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ちなみに僕は
1織田信長:天才的で何にもとらわれない発想は突出している。
2蒲生氏郷:部下思いの武将。秀吉に暗殺されたという噂あり。
3豊臣秀吉:農民から天下へ。大変前向きで明るい。晩年は独裁的。
4北条早雲:謎多い人物。農民の税金を軽くするなど、義の心あり。
5上杉謙信:誠実をもってならした珍しき大名。とにかく無欲。

です。理由なんかもあったら書いてください。

A 回答 (3件)

ちなみに、私は茨城県民です


・・・・・・・・・・・・・・
1位:最上義光
 権謀術数の人のイメージが強いが庶民は巻き込まれないで済んでいるマキャベリズム政治家としては当代一流かつ教養人

2位:尼子経久
 隠れ築城名人で中国地方の基本レジームを形成したスケールの大きい為政者だから

3位:長野業正
 守勢に強い上に、カリスマ性のある土豪で領民人気も高い

4位:太田道灌
 戦国前期の関東の基礎を形成した英傑。時代的に目立たないが戦国時代を代表するべき人

5位:豊臣秀長
 秀吉よりも秀長の方が魅力的と思える上に、理知と思われるから。
秀吉の事実上のブレーンだと考えると納得できる部分が多い

次点:
 島津忠良、藤堂高虎

ちなみに、戦国時代の評価は、どうしても中部・近畿方面、信長中心として歴史観に支配されがちなので、戦国時代全体を通じての評価と大名ではなく陪臣レベルの英傑を選出してみました。
 
 
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この回答へのお礼

陪臣レベルの英傑、興味をもってみました。
最上義光は、優秀だったと耳にしましたが、政治家として優秀だったのですね。
太田道灌もちらほら耳にします。前期ということで、あまりスポットがあたっていないのかもしれないですね。
豊臣秀長は、血族の少ない秀吉にとって、大変頼りになる武将でした。
秀吉が出兵している時、代理などもやっていますし、早い死が惜しまれる人物です。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/06 15:14

1位を2名挙げます。



1) 立花宗茂
天下一の武勇に加え、秀吉の自分と元の主家の大友家への恩顧を忘れない義理堅さ。これほど爽やかな戦国武将はいないと考えます。

1) 大谷吉継
石田三成だけでは「関ヶ原の合戦」は起きなかったでしょう。三成と共に西軍を旗揚げし、「石田などに何も出来まい。挙兵したらひねり潰すまで」と高をくくっていた徳川家康を天下分け目の合戦に引きずり出したのは多くが吉継の加担によるものと考えます。
義と友情のために命と地位を全て差し出した行為は、歴史上も稀なのではないでしょうか。

立花はその人物を惜しまれて徳川家の大名として柳川の旧領を回復し、大谷は関ヶ原で壮烈な最期を遂げたわけですが、「義人」として「武人」として甲乙つけ難いです。

3) 徳川家康
豊臣秀吉没後、天下第一の武将としての地位を得るまでの過程は略します。今川傘下の三河の小大名の嗣子の地位からここまで来ただけでも凄いことですが。

秀吉没後、石田・大谷が挙兵して西日本の大名をほとんど味方につけて家康に挑んできたのは「計算違い」だったでしょう。
それに対し、西軍の最大部隊である毛利部隊を封じることが戦勝のカギと読み切り、吉川広家に徹底した調略を行って、関ヶ原合戦で毛利部隊2万余が陣取る南宮山のふもとを
「毛利は決して参戦しない。参戦したらオレは関ヶ原で死ぬが、そのリスクは限りなくゼロ」
と読みきって通過し、関ヶ原という「死地」に入って西軍を最終的に粉砕したのは「見事」としか言えません。

広家は毛利家の中では「非主流派」「不満分子」であったようで、棟梁である輝元の信頼もあまりなかったようです。毛利家の主流は輝元→元の養嗣子の秀元→外交顧問格の安国寺恵瓊であったようで、西軍加担に反対した広家の意見は通らず、輝元は西軍の総帥となり、輝元の陣代として秀元が毛利の野戦軍を率いて美濃に進出しました。
ところが、「非主流派」である広家が何故か毛利の野戦軍の先鋒であり、当時の軍法として「先鋒部隊の『最初に攻撃する権利』は侵すことが出来ない」というものがありました。
これが「吉川隊が先鋒を承るのが毛利家の軍法」で家康他に周知のことであったのか、毛利の野戦軍が関ヶ原に進む過程で「偶然に吉川隊が毛利部隊の先鋒になったのか」分かりませんが、家康が、もともと親家康派で、策士の素質があり調略するのが容易な広家を調略し、大谷や立花と似たような人で「調略不可能」であった秀元(毛利家のナンバー2)には一切調略を行わなかったというのは「凄い判断」です。
家康の広家への調略が「120%成功」しなかったら、東軍と西軍の合戦は史実とは全く違う様相になっていたでしょう。

また、関ヶ原の合戦の勝利で反対派を一掃して天下を取った後も、家康は秀吉との約束どおり秀頼に実の孫娘の千姫を嫁がせています。千姫は「徳川家が豊臣家に差し出した人質」であり、逆に豊臣家は徳川家に人質を出しておりません。
関ヶ原から大阪の陣まで15年と言う実に長い年月が経っていますが、家康は最後まで豊臣家を滅ぼし、秀頼を抹殺する意思は持っていなかったと思われます。
実際、豊臣家が滅んだ大坂夏の陣の直前の時点であっても、秀頼が徳川家に「大坂城を退去します。適当な替地を頂ければ幸いです」「江戸に屋敷を構え、母を住まわせます」と申し入れれば、恐らく秀頼はその人生を全うし、現在まで豊臣家の子孫が続いていたと考えます。

大坂の陣は、時代の変化を無視して大坂城という大要塞に蟠居し、巨万の富を有する秀頼・淀殿母子は、自分の死後に秀忠の手に余り、天下の太平を乱すことになると考えた家康の「苦渋の決断」であったと考えます。どこかで秀頼が折れてくれれば、家康も安心して秀頼を優遇したと思うのですが残念なことです。

と、長文を書きましたが、私が最も「評価する」戦国武将は徳川家康です。人の住めない場所であった江戸を巧妙な土木工事によって現在の東京に仕上げ、諸河川の氾濫で農耕不可能だった関東平野の大部分を沃野に変えた民生手腕も見事です。

4) 最上義光
戦国史に詳しい人、また山形市民以外には恐らく全く知られていない人ですが、名門・最上家の社稷を守り、江戸幕府の大名として出羽に広大肥沃な領地を確保したのは偉業と言えます。ただ、後継者育成に失敗して、大名としての最上家は義光の死後あっという間に消えてしまいました。
そのため史料が乏しく、最上のライバルであった伊達家の史料によって語られることが多いため、かの大河ドラマ「独眼竜政宗」では陰謀を巡らすしか能のない男に描かれてそのイメージがくっついてしまった気の毒な人です。

5) 蒲生氏郷
この人が数え40歳の若さで病死しなければ、秀吉死後の日本がどうなったか?実に惜しい大器です。
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この回答へのお礼

立花宗茂は爽やかな武将ですよね、好感が持てます。

大谷吉継も私は好きな武将です。彼の生き方というか、友情を重んじるところとか、ひかれるものがあります。

家康は、僕は好きではありません。客観的に彼の功績や足跡をみれば偉大であることは間違いないと思います。
確かにあの江戸への移封は、家康にとっても、かなりのリスクがありました。そういう中で、その政治手腕は評価できます。また、忍耐力という点では、間違いなくトップだったと思います。

最初は、家康は、秀頼に温情的に接していて、争いを避けたと思っていました。しかし、色々、みていくと、家康は秀頼を滅ぼしにかかって、行動していたように感じています。機会があれば、関が原についての項目を作りたいと思います。
私自身、石田三成や西軍への思い入れを持っているというのもあるのですが・・・。
その流れで、吉川広家にも良い感情はもてないのですが、ただ、司馬遼太郎さんの本で読みましたが、死に間際、死んだ兵士の家族への補償などをくれぐれもしっかりやるようにと、遺しており、一流の人物であったと書いています。

最上義光はもっと注目されていい大名のようですね。

蒲生氏郷は、家臣を思いやるエピーソードも多く、町作りなど政治手腕にもたけており、一流の人物で、早い死が惜しまれます。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/06 15:29

1)高橋 紹運


2)鍋島 直茂
3)香宗我部親泰
4)片倉小十郎
5)朝倉宗滴
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この回答へのお礼

高橋や鍋島など、私も興味をもっています。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/06 15:15

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