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蝶子が柳吉に対してあんなにも献身的である理由が分からないのですが、
既読の皆様はどう思われましたか?

A 回答 (1件)

実は、織田作は、いずれ読んでみたいと思いつつ未読でしたが、青空文庫で読めるようだと知って、サッと読んでみました。


法善寺境内の名物、夫婦ぜんざいを味わった思い出が あります。みもふたもない私は、あんな ちょびっとの量やったら、わざわざ二つに分けて運んでくるほどのことも なかろう、一つの お椀に入れたら ええがな、と思ったことを憶えています。(それじゃ「夫婦ぜんざい」に ならないな 笑)

>女給の手にさわり、「僕と共鳴せえへんか」

この部分で苦笑してしまいました。いかにも、しょうのない男が言いそうなセリフやなあ、と。
せっかくですから(?)雰囲気を盛り上げんとて、大阪弁まる出しで いってみます。
私も大阪育ちですが、母は まさに大阪の ど真ん中で育った、ミナミあたり、自分ちの庭みたいなもんやと、長い黒髪を なびかせ、肩で風きって闊歩してたというのが自慢の人でした。ですから、母方の家に行ったおりなどに、かなり時代のズレは あるものの、この作品に描かれる人間模様から醸しだされる独特の空気感のようなものには、私の子ども時分には、まだ、触れ得ていた記憶が残っています。

むかしの時代の親ゆうもんは、いまでは考えられへんほどの厳しいところがあったと聞いてましたけど、
柳吉の父親のような固い考えかたや態度も、理解できないでは ありません。こういうところも含めて、近松の『心中 天の網島』でしたっけ、治兵衛の女房おさんの父親と言い、大昔から こんにちまで変わりのない親の心情というものは あるもんやなあ、と思いました。
そして、やはり、ヒロイン 蝶子の父・種吉のような おとうちゃんは、ええ おとうちゃんやなあとも思います。

>お辰はあれでは蝶子が可哀想やと種吉に言い言いしたが、種吉は「坊ん坊んやから当り前のこっちゃ」別に柳吉を非難もしなかった。どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」とかえって同情した。そんな父親を蝶子は柳吉のために嬉しく、苦労の仕甲斐あると思った。「私のお父つぁん、ええところあるやろ」と思ってくれたのかくれないのか、「うん」と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。
◇◇◇
こういう、種吉の、おっとりノンビリした善良さと、柳吉の茫洋としたと言うか、肚の つかみどころがないようなところが、蝶子にとっては、二人の男に共通した性質であり、彼女が理由らしい理由もなく柳吉に引き寄せられてならなかった潜在的な原因のように思えました。まぁつまり、ファザコン?(笑)そういえば、柳吉のほうが、かなり年上ですよね。

>柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒るというよりも柳吉を嘲笑し、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――蝶子は「わてのこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望や」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井を睨んでいた。
◇◇◇
このへんですね、実は、私の母を彷彿とさせるところがあります(笑)
むかしは、男を一人前にしてこそ、女も一人前、みたいな気概があったらしいですが、いまどきは、どうでしょうか、たまには見かけるんでしょうか、ほら、
「あの人には、私が ついててあげないと!」とかって悲愴なことを言う女性。
私自身、若い頃から、お花と お金だけは、もらうことはあっても、男性に あげるのは美意識に反する、などと根拠もなく思い込んでいるところがありますが(笑)ろくに報いてくれそうもない男はんに尽くしまくるなんてなあ、、、と思うのが正直な気持ちです。けど、知人のなかには「男に貢ぐ、というのを、いっぺんやってみたいの」、と鼻息を荒くして のたまうような女性も おりますから、私は、そうか、そういう女性も いるもんなのね、と感心しつつ(?)思わずヒキました;
しかし、そうですね、よく思い起こせば、自分にも全く縁がなかったわけでもないことで、時間でも労力でも、お金でも気持ちでも、つぎ込めば つぎ込むほどに、要するに、「元を取り返す」までは、と貼り付く執着心ですねぇ。世間で よく聞かれる、 いわゆる「女の意地」というやつ?(笑)

蝶子の場合、出発点が、まさに「不倫」ですから、いまどきは不倫が「フリン」かプリンくらいの軽さ漂う ご時世ですけれど、作品中の時代には、さすがに、いまよりも もうちょっと抵抗感や後ろめたさが強かったかも しれませんね。それでも、いつの時代も、好きになり、恋うる気持ちを、リクツや なんかで止めることは できしまへん。そやから、蝶子にしても、家庭のある男性を、その妻や娘から奪ったという後ろめたさ――それは、柳吉の娘が急に訪ねてきたとき、勝気な蝶子が顔をシワだらけにして笑顔で「いらっしゃい」と駆け寄り迎えた、という場面に、彼女の後ろめたい気持ちと、それを なんとか挽回したいという、媚びと言っていいほどの願い、なんとも いじらしい心情すら感じさせるところに表れていると思います。

先述の『心中 天の網島』だったと思いますが、「子ゆえの闇」とか「恋路の闇」とか、実際は、まだ小娘と言っていいような年齢だったかと思われるヒロイン 小春が、自分たちを とり巻く人々それぞれの心の うちを思いやり、そして自分自身の心の うちの苦しみをも客観的に見通す場面のセリフを、つられたように思い起こしました。

やはり、心理的に、素朴さと複雑なものが両方あるんでしょうね。
好きになるのにリクツは関係ないでしょうし、リクツで止めることも できないでしょう。それは、ごく素朴なことであり、同時に、個人の潜在的な心理の働きとしては、複雑なものも含んでいるかもしれません。
どうにも好きになってしまわせた相手にとって、この自分が、同じくらいの重みがないとなると、勘定が引き合わんやないかいな。
加えて、さきに申し上げた、後ろめたさ、罪の意識を負っているゆえの、そのぶん、媚を含むまでに切ない、挽回への願い、柳吉の家庭を崩壊させたことを贖うためにも、一人前の男にしてみせるに欠かせぬ存在であらねば、という強迫的なまでの意地。
そうしてみると、案外、柳吉のためなんてのはアヤシイもんで、むしろ、蝶子自身が、その意地に支えられているまでに至ってるんやないのか、と思えてきます。

だからこそ、年下の蝶子に折檻されながら、「おばはん」などと憎まれ口を たたきつつ、「頼りにしてまっせ」という柳吉のハゲマシ、本当のところ、「頼りにして」いるのは、どっちなんでしょうね(笑)

手塩にかけて育てた一人娘に、あっさり 背かれても、その幸せを一番に願い続け許し続けることを苦にもしない、蝶子の親。
その蝶子に、自分と親の どっちが大事や、と試すように冷たく迫る柳吉。
柳吉にとって最高に必要な存在であり続けたいがためには、断腸の思いを忍んでも、無償の愛で慈しんでくれる大事な親をさえ裏切り、捨てかねない蝶子。
「頼りにしてまっせ」このコトバは、これからも果てしなく柳吉に尽くせよ、という厳しい叱咤であり、同時に、その煩悩ゆえと言うべき奉仕によって、実は彼女が生かされているのだということ。

どなたの発言でしたか、必ず、どちらかのほうが、いくらか片思いなのだ、という、これは、恋愛に関するコトバでしたが、恋愛に限らず、人間関係全般に言えるのかも しれません。


さてさて、蝶子の親、柳吉、蝶子、誰が一番愛されているのか。そして、誰が本当の「愛の勝者」なのでしょうかね。
私、ちょっとアタマ痛くなってきた(笑)
長い感想文で、失礼しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/30 11:31

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