われます。

仏陀の場合はさらに過激で、2つの大国にはさまれたシャカ族の王子として生まれ、おそらくは将来を悲観し、政治から逃れるため出家してしまったとすら解釈できる人間です。仏陀が出家のため宮殿から出ていこうとすると、妻は子供が出来たと言って出家を止めようとします。しかし、仏陀は、「それでも自分は出ていく。子供には『邪魔者』とでも名づければよい」と言い放った人物です。

ムハンマドはイスラムの公式見解から言うと、おそらく、ユダヤ教から出発したのでも、キリスト教から出発したのでもありません。初期イスラムは商人のための宗教という性格が強く、もともとが政治・経済的な背景を濃厚とした宗教なのですが、この商人のための宗教という側面は、忘れられがちです。イスラムの教えでは、ムハンマドが天啓を受けイスラム教を作ったということになっているかと記憶していますが、天啓というのは、たいていは過去の経験に基づいた経験則をバックグラウンドにして、それが突如として本人の自覚もないままに、いきなり無意識から意識に上がってきたものにすぎません。他宗教からの影響関係を言えば、明らかにムハンマドはキリスト教ではなくユダヤ教から影響を受けています。イスラムに見られる食のタブーや割礼(ペニスの包皮を切り取ること)の儀式などは、ユダヤ教的な要素です。キリスト教がローマで成功した理由のひとつに、キリスト死後の早い段階で、「割礼は不要である」と宣言し、ギリシャ・ローマ文化になれた人々に安心感を与えたことが指摘できます。なにしろ、ユダヤ教徒の割礼の儀式はローマ人から見ると不気味な悪習であり、ユダヤ人が機を捕らえては奴隷、使用人、孤児などに割礼を施そうとするたびに、ローマから「割礼はユダヤ人の中で行うこととし、他者に強要することはあってはならない」という命令を食らっていたのです。

さて質問2についてですが、ムハンマドは勢力を拡大していく中で、既に精密に確立された教義を持つユダヤ教との論戦で、大苦戦をすることになります。ユダヤ教徒からは、ムハンマドは天使の概念を理解していないなどとの批判を浴びるわけです。ムハンマドは論戦ではなかなか勝てませんでしたが、商業・貿易などの社会的要素においては、ユダヤ教を圧倒することになっていきます。ムハンマド本人がどの程度自覚していたかは分かりませんが、彼からみたユダヤ教は、一神教としての純粋性が低いものであり、ムハンマドはそれを乗り越えることで、ユダヤ教・キリスト教・イスラムの中で、もっとも純粋な一神教を作り出すことになります。ユダヤ教は一神論だと思っている人も多いのですが、実はユダヤ教における神の概念は、神は1人しかいないというよりも、民族ごとに守り神がついているが、ユダヤ人についているヤーヴェこそが最強の神だという発想なのです。聖書の楽園追放の物語を読んでいると、りんごを食べた2人を見て、神々(複数形!)が、あ~だこ~だと議論しているシーンが出てきたりして、なかなか愉快です。
ムハンマドはこの不純物の混ざった一神教というユダヤ教の特性を一掃することにより、1民族のための宗教ではなく、あらゆる民族のための世界宗教へとイスラムを育て上げていくことになります。

ムハンマドから見た場合のキリスト教の欠陥は、偶像崇拝の禁止が徹底していないことだと思います。また、神にざんげをする場合、キリスト教ではプロテスタント系を除けば、ほとんどのケースで聖職者を通じて神にざんげをするのに対し、イスラムでは個人が直接神にざんげをするという原理によって、神と人間の対話(および契約)という性格が強いものになっています。あるフランス人キリスト教徒が書いた説に、イスラムの本質はユダヤ教の再興であるというものがあり、これはキリスト教徒の立場からすると、ある程度の正当性がある議論だと思います。

なお、ユダヤ教・キリスト教が共通して持っている問題点があるのですが、イスラムはこの影響を、ほとんど受けておりません。一神教の弱点のひとつに、「唯一絶対の創造主がいるのなら、なぜ世の中に悪などという不要で有害なものまで作ったのですか?」という質問に、正面突破では反論することが出来ないことがあげられます。ユダヤ教・キリスト教は、いずれも神と悪の最終戦争という思想をもち、前者においてはダニエル書、後者においては黙示録にその思想が表明されています。なぜ、一神教であるはずのユダヤ教やキリスト教に善と悪の最終戦争などという二元論的思考が紛れ込んでいるのかというと、おそらく、ペルシャのゾロアスター教の影響だと思います。ゾロアスター教は典型的な二元論的宗教で、神と悪の対立という概念を持っています。イスラムはこの、神と悪による最終戦争という思想を持っているようには見えません。それだけ、一神教の純粋性だけを見れば、イスラム教が最もすぐれた宗教だということになります。

ただ、現代社会においてはイスラムには悪習といわれても仕方がない要素が混ざっています。最大の問題点は、「目には目を、歯には歯を」という古い復讐原理に基づく刑法を、今に至るまで持っていることではないでしょうか。ムハンマドより以前のキリスト教や仏教でも、このような復讐原理は見られません。キリストは右のほほを殴られたら左のほほを殴らせろと教えました。仏陀は不幸の連鎖を止めない限り、涅槃への到達は不可能だと説いています。つまり、ムハンマド以前の段階ですでに、イスラム刑法の問題点が指摘されてしまっており、イスラム刑法はこの意味で、極めて非近代的で問題の多い法思想なのです。ヨーロッパ近代法の基本思想が、復讐の連鎖を止めるため、法権力の執行権を国家に一元化するという傾向を示し始めるころになると、ますますイスラム刑法の問題点が浮き彫りになってきます。非イスラムの現代人から見たら、イスラム刑法にたまに見られる、鞭打ちとか手の切断とかの処罰は、極めて残酷で非近代的なものに見えてしまうわけです。

偉大な宗教家として歴史に名を残した人は、えてして、単なる宗教家ではなく、政治的な能力でもすぐれていることが多いような気がします。そう、まさに今、チベットのために戦っているダライ・ラマ14世のように。彼は、インド、中国、米国、日本などの大国間の政治力学を利用してチベットのために戦っており、極めて社交的な性格であるうえに、ウィットに富み説得力のある話術を英語で使いこなし、世界中の世論を味方につける能力を持っています。

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Q高校の定期テストについて

65分授業の高校の定期テストって65分間なんですか?

Aベストアンサー

テスト時間なんて先生が自由に決められるのでは?
とはいっても普通は一コマ全部の時間がテスト時間に割り当てられると思いますよ。

Qキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教・・・などなど、さまざまな宗教の考え方や特徴を知りたいです。

最近、宗教について興味を持つようになりました。たとえばイスラム教では女性の地位が低かったりヒンドゥ教にはカーストがあったりと、宗教によってさまざまな考え方の違い、特徴があると思います。そんな宗教の違いなどについて分かりやすく解説していただけたら幸いです。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うようです。
 もうひとつには 輪廻転生かつ因果応報の説があります。梵我一如を身に現わしたとされる司祭(ブラフマナ)は 過去世で善い因を積んだ結果そう成ったというわけです。
 そしてこの場合 低い身分の人びとは 過去世で悪い因を積んだ結果だというのですが それだけではなく いま現在善い因を積めば そして生まれ変わり続けていつの世にかは よき身分に生まれると説きます。

 ブディズムは このブラフマニズムを批判し否定して起こりました。
 ただ その内容は必ずしも明確ではありません。
 低い身分のまま生まれ続けるという六道輪廻は 目覚めた状態(ブッダ)に成れば断ち切ることができると言いますが 輪廻転生が全体として否定されたわけではありません。
 ひとは仮りにモノが集まってその存在となって生まれて来たものだから 《わたし》が確固とした存在だとは見るものではないようです。(諸法無我)。何ものにも依存しないブラフマンと一体でありうるというアートマンであるとは見ない。ただし 誰もがブッダの状態に成ることができるというその《仏性》を身に宿すとも もう一方では説くようになります。
 ですから一般には 《梵我一如》をブディズムのおしえだと捉えているのではないでしょうか。

 イスラームは 単純です。《神(アッラーフ)》が直接にムハンマドの口を借りて ひとの思いやおこないをすべて〔と言っていいほど〕おしえの中に示しているということです。きわめて具体的な内容を示すかたちで表現されていますから。 

 ▲ (クルアーン=コーラン)~~~~~~~~~~~~~~~~
 まことにわれら(* アッラーフ=神 の自称・複数形での語り)が 汝(ムハンマド)に啓示したのは ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらは アブラハム イシマエル イサク ヤコブの各支族に また イエス ヨブ ヨナ アロン そしてソロモンに啓示した。また ダヴィデに詩篇を与えた。(4:163)


 おまえたち(* ムハンマドを含めた信徒たちのこと。むろんアッラーがムハンマドの口を借りて語っている)は言うがよい。
   《われわれは神を信じ そしてわれわれに啓示されたものを アブラ
   ハムとイシマエルとヤコブともろもろの支族に啓示されたものを モ
   ーセとイエスに与えられたものを 信じる。
   また もろもろの預言者が主から与えられたものを信ずる。われわれ
   は これらのあいだでだれかれの差別はしない。
   われわれは神に帰依する。》
    (2:136)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちなみに セム語は三個の語根子音から成るのが 一般です。
 《S-L-M》は ヘブル語でも シャローム( SaLooM )と言って挨拶に用いる語です。アラビア語では 定冠詞(アル→アッ)を付けて 《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》です。
 同じ S-L-Mから派生する語として イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。
 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れて わたしは〕 すこやかならしめられた》と言っています。〔  S-L-M > muSLiM。(初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞)というわけのようです〕。
 つまりは ブラフマニズムやブディズムで目指された《安寧としてのさとり》の状態は ムスリムとしては その名前じたいの中に堂々と名乗っているというわけです。《われ やわらがしめられたり》と言っています。
 ひとこと悪口を言えば つねにいつもいつも《われはアッラーを信じる。アッラーに帰依する》と言っていなければならないのかと思ったりします。そんなことぢゃ 信じていないのではないか。弱いのではないかと思ったりします。
 
 さて ムハンマドに乗り移って語ったアッラーフの言葉の中に アブラハムやモーセのほかに イエスも出て来ています。そこで クリスチアニズムについてです。
 これは ひとことで言えば 人がついていけないほど すっ飛んでいます。なにしろ ヨセフとマリアという夫婦から生まれた人間であるイエスは この世のものではないなぞの霊としての存在である神の独り子であり みづからも神である。こういう出で立ちです。

 いくらかは分かるようなところを示してみますと。
 ひとは誰でも《仏性》を宿すと言ったりしますが クリスチアニズムもひとには神の霊が宿ると言います。
 ブラフマンとわたし(アートマン)とが 一体となるという説に対しては 神〔の霊〕がわたしをおおい包む。そこでわたしは 無条件に只で(無料で=恩恵として)癒されやわらがしめられたと告白する。
 ただし これはすべて ひとりの人の主観の内において起こる出来事であり その主観内面におさまるものであると知っています。ですから 神が人間の言葉でそのまま語るということは まぼろしとして――文学表現において――触れたりすることもあるにはあるようですが 基本的にはないと思っています。
 神をひとは見ることが出来ない。それは 非思考であると捉えます。言いかえると その信仰の内容を 言葉にして伝えることはあるにはあっても その人の主観の問題であると捉えています。言いかえると 二人以上でこの信仰内容をおしえとして具体的な表現において共有するということは すでにもはや非思考の信仰ではなくなると見ています。すなわち 教義と組織を伴なった宗教は 信仰の自殺行為であると見ます。そういう信仰です。
 (教会組織は わたしに言わせれば 犯罪行為です)。

 さらに言いかえると もし人と人のかかわりやつながり あるいはきづな これらのことを《愛》と言うとすれば そのような愛は 非思考つまりなぞにおいて神のほうがなんとかしてくれると思っているという意味です。人もその一端をになうと言ってもいいでしょうが――そして人間の為し得る努力という努力はすべておこないますが―― 基本は 絶対他力です。隣りびとを愛せとは 自分と同じくらいは――もしくは自分を思う前に一秒くらいは相手を先に思うかたちで――愛しなさいということです。

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うよ...続きを読む

Q高校の定期テストの中間で赤点ばっかとりました。期末頑張ればなんとかなりますかね?

高校の定期テストの中間で赤点ばっかとりました。期末頑張ればなんとかなりますかね?

Aベストアンサー

補修を受けることになることは覚悟しておきましょう。
ただ、期末まで時間がありますので頑張ればどうにかなるでしょう。
これからはスマホを見る時間を減らして勉強に集中してください。
いくら長時間しても集中していなければ何もなりませんよ。

Q賛美歌「のろいの木」とは(キリスト教関連)

ある日本の賛美歌より「のろいの木にかかりませし こひつじ わが すくひよ」

ご覧のとおり、古い文体で、古い編集の賛美歌です。「のろいの木」とは「十字架」のことでしょうか、それとも???

Aベストアンサー

myxaさん こんにちは。
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新約聖書「ガラテヤ人への手紙』 3章13節にこうあります。
『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
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