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弥生人は、紀元前10世紀に稲作と共に日本に渡来したのだそうですね。
質問は、弥生人は、それ以前(縄文終期)にも渡来していたのでしょうか?

A 回答 (5件)

郷土史では中国の福建省やフィリッピンあたりから稲作の技術をもって小畑川上流に住み着いたと聞いています


弥生人は中国が周から秦 前漢に移る時で国が乱れていて逃げ出してきた民族です
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
時期的には紀元前10世紀ころですね。ただし、<中国の福建省やフィリッピンあたりから>直接の人が来た、とは推測できませんが。

お礼日時:2024/04/14 10:18

> 弥生人は、紀元前10世紀に稲作と共に日本に渡来したのだそうですね。



伝聞なのか、何をご覧になったのか、わかりませんが、「弥生人」に関してならば、wikiをご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F …
https://www.terumozaidan.or.jp/labo/technology/1 …
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A …

「稲作」についても
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C

> 質問は、弥生人は、それ以前(縄文終期)にも渡来していたのでしょうか?

日本はアジアの端っこに位置し、あちこちから人間が入り込み混血しました。
https://diamond.jp/articles/-/318993?page=3
「ある時期にメインがAの地域にBが入り、比較的短期にBがAを圧倒し、この時期にはBがメインになった」というものでなく、しかも、AとBとに2分すれば分かり易くなるというほど、事態は単純ではないです。

ネットで検索できる程度のことは、自分でも調べた方がイイです。
「弥生人が何かもハッキリしないのに、いつ来たのか、○○世紀ころには渡来していたのかという問いを立てるのは妙なことになる」ことはおわかりでしょう。 
時間を持て余しているのであれば、質問投稿するよりは自分で調べたほうが時間潰しには有効です。
図書館に行って図書を読めばさらに他にも関心が移り、時間つぶしに役立ちます。

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https://www.jstage.jst.go.jp/article/asj/advpub/ …
下本山弥生人2 個体はいずれも本土日本人と縄文人の間に位置した(図3A)。
また,日本列島人3集団(アイヌ,沖縄人,本土日本人)との比較でも,下本山弥生は本土日本人や沖縄と縄文人やアイヌの間に位置し,アイヌの一部とは重なっていた(図3B)。
outgroup f3-statistics で集団間の遺伝親和性を比較したところ,f3(Mbuti;集団 X,下本山弥生)では,下本山弥生人は伊川津縄文人や船泊縄文人と,もっとも多く遺伝的浮動を共有することが示され,両者とは遺伝的に近い集団であることが示された(表 2,付表4,5)。
また次に近いのは日本列島人3集団であったが,これは,PCA の結果と一致している。
F4-statistics について,f4(Mbuti,船泊縄文;下本山弥生,集団 X)という集団比較でも,下本山弥生人は現在のいずれの集団よりも縄文人への遺伝的類似性が見られた(表 3-1,付表 6-1)。
また有意ではないが,下本山弥生人は船泊縄文人よりも伊川津縄文人に遺伝的に近い傾向を示した(表 3-2,付表 6-2)。これは,outgroup f3-statistics の結果とも一致している。
次に,f4(Mbuti,集団 X;下本山弥生,船泊縄文)という集団の組み合わせで,下本山弥生人に渡来系の遺伝要素が含まれるのか検証した。その結果,有意ではないが下本山弥生人は船泊縄文人に比べて大陸集団への遺伝的類似性を示す傾向が見られた(表 3-3,付表 6-3)。
最後に,渡来系の要素が下本山弥生人と現代日本人のどちらに多く含まれるか検討するために,f4(Mbuti,集団 X;下本山弥生,現代日本人)という組み合わせの検定を行ったところ,現代日本人が大陸系集団との遺伝的類縁性が有意に高いという結果が得られた(表 3-4,付表 6-4)。

outgroup f3-statistics で集団間の遺伝親和性を比較した
本研究の最も重要な点は,図 1に示したような九州の弥生社会が祖先を異にするいくつかの系統に分かれていたという図式は,この時代の状況を誤って解釈する可能性があることを示したことにある。
少なくとも,渡来系弥生人集団と西北九州の弥生人集団の間には,形態学的な研究が予想するよりもはるかに規模の大きな混血があり,双方は弥生時代の全期間に渡って明確に分離した集団ではなかったと考えられる。
ただしその交雑の状況は,地域ごと,遺跡ごとに様々であった可能性があり,今回の分析例を持って西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表させることはできない。しかし,西北九州弥生人という集団は固定的なものではなく,時代とともに変化していった流動性のあるものだったと捉える視点は重要であろう。
渡来した集団が長い時間をかけて在来集団を取り込んでいったことを考えれば,形態学的な研究が定義している渡来系弥生人と西北九州弥生人は,混血の程度の地理的・時間的な違いを固定化して見ているだけであるという解釈も成り立つ。
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この回答へのお礼

そうですか。

お礼日時:2024/04/15 18:20

ちょっと、認識が違います。




日本は、アジアの端っこに位置して
います。

だから、あちこちから人間が入り込み
混血化しました。

これが縄文人です。

その後、中国大陸や朝鮮半島から
大挙して移民が入って、混血化が更に
進みました。

これが弥生人です。

現代人は、弥生人だ、と言われています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<ちょっと、認識が違います。>ですね。


私の認識は次の通りです。

朝鮮半島に朝鮮系弥生人がいた。朝鮮系縄文人はもうすでに絶滅していた。
期限前10世紀のころ、中国で動乱が多発し、中国人は朝鮮半島に逃避して来た。
その結果、朝鮮では、朝鮮系弥生人が玉突きされて、日本に逃避して来た。
このさい水稲を持って来た。
これらの日本在住の朝鮮人系弥生人が主体となって、縄文人と混血し、紀元後の古墳時代の現行日本人になった。
いまわからないのが、漁労文化が何時日本に入ってきのか、です。

ご退屈さま

お礼日時:2024/04/14 17:40

何をもって「弥生時代」とするかです。


「弥生人」の出現をもって弥生時代とするならば、九州北部は早々と弥生時代に突入しますが、それ以外の地域はまだ縄文時代であるということになりますし、東北なんかは結構遅くまで縄文時代が続くとなります。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
私は、北九州に水稲が入った時期から全国的に弥生時代としています。例えば東北では縄文文化が続いているとしても。

お礼日時:2024/04/14 10:22

NHK 『フロンティア』という番組によると、日本列島に最も最初に到着した集団は、東南アジアから台湾、琉球を経由して入ってきた集団であったようです。


https://www.nhk.jp/p/frontiers/ts/PM34JL2L14/epi …

その後の日本では、シベリアから北方領土を経て流入したアイヌ系の集団、朝鮮半島から流入した百済系の集団、中華大陸から台湾・琉球を経て流入した集団という4集団が主流であったようです。

ただし渤海や遼と貿易していた事もあり、そういうルートでの流入も、人数は少ないながら存在していたでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
紀元前10世紀あたりは<その後の日本では、シベリアから…>が該当しますね。

お礼日時:2024/04/14 10:12

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