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近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。

周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
戦死者って以外に少ないですね。やっぱ一昔前のWW2のような国家丸ごと巻き込んだ総力戦といった感じではなく、支配者層だけの戦いという感じだったんでしょうかね。

武器とかはわかりますがフンドシまでとは・・・。究極のリサイクルですね。

動物による自然処理はちょっと怖いですね。過去の話ですが、農民の方々には供養のほうをがんばっていただきたいと思います。

お礼日時:2007/05/10 11:35

 戦いが終わると、たいがい(近くの?)農民が死体から刀や鎧や甲から、金目の物は全てをはぎ取ったようです。



 それを売り払わないと、農地を荒らされて生きていけないことになるのでやむを得なかった、という一面もあるらしいのですが、とにかく、そういうことなので、誰が誰だか、もちろん敵か味方かなんて分からない状態になります。裸にされれば、同じ日本人ですからねぇ。

 もちろん農民にとっては敵も味方もありません。あえて言えば、田畑を荒らしたにっくき敵。ですが、放っておけば、悪臭、疫病の原因になって、困るのはまた近くの農民です。放っておいて、戻ってきた武士に叱られるのも困る。

 で、穴を掘って投げ入れ(丁寧に入れたかもしれませんが、私は投げ入れたと思っています)、埋めて、たたられないように坊さんを呼んで供養する、というような段取りになったケースが多いのではないでしょうか。

 桶狭間から岡崎のほうへ行く途中で、住宅群の中に、かなり大きな供養塚(史跡)があります。塚というより小山で、頂上付近まで住宅が建っているという感じの規模です。

 そこには「敵味方の別なく供養したんだぞぉ、○○寺の高名な坊さんが読経したんだぞお」と、さも自慢げに、看板に書かれていました。

 そんなぐあいに、本当にどっちかの武将が敵味方の区別なく供養したりすると美談になり、史跡になったりするんじゃないでしょうか。ま、これは単なる想像ですけど。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
供養塚に住宅が建っているというのもすごいですね。
自分も放置しておくと疫病などが発生しそうで、そういった理由でだれかが処理するのかなと思ってました。
昔の人のほうが宗教的思想が強そうなので、たたりを恐れて供養した気もします。

お礼日時:2007/05/10 11:27

>大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?



合戦が終わると、いたる所に戦死体がありますよね。
武将の場合は、家臣が遺体を捜して埋葬したようです。
では、武将以外の兵はどうしたのか?
近くの僧侶と近住の人々が、敵味方の区別無しに傷病者の治療と、戦死者の死体の処理と供養を執り行ったようです。
何処の古戦場でも、無数の塚・供養塔がありますよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
古戦場に行ったことがありませんが、そういった供養塔があるイメージがあります。他の方の意見も同じなので、目的はどうであれ放置ってことにはならないようですね。なんか安心しました。

お礼日時:2007/05/10 11:20

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Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
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Q戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ

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と、素朴に疑問に感じています。 時代考証をしっかり研究した時代劇を見てもそのような描写はほとんどありません。

宜しくお願いします。

例えば戦国時代などで多くの戦いが日本全国で行なわれたと思いますが、その多くは決着がつくまで数週間とか数ヶ月とか時間がかかっていますよね? 特に相手が籠城した時などは長期間にわたる戦いになったように思います。 今と違って結構ノンビリした戦いだったと思います。 その時の兵士の毎日について質問です。

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Aベストアンサー

1基本的には甲冑を着たまま、草むらの上などで寝ます。
ただし長対陣となると、甲冑等は勝手に脱いでるやつが多いです。
またごく一部、上層部の判断で一部のものが脱ぐことを許可することもありえます。

2総大将クラスとなると、近くの小屋や寺などで本営を作り、そこで寝ます。

3基本的には数日分は自弁、あとは現地調達(略奪)です。
よって大軍が一箇所に長対陣すると、大抵食糧不足に陥ります。

ごく一部の大大名になると、荷駄隊を作り本国から食料を送ります。
織田豊臣徳川毛利武田といった面々です。
逆に言えばこうした体制がとれない大名は、遠征能力や長期戦遂行能力が無いといえます。上杉など一見優勢に見える状況での撤退が多いですが、食糧問題があったと考えられます。
ちなみに兵士を支える食料として、1日6合から12合の米を用意します。米以外は結局(手に入れば)現地調達です。

4洗う余裕があれば川や井戸で洗う、基本的には無理となるでしょう。
もちろん衛生的な問題はあったと思われます。

5戦場での病となると武田信玄が有名ですね。基本的には近くの寺などで養生させるか引き返すしか無いです。総大将だとよほど有力な嫡子でもいないかぎり全軍の進軍がストップしてしまいます。
有力武将なら、友のものを連れて寺に残すか送り返します。
足軽となると、近くの寺なり豪農に、多少の金を渡して預けます。
(もちろん本軍が負ければ、落ち武者狩りの対象です。)

医者は連れていきますし多少の薬も医者が持ってるでしょうが、基本的には大将クラスのためのものです。しかも当時は漢方医程度ですから、即効性のある医療ができるわけではないです。後方移送する必要があるかどうかの判断には使えたでしょう。

6連れて帰る余裕があれば連れ帰る、無理なら打ち捨てるか切腹してまわりの者が介錯です。


こういった疑問を本気で解決したいなら、雑兵物語がお勧めです。

1基本的には甲冑を着たまま、草むらの上などで寝ます。
ただし長対陣となると、甲冑等は勝手に脱いでるやつが多いです。
またごく一部、上層部の判断で一部のものが脱ぐことを許可することもありえます。

2総大将クラスとなると、近くの小屋や寺などで本営を作り、そこで寝ます。

3基本的には数日分は自弁、あとは現地調達(略奪)です。
よって大軍が一箇所に長対陣すると、大抵食糧不足に陥ります。

ごく一部の大大名になると、荷駄隊を作り本国から食料を送ります。
織田豊臣徳川毛利武田とい...続きを読む

Q中世の戦などで死亡する武士(兵隊)の数

中世では戦が繰り返されてましたけど、ひとたび戦が始まると、どのぐらいの武士(兵隊)が死んでしまったのですか?

僕は歴史に全然詳しくないので素朴な疑問を感じてたんですけど、戦のたびごとに殺しあいをして兵隊が次々に死んでいったら、どんどん男子が減っていってしまいませんか?

今の少子高齢化なんかまるで比較にならないくらいのペースで人口が減っていって、国が成り立たなくなってしまわないのですか?

Aベストアンサー

するどいご指摘でね、映画やドラマなんかじゃ戦闘の後に戦場では死者が累々と横たわっている描写がよくありますが、私は正直疑問を持っています。

ただ、記録には「○○軍は3万人で凸凹の戦いをして敗北した。死者は2万人になった」なんて残っているのですが、これは少々割り引く必要があります。なぜなら、そういう数字って「大本営発表」だからです。
三国志で有名な赤壁の戦いでは曹操軍は100万人の大軍を動員したといわれていますが、実際に動員した数は諸説あるのですが3万人くらいではなかったかといわれています。それでも当時の常識から考えるとものすごい大軍なんですけどね。一方の孫権軍は実数は多くても3000程度ではなかったといわれているので、「曹操軍が圧倒的多数だった」のは間違いありません。

問題は、致死率なんです。医療レベルが低くて衛生状態がよくなかった昔は負傷してからの致死率が極めて高かったのです。例えば矢が当たってケガをしたとして、そのケガ自体はたいしたものではなくても破傷風になって死んじゃう可能性は結構あったのです。だから、ちょっとしたケガだって危険なんですね。
おっしゃるとおりで、どんどん戦闘していったらどんどん男たちが死んでしまうはずです。だから、実際はいわれているほど死傷者はでなかったのではないかと思います。
特に三国志みたいな銃がない時代の戦いでは、歩兵のほとんどは烏合の衆。「勇猛な武将に率いられているから戦う」のであって、もしその武将が打ち取られてしまえば「こりゃもう逃げたほうがいい」となります。だけど武将は最前線で「俺についてこい!」ってやらないと歩兵たちはついてこないですから、彼らは体を張るのが商売なわけです。今でいうとアスリートだったんですね、武将というのは。

そう、おそらくですが(なにしろ見たことがないので想像するしかありません)案外に昔の戦闘というのはスポーツの試合に近いものではなかったかなと思います。
中世イタリアは傭兵による戦争というのが主流だったのですが、これがなかなか面白いです。
まず、傭兵というのは隊長に率いられているのです。傭兵隊長というのは人足の親分みたいな存在だったわけです。で、ある町に雇われるのですが、このとき人数を「水増し申告」します。本当は5000人しかいないのに8000人とかいうわけです。いちいち数えるのも面倒だからまあそれで受け入れるわけです。
で、戦場に行くと相手も金で雇われた傭兵部隊です。そういう意味では同業同士ですから、朝から夕方までわあわあと槍を合わせるのですが、お互い本気ではやらない。一日中やって死んじゃうのは1人とか2人とかそんな程度です。終わったらエールを交換し、時に隊長同士が握手したというのですから、もうスポーツの試合ですな。んで、雇われた町に帰ってきたら「水増し申告」がモノをいうのです。「8000人の兵士が5000人になったので、3000人分の死亡手当をください」とやるわけです。
こんな馴れ合い(というかもうほとんど談合)をやっていたので、フランスから騎士による軍隊が来てしまうともう戦争にならないほど傭兵なんてすぐ逃げちゃう。だって、死んだら意味ないでしょ。「生きるために傭兵」やってんだから。だからマキャベリとかチェザーレ・ボルジアなんかは「傭兵はダメ。国民軍隊を作らないと」といってたのです。

現代でも、アフガンゲリラ同士の戦闘の動画なんかがたまにユーチューブに出ていますが、あれを見ますとみんな「アッラー・アクバル」とかいいながらてんでばらばらに撃ってるもんですから、日本でやってるサバイバルゲームとあまり雰囲気が変わりません。サバイバルゲームだと命は失わないからみんな死ぬ(弾が当たる)まで戦うけど、もし本当に命を失うならやられる前に逃げてしまいますよ。

するどいご指摘でね、映画やドラマなんかじゃ戦闘の後に戦場では死者が累々と横たわっている描写がよくありますが、私は正直疑問を持っています。

ただ、記録には「○○軍は3万人で凸凹の戦いをして敗北した。死者は2万人になった」なんて残っているのですが、これは少々割り引く必要があります。なぜなら、そういう数字って「大本営発表」だからです。
三国志で有名な赤壁の戦いでは曹操軍は100万人の大軍を動員したといわれていますが、実際に動員した数は諸説あるのですが3万人くらいではなかったかといわれてい...続きを読む

Q戦国時代の戦死者の埋葬は?

関ヶ原の合戦などの後の死者の片付けはどうしていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 死体の処理法としての葬送の儀は古来から、
 (1)風葬 (2)水葬 (3)土葬 (4)火葬
の4つに大別される。
 日本では仏教伝来以前は、カメや石棺などに納める(3)の土葬の1種が行われたいた。
 仏教は(4)の火葬が本義である。釈尊自らがこの方法で葬られた。以来、日本の仏教徒は「火葬」なのです・・・
 ただし、火葬には、経費がかかり、場所の制約があるので、土葬が一般的でありました。(昭和40~50年ぐらいまで)
 例えば、平安時代、疫病などで多数の死者が出たとき鳥辺山などへ放り出した(風葬・鳥葬)のです。
 戦国時代は、やはり火葬が本来なのですが、「首実検」のため、武将の生首が必要で、土葬が行われることも多かったのです。
 ご質問の関ヶ原の戦いでは、ほとんどが放置されていましたが、しばらく後に埋葬(土葬)されました。これが現在の「首塚」として残っています。西首塚、東首塚があります。

参考URL:http://www.ginet.or.jp/sekigahara/kankou/kosen1.htm

Q昔の性交の実態

現代社会では、モラル的な圧力で、第2次性徴が来てもまだ性交適齢期でないとか社会的に未成熟とか言う理由で抑圧しますが、昔はもっと自然に、子供が生める体になったら交わり始める、と言う感じだったのですよね?
でも、女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ、お産については、大変な苦労があったと思います。出産の最中に死亡したり、産後の日だちが悪くて死亡したり、また、生まれて来る子どもも未熟児ですぐに死亡したり、と、苦労?も多かったのが実際でしょうね。

(よもやま話)
(1)ある大名家(判ってはいますが、ここではあえて伏せます)の嫡男15歳に政略結婚で7歳の少女が嫁ぎました。初夜の時に、乳母や女中連中が少女の股を無理やり、押さえつけて、開かせ、姦通させた、という話が残っています。(明らかに「幼女姦」)。
(2)また、男女が共に7~8歳前後で結婚した場合は、夫婦とは名ばかりで、10歳位になるまでは、遊び友だちでした。
(3)江戸の商家の娘になると、自由恋愛は全くと言って良いほどできませんでした。また、商家の娘は「箱入り娘」と呼ばれたように、自由に街中を歩くことさえできませんでした。
(4)現代のようにウインドショッピングを楽しむ場所もありませんでしたから、たまに、小物が欲しいと、街へ出ても、乳母や女中がお供をして出歩きましたので、自由にどこでも行くことは許されませんでした。
(5)では、着物や櫛(くし)、簪(かんざし)などが欲しいというと、大店の丁稚がそうした店へ使いに走り、店からの出張販売でした。
(6)江戸時代を例にとると、儒教の精神が上は将軍家から、下は町人まで、
「男女7歳にして席を同じゅうせず」
でしたので、武家はもちろん商家でも、双方の家柄や財産などを基に、親同士が決めた「許婚(いいなずけ)制度」で、特に、父親の権限が強く、父親の許可なしには結婚できませんでした。
(6)江戸の街には「分一(ぶいち)」と呼ばれる「仲人専門」の職業の人がいました。これは、結納金の十分の一が謝礼として貰えることから、そう呼ばれました。
(7)適齢期の男女を物色し、商家へ縁談を持ち込む。ただし、男は40歳前後まで、女は20歳まででした。となると裏をかえせば、10歳前後の結婚もあった、と言うことでしょう。
(8)「十分一(じゅうぶいち)取るにおろかな舌はなし」
と、狂歌にもよまれたように、「口先三寸」のやり手でした。
(9)また、逆に、将軍家や大名家の大奥では30歳になると「おしとね御免」と言って、夜の相手ができなくなる話はご存じだと思いますが、30歳位で妊娠すると、今度は、医療技術がお粗末だったため、高齢出産となり、母体の安全から子どもを作ることはできませんでした。ただし、町人などは、側室などいませんから、子どもを生むこともありました。
現代でも40歳以上になると、やはり、高齢出産と位置づけられますよね。江戸時代から400年余り過ぎても、医療技術が進歩したとはいえ10歳しか「上限」が上がっていない。
(10)ここには、主に、江戸時代で江戸の街を中心に述べていますが、地方(田舎)も似たり寄ったりでしょう。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ...続きを読む

Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Qお城の生活(戦国時代等)

『江』を見ていて疑問に思った事があります。
お城の中で暮らす人々の部屋には鍵がかかってない
と思うのですが、いろんな人(使用人等)が住む中
盗難等なかったのでしょうか?

お城≒マンション のような物と理解してよいのでしょうか?

お初が後に結婚する人を城内でチラッと見かけた前回の描写から
自分の部屋を出る時は いわゆる部屋着では出れなかったのでしょうか?(誰に会うかわからないから)

Aベストアンサー

 明治時代、ハインリッヒシュリーマン、イザベラ・バードなど日本にやってきた人たちがいろいろな旅行記を書いていますが、旅館の、襖で仕切られただけの部屋でも、全然お金が盗まれないので驚いています。

 どの本だったか忘れましたが、数日間出かけて戻るために旅館の主にお金を預けようとしたら、「お預かりします」と言ってテーブルの上に置くだけだったので、盗まれないのかと聞いたら、「盗まれません」と返事をした。もどってきたら、置いた時とまったく同じようにお金が置かれていた、とか書いてありました。

 誰が泊まるか分からない旅館でさえそうですから、いわんや城内においておや。

 お城は、マンションではありません。質問者さんの家(個人の邸宅)のようなものです。そこへ使用人が小部屋をもらって住み込みで仕事をしているようなものです。

 自分の部屋から部屋着では出られなかったか、という記述はみたことがありませんが、たぶんそうでしょうね。

 篤姫でも、誰かが起こしに行くまで起きないでください、と言われたり、とこに寝たまま髪を梳かれたりしているシーンがありました。あんなものだと思います。

 ただ、城は、殿様の個人住宅兼仕事場ですが、女性たちが住む「奥」はいつでも誰でも行ける場所ではない(徳川時代の江戸城の大奥ほど整った制度ではないようですが)ので、顔見知りのお手伝いさんに対してでもよほど慌てたと思われたくないとか、「女のたしなみ」でそうやっているだけで、誰か知らない人に出逢うから、ということではないように思います(確証はありませんが)。

 明治時代、ハインリッヒシュリーマン、イザベラ・バードなど日本にやってきた人たちがいろいろな旅行記を書いていますが、旅館の、襖で仕切られただけの部屋でも、全然お金が盗まれないので驚いています。

 どの本だったか忘れましたが、数日間出かけて戻るために旅館の主にお金を預けようとしたら、「お預かりします」と言ってテーブルの上に置くだけだったので、盗まれないのかと聞いたら、「盗まれません」と返事をした。もどってきたら、置いた時とまったく同じようにお金が置かれていた、とか書いてあり...続きを読む

Q戦国時代の服装

戦国時代~安土桃山時代の服飾に触れている資料を探しています。武士だけでなく、女性、庶民や僧侶などまで網羅しているものはないでしょうか

Aベストアンサー

やっぱり、このサイトじゃないでしょうか・・・
有名なので、もうご存知かも知れませんが・・・

http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000100


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