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戦国武将は自ら武器を持って最前線で戦ったのですか?
大河ドラマや歴史ゲームでは自ら戦っていることが多いですが
ほとんどがフィクションですよね

でもwikipediaなどを見ると自ら武器を持って戦ったという人を何人か見ましたが
それで、武将自ら最前線に立って敵に討ち取られたら元も子も無いですからね。
高齢で最前線に立てるような体力が無い武将も多かったでしょうけど、若くて猛将で最前線に立った武将も多いのですか?

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A 回答 (12件中1~10件)

 まず、蒲生氏郷は松坂攻めの時に鯰の兜を付けて戦闘で戦っていました。

彼は、戦の時に戦場によくいたみたいです。
あと、井伊直政がいます。彼は本田忠勝に将たる者前に戦うべきではないと怒られていますし、関ヶ原の戦いでは前線に立って戦ったため負傷してその傷のために亡くなっています。前田利家は信長に怒られ禄を取り上げられた時、今川や斎藤との戦の時足軽の身分で戦い手柄を立てて禄を加増されて復職しています。
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こんにちは。


領主レベルで、先頭に立って駆け出す・・・という例が特に珍しかったようではないようです。
というのは、味方の指揮を鼓舞する為にそういう勇ましい姿を見せるのも部下を掌握し奮戦させるテクニックの一つだからです。
但し、その場合、普通は領主をいきなり失ったら家来はいきなり路頭に迷う事になるので、敵陣に突入する前に親衛隊や周囲の軍団が領主の馬の前に出て、領主が真中、一群の家来と兵隊がそれを取り巻く軍団となって突入するので、事実上、領主が直接雑兵と槍を合わせるような事は滅多にありません。

負け戦を除けば、領主が直接チャンバラをやらかした珍しいケースとしては、武田信玄(当時晴信)が父信虎を追放した時、諏訪・小笠原連合軍がこの期に乗じて・・・と攻めて来た時の戦いで、すぐに集める事が出来た100騎ばかりで突撃、数が少ないので本人も槍を振るわざるをえなかったようです。
あと、毛利元就が当主が幼少で後見人として継いだ時、武田信繁を討ち取った戦いは、元就が単騎、川の中に進み出て武勇に誇る信繁に一騎打ちを呼びかけ、出てきた信繁に矢を降り注いで討ち取りました。

あと、実際にチャンバラをやったかどうかは不明ですが、関が原の合戦で、当初、石田側が結構優勢で業を煮やした家康が、あつらえた南蛮具足を吊るして至近距離から鉄砲で試し打ちを行い、貫通しない事を確認して着用し、自分が先頭にたって親衛隊を率いて突撃しています。
#この時の南蛮具足は現存しています。

あとは、先の上杉謙信の川中島でしょうね。
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のちに92万石の大大名になった蒲生氏郷ですが、みづから立たねば兵は動かぬという信念の猛将で、鎧、兜に弾、矢、槍疵を何度も受けましたが無事でした。


事前に状況をよく把握して、大きな危険のない時の行動でした。
総大将が死ねば部下に大きい不幸をもたらすことを知っていました。
猪突猛進は大名では稀で、侍大将には多いのです。
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戦国時代に、武士が、武勲を立てようとがんばるのは、武勲を立てれば、褒美をもらったり、領地をもらったりできるからです。


誰からもらうかというと、主君からです。
この主君が死んでしまっては、領地も褒美ももらえませんよね。
だから、家来は、必死で主君を守ろうとするし、主君が実戦を避けるのは、家来に対する責任でもあったわけです。

もちろん、味方が総崩れになれば、主も戦わなければならなくなりますが。
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織田信長という人は勝てるという状態に準備してから合戦に挑むように心がけています。

彼は先頭に立って戦うよりも、ピンチになれば真っ先に逃げることの方が多いようです(金ヶ崎など)。しかし、必要とあれば先頭にたって突進することも否みません。本願寺勢の包囲で明智光秀らがピンチになったときは兵が集まらない状況でも真っ先に駆けつけて足に銃弾を受けています。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>戦国武将は自ら武器を持って最前線で戦ったのですか?

まず、分かりやすい例をお話しましょう。
織田信長が戦をする時は、確かに、織田信長本人は、陣幕の奥で指揮を取ったり、信長自身は出撃もせずに、命令だけを下したりしますが、その部下である羽柴秀吉や柴田勝家、明智光秀などは、前線に出陣します。しかし、これらの部隊を指揮する羽柴秀吉や柴田勝家にしても、自分の部隊の中では、やはり、後方から指示を出します。最も最前線で戦うのは「雑兵たち」の働きによるものです。
でも、その部隊が劣勢になり、部隊の指揮官まで押し寄せて、指揮官である本人も戦い、最後には指揮官も首を取られる・・・と、いう場合も多々あります。
有名なところでは、明智光秀は信長を倒しましたが、その後、自分の部隊の結束が整わない間隙をついて、秀吉に負けてしまいました。
また、柴田勝家も賤ガ岳の戦いで破れ、敗走し、自分の城である越前北庄で自刃していますね。

また、武田信玄と上杉謙信の「川中島の戦い」で、上杉謙信が武田軍の隙をついて、信玄に馬で近づき刀を振り下ろし、信玄は軍配で、それを払った。と、いうのも有名ですよね。

まあ、総大将は、それらの家臣たちに戦わせ、家臣はそのまた家臣たちに戦わせ、と、「ドミノ形式」で、家臣たちのすべてが討ち取られた時は、最後の砦として、総大将自ら戦わざるを得なかった、と思います。
ただし、家臣たちのすべてが敗れた場合の多くは、敗走しますが、「もう逃げ切れない」と分かると、大概は部下を逃げさせ自分は自刃をして、戦いの終結をします。武田勝頼が良い例でしょう。

>>高齢で最前線に立てるような体力が無い武将も多かったでしょうけど

総大将がすでに高齢だったりした場合は、嫡男を総大将に任命して出陣させました。
また、元亀3年(1572)に武田信玄は京に昇らんとして出陣するも、三方原で徳川家康軍に阻まれ、戦となりましたが、その戦の最中に「病」となり、戸板に乗せられたまま陣中を右往左往し、最後には「死」で、武田軍の敗北が決まりました。

従って、「結論」を言えば、あなたの言われる通り、総大将が死んだら、もう、その戦は「敗北」です。
しかし、桶狭間の戦いでは、織田信長本人が先頭に立って今川義元を討っていますよね。
もっとも、その頃の織田家は、一地方の豪族でしかなかったので、家臣や家来たちも多くはおらず、そうした「暴挙」に出たのでしょうね。
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>武将自ら最前線に立って敵に討ち取られたら元も子も無いですからね。


 それは、ごもっともで大将クラスは出来るだけ、直接戦いに参加しないよう最善の努力をするのですが、無線等が無い戦国時代には、結局のところ指揮官たる大将の目が届く範囲の部隊の指揮しか取る事が出来ません。
 (より広範囲で作戦活動を行う為に、関が原の徳川秀忠の部隊のように、指揮権を完全に分けた部隊を作るという手も有りますが、肝心な所で遅参して戦闘に全く関与していないような羽目に成る事もあります。)

 目の届く所というと、せいぜい半径2~30Km程度が戦場の範囲になりますから、機関銃の無い時代には、敵が決死の覚悟で突撃してきた場合、数に任せて取り囲んで皆殺しにでもしない限り、突撃をとめる事が出来ず本陣への突入を許してしまう事もあります。

 大阪の夏の陣の「天王寺・岡山の戦い」は、この極端な事例で、徳川側が圧倒的に有利な体制で有りながらも、最後尾にいた徳川家康・秀忠の両本陣へ豊臣方の突入を許しています。
 特に三度も本陣へ突入され戦闘に巻き込まれた家康は、敵に討たれる位なら自刃すると覚悟を決めたくらいです。(秀忠は槍を持って敵陣への突入を実行する決意をしています)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B% …

 中世レベルの合戦では最高指揮官(大名 or ヨーロッパだと国王クラス)が自ら武器を取って戦い、結果として戦場で討たれる事例はさほど珍しくありません。(イングランドのハロルド2世やリチャード3世、スウェーデンのグスタフ2世アドルフなど)

 ちなみに今川義元は信長公記では、桶狭間の戦いで信長の馬廻の一人の服部一忠に斬りかかられるものの、逆に服部の右ひざを斬って負傷させ引き下がらせていますし、次に向かってきた毛利新助と乱戦になり、組み伏せられています。(改正三河後風土記では、この時毛利伸介の左の指を喰い切ったと伝えられています。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD% …

 結局の所、可能な限り自ら戦うような事は避けるのですが、不測の事態が発生して、戦わざるを得ない状況になる陥る事がまま有ったという事でしょう。
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私なりの解釈ですが、、



<前提1>
武将は個人商店の社長みたいなものです。
一人でやっている事はほとんど無く、家族や、独立していない兄弟や親戚や下働きの人も含めて一騎です。


<前提2>
大将クラスでも規模の大小はあれど個人商店である事に変わりはありません。
大会社が自分のところで一括請負みたいな中央集中型の戦闘組織ができるのは明治になってからです。

大きな仕事をする場合、元締めはしますが、仕事は別の複数の個人商店を下請けにして仕事をし、直接自分の会社で仕事をする分は全体の1割にも満たない感じです。
直接的な仕事の大部分は、複数の下請け社長がそれぞれ行います。

そして、その複数の下請け社長の下には寄力といわれる孫請け会社がいます。
この孫請け会社の社長レベルまでが武将といえる人です。


<前提3>
会社で何か商品を開発しても、「○○さんが新製品を発表」と認知されるのではなく、「○○社が新製品を発表」と認知されるように、自分の槍で突こうが、部下がやろうが実績は全て武将が倒した事になります。
よほどカリスマ的な働きをすれば、個人の名が轟くでしょうが、そういうのは稀です。


<前提4>
一騎駆けという言葉があります。
でも、武将が一人で馬に乗って駆けるというような頭の弱い行動はありえません。
武将が一人で馬に乗っていれば、それを囲むように徒歩の兵もいれば、替えの馬を引いている人も、荷物持ちもいます。
(散り散りに敗走する場合は一人で駆けるかもしれませんが。)

タイマンでなくても、ある武将の集団とある武将の集団が対決しても一騎討ちと言えます。


<結論>
零細な企業ほど、社長が自ら働くように、戦国武将も零細な集団(武将と呼べない小規模)ほど自ら槍を振るう事になります。
(でも基本的には武将の仕事は槍を振るうのではなく部下を監視する事です。)

また若い武将ほど零細な集団である事が多いので、必然的に自ら槍を振るう機会は多くなるでしょうし、
そこで活躍して生き残った人だけが出世する訳ですから、若い頃に最前線に立った武将も多くても不思議ではありません。
しかし、それは直接自分の手でやったものか、手兵がやったのかは特に区別されません。
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そうですね、偉くなってから前線で槍を振るうというのはないでしょうけど、若い内から後ろでふんぞり返っているってこともないでしょうね。



例えば大河ドラマにもなった、山内一豊などは、若いうちに顔に矢を受けていますよね。
天下人にもなった羽柴秀吉だって、最初は足軽雑兵ですから、当然最前線で槍を振るっていた。

それぞれの役職で行動が違うのは当たり前で、浪人ものや足軽あたりは後で偉くなるかも知れないけれどもこの時点では当然最前線。
戦功を挙げて偉くなっても足軽大将程度なら指揮を執りつつ槍を振るう事もあるでしょう。
しかし、軍議に参加するほどにもなって最前線で槍を振るうのもないでしょう(よほどの負け戦ならいざ知らず)。

戦国時代、下剋上の天下ですから一生最前線に立った事もない武将は少数派で、多くの戦国大名は多かれ少なかれ戦場での経験があるでしょう。

最前線での修羅場をくぐり抜け、それでいて部隊の指揮も出来る。そう言うある種超人的な武将でなければ、なかなか部下はついてこないでしょう。何しろ文字通り命がけなのですから、後ろでああせいこうせい言うてるだけではなかなか・・・。
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武将というのはどういう立場を想定しているのでしょうか?


一国一城の主ですか?足軽大将くらいまで含むのなら、敵前に立つのは当たり前ですけど。

ちょっと前提がよく分からないので一般論でいいますと
社員が何千人もいるソニーとかの大きな会社に置き換えればいいのです。

普段、社長、ないしは高級武将に相当する重役は表に出てくることはあまりありません。
窓口や雑用は部下にまかせればいいからです。
それでもお家の危機のときは社長自らが陣頭指揮を取らねばならないときもあります。
会社が潰れそうなとき、社長などの重役が身を挺して頑張れば志気は盛り上がります。
こういう人間力学みたいなところは時と場所を変えてもあまり変化がありません。

では、通常部下をたくさん持つ武将の立場はどうでしょうか。
普通、部下はその大将が力があればあるほど部下も恩恵を受けます。
ところが大将がいなくなれば、権力者がいなくなるのですから、
他の大将の部下より立場が下になってしまいます。おそらくいじめられます。

だから部下が大将に無茶な真似をさせようとはしません。
ですが、主力大名同士が衝突するような大きないくさでは戦場に出ないわけにはいきません。
どんなに高級な武将でも、職業軍人である以上、戦わねばならない時があるからです。
このような戦場でどのように戦うかまでは、その人物の生き様でしょう。

人間関係を背景にその人物の採るべき立場を考えると
戦場における位置というものが朧げに浮かんできます。
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Q戦国時代の強い武将は本当にその人が強いの?

こんにちわ。ふと、ゲームをやっていて気になったので質問します。
よろしくお願いします。

よく、アニメやゲームなどで、武将が先頭で敵陣に突っ込んでいくシーンを見かけるのですが、実際の戦闘方法というのは本当にあんな感じだったのでしょうか?

日本の戦国時代にしろ、中国の戦国時代にしても強い武将というのは、一人で100人を倒すみたいなイメージがありますが、本当にそのようなことをした場合すぐに死んでしまうと思うのですがどうでしょうか?

大の大人が10人も集まれば一人くらいやっつけられそうなものです。

やはり、ゲーム等にでてくる武力が強い武将というのは本人が強いではなく、その軍団が強いだけなんでしょうか?統率がとれているとかみんなが死ぬ気で戦っているとかそういう意味なのですか?

実際、武将達は一番後方で戦いを指揮して親衛隊に守ってもらっていたからなかなか武将は死なないのではないか?

そう思ったので質問してみました。

誰か戦国時代の戦闘方法を知っている人、ご教授よろしくお願いします。
一騎当千とか絶対嘘だと思うんです。

こんにちわ。ふと、ゲームをやっていて気になったので質問します。
よろしくお願いします。

よく、アニメやゲームなどで、武将が先頭で敵陣に突っ込んでいくシーンを見かけるのですが、実際の戦闘方法というのは本当にあんな感じだったのでしょうか?

日本の戦国時代にしろ、中国の戦国時代にしても強い武将というのは、一人で100人を倒すみたいなイメージがありますが、本当にそのようなことをした場合すぐに死んでしまうと思うのですがどうでしょうか?

大の大人が10人も集まれば一人くらいやっ...続きを読む

Aベストアンサー

これは時代によります。
日本でも戦国時代後期になれば、銃の普及により前線で武将が指揮を取る危険度が大幅に上がり、前線で華々しく戦うのは無理になっていきます。
しかし飛び道具が発達する前は、武将が前線で戦うのは重要な要素でした。
例えば有名な項羽は前線で激しく戦い、最後の戦いとなった垓下の戦いでは一日で漢の指揮官だけで60人あまりと交戦したという、ちょっと信じがたい記録が残っています。
当時の戦闘では雑兵の殆どは雇われ兵で「命をかけて戦う」理由は殆ど無いため、自分たちの指揮官が打ち負かされると、戦意をなくして逃げ出してしまうのが普通でした。
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これは時代によります。
日本でも戦国時代後期になれば、銃の普及により前線で武将が指揮を取る危険度が大幅に上がり、前線で華々しく戦うのは無理になっていきます。
しかし飛び道具が発達する前は、武将が前線で戦うのは重要な要素でした。
例えば有名な項羽は前線で激しく戦い、最後の戦いとなった垓下の戦いでは一日で漢の指揮官だけで60人あまりと交戦したという、ちょっと信じがたい記録が残っています。
当時の戦闘では雑兵の殆どは雇われ兵で「命をかけて戦う」理由は殆ど無いため、自分たちの指揮官...続きを読む

Q戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ

戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ広いようなところで敵味方混ざりながら戦っていたんですか?
戦国時代がかかれた映画とかゲームとか見るとそんな感じでかかれていますが

Aベストアンサー

何とも言えませんが・・・そうですね、自然に考えれば戦闘の際は現在の科学戦法と違い、真っ向勝負が基本だった事が「何々合戦図屏風」なんかを見れば、分かります。敵味方入り乱れて背中に自分の軍である幟を背負い目印にし、ワーワーやっていたんだろうという事は想像に難くありません。大声を上げるのは「自分を鼓舞」するのと「相手を威圧」する効果があるので、「おりゃ~」「きさま~」「死ね~」「お前らの負けじゃ~」とか言いながら戦闘してたんでは無いですかねぇ。それが入り混じれば、ワーワーとしか聴こえないので、12noname34さんが疑問に思っている事は正しいと思いますよ。

Q一夫多妻や一妻多夫が日本で認められてない理由ってなんですか?

一夫多妻や一妻多夫が日本で認められてない理由ってなんですか?


歴史的にみると昔は一夫多妻の制度はありましたが、今は普通にそのようなことを望む人はいないからですか?

Aベストアンサー

まずは一夫多妻の合理性を述べましょう。

一夫多妻は原始的な女性に対する福祉制度なのです。
女性に対する差別や従属的なものをまず初めに浮かべる方が多いのですがそうではありません。寧ろ逆なのです。
それが文化だから!と頭ごなししに言われても納得が行かない人はおおはず。それなりの現実性と合理性があります。

・一夫多妻を行う理由の一つとして「戦争」があります。
原始から、部族間の戦争で男達が死にました。
さらに狩での事故や獣に殺される危険もあります。

・二つ目は寿命が短かったこと
昔の平均年齢は二十歳を超えていません。多く生まれ多く死んでいくわけです。そして何時、病気にかかり夫が死んでもおかしくは無いわけです。
そんな世界では一生を共に添い遂げる可能性など寧ろ低いのです。


一人残された女性はどうなるでしょうか?差別や現金収入を得にくい環境で晒されながら子供を育て、働いていく人もいるかもしれませんが、飢え死にしたりする者も多かったのです。

一夫多妻制では、一人の有力な男に性関係と家事という労働と引き換えに養ってもらうことができます。

さらに女性にとって家事を分担できるため非常に楽です。
とても家事の巧い女性がいた時、第一夫人からの推薦で第ニ夫人、第三夫人を招き入れることもあるようです。



本題に入りましょうか。

日本のように明日の飯に困ることもなく、病原菌にあふれてもいない国で、
砂漠国家のように驚異的自然に囲まれており炎天下に放り出されれば間違いなく死ぬという事もない国
明日、獣に襲われたり、隣町との抗争に巻き込まれて死ぬ可能性のないよう文明が進んできた国々

そのような国では女性が一人でも生きていけるので男性に無理に付き従うことがなく、自然に権利も大きくなっていき一夫一妻になって行くわけです。

つまり現代日本では一夫多妻は
社会的に必要とされていないし合理性も無い。


一夫一妻の国々では未亡人を「キズモノ」とか「純潔が既に無い」とかそういう扱いになってしまいますね。残念なことに。


ちなみに日本は大昔は自然に恵まれ人口が500万人程度であれば田畑など耕さなくても野山に行き芋や山菜や果実をとって生きていけたわけです。

そのような国々では女が定住地として家を持ち男は蝶のように自由に飛び回っているという母系国家が形成され、子供は女性が養うもの、財産も女性に付くものでした。結婚と言う取り決めは無く。
彼氏、彼女位の恋愛関係ですね。しかし今のように町にデートに行くような関係ではありません。

女性は多くの男性と関係を持ち、男は種を付けに夜這いに来るわけです。
短歌や笛などを吹いて女の家に入ってもよいか確認をとる時に読まれるような句が今でも教科書に載ってますね。あれは短歌集というと堅苦しいですが、口説き文句集といっても過言ではないもので昔の人々はセックスをするために一生懸命短歌を勉強したわけです。

日本では廃れましたが国によっては現代でもそういう文化は残っています。


一夫一妻は現代の貞操観念を強調した宗教感によるものでもあります。
それを気にしすぎて逆に心を痛めてしまうこともありますし、一長一短ですね。
南米のある部族ではセックスは特定の相手を決めるものではなくスポーツ感覚で楽しむものであり。子供は村全体で養うものという考え方があったようですがキリスト教が入りこみ貞操観念が付いてからはなくなってしまったようです


セックスと結婚の形態はその国々の事情にあっているという事です。
脱線が過ぎましたね。そういう事です。

まずは一夫多妻の合理性を述べましょう。

一夫多妻は原始的な女性に対する福祉制度なのです。
女性に対する差別や従属的なものをまず初めに浮かべる方が多いのですがそうではありません。寧ろ逆なのです。
それが文化だから!と頭ごなししに言われても納得が行かない人はおおはず。それなりの現実性と合理性があります。

・一夫多妻を行う理由の一つとして「戦争」があります。
原始から、部族間の戦争で男達が死にました。
さらに狩での事故や獣に殺される危険もあります。

・二つ目は寿命が短かっ...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む

Q武田騎馬隊は存在しなかった???

「武田騎馬隊」は有名です。
武田騎馬隊というと、私は黒沢明の映画「影武者」のラストシーンで登場する武田騎馬隊を想像します。

しかし、最近、武田騎馬隊は存在しなかったという説をよく聞きます。
武田騎馬隊どころか、戦国時代には純粋な騎馬隊は存在しなかったと言われています。

調べてみたところ

1、武田軍は騎馬隊の内訳は山県昌景300騎、馬場信春500騎など、主だった武将の騎兵数を合わせても約4000騎、出来うる限り多く見積もっても約6000騎であり、武田軍1万3千人のうち半分ないし2/3は歩兵であると思われる。
従って、中国において元を建国したモンゴル軍や、一の谷の鵯越や屋島の疾駆奇襲でしられる源義経のように、騎兵のみで部隊を構成したという事実はない。
また、武田軍には騎兵の最大の特徴である「機動力」を生かした作戦が見受けられない。
つまり、武田騎馬隊は実質的には騎兵・歩兵混成部隊であると言える。

2、イエズズ会のルイス=フロイスがヨーロッパに書いた『日本覚書』によると、
「われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。 われらの馬は非常に美しい。日本のはそれよりずっと劣っている。」 とあります。

3、『甲陽軍鑑』によると
「武田家の大将や役人は、一備え(千名ほど)の中に、7人か8人が馬に乗り、 残りはみな、馬を後に曳かせ、槍をとって攻撃した。(巻6品14)」 とあります。

やはり武田騎馬隊は存在しなかったのでしょうか???

「武田騎馬隊」は有名です。
武田騎馬隊というと、私は黒沢明の映画「影武者」のラストシーンで登場する武田騎馬隊を想像します。

しかし、最近、武田騎馬隊は存在しなかったという説をよく聞きます。
武田騎馬隊どころか、戦国時代には純粋な騎馬隊は存在しなかったと言われています。

調べてみたところ

1、武田軍は騎馬隊の内訳は山県昌景300騎、馬場信春500騎など、主だった武将の騎兵数を合わせても約4000騎、出来うる限り多く見積もっても約6000騎であり、武田軍1万3千人のうち半分ないし2/3は...続きを読む

Aベストアンサー

いつの時代でも馬を常備するのはかなり大変な負担です。
それにモンゴルや近代騎兵部隊のイメージから想像しがちですが、そのような騎馬隊は戦国時代存在しなかったと見るのが妥当だとおもいます。
馬は高価で相当な身分でないと常備できないし、部隊編成上その数も限られていました。

ただ武田家では乗馬歩兵として機動力を利用するシステムは存在していたのではないかと思います。
上杉氏との戦いで敵の侵攻を狼煙により伝達し動員令を待たずに直ちに北に向かい集結するシステムなどは当時の軍編成に時間がかかった事を思えば画期的だったと思います。

モンゴル兵の場合は、各人数頭の乗り換え馬を従え、馬糧の豊富な草原を移動するし、生まれたときから乗馬に鍛錬していたのと、馬上戦が得意でしたから高速で移動し攻撃できましたが都市や城塞を攻撃する場合は歩兵として戦いました。  また征服した土地の住民を歩兵として使用したのです。

騎兵の主任務は敵の側背を急襲、包囲するか敵陣を乱すものでそれにより勝利を誘引する事で、主戦力は歩兵にあります。
日本の戦国時代このような用兵は見あたりません。

日本馬は体格も貧弱で積載重量も少ないので機動戦には不向きでした。
騎兵突撃の衝撃力を期待出来ず、馬の防具も考えていませんでしたから、敵が長槍で防御陣を作れば乗馬突撃は自殺行為でした。
有名な伊達の騎馬鉄砲隊も敵前で停止、銃撃すると後退するもので突撃はしなかったのです。

いつの時代でも馬を常備するのはかなり大変な負担です。
それにモンゴルや近代騎兵部隊のイメージから想像しがちですが、そのような騎馬隊は戦国時代存在しなかったと見るのが妥当だとおもいます。
馬は高価で相当な身分でないと常備できないし、部隊編成上その数も限られていました。

ただ武田家では乗馬歩兵として機動力を利用するシステムは存在していたのではないかと思います。
上杉氏との戦いで敵の侵攻を狼煙により伝達し動員令を待たずに直ちに北に向かい集結するシステムなどは当時の軍編成に時間...続きを読む

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q生理直後の中出し

生理が終わった直後に
中出しされたんですが
妊娠する可能性は
低いのでしょうか
高いのでしょうか

人それぞれ
違うと思うんですが
大体一般的には
どの位の可能性があるんでしょうか

詳しい方
ご回答お願いします

因みに
生理は毎月
大抵17日~23日の間にきます

Aベストアンサー

妊娠確率は、「生理が終わった直後かどうか」ではなく、「排卵日に近いかどうか?」が重要です。
排卵は、次回生理開始の12~16日前(平均14日)です。

質問主さんの場合、周期が17~23日とかなり短いので、生理3~8日目くらいで排卵している可能性が高いですね。
妊娠しやすいのは、排卵前3日、あと24時間程度ですので、質問主さんに限って言えば、生理の日数にもよりますが、
「生理直後は、最も妊娠しやすい時期である」と言えます。
人間女性の妊娠確率は、最大で20~30%です。
(生理周期が女性平均の28日前後の方は、生理直後は排卵日から遠いので、妊娠しにくい時期です。)

ただし、生挿入の中だしはもちろん、いわゆる安全日でも、外だしでも、少しだけしか挿入していなくても、コンドームをしていても、したあと膣を洗っても、
  『 セックスをすれば、いつでも、妊娠する可能性はあります 』
挿入しなくても、精液やカウパー腺液(がまん汁)のついた手で女性器を触れば、妊娠する可能性があります。
性行為をして、妊娠の可能性を0%にすることは、できませんよ!!

「コレコレすれば大丈夫」などというのは、避妊の知識がない人にしか言えません。
女性にとっては、少しくらい確率が低くても、結局「妊娠する」「しない」の五分五分でしかないのです。
確率1%でも、3日に1回セックスしたら、1年で妊娠するかもしれないです。

ちなみに、10代の女性が妊娠した場合、妊娠出産が原因で死亡する確率は、20~30代女性の5倍です!
若い方の安易なセックスは、できちゃうかもしれない子どもの命だけでなく、貴女も死ぬ事になるかもしれません!!

数字で言えば、コンドームを普通に使って100組の妊娠可能な健康な男女が1年間排卵日付近にセックスした場合、だいたい14組が『妊娠します』
知識をもって理想的にきちんと使った場合で、3組が妊娠します。
コンドームは元々あまり避妊確率が良くない上に、理想的な使用方法を知っている人は少なく、間違った保管方法や使い方で避妊確率を下げてしまいやすいです。
 (コンドームの使用法解説例 http://www.jfshm.org/std/condom/men/index.html)

「低用量ピル」という産婦人科で月2000~3000円ほどで処方してもらえる避妊薬を女性が毎日飲むと、同じ条件でだいたい0.1組が妊娠します。
コンドームとピルは、確率が2桁違い、ピルはより避妊効果の高い避妊方法と言えます。
「妊娠したら困る」という女性が性行為をする場合には、ピルの服用を強くおすすめします。未成年でも親にバレずに処方して貰えます。
(ピルには「気持ち悪くなる」等の副作用がありますが、いくつも種類があり、自分の体質に合った種類のピルを飲めば悪い副作用は最低限になり、かえってお肌がツルツルになる生理痛が軽くなるなどの良い副作用もありますので。
処方して貰ったピルが合わないと感じた時は、産科医に相談して種類を変えて貰いましょう。)

なお、ピルを服用した上で、性感染症や子宮頸ガンなど「性行為による感染で発症する病気」の予防の為、また妊娠確率を更に下げる為に、コンドームを併用する事をオススメします。
生でセックスすると、女性はガンになりやすくなります!
(子宮頸がんは不特定多数とのセックスが原因だというデマもありますが、1人の人と1回しかセックスしていなくても、生で挿入すれば可能性はあります。)

避妊しないでセックスしてしまった、コンドームが破れたなどの場合には、72時間以内(なるべく早いほうが効果が高い)に産婦人科で「モーニングアフターピル(緊急避妊薬)」というのを処方してもらって飲むと、妊娠する確率を大きく下げられます。
ただし、毎日低用量ピルを飲むよりも避妊確率は低いですし、かつ副作用も大きく、値段も高くなりますので、あくまでも緊急用ですけど。

今回、まだ72時間以内でしたら、一刻も早く産婦人科へ行き緊急避妊してください。

避妊について:
http://www.jfpa-clinic.org/
http://www.hinin.info/
http://children.nemachinotsuki.com/love.html

ピルについて:
http://finedays.org/pill/

妊娠確率は、「生理が終わった直後かどうか」ではなく、「排卵日に近いかどうか?」が重要です。
排卵は、次回生理開始の12~16日前(平均14日)です。

質問主さんの場合、周期が17~23日とかなり短いので、生理3~8日目くらいで排卵している可能性が高いですね。
妊娠しやすいのは、排卵前3日、あと24時間程度ですので、質問主さんに限って言えば、生理の日数にもよりますが、
「生理直後は、最も妊娠しやすい時期である」と言えます。
人間女性の妊娠確率は、最大で20~30%です。
(生理周期が女性平均の28日前後...続きを読む

Q家康はなぜ島津を処分出来なかったのか?

関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。
宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました

しかし家康は関ヶ原で勝った立場です
島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう?
確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き
戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。
もしや家康はビビったのでしょうか?


関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後
幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

Aベストアンサー

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の要請で伏見城の守備に就こうとして妨害されたので、やむなく西軍に付いたということを述べたのです。そのあと2年間も交渉は続いたのですが、結局、慶長7年(1602)家康が折れる形で起請文を書き、本領が安堵されました。義弘の息子の忠恒(家久)が上洛して謝罪し、これで島津家は徳川幕府の統制下に入るのです。

結局、この交渉が長引いたために家康は征夷大将軍宣下が遅れたのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の...続きを読む

Q戦時中に最前線に投下されて、生き残った兵士っていま

戦時中に最前線に投下されて、生き残った兵士っていますよね。突撃ー!と隊長が言って、突撃しますよね?突撃しなかったら、身内に刺されて死にますよね。どうやって、突撃ー!と言われて、確実に死ぬであろう敵からの集中砲火の鉄砲玉を奇跡的に除けて、周りがバタバタ死んで行く中で、敵陣まで生きて辿り付き、そして全勝出来たのでしょう。

戦争で最前線で戦っていたという旧日本兵のおじいちゃん方はどうやって、最前線をくぐりぬけたのか知っていたら教えてください。

日本が戦争になったら参考にしたいです。戦場から逃げたとか通信兵で後方部隊だったとかはNGです。最前線で戦って生き残った人のどうやって生き残ったのか知りたいです。

Aベストアンサー

 父の友人で、フィリピン戦線で戦った人の話を記載します。

 アメリカ軍の陣地に対して、夜間攻撃を行って占領するという命令を受け、その人の所属する小隊(50名程度であったそうです。)も、夜の闇にまぎれて匍匐前進して200メートル位まで忍び寄り(それ以上はサーチライトが照らしていて、見つからずに接近できそうもなかったそうです。)、夜明け前に「突撃ー!」となったそうですが、とたんに米軍陣地から猛烈な機銃掃射が始まり、照明弾も打ち上げられて、地面の窪みに這いつくばったまま、前進も後退も出来ない状態になってしまったそうです。

 明るくなる前に、点呼があり、這いつくばったまま17人が返事をして、「結構生き残っているな。」と思ったそうです。

 それから明るくなり、熱帯の直射日光の下で、死体に混じって動かないようにしていたそうです。
 日中、太陽の下で、何か動きがあると感じられた場所には、米軍陣地から機銃掃射が何度も容赦なく行われるので、ずっと地面の上に転がっていたそうです。
 そして、日が沈み、夜になってから少しずつ後退して、日本側の塹壕まで戻ったそうです。
 無事に塹壕まで戻ってきたのは、結局8人だったそうです。

 父の友人で、フィリピン戦線で戦った人の話を記載します。

 アメリカ軍の陣地に対して、夜間攻撃を行って占領するという命令を受け、その人の所属する小隊(50名程度であったそうです。)も、夜の闇にまぎれて匍匐前進して200メートル位まで忍び寄り(それ以上はサーチライトが照らしていて、見つからずに接近できそうもなかったそうです。)、夜明け前に「突撃ー!」となったそうですが、とたんに米軍陣地から猛烈な機銃掃射が始まり、照明弾も打ち上げられて、地面の窪みに這いつくばったまま、前進も...続きを読む


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