出産前後の痔にはご注意!

タイトル通りなのですが
「魂」と「心」とは何が違うのでしょうか。

宗教や哲学によって考え方は様々だと思うので
回答者様が考える二つの違い(または同じ部分)を参考意見と聞かせてください。

A 回答 (8件)

自分から見て存在するのが心で存在しないのが魂。


いわば、肉と魂の界面現象が心だと思います。
で、自分にとって如何に確実と思えても心の方が幻想ですね。
ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
魂は存在するけれど隠れているので認識は出来ないということでしょうか。
そして肉体との接点に生まれるのが心でありそれは感じることが出来る。
今まで考えたことのない考え方でとても関心を惹かれました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/15 08:36

心なら、森羅万象に触れて揺れ動くさざなみとして、生きているという実感と共に感じることが出来ます。



魂とはそれらがありません。
信仰、又は存在の探求により生じた概念です。
したがって人によって言うことがてんでばらばら状態です。
言葉遊びの道具みたいなところがあります。
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この回答へのお礼

魂なくば心あらず みたいなことを考えたこともあるのですが
やはり人それぞれによって見解や認識が大きく異なるものなのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/18 17:15

魂は源泉、水源のような。


水源より地表が低いと水は沸きあがり泉になる。
心は水源の水が方向性と流動性を保とうとする流れる川のような気がします。エゴ(自我)というものかもしれない。

人間の本質は遺伝子によりより優れた種を増やすよう本能が与えられている。しかし本能だけでは本質となれない。感覚や感情を使うけれどもそれも現実にとって無ではないが実というものでもない。虚?

ちゃんとした回答になれませんが。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
心をエゴ(自我)と考えるのはある程度、得心がいきました。
この意味でのエゴなら良い方向に変えられる可能性がありそうですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/15 08:34

漢字の話ですが魂魄と心身の対比も参考にならないでしょうか。

これらの四つの字で魄だけは日常使われない字ですが、死後地上にとどまるものらしいですが、身との違いはわかりません。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
漢字での解釈のほどは私には分かりませんがそうした字があることは勉強になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/10/15 08:31

たましいは心と体をつなぐものだと思います。


あるいは
たましいは心と体が未分化状態のものだと思います。
それ故に
たましいは無意識の領域で働くもので、本能的であり、直感的であり、想像的であり、生命や創造の源になるものでしょう。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
心と身体をつなぐものという考え方も初めて聞きました。
以降、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/15 08:29

「魂」と「心」とは何が違うのでしょうか。



基本的には同じものを異なる表現で言ってるだけですが、正確に言うと「心」は魂の「中核」部分を指します。「魂」とか「霊魂」は見かけの形にこだわった言い方ですね。例えば、肉体に対応させると肉体全体が「魂」で心臓の部分が「心」という分類のやり方ですね。これが霊的な見方ですが、物理的な見方でいいますと、意志をもったエネルギーの占有領域全体を「魂」と呼びその中で全体を制御する部分を「心」というのですね。「心」もたまねぎのようになっており更に細かく分類できるのですね。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
私は魂が心よりも更に根底にあると思っていたので
逆の考え方もあるということを知り、参考になりました。有難うございました。

お礼日時:2008/10/15 08:28

 横になっているよりは 起き上がる。

起き上がるだけではなく 立ち上がる。また 四つ足で動くよりは 二足歩行を勝ち取った。
 この縦の線 その直線が 正しさを表わしたのではないでしょうか。
 
 * たた(縦)さ; 立つ; 縦; ただ(唯・直);正しい

 身体あるいはその神経組織つまり 質料(もの)にかかわって その身体の伸びとしてのごとく 心の伸びるさまも 捉えたのではないでしょうか。こころざし(志)と言います。心は 特には 意志です。
 魂(たま・たましひ)は 玉(うつくしい石)の肌理(きめ)がきらりと輝くところに 心根のありかと同じものを見たのではないでしょうか。
 魂(アニムス・アニマ)は 風・息・生きるに関係した言葉のようです。
 心のさらに奥に注目したことばが 魂なのでしょうか。
 魂は 動く・動物・その存在・人をも表わし その経験存在を超えたところには 霊を想定するのだと捉えます。霊の意味で 魂を用いることもあるようです。
 
 心は もともとは 生命やその活動の源を 臓器としての心臓 つまりまたその鼓動に 注目した結果のことばのようです。
 ちなみに 精神は 心のはたらきに注目して 記憶行為・知解行為・意志行為の三つを数えるその能力だと捉えます。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
私はクリスチャンなので魂を霊として捉える考え方にとても共感を感じました。
また魂を心根のありかとする考え方もとても近しいものを感じます。
キリスト教では(少なくとも聖書内では)心、魂、霊に関しての詳細な説明や解釈がないので
キリスト教外からの様々な意見はとても参考になります。

お礼日時:2008/10/15 08:26

こんにちはyo_nagooさん、僕なりの見解を書きたいと思います。



「魂」は「変化しない不変なもの」そしてそれは存在しないと考えてます。変化するから知ることが出来て関係を持てる。変化しないなら、知りえず、関係が無い。そのようなもの=「魂」を理性的な人は「存在しえない」というのではないか…と。

心は変化するシステムと考えてます。渇愛によって刺激を求める原初的な心の働きによって回ってるシステムと。仏教では心所などの働きで詳細に解説していますね。一通り納得しています。悩み苦しみとなる悪感情である煩悩多い状態から、それらを減らし、悩み苦しみを減らす善感情である慈悲喜捨や善心所を多く育んでいく道を示し、大元の心のシステムを動かしている渇愛・捏造(パパンチャ)を破る方法を語ってますね。その論を僕は師としています。

何か参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
「変化するからそこ知りえる」というのにとても興味を惹かれました。
また仏教では心について多く扱っていることも新たに知ることが出来ました。
とても参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/15 08:21

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Q「心」「意識」「精神」の類似点、差異点を教えてください。

ご存知の方、宜しくお願いします。

「心」「意識」「精神」の類似点、差異点を教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
「意識」とは「状態」
「心」とは「構造」
「精神」とは「心の構造によって形作られるもの」
ということになると思います。

この三つの共通点といいますと、それはこれらが全て「神経系の働き」を指すものだということですね。この内、「意識」といいますのは神経系、厳密には大脳皮質での情報処理過程で発生する「現象」であり、他の二つとはその定義が全く異なります。それは「有意識」という「特定の状態」を指すものであり、これによってどのような情報や結果が扱われるかということは一切の関係がありません。大脳皮質の意識に上る対象がなければそれは発生しませんし、大脳皮質を介さない情報処理や、自覚の成されない結果選択は「無意識行動」と分類されることになります。
このように「意識」といいますのは「状態」です。そして、これは神経系の情報処理過程やその結果を示すものではありませんので、他の二つとは全くの別物です。

では、「心」と「精神」の違いとは何かということになるわけですが、「精神」といいますのは元々心理現象や生理構造を科学的に分類したものではありませんので、その定義は極めてあいまいです。これに対しまして近年では、長い間謎とされていた我々の「心の構造」に就いてたいへん多くのことが解明されるようになりましたので、この辺りはもはや哲学の力を借りる必要がそれ程ありません。
心理現象とは「知覚入力―結果出力」という神経系の情報処理によって発生するものです。そして、我々の脳内では知覚入力に対して価値判断を下し、結果を出力するための中枢系が以下のように三系統に分かれています。
「生命中枢:無条件反射(本能行動)」
「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」
「大脳皮質:認知・思考(理性行動)」
この内、本能行動を司る「生命中枢の無条件反射」といいますのは、それは遺伝子にプログラムされた全人類に共通の反応規準であり、幾ら学習体験を積み重ねてもこれが変更されるということは生涯に渡って絶対にありません。ですから、如何なる場合であろうとも結果は予め定められているわけですから、これを「心の動き」とすることはできません。
これに対しまして、与えられた状況に応じて我々の脳内に様々な「心の動き」を発生させているのは「大脳辺縁系の情動反応」であります。大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって「情動反応」が発生します。この知覚入力に対する価値判断を行うための反応規準を「情動記憶」といい、これは生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」です。大脳辺縁系では何の入力に対してどのような反応を発生させたのかという結果が随時記録されますので、それは我々の「価値観」として成長してゆくことになります。そして、この価値観によって形作られるものが、そのひとに宿った「精神」です。

通常、我々が「学習記憶」と呼んでいるのは大脳辺縁系の情動記憶ではありませんよね。それは大脳辺縁系の「YES・NO」のように単純な結果ではなく、何時何処で何をしたといった具体的なものであり、個人の思い出から数学計算の技術、成功・失敗の結果からその社会の法律・道徳に至るまで、生後の実体験や教育によって大脳皮質に獲得されたありとあらゆる情報であります。大脳皮質はこの記憶情報を駆使し、知覚情報からは得ることのできない「未来の結果」を予測します。従いまして、大脳皮質の司る理性行動といいますのは、その全てが未来予測による「計画行動」であり、原因と結果の自覚された「意識行動」ということになります。
ところが、大脳皮質の導き出した結果が如何に高度で理性的であろうとも、実際に心が動かなければそれが実行に移されることはありません。つまり、大脳皮質の役割とは未来の結果を予測してより価値の高い計画行動を立案することであり、それに対して最終的な決定を行うのは「心の動き」を司る大脳辺縁系であります。ですから、大脳辺縁系に何の情動反応も発生しなければ、我々は一切の行動を選択することができません。
「ここは理性的な行動を執るべきだ」、与えられた状況に対して大脳皮質が判断を下し、それに対して大脳辺縁系が「賛成・YES」と反応することによって、それは初めて実行に移されます。

上記の中枢・三系統における機能分類を「脳の三位一体説」といい、現在では我々の「心の構造」というものがここまで判明しています。
ならばこれに基づき、
「大脳辺縁系の情動反応=心」
「大脳皮質の理性行動=精神」
とできるならば、生理学的にも解剖学的にもたいへん明解なのですが、基本的に「精神の定義」というのが元々あいまいであるため、これでは一般に扱われている概念とはどうしても一致しません。
このため、
「心とは構造」
「精神とはその構造によって形作られるもの」
ということになります。
我々の「心の動き」といいますのは、喜怒哀楽などの直接的な情動表出から高度に論理的な意思決定まで、その全てが大脳辺縁系の情動反応を中核として行われています。これが「心の構造」です。そして、大脳辺縁系にどのような価値観が獲得され、大脳皮質にどれだけの知識を持っているかによってその結果が異なります。従いまして、「道徳な精神」や「ひとを愛する気持ち」あるいは「目的に対する不屈の精神」などといったものは、みなそのひとの「心の構造」によって形作られているということになります。
また、価値判断を行う中枢系も、そのときの覚醒状態によっては反応の結果が異なります。ですから、精神といいますのはあれやこれやと極めて広範囲な概念ではありますが、これまでのような解釈を行うならば、このようなものを「精神状態」と呼ぶこともまた可能となります。

こんにちは。
「意識」とは「状態」
「心」とは「構造」
「精神」とは「心の構造によって形作られるもの」
ということになると思います。

この三つの共通点といいますと、それはこれらが全て「神経系の働き」を指すものだということですね。この内、「意識」といいますのは神経系、厳密には大脳皮質での情報処理過程で発生する「現象」であり、他の二つとはその定義が全く異なります。それは「有意識」という「特定の状態」を指すものであり、これによってどのような情報や結果が扱われるかということは一...続きを読む

Q魂とは何か?

強姦行為を魂の殺人と例える人がいます。

そこで疑問に思うのは、そもそも魂とは人なのか?という点です。
仏教では魂は解脱をしない限りは六道を巡ると考えられ、その道の一つが人であるに過ぎないとう考えです。餓鬼道になれば餓鬼になりますし、畜生道になれば畜生です。一方、キリスト教やイスラム、ユダヤ教では魂は永劫不滅の存在であり、決して死ぬことは無いと考えられています。

魂の殺人という表現を使い方を行う時、その殺される魂(死ぬ魂)とは何なのでしょうか?

Aベストアンサー

「魂≒精神・心」などのような感じだと思います。
魂の殺人は、精神や心を破壊し死至らせることと言うことでしょう。

それだけ、強姦行為は受けた相手の尊厳や権利を無視した行為で
屈辱的で精神的に耐え兼ねられないと言うことを表現しているのだと思います。

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q霊魂の霊と魂の違いを教えてください

霊魂は霊と魂をひっくるめて使っていますが、これらを独立させて使う場合があります。ところで霊と魂はどのように違うのかを教えてください。又、英語ではスピリットとかソウルと言っていますが、これらとの関係もからめて教えてくださればありがたいです。

Aベストアンサー

これ、本当は単純でいて結構難しい問題なのです。
スピリチュアリズムにも様々な学派があります。

一般的に知られているのは肉体と霊体の区分です。
人間には肉体と同じ形をした霊的物質があると説きます。
死後は霊体が本体となり、通常はこれを霊魂と呼びます。
 
三分類になると肉体、霊体、精神となったり、
肉体、幽体、霊体となったり、肉体、霊体、身体となったり。

四分類になると肉体、幽体、霊体、神体になります。
このとき霊体を霊、神体を魂と呼ぶことがあるようです。
 
別の四分類では肉体、感情、霊体、魂と分けていました。
かように考えると霊界での肉体が霊、感情が魂となります。
やや乱暴ですが、分かり易いかなとは思います。

神智学では肉体、エーテル界、幽体、メンタル界・・・と
延々と階層のオーラが続くと説いています。

日本の神道では一霊四魂を説いています。
これには諸説あるので参考程度に述べておきます。

Q法華経の教えを簡単に言うと

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む

Q心がどこにありますか?

 心がどこにありますか。脳、それとも胸?
 よく言われていますが、なかなかわかりにくい”心”とは、一体何を意味する
のでしょうか?

Aベストアンサー

 
ここで尋ねられている「こころ」というのは、哲学的、大脳生理学的、または心理学的な意味での「精神」「精神機能」「意識」「意識機能」などは何か、また、それらの機能の機構は何で、どこの器官がそういう機能を司っているのか、というような質問とは少し違う疑問だと考えます。

上にあげたような問題は、哲学的問題と一般に考えられるので、その場合、「こころ」に関係して色々な似たような概念が出てきます。例えば、「魂」「精神」「意識」「霊」などです。これと「心」または「こころ」はどういう関係にあるのか、また、「身体」「肉体」などとの関係はどうなっているのか、というようなことも問題になります。

しかし、この質問は、日常的な言葉の用法に見られる、例えば、「真心をこめて」とか「こころが感動する・こころが痛む」などの「真心」とか「こころ」は何か、どこにあるのか、というような質問だと考えられます。これも心理学の問いだということになります。

「こころ」の用法としては、その他にも、「ああいう殺人犯は、人間でない、こころなどないのだ」とか「こころのこもっていない言葉」とか、「こころから感動しました」などがあります。

あまり厳密な話でありませんが、「こころ」は、胸、大体、心臓のあたりにあると考えた方が妥当です。この場合、心臓のあたりに「実体としてのこころがある」のでは「ない」のです。人間を解剖すると、心臓のあたりに「こころ」が見つかるという話ではありません。

phantom limb という概念があります。日本語では、「幻肢」または「幻覚肢」といいます。これは、怪我や手術などで、手や脚などが切断されてない人が、何かの折に、生き生きと存在しないはずの手足が「ある」と感じる現象です。ないはずの手足が痛むこともあり、これを「幻肢痛」といいます。

どうして、こういうことが起こるかというと、人間の大脳のなかには、「身体図式」と大まかに言うのですが、「身体の姿」についての記憶の形があり、普段は、実際の身体から送られる感覚などと、この身体図式の身体の認識が重なっているので、身体図式は分からないのです。

しかし、手や脚などが失われた場合、身体図式は、かなり安定したものらしく、手足の喪失に応じて身体図式は変わりません。それゆえ、何かのきっかけで、身体図式の方の足や手が認識されたとき、失われているはずの手足が、存在するような感覚が起こり、これを、「幻肢」というのです。

「幻肢」について述べたのは、心が胸にある、と言ったとき、この「胸にある」というのは、一種の「幻心」のようなものとして、胸のあたりに感じられる・認識されるということです。心が大脳にあるのか、精神や霊という、肉体を超えた実体にあって、それを大脳が認識し、更に、胸のあたりに位置つけているのか、はっきりと分かりません。ここは昔から議論されているのです。

しかし、「幻心」とか言いましたが、日常的な体験で、「心」が胸のあたりにあるように感じられる、感じるというのは事実なのです。従って、こころは胸あるいは胸のあたり、心臓のあたりにある、と考えて差し支えないということです。

どうしてそうなるのかといえば、「心身相関」というものがあり、感情的に強く心が動かされると、身体にも生理的変化が生じ、内臓などにも変化が起こるのですが、第一によく感じられるのは、心臓の鼓動であり、これと関係して胸の筋肉などに、ある程度の感覚が生じるためだと思えます。

「胸がときめく」というのは、比喩ではなく、実際に心臓が動悸するのです。「胸に痛みを感じる」というのも、「思考や感情レベルでの認識」に応じて、胸のあたりに、痛みの感覚が実際に生じるのです。

この場合、「心臓の鼓動」は、胸にある心臓という臓器の活動で、はっきり胸で感覚が起こっていることになりますが、「胸が痛む」場合は、胸の筋肉が実際に痛みをもたらしているのか、大脳の感覚運動-感情心理システムのどこかで、胸の痛むが生まれているのか、場合場合で違うことになります。

「胸が痛む」とは「大脳のなかのできごとだ」というのは、多分そうなのかも知れませんが、ここまでいうと、精神機能はどういう機構で成立しているのか、精神や魂は、何が実体化という問題になってきます。

そういう問題に入らなくとも、「こころが痛む、胸が痛む」というのは、実際に、胸や心臓が痛むのであり、そこから、もっと広い意味で、比喩的に、別に胸など痛んでいない評論家などが、「こういう事件を聞きますと、胸が痛みますね」などというのですが、こういう表現の起源は、やはり、感情的に痛切なことがある場合、「胸が実際に痛む」ので、成立したのだといえます。

キリスト教では、人間を四元論的に捉えると述べて、その具体例を説明した文章があります。以下の参考URLです。

この場合、英語については、「魂」に対し、mind, soul と二つ書いています。実は、mind も soul も、「魂」というよりは、日本語でいう「こころ」に近いものです。「魂」と「心」はどう違うのかという話は難しいですが、大体、おおまかな所では、「魂」は、生命の根拠である何かの実体で、これが失われると、人は死ぬか、または、「魂の抜け殻」というような表現があるように、その人固有の「人である根拠」が消え、あたかも、身体だけが残っているようになるというようなものです。

それに対し、「心」は、「魂」の持つ機能だとも考えられるのですが、魂の働きで、主に調和的で、健全な働きを行っている場合の魂の状態、あるいは、そういう状態の魂の特定の位相、見え方だといえます。

「魂がない人」は死んだ人ですが、「心ない人、心のない人」は、「魂のない人」ではなく、無論、死んだ人でもないのです。(魂の働きが不調和な人、健全でない、マナーに合わない人ということになります)。

「こころ」があるかないかは、人と人との交流、関係で、その言動などが、「広義のマナーにかなっているかどうか」の問題だということになります。そして、「広義マナーにかなっているかどうか」というのは、自然な感じ方では、例えば、愛する人が亡くなったりすれば、「心が激しく痛む」のです。あるいは、「憐れみの心」というのか、不幸な人や悲惨な目にあっている人を見ると、「同情の心」が起こり、これはやはり「胸の痛み」として感じられるのです。

ラテン語で、心を、cor といいますが、これはフランス語の coeur(クール)という言葉が派生していますが、クールは、ラテン語の元の意味がそうであるように、「心臓、胸、心、心情、本心、真心、勇気」などの意味があります。「勇気」も、やはり、心臓の鼓動に関係するのです。

フランス語で、cordial(le) という形容詞が cor から派生してあり、副詞もあります。英語はこれを受けて、cordial とか cordially という形容詞、副詞があります。これは「心から」というような意味になります。

「心ない人」とか「真心をこめて」などの「心」は、ラテン語やギリシア語では、内臓器官としての「心臓」と同じ言葉になります。英語でも、heart というのですし、「ハート」は、心臓の意味と、心の意味の両方があります。ドイツ語では、これに当たるのは、Herz といい、これも心臓と真心などの心の両方を意味します。

「魂」という概念を出すと、「心」と「魂」は連続しているように把握され、英語の mind とか soul は、前者は、「心の機能、魂の機能」などを主に意味するラテン語の mens から派生したのですが、「魂」の意味ももつのです。soul は、英語というか、ゲルマン語族に固有の独特の言葉で、「魂」とも「心」とも言え、かなり難しい微妙な概念の言葉です。

しかし、soul(ドイツ語では、Seele)は、やはり、心臓・胸のあたりにあると考えられます。

「こころ」は、胸のあたり、心臓のあたりにあるのです。この場合、「ある」というのは、「あると感じられる」のです。心が感動するとき、痛むとき、茫然として心が失われるとき、実際に、胸や心臓で、そういう感覚が起こるのです。

それは、みかけの話で、実は、大脳にあるのだ、というような話は、「心の実体」「心の機能の実体」の所在を問題にしていることになり、それは色々な説や解釈があるのだということになります。

こころとは何か、というのは、人には意識や感情があり、心身の相関で、それはまた身体にもあるとも言え、意識や感情を感じる機能が「こころ」であるということになります。

そして、このような意味での「こころ」はどこにあるのか、と言えば、それは胸や心臓のあたりにある、というのが答えです。

(「冷血」というような言い方は、心に衝撃を受け、心が消えるような体験の場合、心臓や胸のあたりが、実際に、冷たくなるという経験があるので、そこからこういう表現が成立したのだとも考えられます。「冷血漢」というのは、血液が冷たいのではなく、心臓=心が冷たく、それゆえ、血も冷たいので、「心ない人」「心の冷たい人」と同じような表現だと考えられます)。
 
>No.361230 質問:キケロの格言の原文
>http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=361230
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=361230

 
ここで尋ねられている「こころ」というのは、哲学的、大脳生理学的、または心理学的な意味での「精神」「精神機能」「意識」「意識機能」などは何か、また、それらの機能の機構は何で、どこの器官がそういう機能を司っているのか、というような質問とは少し違う疑問だと考えます。

上にあげたような問題は、哲学的問題と一般に考えられるので、その場合、「こころ」に関係して色々な似たような概念が出てきます。例えば、「魂」「精神」「意識」「霊」などです。これと「心」または「こころ」はどういう関...続きを読む

Qトランス状態ってどういう意味?。

 なんとなく判るんですが、「トランス状態」ってどういう意味でしょうか?。
 正確に言うと。

Aベストアンサー

エクスタシーと同じように明らかな境界線があるので、実際に経験する以外にその現象を明確に認識する事は出来ません。トランス状態を通常の意識の状態との相対性であらわすと、通常の意識は、心の対象が何かを捕らえ、意識は捕らえた先にあるとします。ところが、トランス状態になると、心の対象が何かを捕らえても、意識は心のあり方を見るのです。例えば、通常は誰かに殴られたとして、心の対象は怒りに向きます。そしてその結果、意識は怒りの後の対処を見つけようとします。トランス状態の場合は、殴られて心が怒りの方向を向いたという客観性が見えるのです。両者をくらべると、外観と内観の違いだと思います。ただ、トランス状態に似た意識の状態が実はたくさんあって、その症状を明確に分類する事が出来ず、トランス状態という名称に自分の症状を当てはめている可能性もあります。意識の状態を言葉で確認しあうのは困難だと思いますので、広義の意味でのトランス状態としては、上記であっていると思います。もし、トランス状態を体験したいのでしたら、5感から入る臭いや音などに意識を傾けずに、自分の心のあり方のみ知ろうとして下さい。すると、「いい臭いだなぁ」から、こういう臭いを嗅いだら、私はいい臭いと感じ、嬉しく思っているというような心の流れが見えだします。内観が出来るようになったら、心を対象としていた意識に対して、意識しないよう意志を加えます。そして何も聞かない、何も見ないという限り無く小さな最後の1粒の意志も消すのです。つまり自分を極限の0に近付けます。すると、意識が体から上昇し、心の目が開きます。すると、今自分に起きている状態、外からの信号、それが自分にどう及んだか、などが見えてくると思います。それがトランスです。

エクスタシーと同じように明らかな境界線があるので、実際に経験する以外にその現象を明確に認識する事は出来ません。トランス状態を通常の意識の状態との相対性であらわすと、通常の意識は、心の対象が何かを捕らえ、意識は捕らえた先にあるとします。ところが、トランス状態になると、心の対象が何かを捕らえても、意識は心のあり方を見るのです。例えば、通常は誰かに殴られたとして、心の対象は怒りに向きます。そしてその結果、意識は怒りの後の対処を見つけようとします。トランス状態の場合は、殴られて心...続きを読む

Q赦すと許すの意味の違い

赦すと許すの意味の違いを教えて下さい
どこからかの引用ではなく、言葉で解りやすく説明してくれるとありがたいです

Aベストアンサー

意味としては、どっちも同じ使い方ができるんですが。私の解釈
赦す:罪などをなしとすること。宗教的なところで使われることが多いですし、そういう意味合いが強いかと。恩赦とかいいますしね。

許す:上の意味もありますけど、何かをすることを認める、許可するという感じかと。

Q心は脳が作り出しているから死んだら全て消える?

心は脳が作り出していますか?
(つまり死んだら心も全て消滅する)

それとも心と脳は別であり、
人の寿命が来て脳が死んでも心は生きていますか?
(つまり死後の世界がある)

私は迷っています。

中国唐代の禅匠である
黄檗希運禅師の言葉を引用すると

感知されたものは感知するものではありえない。
われわれはいろいろなものを見ることができるが
見るものを見ることができない。
感じるものを感じることはできず、触れるものを触れることはできず、
嗅ぐものを嗅ぐことはできない。
そのように知るもの(心)を知ることはできない。
知る心はさまざまなものを対象的に知ることはできるが、
知る心を対象化して知ることはできない。
だから知るものである心を脳と同じような対象的な存在として扱い、
それを脳と関連づけて〈心は脳の働きだ〉というのは
正確な理解とはいえない。

とあります。

この考えは理解できるのですが、
であれば何故、薬物などを摂取すると
(大麻、覚せい剤、シンナー、コカイン、ヘロインなど)

心まで変わってしまうのでしょうか?
それは脳に影響を与えるから
心が変わっているのではないでしょうか?

そう考えると、心は脳が作り出したもので
死ぬとすべてが消滅する、
というほうがしっくりくる気がします。

答えの出る問いではありませんが
みなさんはどうお考えでしょうか?

よろしくお願いいたします。

心は脳が作り出していますか?
(つまり死んだら心も全て消滅する)

それとも心と脳は別であり、
人の寿命が来て脳が死んでも心は生きていますか?
(つまり死後の世界がある)

私は迷っています。

中国唐代の禅匠である
黄檗希運禅師の言葉を引用すると

感知されたものは感知するものではありえない。
われわれはいろいろなものを見ることができるが
見るものを見ることができない。
感じるものを感じることはできず、触れるものを触れることはできず、
嗅ぐものを嗅ぐことはできない。
そのように知るもの(...続きを読む

Aベストアンサー

心は実体の無い現象に過ぎず、魂でも、自我でもありません。例えるなら、心とは、水面に起きる波紋の様なものです。黄檗禅師の言う、感知するものだとか、見るもの、感じるもの、触れるもの、嗅ぐもの、知るものとは、心ではなく、意識の事です。意識こそが自己の最小単位なのです。

心は脳が作り出す現象です。死ぬとすべてが消滅するというより、肉体の機能が停止して何も認識する事が出来なくなり、心が生じる事もなくなるという感じです。しかし、肉体が死しても意識は存在し続けます。何故なら、意識とは宇宙そのものだからです。

本来、意識に個別性はありません。しかし、人間が持つ自我という囲いによって全体から隔離された意識には、自己なる個別性が齎されます。死とは、意識が個別性から開放される事を言うのであって、それは全体性への回帰であると言い換える事も出来ます。

所謂「死後の世界」なるものは実在しませんが、全体に回帰した意識が、自我という囲いの中に取り込まれ、全体から隔離されれば、再びあなたという存在が地上に産み落とされる事になります。

まあ、こういう事は、誰かに答えを聞いて安心しようとするのではなく、坐禅するなどして自分自身で明らめようとしなければ、意味がなかったりするんですけどね。

心は実体の無い現象に過ぎず、魂でも、自我でもありません。例えるなら、心とは、水面に起きる波紋の様なものです。黄檗禅師の言う、感知するものだとか、見るもの、感じるもの、触れるもの、嗅ぐもの、知るものとは、心ではなく、意識の事です。意識こそが自己の最小単位なのです。

心は脳が作り出す現象です。死ぬとすべてが消滅するというより、肉体の機能が停止して何も認識する事が出来なくなり、心が生じる事もなくなるという感じです。しかし、肉体が死しても意識は存在し続けます。何故なら、意識とは宇...続きを読む

Q煩悩ってどういう意味ですか?

煩悩(ぼんのう)ってどういう意味ですか?
辞書で調べても難しくて理解できません。
具体的に、わかりやすく教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
 
  煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。
 
  仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。
 
  しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。別に和服でなく、洋装でも構わないのです。また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。
 
  あるいは、仏教では、イスラム教と同様、精神の安定や、日常の心の状態を興奮させたり、おかしくする飲み物などは禁じています。例えば、麻薬などは無論駄目ですし、煙草やお酒も駄目なはずです。しかし、日本の坊様は、何時頃からか、「般若湯(はんにゃとう)」と称して、酒を店で買って飲んでいたりします。坊様が、良い酒を味わいながら飲みつつ、何という味わい、この酔い心地、さすがに銘酒は違う。極楽じゃ。しかし、考えてみれば、これも「煩悩、煩悩……仏様よ、お許しあれ、南無阿弥陀仏、いやもう一杯、何ともうまい」などと云っていると、どこが、煩い、悩みの煩悩か分からないでしょう。
 
  また仏教では、生き物のいのちを大切にせよと教え、殺生を禁じ、従って、動物の肉は無論、鳥の肉も、魚も食べてはならないことになっているのですが、それも何のことかです。酒のさかなに、コイのあらいを食べつつ、いい気分になって来て、坊様が、いや、浮き世もまた楽しいぞよ、酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ……などと歌っていると、「生臭坊主」ということになるのですが、以上は極端に戯画化しているので、日本では、昔から、坊様が、妻帯し、子供がおり、酒は飲み、魚も食べ、それで別に社会から糾弾などされていません。
 
  大酒を飲み、酔っぱらって、寺の本堂で乱交パーティを開くような坊様は、それは別に坊様でなくとも、普通の人でも社会から糾弾されます。
 
  仏教の坊様にとっては、女性と触れたり、メイクラヴすること、酒を飲んだり魚を食べたりすることは、仏教の教えに反することで、こういう「欲望」を、修行の妨げになる「煩悩」と呼ぶのですが、煩悩というのは、多くの坊様の日常生活から云うと、自然なことのようです。
 
  もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。これも煩悩か」などとなります。
 
  「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。
 
  これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。
 
  煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。(ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。
 
  煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。
 
  肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。
 
  人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。
 
  「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。
 
  世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。
 

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
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