性格というものはなかなか変えられない。
だから二の舞三の舞を起こしてしまう。
自分の場合は人を学力でみてしまう。
まぁ、文面上誰がみても悪いと思うでしょう。
でも、これはたとえ口に出さなくても
悪は悪でしょ?でも、これは直せない。
そんな中生きてる。口に出さなくても
もし心の中で人を軽蔑していたらそれは悪。
自分は理系人間なので誰が唱えたのかはしりませんが・・・

A 回答 (10件)

 人を学力でみてしまうことは善ですよ。


客観的に判断しているのですから。
 人を偏見や差別などの先入観や思い込みで判断することは悪です。
 でも人を学力だけでみてしまうのは悪です。
判断する材料や基準(ものさし)は多い程いいと思いますよ。
 心の中で人を軽蔑することは悪ですがある意味仕方のない事です。(気にしない事です。)
 沢山の読書や映画鑑賞や芸術鑑賞やあるいは仕事に打ち込む事で、あるいは人との付き合いの中で御自身を磨いていく努力を続ければ自然に年令とともにそういう気持ちが薄れていくものと思われます。
 耳順という言葉がありますものね。
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・・・そうですか、学力で人を見てしまう、学力が低いと、その人を軽蔑してしまうのですか?・・成る程。



倫理的に悪い、とうより、何か、ご自身の癖、なのではないでしょうか。

 それを、ご自身で、悩んでおられるのならば、しばらく、学力で観るという事は、それはそれで、置いといて、無理にそうしないようにとか、しないでですね、それ以外の、人間のすばらしさを発見するように工夫されたらいかがでしょうか?

 これは悪なのか、というご質問についてですが、人を相対的に比較するということは、序列をつける、また、したがって、人を判定する、ということに繋がるわけですので、キリスト教的には、これは「罪」になるんでしょうね。
 しかし、大事なのは、キリスト教ではどうとか、仏教では、とか、ではなくて、ご自身の心のなかに、これは、悪ではないのか、という言葉が生起している、という事だと、感じます。

 
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常に自己の限界にあり、自己を発揮して生き続ける人は、「私を生きる」ということができると思います。

もし無を生きたら、死んでしまうと思います。
悟りを得た人は21日で死ぬという話を聞きました。何も食べないからです。
生きる理由もなく死ぬ理由もなかったら、死んでしまうのでしょう。
なんで生きるのかは、悟ったお釈迦さんにすれば、みんなのために生きるということになるらしい。悟った後に死のうとしたが、神様の王が出てきて、「教えをひろめて~」って頼んできたらしいです。だから、死ぬまで教え続けたそうです。慈悲心だそうです。
 自分ってなんだろう。悪い自分?思っている自分?観ている自分?と考え続け、自分と一体化した時に、どうなるか、それは人それぞれだと思います。他人の出る幕はあってもいいけど、用意する必要はないかもしれません。その人にはその人の悟りがあるのだと思います。
別に、悪くてもいいんじゃないんですか?悪魔には悪魔の楽しみがあると思います。優越意識に浸る。それも一つの快楽だと思います。
しかし、人と自分を比べているので、その人はほんとの自分を得ていないでしょう。比べようのないものとしての自分を知ること、それが大事だと思います。
それが、比べようのない、測り知れない幸せを体験しえるからです。
馬鹿でも、賢くても、幸せだったらいいと、僕は思います。
賢い方が、馬鹿よりも幸せに近いと考えるのは、僕にはできません。
幸せには、なにも関係ないことだと思います。
ただ、人の幸せを奪い、不幸を与えるようなことが、悪の幸せだろうと思います。
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●すこしわたし自身のことを書いたほうが結論を理解していただけると


 思いますので そのことから書きたいと思います。

 わたしは わたしより賢い人物を見たことも聞いたこともありません。
 したがって きまってどんな対象となる人物でも わたしの中では
 バカ アホ ロクデナシ という形容がなされます。
 それでも 不思議と人間関係はうまくいってます。

 問題はあなたの性格が「悪」か?ということではなく。
 あなたが堂々と「あなた自身」として生きているかということです。
 堂々とあなた自身なら なにを考えようとそれは「善」です。
 また何を言ってもなにを行っても普遍的には それは「善」です。
 あなたがそれが「なんか自分自身」ぽくないなあと感じているなら
 それは「悪」です。あなたは 自分自身を模索して見つけて
 本当のあなた自身を 生きるべきです。
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学歴で人を判断すると言うのは、性格ではなく物事の判断基準だと思うのですが。



私の場合、企業の人事部で幾人もの人を面接しました。その場合の判断基準のひとつが、学歴です。
もちろんそれが全てではありませんが、面接では、第一印象というきわめて感情的なことでしか人を判断できません。重役に、採用理由を聞かれたとき、「笑顔がよかったので」などという理由は通用しませんから。(うーん、通用したときもあったか・・・)

もし、自分の価値観を変えたいと思うのであれば、思い切ってまったく違う人々との交流をしてみてはいかがでしょう。
いろんな人がいる、と言うことを頭で無く肌で感じれば、価値観も変わりますしひいては、性格も少しづつ変わるような気がするのですが。
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うーん、いいとか悪いとかっていうより、


世間をわたっていく上で、損はするかもしれないって感じでは
ないでしょうか。

学歴や学力はその人のひとつの力を現すものでしょ。
あなたは自分のその力を大切に思っていて、これをもっている人を
価値があるように思う、そうでない人に魅力を感じないという。
それはひとつの状態であって、べつに反省とかしなくても
いいんじゃないでしょうか。
心の中で思うだけなら、誰が傷つく?他人は誰も傷つきません。
そういうことを思う自分自身がその考えに傷つくのなら、
そんな都合の悪い考え、捨てちゃえばいい、
そうでないなら、そのまま置いといてかまわないと思います。
そして、そう思う自分の気持ちを外に出すかどうかは
また別の話で、それは世間をわたるうえでの保身を考えてすればいいでしょう。
選択肢はいろいろあります。
自分が心の安らぐようにすればいいと思います。

私はどうかといえば、学歴は気にしません、が、
知識を持っていてそれを使える人には敬意を感じます。
自分で考えて、その判断に従って行動してみようとする人にも敬意を感じます。
つまり、そうしない状態の人のことは軽蔑する傾向にあります。
で、そういうふうに思う自分を、これでいいんじゃないかと思ってます。
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人を学歴で見ている自分を見て、そんな自分を軽蔑している自分を見て、そんな自分は悪いと思っている自分を見る。


そうやっていくうちに、観るということができるようになる。自覚があればいいともうぜ?
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善悪の判断なんて数学の公理と似たような立場じゃないの?


その基準を全面的に受け入れるから判断できるんでしょう。~は悪だ、という判断を全面的に受け入
れているから悪と判断できるんであって、善悪の基準を受け入れてない人からみれば「なんでそれは
悪?」って感じですよ。ちなみに善悪の基準を放棄している私からすれば、「もし心の中で人を軽蔑
していたらそれは悪」ではなくて不快な行為ですね。

正直言って人の行動を判断するのは快・不快で足りるように思う。絶対的な価値観は、法だけ共有し
ていれば、もういいよという感じですね。善悪のような価値観は、できれば、個人的なものとして内
に秘めるか、同じ原理を共有できる人達の中でだけでやってほしいな、窮屈なんで。私もニヒリスト
一歩手前かな…
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 学力で人間を評価することは悪いことかどうかということと、


 その結果心の中で人を軽蔑してしまうことが悪かどうか、とか言う話ですね。
 わたしは nakanakanaka さんのお考えにほぼ同じなんですが、shu84 さんのような傾向を持った人をいっぱい知っています。わたしもそのうちの一人ではないかと思うのですが。
 どこかで優越感と劣等感は同じものだと聞いたことがあります。優越感を持つときは、その裏でひそかに劣等感が育っています。そうしてやがて不愉快な人生を送ることになるそうです。そこで優越感も劣等感も持たない性格になれたら、そのひとは一生安楽に暮らせるのではないかと考えて、宗教とか道徳とかが生まれてくるわけですね。
 しかしわたしの考えは、shu84 さんのように、自分の性格のそのような部分に気付いているひとは、それはそのまま放っておいても良いと思うのです。いろいろ悩んで本人は苦しいですけどね。やがて素晴らしい人に成長されることは確実です。
 問題はそのことに気付かないで、人を評価し差別し軽蔑し、そうして際限なしに争っていく大多数の人々のことですよ。
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思うことも、悪いことらしいですよ。


某宗教上、
でも、私は、我慢することも、よくないと思います。
たまには、暴言になっても、本音を言いましょう。
言いすぎは、嫌われます。


なんでも、そうですが、自分が痛い目にあって、
はじめて、自己反省、自己修正、努力する気になります。

あなたは、頭で、考えているだけで、
どこかで、自分を正当化しています。

心の隅は、そうですよ。

ですので、今の自分の考えを喧嘩腰で、多くの人
あなたの考えと反対の人、
あなたの場合ですと、学力の低い人を馬鹿にしてみる。

そうすると、いかに、学力だけで、
人を判断することが、無意味か気がつくと思います。

あなたが、学力があると自負しているとの推測を前提にしています。

学力の低い人が、学力が高い人を馬鹿にしているケースもあります。

上を見ればきりがなし、下を見てもきりがないです。

もっと多くの人と接しましょう。
いかに、自分の考えが狭いか、
頭でっかちか気がつくことでしょう。

井の中のかわず、王様の耳はロバの耳です。

本当の直したいことは、もうとっくに、直ってるはず。
思いが薄いんですよ、ただ、単に。
あなたのなかの優先順位が、低いはず。

私も世の中、大嫌いなことも、多いです。
しかし、そう行いをする人とは、避けてくらしてますし、
バリアーも張ってます。

イエスマンばかりを周りに引き連れるつもりは、ありません。
しかし、同じ言い方でも、
自分が落ち込む、腹が立つ、喧嘩売ってるの?
文句や過去の過ちを指摘されたくないなどの、言い方や、
勉強しよう、はげまされた、見習おう、尊敬するなど、
両極端に受け取ります。受け取られます。
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Q劣等感を持たない人は優越感も持たない

優越感を持つ人は劣等感も持っている。
(違った側面で)劣等感を抱く性質の人しか優越感は抱かない。
これは正しいですか?

Aベストアンサー

基本的に正しいと考えます。

それは、どちらも他人とに比較から生まれるもので、比較する性質が根を張っているからです。

他人を余り意識しない人は自己完結型で、悪く言えば自己満足型です。
自分との戦いしか見えないため、優越感も劣等感も抱き難いでしょうが、独り善がりになりやすいかもしれません。
芸術家や研究者なんかには向くかもしれません。

実は、必ずしも、違った分野で持つのではなく、劣等感がある分野だからこそ、ムキに頑張って他人を超え、無意識に劣等感を隠すために優越感を持っているのかもしれません。

幼少期の育ちも大きく影響するでしょうし、広汎性発達障害などもかなり影響しますし、外見も影響します。

基本的には劣等感を持たない人は優越感も持たないでしょう。
優越感が無くても高慢・傲慢の問題がありますが、優越感とのはっきりした区別が出来るケースを出来ないケースと、複雑ですねぇ~~

Q大日如来の真言の唱え方

大日如来の真言の唱え方が分かりません。

例えば、観世音菩薩の真言の唱え方を知っていますので、書きます。
|オン|アロリ|キャ|ソワ|カ|
どの区切りも時間の長さは同じです。

同様に、どの区切りも時間の長さが同じになるように、大日如来の真言に区切りを入れて下さい。ご存知の方、お願いします。

オンアビラウンケンバザラダドバン

Aベストアンサー

習ったのではないが、自分の祈り気持ちと、ちから、そしてリズムで
決めている
オン|アビラ|ウンケン|バザラ|ダド|バン|

または、
オン アビラ|ウンケン/バザラ ダド|バン

観世音菩薩(自己流の自分の場合)
|オン|アロリ|キャ|ソワカ|

Q皆さんは、日本語で優越感にひたっていますか?

私は、アルファベットに代表される、表音文字しか使わない連中を見ると、「ああ、ひらがな、カタカナのたぐいしか読めない、劣った連中なのだな」と、優越感にひたります。では、中国人はどうかというと、「あんなに沢山の漢字を覚えなければならないなんて、可哀想な連中だな」と、やはり優越感にひたります。皆さんも私と同じように優越感にひたっていますか?

Aベストアンサー

このようなことで優越感を感じる人っているのでしょうか?常に自分が優れている、勝っていると思いたい気持ちがあるのでしょうが、優越感はひっくり返せば、劣等感の恐怖から逃れたいだけなのではないでしょうか?

言語は意思の伝達手段ですから、どのような文字を使おうと、どのように複雑な漢字が必要であろうと、伝えたい意思が正確に伝われば良いのです。

カタカナしか読めなくとも、そのカタカナによって優れた意思が伝達されるのであれば、あなたは優越感などに浸っている場合ではないのです。難しい漢字を覚えなくてはならない可愛そうな奴だと思っていても、その難しい漢字を使って、物事の繊細な部分や微妙な部分の表現が出来て、伝わる意思が正確になるなら、あなたは優越感になど浸っている場合ではないのです。

鈍ら(なまくら)な刀を持っている相手に優越感を持っていても、斬られてしまっては何にもなりません。みょうちきりんで、面倒くさそうな武器を持っている相手に優越感を持っているうちに、斬り捨てられたのであれば何にもならないのです。

手段や道具で優越感を持ってしまった時点で勝負には勝てないのではないでしょうか。ポイントは「その手段や道具」の使い方、利用法であり、「その手段や道具」を使う人の心だと思います。

優越感を持つのであれば、「その使い方、活用法、利用法の差」に対してであり、また「使う人間の心の状態の差」に対してではないでしょうか。

このようなことで優越感を感じる人っているのでしょうか?常に自分が優れている、勝っていると思いたい気持ちがあるのでしょうが、優越感はひっくり返せば、劣等感の恐怖から逃れたいだけなのではないでしょうか?

言語は意思の伝達手段ですから、どのような文字を使おうと、どのように複雑な漢字が必要であろうと、伝えたい意思が正確に伝われば良いのです。

カタカナしか読めなくとも、そのカタカナによって優れた意思が伝達されるのであれば、あなたは優越感などに浸っている場合ではないのです。難しい...続きを読む

Qソクラテスを芸能人にたとえると?

こんにちは。くだらない質問でごめんなさい。

哲学を勉強したことの無い私でもソクラテスの名前くらいは聞いたことがあります。
昨日本屋で「ソクラテスと弁明?」みたいなタイトルの本を立ち読みして、面白そうだったので週末に買ってこようと思うのですが「なんとなくこういう人なのかな?」という、とっかかりのヒントのようなものでも教えていただけると幸いです。

芸能人にたとえると誰でしょうか?
簡潔な説明でお願いいたします。

Aベストアンサー

(厳密には芸能人ではないかも知れませんが)

 現シダックスの野村克也監督に喩えて構わぬ気がします。

 (ご存知の事かと思いますが)ソクラテスの配偶者はクサンチッペと言う名で「悪妻」の代名詞的存在で、(スポーツ)新聞等の情報によると、沙知代夫人も「悪妻」的に扱われているので、私の頭の中ではイメージ的に結び付けてしまう様です。

 (このイメージを土台とする限り)「悪妻」の影に日向に、と言う存在の故、ソクラテスは大哲学者に、野村克也氏は名監督になった、 と言えそうです。

注)実際には沙知代夫人はそんなに「悪妻」ではない筈ですが、紙面上ではどうしても悪妻に映るようですね。(苦笑)

Qささやかな優越感

こんにちは(⌒∇⌒)ノ"

皆様のささやかな優越感は何ですか?

私は目覚まし時計のアラームが鳴る数分前に目を覚ます事です。

皆様のささやかな優越感は何ですか?
皆様からのご回答、心よりお待ちしております。

Aベストアンサー

こんにちは

だんな様が優しいとこです(^○^)

食べる事が大好きで、結構何でもやりたがるので、お料理も時々作ってくれます!
姉のだんな様は「ラーメンしか作れない」と言います。
私のところはラーメンも野菜入りだし、出汁巻きも作れるし、ちょこちょこ美味しいものを作ってくれます。
洗い物もしてくれるし、夕ご飯の支度をしてる時は自分で洗濯機を回してくれます(作業着など)
お掃除もしてくれるし、結構マメなので助かります(^_^;)

だから、結構兄妹うちで、だんな様の話になると、ちょっと優越感を感じます(嬉)

Q題目やお経を唱えることについて

18歳男です。
僕は当然、宗教はあっていいと思います。しかし、ひとつ解らないことがあるんです。
それは題目やお経など、あれはなんで言ったほうがいいんですか?
さまざまな宗教があるからそれぞれの答えがあるのだと思うんですけど。
僕の家の宗教観で言うと、題目を唱えると宇宙のリズムに乗れるからだ。といっているのですが、全く意味が解りません^^;人間の空想を綺麗ごとのように並べただけじゃないですか?
なぜ題目やお経を唱えなければならないのか、それが解らなければ宗教を信じれないんです。というかなぜの部分の答えは人間の空想ですよね??
だから僕は現段階で無宗派で生きたいと思っております。

Aベストアンサー

そのての話をすると、「信じる」ということ自体が人間の空想だと思いますが。。

さて題目を唱える理由ですが、人間の宗教(広い意味の宗教です)はいろいろなものがありながらも類似している部分がいっぱいあります。
大多数の宗教にあるものは
・敬うべき対象物や場所(寺・神社・教会)がある
・経典・聖典がある
・祈りのポーズがある
・題目を声に出して唱える
どうでしょう。つまり人間はこのようなことをしないと、どんな宗教でも自分が信じている気になれないのですね。

特に声を出すことは、宗教だけでなくいろいろな人間関係でも良く使われるものです。
たとえば乾杯、必ず誰かが音頭をとってみんなで「カンパイ!」と唱和してから飲み干します。これもいろんな国で行われています。
これは体と心の調和を生み出すために「声」をそろえるという、人間の根幹的な発想から来ているものなのです。
ですので宗教で「声」を出して題目を読むのは、神(もしくは仏など)に何かをささげたり、神と約束した文書(聖典)などを声を上げて読むことで、神と語り合ったり、神から何かパワーをもらうということなのです。神と自分が調和するために行うということです。

そのての話をすると、「信じる」ということ自体が人間の空想だと思いますが。。

さて題目を唱える理由ですが、人間の宗教(広い意味の宗教です)はいろいろなものがありながらも類似している部分がいっぱいあります。
大多数の宗教にあるものは
・敬うべき対象物や場所(寺・神社・教会)がある
・経典・聖典がある
・祈りのポーズがある
・題目を声に出して唱える
どうでしょう。つまり人間はこのようなことをしないと、どんな宗教でも自分が信じている気になれないのですね。

特に声を出すことは、...続きを読む

Qちょっとした優越感

無事故無違反10年以上の精鋭のみが取得できるゴールドSDカードを提示して、 ロッテリアでエビバーガーを購入する圧倒的優越感(^O^)
おそらくレジの女の子も私に一目置いているだろうな (^^)

皆さんが優越感を感じる場面を教えてください。

Aベストアンサー

すいません。せっかく優越感に浸たっておられるのに申し訳ないのですが、私は35年間無事故でスーパーゴールドSDカードです。
でもこのカード、ペーパードライバーでも取得できるので、それほどの価値は有りません。私は仕事で毎日運転していますので、本当の意味でのスーパーゴールドだとは思います。
価値が無い理由は他にも有ります。このSDカードを発行している自動車安全運転センターは、警察官の天下り先になっており、SDカード発行の手数料630円で成り立っています。
この手数料だけで年間54億円の収入が有ります。そしてこの内の33億円が天下りした役人などの給料として支払われています。
これで計算すると年間80万枚のSDカードが発行されている事になります。(すべての種類の合計)
ゴールドやスーパーゴールドの枚数は不明ですが、あまりにも発行枚数が多いと言わざるを得ません。

私が優越感を感じるときですが、身分証が必要なときに提示しているのが「銃の所持許可証」です。本物の銃を所持しているのですが、必要が無いのに銃を持ち出すと2年以下の懲役が待っているので、代わりに許可証の提示で「どうだ!」と言うときも有ります。

すいません。せっかく優越感に浸たっておられるのに申し訳ないのですが、私は35年間無事故でスーパーゴールドSDカードです。
でもこのカード、ペーパードライバーでも取得できるので、それほどの価値は有りません。私は仕事で毎日運転していますので、本当の意味でのスーパーゴールドだとは思います。
価値が無い理由は他にも有ります。このSDカードを発行している自動車安全運転センターは、警察官の天下り先になっており、SDカード発行の手数料630円で成り立っています。
この手数料だけで年間54億円の収...続きを読む

Q太平洋戦争、仏教界で戦争肯定を唱えた人

太平洋戦争、仏教界で戦争肯定を唱えた人がいると聞きました。自分で調べましたが手がかりがつかめません。誰がどの宗派の人がそのようなことをとなえたのか、わかりますでしょうか?

Aベストアンサー

>>太平洋戦争、仏教界で戦争肯定を唱えた人がいると聞きました。自分で調べましたが手がかりがつかめません。誰がどの宗派の人がそのようなことをとなえたのか、わかりますでしょうか? 
 太平洋戦争の中心て的な位地には日蓮主義者の方が多くいたようです。代表的な方々を歴史的な流れを抑えてあげていきますと、太平洋戦争以前の明治34年田中智学は従来の怠惰に慣れた宗門を激しく批判するとともに、新しい日蓮主義というものを宣言します。田中智学の日蓮主義の核心は「侵略的態度」にあり、日蓮聖人を大元師となして、大日本帝国の力で「法華経」による世界統一を果たそうというものでした。その思想が与えた衝撃は当時の日本の意欲に燃える若者は田中智学の「国柱会」に次々と加わっていきました。
 その影響は昭和の超国家主義にまで及びます。満州事変の首謀者石原莞爾、2・26事件に連座した北一輝、要人暗殺を謀って血盟団の井上日召など、いずれも熱心な「法華経」の信者であり、日蓮聖人の崇拝者でありました。石原莞爾などは昭和15年、当時の戦争をまさしく日蓮聖人によって予言された世界統一のための大戦争につながるものと位置づけています。(『最終戦争論』)近代日蓮主義の特徴は、それが積極的な侵略のイデオロギーの一翼を担い、その先鋭と結びついたところがあります。
 だからといって他の宗派が無関係かといえばそうではありません。先のtaishi1さんのお答えにも出ていますが、浄土真宗本願寺派の門主・大谷光瑞は「王道の道は武備を整えること」といって当時の日本を肯定するようなことを言って、他の宗旨とともに侵略戦争に引き込まれています。ただ、禅や浄土の思想はいわば時代の後ろからついていったのに対し、当時の日蓮主義は先頭に立って時代を作り出していったといえるのです。
 こういったことに関しては『今のお寺に仏教はない既成仏教教団の宗派別問題点』遠藤誠 現代書館に詳しく取り上げられています。

 余談ではありますが、少し私の意見をのべさせてただきます。こうしたことについて話し合うとき「ガンジーの非暴力の精神でなくてはいけない」というひとがいます。誰でも外から見ていれば非暴力、戦争反対をとなえる事はできます。しかし、そういっている人たちがどれほどの覚悟で言っているのでしょうか。日本がもし一億総動員の翼賛体制になったら、そのときもその信念が貫けるのでしょうか。特高に付けねらわれて「アカ」「非国民」とののしられ、逮捕され拷問させる。・・・自分ひとりが犠牲になるならそれも堪えられるかもしれません。でも、家族親戚にまでその手が伸びるかもしれない。それでもそれがつらぬけるか?? 私ははっきりいってそれが出来るほど強い人間ではありません。私は戦争には反対ですし、人も殺したくないと思っても、拷問に耐え、家族まで巻き込んで、自分の信念を貫けるほど強い人間ではない。多分そのような状態になったら裏では文句を言いながら、表では国家を賛美するでしょうね。自分の弱さは私自身が一番知っています。 
 そんなことを考えていたときに知ったのが仏教学者である田村芳郎氏のこんな話です。田村氏は『法華経』の信仰をもっておられた方ですが、学徒出陣の折に上官から「天皇陛下と法華経どちらが上か?」と問われて、「天皇陛下」と答えざるを得なかったそうです。心の中にある「法華経が上だ」というおもいを言葉に出していたならば、それこそ不敬罪で大変なことになっていたでしょう。田村氏は「そのことへの慙愧が学問の原点になった」としばしば語っておられたそうです。そのとき「天皇陛下」と答えざるをえなかったのを、誰も攻めることは出来ません。ただ、そのことを棚上げしておいて、戦後になって倫理道徳を振り回すことなく、たとえやむをえなかったとはいえ、そう答えてしまった自責の念一生持ち続け、それを内にこめて原点とされたところに田村芳郎という方の誠実さを感じます。そういった仏教界の戦争への関与の問題を考えるとき、私は他人事とは思えずにいます。

 なんだか余談が長くなってしまいました。申し訳ありません。支離滅裂な文章かとは思いますが、文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛

>>太平洋戦争、仏教界で戦争肯定を唱えた人がいると聞きました。自分で調べましたが手がかりがつかめません。誰がどの宗派の人がそのようなことをとなえたのか、わかりますでしょうか? 
 太平洋戦争の中心て的な位地には日蓮主義者の方が多くいたようです。代表的な方々を歴史的な流れを抑えてあげていきますと、太平洋戦争以前の明治34年田中智学は従来の怠惰に慣れた宗門を激しく批判するとともに、新しい日蓮主義というものを宣言します。田中智学の日蓮主義の核心は「侵略的態度」にあり、日蓮聖人を...続きを読む

Q男性の優越感

恋愛において、男性の優越感が刺激される時はどんなときですか?

私の知人男性が、
「彼女が俺に会いたい会いたいってうるさいんだよ・・・」
と言ってましたが、嫌そうではないです。
これは男性の彼女がうまく男性の優越感を刺激しているという証拠でしょうか?
こういったカップルは、長く続くと思いますか?

Aベストアンサー

お互いの役割が明確であれば長続きすると思います。

「優越感=達成感=征服感」は同じかもしれません。
女性から適度の好意を持たれていて、なおかつ自分があまり束縛されていない状況を好むようです。
刺激を適度に、男性に与えることで優越感として感じさせることが可能です。

Qルカによる福音書たとえ話について。

聖書ルカによる福音書15章にある三つのたとえ話について質問します。このたとえ話を通して、イエスが告げようとしていることは何ですか?どれだけ長くなっても構いませんので、細かく説明して頂けると嬉しいです。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 No.1のご回答と同じ見方であるとおことわりしつつ重ねて回答します。

 三つのたとえ――《いなくなった羊》と《失くした銀貨》と《放蕩息子》――のいづれも そのたとえどおりのことをイエスは話しているのではないでしょうか。

 いちばんのミソは 次の箇所ではないでしょうか。
 ▲ (ルカによる福音書 15章) ~~~~
 16:彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
 17:そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちさらには
 ▲ 彼は我に返って
 ☆ ここにあると考えます。
 前のふたつのたとえにはこのような《自己到来》のことはそのままのかたちでは触れられていませんが その当人がそうでなくても 周りの人たちやそのたとえ話を聞くわれわれからすれば 同じことだと言ってよいと思います。

 そしてふたたび回答No.1さんと気持ちわるいほど同じ見方になるので言いづらい感じになりますが これらの喩えのすぐ前には――つまり回答No.1さんのマタイから挙げられた文句と同じ内容として―― つぎがあります。
 ▲ (ルカによる福音書14章) ~~~
 26:「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
 27:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もんだいは 或る種の仕方でさからえ得ない律法でもある《あなたの父母をうやまえ》をたがえることをイエスが言っていることにあるはずです。あるいはつまり
 ▲ 自分の十字架を背負ってついて行く
 ☆ ことも じゅうぶんにわれわれ一人ひとりの人間が果たすことはむつかしいと言わなければなりません。
 それでは どういうことなのか?
 
 或る種の仕方で 律法のおしえは 《もみがら》なのではないでしょうか? 《麦粒》はその中にある。
 おこないによって律法をまもるのではないはずです。アブラハムは 信じたので――つまり おこないによるのではなく 信じることによって――そのあとの歴史に現われて来る《キリストの民》の父と成った。信仰によってこそ《自分の十字架を背負う》ことが出来るし 父母をうやまいつつ家族や身内のそのきづなをも逆らうようにさえしつつ超えてすすむことが出来る。
 それは たぶん 
 ▲ 彼は我に返って
 ☆ という自己還帰のことを言っているはずです。《わたしがわたしである》ということ。これは もみがらを通ってさらに内なるその麦粒のことだと思われます。放蕩な行き方をしていた弟に対して その兄はかれ(=兄自身)が我れに還ったときには じぶんの弟をも受け容れることができるでしょう。

 《失くした銀貨なら何が何でも見つかるまで探せ》といったことは言っていないと思います。九十九匹よりも迷い込んだ一匹を是が非でも見つけよということでもないのでしょう。その大切なものをおろそかにしないのだと言っているはずです。もみ殻を追い求めるようにして何が何でも探し見つけ出せというのも おかしな話だと思うからです。
 いつでも帰って来いよと言っている者がいるということでしょうか。


 おそらく話はここで終わらず 次の展開を見るはずです。
 ○ もみ殻を追い求め みづからがあたかももみ殻であろうとする場合 つまりみづからがもみ殻であると分かっていて 決して麦粒を欲せず 人びとにももみ殻を指し示しつづける場合 これにどう対処するか。
 ☆ であるはずです。
 ○ もみ殻が風に吹かれて飛ばされて行ってしまうことを見ているだけでよいのか。それは麦粒ではなく ただのもみ殻だよと言ってやったそのあと ではどうなのか?
 ☆ イエスは どう言っていましょうか?

 こんにちは。

 No.1のご回答と同じ見方であるとおことわりしつつ重ねて回答します。

 三つのたとえ――《いなくなった羊》と《失くした銀貨》と《放蕩息子》――のいづれも そのたとえどおりのことをイエスは話しているのではないでしょうか。

 いちばんのミソは 次の箇所ではないでしょうか。
 ▲ (ルカによる福音書 15章) ~~~~
 16:彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
 17:そこで、彼は我に返って言った。『父のところ...続きを読む


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