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織田信長って人生五十年下天に比べればとかで舞を舞ったって作り話ですかよろしくお願いしますm(_ _)m

A 回答 (9件)

桶狭間前の信長出陣の際に敦盛を舞ったという話ですね。


出典は大田牛一が信長の行動を記録した『信長公記』です。大田牛一は桶狭間当時、信長の6人の近侍衆でした。間違いなく大田牛一はその場にいたはずで彼が見た信長の様子をそのまま記述したのでしょう。間違いなく本当のことでしょう。

ちなみに太田牛一の『信長公記』は他の同時代の一級史料とかなり整合性が高いことから、信長の記録としては唯一無二の一級史料と判断されています。

『信長公記』のその部分は名場面ですから、多くのドラマや映画でほぼそのまま採用されています。
該当部分の現代語訳を参考までにコピペいたします。

**************
 永禄3(1560)年5月17日、今川義元勢の先陣は沓掛に参着し、翌日大高城へ兵糧を運び込んだ。この動きから、今川勢は翌19日の援軍の出しにくい満潮時を選んで織田方の各砦を落としにかかるに違いなしとの予測がなされ、18日夕刻から丸根・鷲津からの注進が相次いだ。

 しかしその夜、信長公は特に軍立てをするでもなく、雑談をしただけで家臣に散会を命じてしまった。家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑して帰っていった。懸念の通り、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った。
 注進をしずかに聞いたあと、信長公は奥に入った。
そこで敦盛の舞を舞い始めた。

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか

 ひとしきり舞った。
 そして、「貝を吹け」「具足をもて」とたて続けに下知を発した。出された具足をすばやく身につけ、立ちながらに食事をすると、信長公は兜を被って馬にまたがり、城門を駆け抜けた。このとき急な出立に気づいて後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎であった。
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お礼日時:2023/12/18 16:52

貴族は、教養として和歌が必須。


武士は、舞や、謡いは教養として重要。

もちろん、習うには師匠が必要なので、貧乏武士などには無理。

文武両道から、無粋なやつと馬鹿にされたでしょう。

というわけで信長は、舞や謡いは普通にできたでしょう。

後漢三国志の頃の英雄〜魏の曹操が槍を持って舞う場面を見たことがある。
舞は、武将の教養の一つだったのでしょう。

中国科挙の試験には、楽器を奏でることもあった。諸葛孔明も、楽器を奏でていましたね。
古くから、教養がないと人の上に立てないのかも。
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お礼日時:2023/12/18 16:52

農姫が本能寺で信長と一緒に戦って討ち死にという話も嘘だったようですね。


大河ドラマは実は多くが作り話と聞きます。
巷談と思うことで、真偽の分別を楽しまれてはどうでしょうか。
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お礼日時:2023/12/18 16:52

持ち歌が、敦盛のみだったとしか思えないほど、節目節目で謡ってますね。


歌詞は、それほど重視してたわけではないでしょう。今の歌謡曲なんかの感覚で好きだったのでしょう。
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お礼日時:2023/12/18 16:52

太田牛一の「信長公記」に「此時、信長敦盛の舞を遊ばし候」と記載


されているので事実と思います。
「信長公記」には、家臣が戦死する都度、涙を流す信長にとっては都合の
悪い事柄も書かれています、本能寺の変の時には加賀に赴任中で京都には
居ませんでしたが、後日、生き残った侍女達を取材して書き留めたので
信長の最期の様子が今に伝わっているのです。

原本は子孫の太田家に在ります、大阪の空襲では、文字通り命懸けで、
守ったそうです。
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お礼日時:2023/12/18 16:52

信長が幸若舞の敦盛が好きで自ら舞っていたようですが、本能寺の変で自害する前にやっていたのかはわかりません。

なにしろ最後まで信長に近侍していた人たちは皆死にましたから確認のしようもなく、ドラマや映画の演出です。
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お礼日時:2023/12/18 16:52

太田牛一著「信長公記」の永禄3年5月18日の記載(いわゆる桶狭間の合戦)に有ります。


中川太古の現代語訳によれば、
この時、信長は「敦盛」の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い、鎧をつけ、立ったまま食事を取り、兜を被って出陣した。
とあります。
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お礼日時:2023/12/18 16:52

信長は日頃、幸若舞を趣味としていた事は事実だろうと記録がある。


ただし、人生50年下天・・と唄い舞っていたことは不明です。
その言葉を大事にしていたことも事実ですが、唄い舞うのは記録が無い。

信長の”人生50年”は天界の1日ほどの儚いものとして、
その儚い時に精一杯生きたことと、趣味の幸若舞とは結びつけるのは無理がある。
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お礼日時:2023/12/18 16:52

誰も見た人はいないと思います。

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お礼日時:2023/12/18 16:53

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