先日何十年か振りに森鴎外の「雁」を」読みました。
やはりこの年代の物は趣がありますね。
ところで数ある鴎外の作品のなかで、何がお勧めでしょうか?
できれば短編が読みやすくて良いのですが……。
教えてください。

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A 回答 (6件)

何と言っても代表作である『高瀬舟』『阿部一族』をお勧めいたします。


「時代ものの趣き」、短編、読みやすさと言う点でも次に読むのには、まず『高瀬舟』が良いでしょう。
#1の方の青空文庫にも確実に掲載されていると思います。
試しにプリントアウトしてお読みください。
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この回答へのお礼

なるほど~。やはり代表作はクリアしておかないとダメですものね。
文庫本でも短編物を4,5編集めた物が何冊も出ているようですので(それにはたいがい『高瀬舟』と『阿部一族』は含まれています)早速購入してみようと思っています。
早速のご回答有難うございました。

お礼日時:2003/05/19 21:17

ちょっと変わってますが、「堺事件」なんかはどうですか?

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この回答へのお礼

「堺事件」。これもまた知りませんでした。
鴎外は本当に多くの作品を残していますね。
機会を見つけてぜひ読んでみようと思います。
有難うございました。

お礼日時:2003/05/20 15:18

「文づかい」です。


「舞姫」「うたかたの記」と共に三部作と言われているうちでいちばん好きです。
鴎外は案外,自我の強い女性が好きだったのではないかしら,なんて思ってしまいましたよ。
翻訳ですが,「即興詩人」もとにかく読んでて面白いです。(ちょっと長いけど)
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この回答へのお礼

「文づかい」ですか。
これは聞いたことがありませんでした。
勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2003/05/20 15:16

「舞姫」はどうですか。


私の場合は映画で観たのですが。。(^_^;)
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この回答へのお礼

そうですか、映画化されているものもあるのですね。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/05/20 15:14

こんばんわ、疑問はつきませんね。



さてご質問の件ですが、そうですね・・・森鴎外といえば、何をおいても『舞姫』をお勧めします。大学時代に読み、その美文に頭を強打されたような気がしました。

ただ・・・文語文なので取っつきにくいと思いますが・・・。
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この回答へのお礼

『舞姫』は文語文でしたか……。
文章の読み辛さに慣れるのが大変かもしれませんね。
でもぜひともトライしてみようと思っています。
ご回答有難うございました。

お礼日時:2003/05/19 21:20

舞姫かな。



インターネットの電子図書館、青空文庫 [森 鴎外]
http://mirror.aozora.gr.jp/index_pages/person129 …
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
舞姫はまだ読んで無い(あるいは読んだかどうか覚えていない)ので、今度ぜひ読みたいと思います。

お礼日時:2003/05/19 20:20

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Q夏目漱石と森鴎外の代表的な作品について

来年の3月に看護学校を受験予定の者です。
私の受験予定の学校の入試問題(国語)はお寺の住職さんが作成しているとの事なのですが、その方は明治文学がお好きなようで、毎年のように夏目漱石や森鴎外の作品が出題に上がるそうです。
お恥ずかしい話ですが、夏目漱石や森鴎外などの人物は知っていますが、学校の教科書に載っていた作品しか知りません。
作品を読んでみたいのですが、どれを読んだら良いのかも解りません。
夏目漱石や森鴎外の代表的な作品をいくつかご紹介頂けたら嬉しいです。
その他にも明治文学で有名な著人や作品名なども教えて頂けませんでしょうか?
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

川端康成 伊豆の踊り子 
横光利一 機会 
谷崎潤一郎 刺青 
尾崎紅葉 金色夜叉 
永井荷風 あめりか物語 
幸田露伴 五重塔
島崎藤村 破戒 
樋口一葉 たけくらべ 
太宰治 人間失格 
有島武朗 或る女 
志賀直哉 暗夜行路 
武者小路実篤 おめでたき人

などなど、明治時代の有名な文学はたくさんありますよ!

Q夏目漱石は森鴎外をどう思っていたか。

お世話になります。
森鴎外と夏目漱石、ともに日本を代表する作家です。
森鴎外のいくつかの小説には、夏目漱石の名前もしくは夏目漱石をモデルにしたと思われる人物が出て来て、森鴎外が夏目漱石を一目置いていた事が分かるのですが、逆に夏目漱石は森鴎外の事をどう思っていたのでしょうか?2人の間には交流はあったのでしょうか?
そのような事が分かる本などは有るのでしょうか?
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。
しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて、全体を窺ふ事かたく候得共(そうらえども)、当世の文人中にては先づ一角ある者と存居(ぞんじおり)候ひし、試みに彼が作を評し候はんに、結構を泰西に得、思想を其学問に得、行文(こうぶん)は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相聚(あつま)つて、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候。(八月二十三日付け:引用は江藤淳『漱石とその時代』第一部から)
--------

鴎外は明治二十三年一月、『舞姫』を、同年八月『うたかたの記』、明治二十四年一月に『文づかひ』を発表しています。

後の漱石、当時はまだ金之助であった彼が読んだ「二短篇」がなんであったかは明らかではありませんが、この冒頭から、二作品を読んで高く評価した漱石に対して、子規が、それはおかしい、と反論した背景があったことがうかがえます。

江藤淳は『漱石とその時代(第一部)』(新潮全書)のなかで、鴎外の作品は、前年に帝大の英文科に入学してからの漱石の状況を考えながら、この手紙を以下のように解釈しています。

-----(p.202から引用)-----
「洋書に心酔」し、しかもそれを意志的・知的に理解しようと努力するうちに、いつの間にか虐待されつづけていた金之助の感受性を覚醒させずにはおかないものであった。つまり鴎外の小説の「結構は泰西」に仰がれていたが、そこにはまごうかたなき旧い日本――金之助が英文学専攻を決意して以来置き去りにして来た「日本」があったのである。

……『舞姫』に描かれた才子佳人の恋は、舞台こそ独都ベルリンに求められていたが、ほかならぬ晋唐小説の伝統を「文明開化」の時代に復活させた恋である。金之助が鴎外の「二短篇」に見たものは、いわば崩壊しつつある旧い世界像の残照であった。その光を浴びた彼の衝撃がいかに深かったかということは、のちに金之助が英国留学から帰国して発表した小説、『幻影の盾』と『薤露行』に痕跡をとどめている。この二短篇の雅文体の背後には、ほぼ確実に『舞姫』や『文づかひ』の鴎外がいる
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つまり、漱石が英文学の研究から執筆活動へと移っていったのも、鴎外の存在があったことが、理由の一つであったと考えることができます。


後年、両者はそれぞれに、当時の文壇から離れた場所で、それぞれに仕事をするようになります。

このことを中村光夫はこのように指摘しています(『中村光夫全集』第三巻)。ここで「彼等」というのは、漱石と鴎外の両者を指しています。

-----「鴎外と漱石」p.160-----
おそらく彼等が表面冷やかな無関心を装ひながら内心激しい憤怒に燃えてゐたのは当時の文壇といふやうな狭い世界ではなく、むしろこの文壇をひとつの象徴とする或る社会風潮であつた。いはば彼等の誇り高い教養と抜群の見識とは、当時の我国民が無意識のうちに徐々に陥つて行つた或る根深い精神の頽廃を鋭く直観した。そしてこの抗ひ難い社会の風潮に対して勝つ見込のない敵意を燃やしてゐた。…

では彼等がここで生涯を賭して闘つた敵は何かと云へば、それは一口に云つて、近代欧米文明の一面的な輸入の結果たる所謂文明開化の時潮であったと僕は信じてゐる。…明治大正を通じて我国が存立の必要から強ひられて来た欧州文明の物質的側面の急激な輸入と、その結果として我国民の精神の深所に徐々に食ひ入つた或る微妙な歪みを指すのである。
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当時のふたりがなぜ交友をもたなかったのかは、さまざまな事情があったことと思います。

なによりも、漱石が専業作家として活動したのは、わずか十年であったことを忘れてはなりません。成熟するまでに時間がかかり、一人前になってからわずかな時間しか与えられなかった漱石は、自分の生命を削り取って作品に結実させていった、といっても過言ではありません。

二葉亭四迷没後、一時期は同じ職場に籍を置きながら、実質的には交遊がなかった二葉亭に対して、『長谷川君と余』(『思い出す事など』所収 岩波文庫)のように、実に心情にあふれた追悼文を残した漱石ですから、たとえば鴎外が自分より先に亡くなってでもいたら、間違いなく、何らかの追悼文を残したでしょう。

こういう位置にあった鴎外と漱石が、たとえ表面的には交遊がなかったにせよ、互いに反目したり、あるいは嫉妬したり、排斥したりということは、非常に考えにくいと思います。
漱石の弟子宛ての書簡にも、鴎外の名は散見されます。
ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。
しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄に...続きを読む


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