ハマっている「お菓子」を教えて!

捨て去るべきもの

この世には、捨て去るべきものがあると思います。

人は何を捨て去って、彼岸に赴くのでしょうか。

A 回答 (12件中1~10件)

Il faudra qu'a la fin je renonce a ton optimisme.



もはやあなたの最善説を捨てなければならないだろう。

Il faut cultiver notre jardin.

自分の庭を耕さねばならない。

ヴォルテール『カンディード』より


『カンディード』最後の言葉。悲惨な目に遭っても最善説を語り続ける師パングロスに対して、カンディードが言う。庭の教訓として知られる。解釈はいろいろあるが、理想や思弁から現実への回帰を説いたものとされる。

以上、NHK語学番組のフランス語の頁から、拝借しました、関係者の皆様お許し下さい。


此処での最善説は、ライプニッツの予定調和と言って良いのか判りませんが、そんな意味合いのようです。

ただ、庭を耕すために、理想や思弁を捨てる必要が有るのか、私には判りません。
庭を耕しながら、ふと、青空を仰ぐ、汗の臭いと土の臭いが、私は好きですし、そもそも何も捨てるようなものを、持ち合わせていないのです。ただ、借りていたものをお返しするだけです。
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この回答へのお礼

ようこそいらっしゃいました。

私の最善説は、仰せのとおり捨てましょう。
最善を希求するよりも、できることのうちに、知りえなかったそれ、良知をしっかりと身につけたいと思いました。それが、自分の庭を耕すことなのかなと思いました。

>ただ、庭を耕すために、理想や思弁を捨てる必要が有るのか、私には判りません。
庭を耕しながら、ふと、青空を仰ぐ、汗の臭いと土の臭いが、私は好きですし、そもそも何も捨てるようなものを、持ち合わせていないのです。ただ、借りていたものをお返しするだけです。

 爽やかな様子が目に浮かびます。
理想や思弁を肥やしにしてさらに実りを得ると言うのも、本当の気がします。
そもそも、何も捨てるようなものを持ち合わせていないと言うのは、私たちは、庭であり、農夫であり、肥やしであり、実りであり、享受せる人であり、雨であり、太陽であり、風であり、そして、無我であるからかもしれないなとも思いました。そういう意味では、私は甚だの、思い違いを為した(為している)ことでしょう。

ひとことの ひとにたずねり わがことの たけたるさしも なきのべむかな
(些細なことでも人に尋ねれば、私の何も特別に長けていることなどないということが判る)

そしてまた、この空さえも、こころに映したなら、人が人であることの理由も、少しはわかるのかもしれません。
いつも私は、一歩目です。
少しは自分の本音に、近づきたいものです。

お礼日時:2010/04/18 12:12

センスのいいお返事をどうも。


白葉ですか。
老いてなお若々しく捨て続けいろんな彼岸へ橋架けて楽しまれますように。
恐れや厭う心も、旅の安全をこころがける程度にしたいですね。

この回答への補足

こちらの補足欄をお借りして、ベストアンサーについての釈明をさせていただきたく存じます。
どの方のご回答が最高だったと言うことは質問の性質上、言うことがナンセンスと思うのですが、せっかくの制度ですし、選ばなければ締め切れないようでもありますので、選ばさせていただきたく思います。

補足日時:2010/04/18 12:20
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この回答へのお礼

なるほど、恐れや厭いも、心がけ次第、というのは、いい言葉だなと思いました。
いろいろな彼岸へ橋を架けて、、人生はそのようであるかもしれません。
いろいろの人を陰に陽に拝して、希望の寄る辺を見て行きたいと思います。

お礼日時:2010/04/18 11:19

 teruteru_3 さん ANo.8です


 【自分は多分ね、在るね。なかったら、意味的には、芯がなくなるじゃないですか。】
  それだと、現象的自分の範囲でのたくりまわる事で終始することになります。
 【エゴと自分自身というのはまた違うんですよ。】
  egoと違う自分でいければ結構です。

 【彼岸、此岸も、よくって、どこへいこうが、と言うわけでは、やっぱりね、当て所のない旅】
  彼岸此岸、どこへいっても同じようにその仰せのご自分と、終局価値をご大切にすれば、風の吹くままの風来坊ではありません。仰せのとおりです。
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この回答へのお礼

なるほど、現象に没してしまうのは、それは気をつけるべき事柄ですね。

いろいろとご示唆いただき勉教になりました。

話を聞くと言うのは、本当に良いことですね。

お礼日時:2010/04/18 11:26

#1回答を書きなおします 


 * 
|過去の成功体験 
|未来への期待 
|今この瞬間心のなかにある不安と後悔
 * 
よろしくどうぞ 

この回答への補足

このスペースをお借りして、皆様への補足説明、質問の早期締め切りに関する弁解をいたしたいと思います。

皆様へ

自分自身、質問するにはまだ時期が早いかなと思いました。もう少し自分を整えてから、と、いたしたく存じます。もしご縁ができれば、そのころまた、質問させていただきたいと思います。

補足質問を重ねてさせていただいた方々へ。
補足質問については、この度は取り下げたいと思います。
補足質問の箇所は、気になる箇所ではありますが、それ以前に、聴く耳さえ今は少し、整備が必要なようです。
前回の質問に続き、早々に質問を締め切ることとなりますが、皆様ご寛容くださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

早々

※質問は、明日18日のお昼ごろか、午前中に、しめ切らせていただく予定です。

補足日時:2010/04/18 03:14
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この回答へのお礼

過去の成功体験を縁に自信をつけ、未来への期待によって今を生き、この瞬間、心の中にある不安と後悔を否定せず、真正面から、真面目に歩きたいと思うこの頃。。

再回答どうも有り難う。

案外僕らは、多くを必要とはしていないね。なんて言ってみたり(^^)

お礼日時:2010/04/18 00:24

teruteru_3さん、どうしてそんこと必要なの。


いや自分が実在しているという観念ですよ、そんなの無用ですよ。
彼岸?彼岸も此岸もよくって、どこへいこうが本当をいきればいいnではないですか
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この回答へのお礼

これは難しいことを、、。
観念は、無用?
あっても、OK?
自分は多分ね、在るね。なかったら、意味的には、芯がなくなるじゃないですか。
多分、エゴと、自分自身というのはまた違うんですよ。何をいまさらてるてるは、、と思われるでしょうか。
そうなんです。いまさらてるてるは、そこらへんの自覚を生きてるんです。。

彼岸、此岸も、よくって、どこへいこうが、と言うわけでは、やっぱりね、当て所のない旅は、風来坊には丁度良くても、時節を過ぎた頃合には辛いですよ。
本当を生きるって言うのは、場所にこだわらず、しっかり前見て、足元しっかり、真っ直ぐなこころもって生きる、ってことなんじゃないかと思います。
 
クリャさん、励まし有難う。
真実知見については、また縁があれば。思考を超えた領域の話は、その本当は、できるものではないのかなと最近思います。たぶん、実際にしているものなのでしょう。自性と本性についてはそのときに、、自分自身に明らかにされることかなと。。

お礼日時:2010/04/18 00:43

変化を受け入れない心かなあ。


何を捨て というではなくて、天衣無縫で逝きたいものですね。
捨てるというのでは力がいりますし、技巧もいりますし、
ただわがままに、というのも、ねじれや圧力が体に生じます。
なににしろ滞るものによいものはありません。
傍から見て縫い目がないようで内側では縫い傷だらけ、といった蟠りも心の在りかたが楽ではないでしょう。
先にありますウンコ説と滞らない点で遠くありません。

理屈は抜きで、天衣無縫への白紙化作業はどなたの死に際しても訪れるとわたしは思っているのですよ。
彼岸に往こうという人間に、放下着も屁ったくれもないものでしょう。
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この回答へのお礼

ここで言う彼岸とは、いわゆる、生死の死の事ではなく、死ぬよりも前に生存(の妄執)を終滅させることを言います。
その様にご了承ください。
それは喩えば、自転車に乗ろうとしていて、難しいので途中で諦め、その後の自転車ライフを生きるという自分の夢、目標と、自分の希望に満ちた修練の生活を死なせるのか、あるいは修練を積んで、終に乗れるようになり、自転車ライフを満喫できるようになるのかの違いのようなものでしょうか。

世間でも、目標を以って励む人は、終にその目標を達成すると期待されます。
解脱においても、彼岸に行こうと望み励む人は、希望に満ちて道を歩みつつ、終にそれを達成すると知られるでしょう。

ところで、天衣無縫というものを知らないのですが、それはどのような服なのですか?
縫い目がない未来の服よりも、丁寧な縫製をしてある服なら着心地もよいし、現実に手に入るものであると思うのですが、そこらへんは如何でしょうか。天衣無縫はあるのですか?

放下着、。
彼岸に行くのに、下着まで放ってしまうこともないだろうにと私も思うのですが、。
自分は普段着で良いと思うのですが。。
って、調べてみたら、笑い話みたいですね。。
放下着は、捨てよという意味だそうです。
旅の荷物は軽いほうがいいって言うじゃないですか。
でも、旅の肝要は荷物よりも、○○かなぁ。みたいな。
○○に入るのは、きっと、〔気をつけること〕でしょうか。
なんか、昔もこれ、調べた気がするんだけどなぁ。。

便の話ですが、これは、いつでも健康にということでよいでしょうか。
健康でなければ、便も詰まったり、また、流れすぎたりするからです。
滞らないというのは、いつも心身健康で居るということかなと。

変化を受け入れると、僕の頭も紅葉ならなぬ白葉に。。ああ、受け居るというのは、老死を嫌わないということでしょうか。。

なるほどという感じでした。
またご縁があれば、お話しましょう。
ご来訪どうも有難うございました。

お礼日時:2010/04/18 00:10

 捨て去るべきものをも ぎゃくに あえて受け容れることがあるという場合を見ます。

例によってわたしの筆の力は及びませんので 引用また引用です。

 ▲ (アウグスティヌス:為すべきようになさなくても それは人間の試練に他ならない) ~~~~~~
 だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく公共的なものとしてこのようなもの(* 欲望としての愛や物に対する愛)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なものの無知によって――魂はこのことを時間的に為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは人間の試練に他ならない。

 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練(コリント前書10:13)が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。
 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。
 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。

 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう(コリント前書6:18)。
 また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によってそれらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。
 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。
 しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(集会の書19:1)と聖書に記されているようになるのである。
  (三位一体論12・10)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしは 無言です。
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この回答へのお礼

文章後半の事は受け取れました。

この質問は、二日後か、それ以前くらいにしめましょうか。

もう、実は、ほとんど尋ねることがないんだ。何を尋ねるんだろうと思うね。正直。自分に向き合ってない時に、問いなど見つかるはずもないね。まあ、自分以外の、誰をも頼らなくてもいいのものかしらないが、空虚と言うことは変わりないね。かといって、誰に問えばいいんだろうかと言うことさえ、微妙だよね。根本的になんか違うね、現状は。

かといって、うんうん唸って問いを出すのにはもううんざりだね。。そういうことから、いろんな意味で、執着離れたいね。
 
>捨て去るべきものをも ぎゃくに あえて受け容れることがあるという場合を見ます。
これは、善への囚われ、かな。
小さきものの軽蔑も、ありえないね。
どっちかというと、自己嫌悪かな。わずかにあるなら。

ただ、エゴを捨てるくらいが、関の山でしょう。だけれど、それでいいんだし、それで十分な気もするね。

無言と言いつつ示すところが、ちょっとした配慮ですね。

そろそろ潮時かなー、いい意味で。

いろいろ有難う。nの話、あっちの問答は終わるまで続けるつもりです。

ああ、前半の意味も解かってきたかな。

アウグスティヌスはなかなかの賢者だね。それをこのタイミングで引用する方も、、、まぁ、まぁ、だね←気遣い(^^)

ああ、ひねくれてるかな、俺は。

賢者と言うか、単に、同じ心境なだけかもしれないけどね(つまり同感、、、そう、。s堪え忍びとは、、真理そのもの、。?。どうして?堪え忍びは真理そのもの?なんで、、、どうか、、ああ。。海に雨が降る、、海から雲が、雲から雨が、雨は無数ありとて、それぞれは一滴、、海は、、曇って何?りゅう?雲が雨を降らせるのは何故、龍が水を吸い上げるのは何故、、、この働きって、、、しかもそれだけじゃないよね、海はどこから来たの。ここまで喩えを延長しても、、あれかな。氷の星がぶつかって海ができたっていう話、アレが本当だとしたら、海は、一滴の雨ってことになるよ。話しでかすぎでしょ。
じゃあ、一滴の雨は?ほんものの、一滴の雨は、一滴の海なわけ?それはどうやって証明するの、言葉にできないことでしょ。ああ、これは置いておこう。
龍の話を考えよう。龍と言う働きは何故あるのか、。

きょうはここらへんにしよう。やっぱり、龍の件が明らかになるまであいてるかも。でもしめてるかも。

お礼日時:2010/04/18 01:43

「人=意識」とは、固有の物体ではなく、生滅する事象の海を伝播する波束です。


意識=脳内のインパルスのネットワークの相互作用は、そのまま全宇宙に及ぶ。
その宇宙の果てからの因果律の連なりは、ここに「自己」を形成し、通り過ぎてうんことなる。
即ち、「宇宙の果て」は自己であるが、「うんこ」は、この宇宙で最も自己から遠い、ある意味で宇宙の“果て”なのだ。

意識が、各時点で独立した自我仮説を時系列化することで派生するものならば、昨日の私は、増大するエントロピーをうんこに固めて「捨て去る」ことで、今日の私を生んでいるのだ(生んこ)。

この回答への補足

こんばんわ。
その、波説では、主体性というものはどのような位置づけとして存在するのでしょうか。

補足日時:2010/04/17 23:38
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この回答へのお礼

わかるようでわからないご回答なのですが、感覚と言うか、お気持ちは多分わかっていると思います。
でも、別に地球の果てでなくても、便はするわけで。。
しかしながら、自分が世の果てであるというのは、懐かしい感性であると思いました。
足の裏が世界の果てなどと言っていた私は、自分の危うさに全く気づいていませんでした。その後、ちゃっかり落ちたし。。
世界に中心もなければ、果てもないのであると、今は考えています。

ご来訪楽しかったです。よろしければ補足に追加の質問をしています。お気が向けばお願いします。

お礼日時:2010/04/18 00:19

#一番目の回答者です


おれいありがとうございます
三行目の 今ここに 
この文句は 苦し紛れに つけたした 文字塵ですよ 
どうか お気になさらずに 
 * 
+|+ 捨て去るべきもの 
+|+ 老化と退行への反抗心 
+|+ すでに与えられたものに対する過小評価
 * 
のびちぢみするなにか 
つみかさなったあつれき 
すでに崖の下におちている虚栄心 
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この回答へのお礼

課題としては、NO2さんへのお礼で獲得した一体感が、常にあることは、何によって、なされるのであるかということです。そうあれたなら、いろいろのつらみも、はじめからなかった、といえるような、気持ちになるのではないでしょうか。

お礼日時:2010/04/16 21:00

人は何を捨て去って、彼岸に赴くのでしょうか。



そうですね。舞台俳優になぞらえればわかりやすいでしょうか。
俳優は控え部屋で自身の出番を待っています。出番ですよと呼ばれて颯爽と舞台に上がり、力一杯誰かになりきって演技して汗をかきます。舞台には様々な小道具もあり、手にする小道具もまた演技を引き立てます。でも幕の時は必ず来ます。幕が下りれば、俳優は舞台を下り何もなかったように控え部屋に帰って、化粧を落とし、静かにお茶を飲みます。
この例では舞台がこの世、彼岸が控え室ですね。舞台俳優は舞台に上がる時には何も持っていませんし、舞台を下りる時も何も持っていませんね。舞台劇で残ったのは役者としての経験だけですね。
さて、これが「人は何を捨て去って、彼岸に赴くのでしょうか。」の答えなんですね。
釈尊がこの世は苦の世界といったのは舞台だからなんですね。舞台では一生懸命演じないといけませんからね。でも舞台劇は高々80年、すんでしまえば本来の人生、控え室(彼岸)に戻ればいいんですね。舞台劇の主人公は苦であるが本来のあなたではないですよね、舞台劇で利用した小道具や役柄は全ておいてくるものでしょう。
舞台劇の主人公が舞台が終わっても元に戻らないでなりきっちゃうと精神病といわれますよね。
そいういうことですね。
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この回答へのお礼

ご来訪いただきまして、歓迎いたします。

諸仏の語りに、

心汚れたままで、百歳日生きるよりも、心きよらかに、一日を生きることのほうがすぐれている

というものがございました。

私は最近、これは、本当にそうなんだろうなと思うことがあります。

私はまだ老年には入っておりませんし、世間では若輩の呼ばわりを受ける年代でもあります。

しかしながら、この清らかな心で一日を生き切った事は、あっただろうか。。

かかる昔日の思い出に、多くの人々との出会いと、楽しい交友と、思弁を究めた(と思っていた(^^;)精神世界の諸々について、昼と夜の世界について、私は何を伴っておれなかったのでしょう。

一時、神経症に足をかけたことがあります。今でもその気は残っているのですが、私は、目の前の事にすら、まともに向き合えたことが、もしかしたら、無かったのではないか、その様にさえ思ってさえいるのです。

その様で無ければ私が、いろいろの物事についての正しい見識や、また人生のありえべき満足、人としてのまっとうなその道、あるいは、本当といったものを、求めさえする事がなかったであろうとも思えるのでもあるからです。

お礼日時:2010/04/16 19:18

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