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卑弥呼=アマテラスから考えると、アマテラスをまつった伊勢神宮は卑弥呼の墓と考えられないでしょうか?神武天皇が「天照大神はその光を我になげかけ我を助けたもうた。今、賊を平定し海内は平穏である。高天原の神をまつり、孝道を行おう。」といって、とみの山で祭りを行い高天の原の神をまつったという日本書紀の記述は、神武が高天の原(九州の卑弥呼の墓)から祖先神である卑弥呼を畿内に移したのではないでしょうか?伊勢神宮の式年遷宮とはそのことを儀式化したものではないのでしょうか?

A 回答 (8件)

>卑弥呼=アマテラスから考える



同一とは違うのでイコールで考えてしまうと間違います
卑弥呼は神に遣えるシャーマンとして生きていたようですが人間です
神様の言葉を受けて政をしていた方です。


天照大神様は時代が卑弥呼よりさらに昔、神代の時代の神話に出てくる神様です
人間が生まれる前に産み落とされたはずです。

伊勢神宮の式年遷宮の意味は永遠の続くと言う意味があるかと思います
http://www.sengu.info/qanda02.html

残念ながら前提が違います。
日本書紀は書き直され後から出たものなので古事記を読まれるといいかもしれません。

以上ご参考に
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ありえないですね



祟神天皇の時に疫病が蔓延して大物主の神を祭ったのが始まりです
伊勢神宮はその後に天照御大神も祭ろうとして垂仁天皇が皇族である巫女である倭姫命に選考の地を一任したのが始まりです

伊勢神宮は垂仁天皇が巫女である倭姫命に選定させて始まったのです

ですので、ここでは既に卑弥呼なんてどこにも出てきません
伊勢神宮でもそのように伝えられています

ちなみに天照御大神は女性です
古事記にも日本書紀にもその他の文献にもそう記してあります
当たり前すぎてそれに疑問の余地を挟む人は今までいませんでした

ただ平安末期の武士の台頭や仏教による男系社会(仏教では女性は低い身分の卑しいものとしてみなされる)が強まると偉い神様を女性のままにしておくわけにはいかないと捏造が開始されたのです

だから彼らが身分制度の成り立たせる上で都合の悪い女神を男性化したのです
それだけです
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返礼ありがとうございます。


邪馬台国についてお話するのは楽しいですね。
このたびは貴重な意見を下さいましてありがとうございました。

>古代の天皇の平均在位期間が10年
これは安本美典氏の説ですね。本で読みました。
しかし、古代の天皇の中には実在性が疑われる天皇がいます。
天皇一代平均在位年数約十年説はこれをどう考えるか、という問題をクリアーする必要があると思います。
また、天皇一代平均在位年数約十年説は絶対的なものではないと思います。
箸墓の築造年代からのみ箸墓が卑弥呼の墓だとはいえないのと同じで
総合的に考える必要があると思います。

あと、高天原の問題もありますね。
奈良県御所市にも高天原があります。とみの山はニギハヤヒが天下ったとされる山ですね。
大阪府交野市に磐船神社があります。ここがニギハヤヒの天下ったところなのだそうです。
畿内説では高天原は九州ではなく、御所市を取っていると思います。

質問者様も物部王朝説を支持なさっているのですね。
ところで畿内に九州甘木地方と大変似た地名があります。
安本氏はここから邪馬台国は九州甘木地方としておられたと思います。
私見では物部氏が住んでいたのが九州甘木地方で
そこから畿内に移動してきたのではないかと思っていますが、
このあたりをどう考えるか、ということもポイントになってくるでしょうね。

卑弥呼の墓は円墳であって前方後円墳ではないといわれますが
橿原考古学研究所の川上邦彦氏は中山塚古墳の前方部と後円部の石の積み方が異なっていることから
前方部と後円部の築造年代が異なる、箸墓にも同じことがいえる、と主張しているようです。

また魏志倭人伝には卑弥呼には夫がないと記されていますが、トヨは卑弥呼の宗女であると記されています。
「宗女」とは「嫡出(正統の血縁)である娘」という意味なので
卑弥呼の娘だとも考えられると思います。

ご指摘いただいた
●平均在位十年説
●高天原の所在
については、私も明快な答えが出せていません。
九州説についても再度振り返ってみるなどして考えてみたいと思います。
ありがとうございました。
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卑弥呼が知られたのは三国志によってです


日本にはそのような遺跡も記述もありません
現在そうだと云われている遺跡や記述はすべて三国志に合致しそうなものを選択されているに過ぎません
合わないものや都合の悪いものは排除されています
親魏倭王の金印が発見されれば卑弥呼の存在が事実だと証明されるでしょう
卑弥呼、天照大神、じんぐ皇后 これらを同一人物とする説もあり時代的に全く合わなくなります
はっきりしないことなので個人の想像に任せればいいのです
証拠がない大昔のことだから好きなように解釈すればいいと思います
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天皇家なんて存在しませんよ。



あくまで天皇は天皇であって、どっかの名家と同列ではありません。
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>卑弥呼=アマテラスから考えると・・



魏志倭人伝に、

「・・その国、元は男子を王となす、内乱が起きて長い間互いに争ったが、共に一女子を選んで王とし、争いは収まった。彼女の名を卑弥呼という。鬼道に通じて民衆の心を掴んだ。年長になっても結婚することなく、弟が彼女の政治を助けた・・」

とありますので、彼女は結婚せず子供は居なかったようです。すると、神武天皇は彼女の子孫ではないことになります。よって、伊勢神宮の天照大御神は卑弥呼ではありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。結婚という概念が古代にあったとは思えないのですが・・。あるとすれば妻問い婚?子どもはいなかったといえるのか考えたいと思います。

お礼日時:2009/10/05 21:19

アマテラスはもともとは男神であり、具体的には嫁兄を殺して神武を大和に迎え入れたとされるニギハヤイのことです。

これは、彼の和風賜号が天照国照彦天火明櫛玉(アマテラスクニテラスヒコアメノホアカリクシミカダマ)二ギハヤイノミコトというカムヤマトイワレヒコノミコト(=神武)よりもよほど立派な名乗りでも明らかです。そして、ちなみに彼が大物主神です。

これを、女神に祭り上げたのは日本書紀ですが、これはよく言われているように持統天皇の投影であり、卑弥呼の投影であると考えられます。ただ、天皇家の祖先が卑弥呼であったのは無いでしょう。というよりも祖先であるようなふりをしたというのが正解でしょう。書紀は神功皇后も卑弥呼のような書き方をしています。アマテラスにしろ神功皇后にしろ真に(真ではなくとも断言できるものならば)卑弥呼ならばそのように書くでしょう。それを断言しないというのは、改竄しようにもできない事情があったとしか考えられません。おそらく、九州地方で卑弥呼の勢力を汚い手で手に入れ、その格式をもって、ヤマトに婿入りし(たぶん祟神天皇)、またしても汚い手でヤマトの王権を乗っ取ったのが天皇家と思われます。

で、伊勢神宮ですが、アマテラス(女神としての)な当初ヤマトに祭られていましたが、追い出されるようにして長い間ほうぼうタライ回しにされて最終的に伊勢に祭られました。外宮と内宮の不自然さや遷宮や神事における出雲の影や物部氏役割を考えるに、卑弥呼を祭っているとは到底かんがえられません。

箸墓が卑弥呼の墓というのも賛成しかねます。あれは前方後円墳で円墳でないので、トヨの墓ではないかと思いますが^^

私見では、おそらく卑弥呼の墓は宇佐神宮の後背地ではないでしょうか?

なるべく短く書いたので乱暴な内容になりましたが、詳しく書くと本1冊になるんでご容赦ください^^
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。ふつうみんなが考えるお墓とはお骨が入っている塚だと思います。もし神武が卑弥呼の墓からお骨を始めやたの鏡などの埋葬品を畿内に移したのなら九州には墓の跡だけが残ることになります。平原遺跡なども候補地になるのでしょうか?

お礼日時:2009/10/04 22:47

こんばんは!



魏志倭人伝には
「女王卑弥呼が死んだ時、倭人は大きな塚を作った。それは直径百余歩ほどもあり、その際殉葬された者は奴稗百余人であった。」
と記されています。

一歩は約145cmなので、百余歩は約140mとなります。

奈良県桜井市にある箸墓古墳は後円部の直径が約150mで
魏志倭人伝に記された直径百余歩にあうので、
倭迹迹日百襲姫命の墓ではないか、といわれています。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai05.html

また近年、籠神社から最古の系図が発見されましたが
そこに、日女命(ひめのみこと)」とあり、
脇に「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」と記されていました。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai08.html

ここから、卑弥呼とは日女命に音をあてたものであり
箸墓が卑弥呼の墓ではないかとする説もあります。

数ヶ月前には
「放射性炭素年代測定法」で箸墓古墳の周濠から出土した土器の炭化物を分析し、測定値を年輪年代測定法の年代で換算した結果、
箸墓古墳の築造時期が240-260年とはじきだされています。

ただし、この測定方法について非難する意見もあります。

http://www.47news.jp/CN/200905/CN200905290100023 …

また、だからといって箸墓が卑弥呼の墓だということが決定的になったわけではなく、邪馬台国九州説も以前根強いです。

魏志倭人伝の内容は古事記・日本書紀に記された
10代崇神天皇紀のことだとする説があります。

日女命=倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の叔母にあたり
奈良県桜井市の大神神社の御祭神・大物主神と結婚したという記事があります。

そして、崇神天皇代に、疫病が流行り、人民の中には背くものが出るなど国が乱れ、
崇神天皇は天照大神と倭大国魂神とともに生活するのが怖くなり
それまで宮中で祀っていた天照大神と倭大国魂神を皇居の外で祀ることとにしました。

倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせ
天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせています。

この倭大国魂神とは大物主神と同一神だとする説があります。
すると、天照大神とは大物主神と結婚した倭迹迹日百襲姫命のことだと考えられると思います。

また、倭迹迹日百襲姫命は日女命で卑弥呼のことだと思われますので
卑弥呼=アマテラスとする質問者さんの考えは筋が通っていると思います。

魏志倭人伝に塚、とありますので伊勢神宮の社殿は墓ではないと思います。
伊勢神宮は卑弥呼の墓というよりも、卑弥呼の神霊を葬った場所だと私は思います。

神武天皇と崇神天皇はどちらも「ハツクニシラス」という名前をもっており同一人物であるという説があります。

そして神武天皇は東征するにあたり
「東にはニギハヤヒがすでに天の磐船を操って天下っている」と発言しています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神とされているので
ここから神武以前に物部王朝があったという説があり
私はこの説を支持しています。

そして、邪馬台国とは物部王朝であり
天照大神(倭迹迹日百襲姫命)と大物主神は物部王朝の神であると私は思っています。

崇神天皇=神武天皇は卑弥呼と仲が悪かったクチヒコのことで
クチヒコは物部王朝に入り婿に入ることで邪馬台国=大和をのっとったのではないか、というのが私の考えです。

崇神天皇はミマキイリヒコという名前で、
次の代の垂仁天皇はイクメイリヒコイサチノミコトといいます。
どちらにも「イリ」とあるところから
「イリ王朝」と呼ばれることもありますが
「イリ」とは入り婿の意味だという説があります。

確かに、記紀神話には入り婿になる話が多いです。
竜宮にいって海神の娘の豊玉姫と結婚したホオリや
葦原中国に天下って葦原中国のオオヤマツミの娘であるコノハナサクヤヒメと結婚したニニギなど。
※ご存知のとおりニニギ・ホオリは神武の先祖です。

式年遷宮は伊勢神宮の他、いろいろな神社で行われていますね。
日本には「つくも神」といって器物などが100年たつと妖怪になるという信仰があったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%98%E5%96%AA% …
そういうことで式年遷宮が行われているのではないかと私は考えています。

個人的な考えですので参考程度になさってください。

確実なことは箸墓古墳を発掘してみないとわからないと思います。
ただ、自分なりに考えてみることは意味があると思います。

私も質問者さんの意見を参考にさせていただきます。

この回答への補足

回答ありがとうございます。神武以前に物部王朝があったという説には私も賛成です。ニギハヤヒが神武の前に畿内に王朝を作っていたのだろうと思います。その権力の象徴が銅鐸だったのでしょう。ただ天照大神と倭迹迹日百襲姫命は別人だと私は思います。古代の天皇の平均在位期間が10年というのは真実であると思いますのでそこから考えると、崇神期は4世中頃で倭迹迹日百襲姫命もその頃の人かなと思います。神武期は270年頃でしょうか?崇神天皇は天照大神と倭大国魂神とともに生活するのが怖くなりそれまで宮中で祀っていた天照大神と倭大国魂神を皇居の外で祀ることにたのですが、「とみの山で祭りを行い高天の原の神をまつったという日本書紀の記述」と矛盾するのではと思います。九州の卑弥呼の墓を掘り起こして畿内の宮中でまつっていたものを伊勢神宮に移したのではないか。「心の御柱」とは卑弥呼のお骨だったのではないか。それがいつからか木の柱に変わったのでは?・

補足日時:2009/10/04 22:36
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。神武以前に物部王朝があったという説には私も賛成です。ニギハヤヒが神武の前に畿内に王朝を作っていたのだろうと思います。その権力の象徴が銅鐸だったのでしょう。ただ天照大神と倭迹迹日百襲姫命は別人だと私は思います。古代の天皇の平均在位期間が10年というのは真実であると思いますのでそこから考えると、崇神期は4世中頃で倭迹迹日百襲姫命もその頃の人かなと思います。神武期は270年頃でしょうか?崇神天皇は天照大神と倭大国魂神とともに生活するのが怖くなりそれまで宮中で祀っていた天照大神と倭大国魂神を皇居の外で祀ることにたのですが、「とみの山で祭りを行い高天の原の神をまつったという日本書紀の記述」と矛盾するのではと思います。九州の卑弥呼の墓を掘り起こして畿内の宮中でまつっていたものを伊勢神宮に移したのではないか。「心の御柱」とは卑弥呼のお骨だったのではないか。それがいつからか木の柱に変わったのでは?・

お礼日時:2009/10/04 22:31

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