プロが教えるわが家の防犯対策術!

と思いませんか?
自動車を作れば自動車事故が起きるのは仕方がない、と同じようにです。

いやそんなことはない、という意見は、
1. 原発を全廃すれば良い。
2. 原発は完全に制御できる。
の2つに分かれるでしょう。

1の場合には、
a. すでに覚えてしまった快適性・利便性を放棄することはおそらくできない。
b. 効率的代替エネルギーの開発が進んでいない。
c. (核兵器バランスの点で)世界中が足並みを揃える必要があるため、国家間の調整が難しい。
という点が最大のネックになるでしょう。

2の場合は、ほぼ妄想に近いものと言えるでしょう。
そこで、タイトルのように、
3.原発事故が起きるのは仕方がない
と考えることが今、最も必要とされているのではないか、と私は思います。

現状では、安心・安全という建前のもとに原発が稼動しています。
東電も嘘つきですが、それを受け入れている国民の欺瞞性のほうこそ問題にされるべきではないでしょうか。
「震度7を超える地震が起きた場合には安全は保障できません。
高さ10m以上の津波が来た場合には何が起こるか未知数です。
しかし、この範囲内であれば最善を尽くすので原発の建設を認めてください」
電力会社はこのように言明すべきですし、なにより、国民(つまり享受者)側から、このように言明させるのが本来の姿でしょう。
これは大雑把な一例ですが、このように最大限のリスクを当初からきっちりと受け止めようとする姿勢が必要で、最終的には、
「わかりました。震度〇以上の地震や高さ△m以上の津波の場合には諦めます。しかし、確率は低いようですし都市部への電力供給のためにも建設を認めましょう。むろん補助金は十分にいただけるのでしょうね」
という国民の納得があって初めて原発建設が可能になる。
これはむしろ当然のことだと思います。
今回の事故は、こういった経緯を経ずに、また原発の危険性を十分に検討せず、あいまいに妥協してしまったために起きた事故と言えるのではないでしょうか。
みなさんはどう思われますか?
  

A 回答 (51件中41~50件)

よく似たスレを2つ作っている最中ですので、余り立ち入って結論めいたことはいえないのですが、



基本的に質問者様のご意見に対しては、そうなるのではないか、あるいは論理的には正しいと思います。
正論だと思います。

ただ、タイトルが刺激的過ぎます。
菅さんがそういったら(内容はどうあれ)即刻総辞職です。

留保条件として当然ながら、フクシマの事故は(従来の技術で)避けることが出来たということを責任者と推進者に納得させることとし、これからはあの手の事故で制御不能になる原発を運転することは許されない、としたいと思います。
つまり

実情がある程度分かっている千年単位での巨大天災には耐えて欲しい。

少なくとも浜岡が今度のM9級の天災でぽしゃることは避けて欲しい。
若狭湾の大陥没(日本海、山陰の海岸では他処でも良くあることです)にも耐えるものにして欲しい。
時間的に(数日)余裕があるのなら完全停止で対処できるのではないでしょうか。
これは現行の原発(本体が)では駄目ですので、かなりの改良が必要です。

これで理性的な市民の多くが納得するかどうかは別問題ですが。


たとえば太平洋に大隕石が落ちて、135m級の大津波が来ることには仕方がない(この場合は日本が消滅するだろうし)。
新ハマ岡の直下でM9が起きて地が割けたら、これも仕方がない。
現在の知見で絶対起こらないということを証明できないのなら移転しかないでしょうが。

単なる私見です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ただ、タイトルが刺激的過ぎます。

もし刺激的とすれば、私たちは刺激的ゆえに重要な本質から目をそむけていることになります。
そのことに気づく必要があるでしょうね。
むろんそれを承知であえてご指摘いただいたのだと思います。

>菅さんがそういったら(内容はどうあれ)即刻総辞職です。

しかし、事実ですよね。
その事実を受け止められない国民のほうがおかしいのであって、そこに哲学的課題も見出せるのではないかと思います。

>実情がある程度分かっている千年単位での巨大天災には耐えて欲しい。

こういった具体的な要求なり指針なりが必要でしょうね。
その場合、たとえば、
>少なくとも浜岡が今度のM9級の天災でぽしゃることは避けて欲しい。

こういった発想ですと、たとえばkomaas88さんご自身がそうだということではなく、
電力会社あたりから、「むろん、その点は十分に留意しますし万全を期します」程度の説明で納得させられてしまう可能性があるように思うのです。
「であれば良いでしょう」ということになり、しかし事故が起きた場合、
「万全を期してはいたのですが想定外の事態が発生したもので・・・」という言い訳が繰り返されることになるのは目に見えています。
そこで「なぜそんなことぐらい想定しなかったのか」と責めても時すでに遅し、というわけです。

これを防ぐためには、
「浜岡がM10級(というか震度で示すべきでしょうが)の天災でぽしゃったら仕方がない。たとえ死者が出ても家屋が失われても私は諦める。生き残って数ヶ月に亘る避難所生活を強いられることも厭わない」
と言明することが必要ではないか、と思うのです。
想定事項をあらいざらい検証してもらうのではなく、する立場に立つということでもあります。
御用役人やひも付きの専門家ではなく、独自に雇って専門家なりと共に検証を行ないます。
むろん費用は会社に持たせます。
今回の場合をあげつらっても意味がないですし、その気もないのですが、あくまで一例としてあげさせてもらうと、防波堤の高さや強度、あるいは電源車の確保方法なりでもう少し、いや相当に極め細かな対策がなされたのではないでしょうか。
なにしろ、上のように言明することによって、自らの平穏な日常生活を諦めるか否かの瀬戸際にあることを実感できるはずだからです。
また、事故が起こった場合には、今回のように寄付云々に頼っていても仕方ありません。
国民全体から災害復興税を、被災地全域が完全復興に至る時期まで自動的に徴収できるようにします。
>これで理性的な市民の多くが納得

しなければ原発は作らない、ということになります。
つまり、リスクなしに恩恵だけ受けようという人間を無くすことと、そのリスクに対する明確な認識を私たち一人ひとりが持ち、また、持てるような状況を築くことの重要性を認識した政府を選択することが重要になってくるように思われます。
そのためには賛同いただきましたように、「仕方がない」という発想がどうしても必要になる、ということです。
    
>新ハマ岡の直下でM9が起きて地が割けたら、これも仕方がない。

この場合、被害の範囲や死者や家屋倒壊の予測を出して、それに対してどういった対策を講じるのかのシミュレーションが必須になるでしょう。
どこからどういう支援が為され、どういった手順で解決に導くのか、といった多様な想定が必要になります。
原発の稼動には、こうした検証が絶対的に必要であると認識させるだけの危機感が最も不足しており、また、危機感を薄めることに腐心する経済優先の人々がいるという現実があるのだろうという気がします。
  

お礼日時:2011/04/14 23:32

こんにちは。


ご質問を拝見して、たとえば対外的な有事の際のリスク管理や想定しうる危険性について、十分に国民の間で検討されていないという現状と何やら通底するテーマのように思えました。

この点につき「国民の欺瞞性」といえるかどうかだと思います。
さあ、どうでしょうね。

この国の安全保障は実質ほかの国の傘下にあるのですから、どこか他人頼みな風潮が根底にあるようにも思えるのですけれども、それにも増して原発はその高度な専門性ゆえに、なかなか一般人には理解し判断し辛い面もあると思います。

叔母の一人が会津に嫁いでおりまして、子どもの頃白虎隊の白剣のおもちゃを振りかざして畑を暴れまわったことが思い出されます。
どうしても原発の最新事情と先々の他原発の危険性や是非に注視しがちになりがちですが、今現在災いを蒙っている福島県民や近隣県住民のことを思い、可能な限りの再生と復興をもまた願ってやみません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

こんばんは。
ご回答ありがとうございます。

>たとえば対外的な有事の際のリスク管理や想定しうる危険性について、十分に国民の間で検討されていないという現状と何やら通底するテーマのように思えました。

たしかにそうですね。

>この点につき「国民の欺瞞性」といえるかどうかだと思います。
さあ、どうでしょうね。

わたしは言えると思います。
なぜ言えないとお考えになるのかよくわかりません。
国民の間で全く検討されなくても、わずか半世紀ほど前の歴史が語りますように、戦争突入が避けられませんでしたよね。
彼の日も今も、そのような政府を選択してしまったという責任はつきまとうわけですが、いずれにしても自らの欺瞞性を否定していてはいつまで経っても進展はないように思われます。
お上に任せておくしかない。
それで間違っていたら仕方がない。
というお考えでしょうか。
mashumaro3さんは気持ちの優しい方のようにお見受けするのでご自分からはおっしゃれないと思いますが、要するに大半の国民は馬鹿だから、真実を曝した日にはパニックになって正常な判断なんかとても覚束ないだろう、ということですよね。
それにしても、同じ仕方がない、なら自ら納得するほうが良くはないですか?

>この国の安全保障は実質ほかの国の傘下にあるのですから、どこか他人頼みな風潮が根底にあるようにも思えるのですけれども、それにも増して原発はその高度な専門性ゆえに、なかなか一般人には理解し判断し辛い面もあると思います。

一般人に理解できるように説明するのが政府・電力会社の責任でしょう。
それをしなくても補償金さえ貰えれば、あるいは、日常生活さえ便利になれば、といって深く検討しようとしない(むろん私を含めた)国民の精神的風土こそが今回の災害の本質ではないでしょうか。
自分の住む地域に原発を作る案が浮上したらどうなさいますか?
むろん、反対なさるでしょうが、どこかに作る必要があるという前提での話しですから、その当事者になったおつもりでお考えいただければ有りがたいと思います。
(仮にですが)「震度7に耐えられます。15mの津波でも大丈夫です」
と言われて納得しますか?
「とんでもない。最低でも震度12の地震。津波であれば35mの高さに備えるのでなければ許可できません」
などと反論なさるのではないでしょうか。(数値はあくまで仮のものです)
この場合、
「震度13の地震が起きたら仕方がないあきらめます。35m以上の津波が来たら仕方がないあきらめます」
という覚悟が前提になるのではないでしょうか。

この覚悟が現状では求められていない。
求めなくてもなんとかやり過ごせるような気持ちになっているし、させている。
このことが最大の問題であると思うわけです。
猪突先生の質問ではないのですが、こうした従順性をあまりにも露骨に利用されているし、また利用される側はそのことに気づかないか、気づかない振りをしていますよ。
こんなことでいいんでしょうかね。

>どうしても原発の最新事情と先々の他原発の危険性や是非に注視しがちになりがちですが、今現在災いを蒙っている福島県民や近隣県住民のことを思い、可能な限りの再生と復興をもまた願ってやみません。

なぜ両立しないのかよくわかりませんが、むしろ両立させるべきではないでしょうか。
おざなりの対策がなされる前に。
それが本当の意味の復興ではないかと私は考えます。
復旧→復興となるわけですが、復旧だけに終わらせると、また同じようなことが繰り返されるのは明らかだからです。
mashumaro3さんに愚痴を言ってもしょうがないのですが、何か良い知恵はないものでしょうかね・・・。
    

お礼日時:2011/04/14 22:33

そうそう、仕方ないんですよ。


このセリフを東電や政府は口が裂けても言えないでしょうけど、想定外の事が起きたんだから仕方ないんです。
今回の放射能漏れは地震が原因なのだからこれは立派な天災だと思います。
人災だと言って東電を責めるのは愚民というべきでしょうね。

「起きたことはしゃあない、でもやっぱり地震国日本に原発はリスクが大きいな」

と考えるのがまともな日本人だと思いますよ。
今日のニュースで「川崎市が、東日本大震災の被災地の廃棄物処理の協力を表明したところ、「放射能に汚染されたゴミが持ち込まれる」などといった誤った情報がインターネット上に広まり、抗議が殺到した。」なんてのが流れてました。

自分の権利ばかりを主張するこれぞまさに愚民
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>このセリフを東電や政府は口が裂けても言えないでしょうけど、想定外の事が起きたんだから仕方ないんです。
今回の放射能漏れは地震が原因なのだからこれは立派な天災だと思います。

そうですよね。
「想定外」の範囲が広すぎるという重大性に気づかないまま、あるいは無視し、あるいは誤魔化しつつ電力という利便性の追求をしてきた人間のへのつけが露呈しただけではないだろうか、というのが実は率直な気持ちです。

天災なら天災でもよいのですが、それに対する覚悟がなさすぎる。
仮に覚悟があるというのなら、その対処に関してあまりにもいい加減すぎる、ということになると思います。
魚類に対する放射能規制値が未設定というのもそのひとつでして、能天気すぎませんか。
細かいことを言えば、避難先の手配ぐらい予め想定しておくべきでしょう。
つまり、見たくないものには目をつぶり、見た目きれいに、まあまあ波風立てずに仲良く穏便に。
というある種の曖昧性、欺瞞性がそこにはあります。
これを最初から堂々と曝しておくことによって、より適切な防御が可能であったはずではないだろうか、と思うわけです。

>「起きたことはしゃあない、でもやっぱり地震国日本に原発はリスクが大きいな」

と考えるのがまともな日本人だと思いますよ。

そうですね。
それもありますが、むしろ「(これから)起きることはしゃあない」という発想でしょうか。
そう胸を張って?言えるだけの態勢を整えておくことが必要ですよね。
現状は、その覚悟をなし崩しにする方向にどうも操作されているわけで、
「じゃあ、震度いくつなら壊れる危険性があるのですか?」という突っ込みが不足しているような気がします。
  
川崎のニュースも見ましたが、これも同様ですね。
誤報だったとはいえ、現時点での市民を愚民とは思わないのです。
彼らがそのような行動を取るのも、事前の心構えをさせてもらえなかったからでしょう。
つまり、
「わたしたちは、これ以上責任のとりようがない、というほど万全の対策を立てた。むろん、お金の問題があるので対策のための費用には自ずと限界があった。しかし、あの時点で想定した以上の被害が発生した場合には諦めるしかない、と言えるほどには万全の対応をしたはずだ。その上で今回のような事故が起こったのだから仕方がない」
と言えるほどの心構えです。
いや、元々わたしは反対だった、という方も当然おられるでしょうが、その場合は、原発不要の政権をなぜ誕生させられないのか、という問題になってくるのでしょう。
  

お礼日時:2011/04/14 21:51

この設問を見て呆れました。

まず「しかたないもの」は作るなと言いたい。車ならリコールできる。原子力発電所はリコールできるのか?できない。責任の大きさが全く違う。

次に誰も作ってくれと頼みはしなかった。大体、停電がどこで起きているか、よくよく考えて。その大半が大企業の工場でしょ。これで誰が原子力発電所を求めているのかが、一目瞭然。農民や漁民ではない。大多数の国民は、果たして原子力発電所級の電力を必要としているのかどうかが、疑わしい。

どうしても原子力発電所が欲しいっていうのなら、国民じゃなく、工場を経営している大企業がお金を払うべきだと思う。少なくても私は、慎ましくてもいいから、安全に、平和に暮らせるものを望んでいます。これを哲学とか何とかで補わないとならないとしたら、反ネオリベラリズムの思想ということになるでしょう。何か質問者の方は、大企業で働いていてそれにどっぷりつかったか、人が良すぎて見えてないって印象です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>この設問を見て呆れました。

にも拘らずご回答いただき光栄に思います。

>まず「しかたないもの」は作るなと言いたい。

おっしゃるとおりです。
ただ、「作るな」というお考えには全面的に同意するものですが「作らざるを得ないとすればどうすべきか」というのが今回の質問の趣旨です。
今急に無くすことは少なくともできませんよね。
今回の事故が起こったことに対して仕方がない、と言っているわけではないのです。
愚痴は意味がありませんからね。
現在も原発は各地で稼働中です。新しい建設計画も各地にあります。
それらに対して、

(事後に)「仕方がない」と言えるだけの心構えを(事前に)自らに課すべきではないでしょうか。
ということです。

「わたしたちは、これ以上責任のとりようがない、というほど万全の対策を立てた。むろん、お金の問題があるので対策のための費用には自ずと限界があった。しかし、あの時点で想定した以上の被害が発生した場合には諦めるしかない、と言えるほどには万全の対応をしたはずだ。その上で今回のような事故が起こったのだから仕方がない」
と言えるだけの万全の態勢をとるべきではないか、というわけです。

>次に誰も作ってくれと頼みはしなかった。

そうです。
わたしも頼んでいません。
しかし、作ることを否定しない政府を選挙で結果的に選んでしまったのは私たちでしょう。

>大体、停電がどこで起きているか、よくよく考えて。その大半が大企業の工場でしょ。

いや、全く同感です。
ただ、こうした大企業の恩恵を大いに享受しているというのが大多数の国民である、という事実もあるのではないでしょうか。
そこで、なぜ、原発の危険性にも拘らず、こうした大企業に頼った利便性に国民は執着するのだろうか、という点も考えてみると面白そうですね。
電力消費減衰のため、たとえば最低温度20度のエアコンが発売されたとしても、最低温度12度の外国製品を買うのではないでしょうか。
この視点をないがしろにしてしまうと、現実的な対応から懸け離れた論議になってしまうような気がします。
つまり、大企業云々の話とはまた別の次元で捉える必要があると思うわけです。

>どうしても原子力発電所が欲しいっていうのなら、国民じゃなく、工場を経営している大企業がお金を払うべきだと思う。

ただ、万一の場合に被害が及ぶのは大企業だけではすみません。
それが原発の難しいところでしょう。
自己責任とかいう論理が通用しない範疇である、ということ。
そのような大企業、現に東電がそうだと思いますが、こういうものを一企業の裁量に任せているような、そんな政府を選んでいる国民の甘さもそこにはあるはずです。

>少なくても私は、慎ましくてもいいから、安全に、平和に暮らせるものを望んでいます

100%同意します。

>これを哲学とか何とかで補わないとならないとしたら、反ネオリベラリズムの思想ということになるでしょう。

ネオリベラリズムやらリバタリアニズムやらはよくわからないのですが、
>慎ましくてもいいから、安全に、平和に

と全ての人が考えているわけではない、ということが問題になると思います。
そういった考えもまた個人の自由ということになるのではないでしょうか。
そこも含めて解決の糸口を探る必要性があるように思うわけです。

>何か質問者の方は、大企業で働いていてそれにどっぷりつかったか、

ということは全くありません。

>人が良すぎて見えてないって印象です。

人が良いというわけではないと思いますが、頭が悪すぎて見えないってことは可能性としては否定しません。
ここで勉強させていただければ幸いです。
  

お礼日時:2011/04/14 21:18

日本語の使い方の問題だけども、「仕方ない」という表現が責任を放棄しているように聞こえるからまずいですね。



「原発事故が起きる可能性がある」ということは誰もが認めているのですから、こちらが良いでしょう。

「仕方ない」という表現に拘る理由がありますか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「仕方ない」という表現に拘る理由がありますか?

はい。
まず、今回の結果に対して仕方がない、と言っているわけではありません。
(事後に)「仕方がない」と言えるだけの心構えを(事前に)自らに課すべきではないでしょうか。
ということです。

「わたしたちは、これ以上責任のとりようがない、というほど万全の対策を立てた。むろん、お金の問題があるので対策のための費用には自ずと限界があった。しかし、あの時点で想定した以上の被害が発生した場合には諦めるしかない、と言えるほどには万全の対応をしたはずだ。その上で今回のような事故が起こったのだから仕方がない」
という内容ですね。

「仕方がない」は諦めの意味です。
確かに事後に言えば責任放棄です。
しかし、「これ以上の災害が降りかかったら諦めるしかないな」と言えるだけの対処を事前にしておくという発想を持つことが、(責任放棄ではなく)諦めを容認できるはずです。
「あるいは生きることすら諦めなければならない」という緊迫した事態が想定されることを強く認識するためには、「仕方がない」が最も強力で有効な思考の形態ではないかと考えた次第です。

>「原発事故が起きる可能性がある」ということは誰もが認めている

のかもしれませんが、「では、どのような事故が想定され、その場合どの程度の被害が想定されるのか」という詰めが甘いのでしょう。
「可能性があるなら、その可能性をつぶせばいい」
という発想で止まってしまいやすいからなのかもしれません。
しかし、おっしゃるように原発に関しては事故の可能性を完全につぶすことはできません。
実は原発に限らずなのですが、この点がかなり曖昧になっていると思います。

この曖昧性は人間が生きていく上である意味必要なものではありますが、こと原発に関してはここから脱却する必要があるように思います。
現状はこの点が殆んど見落とされているでしょう。
つまり、責任を放棄している(と同様である)にも拘らず、そうでないかのように振舞っている。
東電・国のみならず全国民がです。
この欺瞞性を保持したまま何を構築しても徒労に終わるのではないでしょうか。

たとえば原発賛成派は、
「震度〇以上の地震や高さ△m以上の津波の場合には皆さん諦めましょう。この原発にはこれ以上のお金をかけるわけにはいかないので仕方ありません。しかし、確率は低いようですし都市部への電力供給のためにも建設を認めましょう。補助金を十分にもらえばいいじゃないですか」
といって選挙民を納得させるべきです。
端的に言うと、「不利なことを細部に亘って国民全員に対して明確にする」というセオリーを確立すべきではないか、ということです。

個人的には代替エネルギーしかないと思っているのですが、色々な意味ですぐに移行することは難しいでしょう。
少なくともその間、「人間にとって不利な事柄を細部に亘って明確に示し、またそれを明確に受け止める」
という姿勢が必要ではないかと思うわけです。
「今度の原発はなるべく安く作りますので、震度7の地震が起きたら仕方がありません」
「震度7で死んでも仕方ないと言うのか」
「そういうことです」
「とんでもない話だ」
「ではいくつなら諦められますか」
「う~む(-_-;)震度10!」
「とてもお金がかかりますよ。税金が上がってもいいでしょうか」
てな論議が為され、
「仕方ないだろうな・・・」
あるいは
「そんなら原発作るのやめましょう」
といったような流れになり、
いずれにしても現状よりは、はるかに危険性は減少するでしょう。
甘いでしょうか・・・。
   

お礼日時:2011/04/14 17:07

理念的に完全な原発を造るのは無理でしょう。


しかし、現実的に完全に安全な原発を造るのは
可能だと思いますよ。

経済的効率性、つまりお金をケチるから
事故が起きるのです。
完全制御は無理でも、安全を完璧に守るのは
可能でしょう。
例えば、トーチカのようにコンクリートや鉛の板で
完全に密閉してしまう、地下に設置するとか、方法は
色々あると思います。

ただ、一般論として仕方がない、というのは賛成します。
自動車事故では毎年一万もの人が死んでいますし、
自殺者は三万を超えています。

あの、デュルケムも言っていました。
自殺はその有無は問題ではない。多いか少ないかが
問題なのだ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>経済的効率性、つまりお金をケチるから
事故が起きるのです。

おっしゃることは全くその通りですね。
非常に重要な点です。
非常に重要であるにも拘らず掘り下げ方が不十分ではないだろうか、と思うのです。

いくらお金をかけても絶対に安全な原発はできません。
おっしゃるようなトーチカ状のものであっても、たとえばですが震度12の地震によってマグマが噴出し地殻が大変動した場合の安全は保障できない、といったような事実は浮上せざるを得ないと思います。
であれば、おっしゃるように、どの程度までお金をかけるべきか、ということが問題にならなければなりません。
現在は、電力会社や政府の安心安全神話に追随する形で、曖昧性を残したままいい加減な妥協の産物として原発が建設されていると言えるでしょう。

こういった曖昧性を維持したまま利便性のほうを追求してしまう。
その結果として今回のような事故につながったのではないかと思うわけです。
それで、この曖昧性を排除するためには、国や電力会社は最大限のリスクを明確にし、国民の側もそれを明確に受け止める、認識する、という手順が必要ではないかと考えました。

>ただ、一般論として仕方がない、というのは賛成します。

今回の結果に対して仕方がない、と言っているわけではありません。
「仕方がない」と言えるだけの心構えを【原発稼動前に】自らに課すべきではないでしょうか。
ということです。
たとえば原発受け入れ賛成派は、
「震度〇以上の地震や高さ△m以上の津波の場合には皆さん諦めましょう。しかし、確率は低いようですし都市部への電力供給のためにも建設を認めましょう。補助金を十分にもらえばいいじゃないですか」
といって選挙民を納得させる必要があります。
端的に言うと、「不利なことを細部に亘って国民全員に対して明確にする」というセオリーを確立すべきではないか、ということです。

この場合、
「震度〇以上の地震や高さ△m以上の津波」の想定基準は必然的に高くなるように思われるわけです。
結果として今回の被災も防げた、あるいは相当小さくて済んだのではないでしょうか。
     

お礼日時:2011/04/14 15:20

訂正



そして逆上気味に他者を攻撃非難すると言うことを体験しています。

⇒そして逆上気味に他者を攻撃非難すると言うことを実際に体験しています。


 さて、No.4で挙げたような人は、なぜそうなったのでしょうか。なぜ過剰に自己防衛したり、自分の正当性を主張しなければならないのでしょうか。

 キーワードは批評、非難、性悪説 でしょうか。
    • good
    • 0

民意をどのように反映させるか と言っていますが、政治と一般社会の境界線と言うのはあるのでしょうか。



結局「政治は民意、総意の表れ」だと思います。

他の人の質問の回答者の中にも、「政治レベルのことと民衆レベルのことに乖離がある」と言っている人がいましたが、それは妄想、勘違いだと思いますけどね。起こった後にこうすればよかった、ああすればよかったと言うのは、東電さんや政治家と結局同じでしょう。

 ネットで集めた情報を判定しているだけで自分は何もせず、個人の知識や知恵が反映されない状況にあると言うのも「総意の表れ」だと思うんですけどね。

 当たり障りのない万人受けする演説をして票を集める人が政治家になりやすいというのはここでも同じなのかなあ と思います。古くからいる人は特に反省してほしいですね。


 しかし、乖離があるとした場合は、反映させなければならないわけです。暇つぶしのブロガーさんが自分の仲間内だけでくだを巻いている限りは反映されえないと思います。まさに自分のことだけ考える、自分の立場や身の安全を最優先するという状況が一個人としての政治家や政治に現れているのではないでしょうか。

 あるブロガーさんとのやり取りで、批評、分析はそこそこ確かではあるが、イザ自分のことになると過剰なまでの自己防衛や妄想や欺瞞で事実、真実を捻じ曲げ、自分にとって有利な、都合の良い情報だけ掲げ、そして逆上気味に他者を攻撃非難すると言うことを体験しています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>起こった後にこうすればよかった、ああすればよかったと言うのは、東電さんや政治家と結局同じでしょう。

そうならないように良い方法はないでしょうか、という質問ですね。
  

お礼日時:2011/04/14 14:39

ずっと思っていたので良い機会があるので言いますが


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6604160.html

事が起こった後に「ああすればよかった こうすればよかった」と言うのは少し情報を集めて事態について知っている人であれば誰でも言えますね。そうではなく、「なぜそうしないのか、出来なかったのか、何が原因、要因でそうなったのか、『無責任であるとするなら』なぜ『無責任』な対応をしたのか」を考えるのが思想哲学ですね。先の質問は政治・社会のカテに投稿すべきでしたね。


>原発事故が起きるのは仕方がない

 起こった後にそう言うのは慰めとしては良いかもしれませんね。もう起こったことに対して仕方ないというのは仕方ないにしても、起こった出来事には必ず理由があり、では今後どのようにすれば起こらないようにするかを考えればよいですね。

>今回の事故は、こういった経緯を経ずに、また原発の危険性を十分に検討せず、あいまいに妥協してしまったために起きた事故と言えるのではないでしょうか。

 なぜそうなったのでしょうかね。

>みなさんはどう思われますか?

 この質問も結果論として「こういうことではないのか」と言っているだけであり、そうだとしても、批評屋、批判屋の見解としてそれで終わるなら無益ですね。そのことを再確認したとして、それが同じ過ちを犯さないために役立ちますか?


話はそれますが、何か私に言いたいことはありますか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>なぜそうなったのでしょうかね。

それも含めて
どう思われますか?
という質問ということです。
言葉不足でしたかね。

>話はそれますが、何か私に言いたいことはありますか。

いえいえ滅相もございません。
お元気そうで何よりです。
  

お礼日時:2011/04/13 21:06

何の解決策も示していない無責任極まりない「仕方のない脳味噌の持ち主」による最低の見解ですね。



原発事故が起きるのは仕方がない。では事故が起きたら?

それを示して下さい。

それがないならこんな議論しても、それこと仕方がないでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>原発事故が起きるのは仕方がない。では事故が起きたら?

「諦める」しかないでしょう。
「諦めてるしかない」と言えるほど、事前の検証をしっかりとすべきではないだろうか、というのが主張の骨子です。
事後にいくら騒いでも亡くなった人は還ってきません。
しかも、なぜああしておかなかった、こうしておかなかった、という後悔や非難だけでは虚しいでしょう。

>それを示して下さい。

目立つように文末に、
「今回の事故は、こういった経緯を経ずに、また原発の危険性を十分に検討せず、あいまいに妥協してしまったために起きた事故と言えるのではないでしょうか。」
と書いているとおりです。

わかりにくければ、
「今回のような事故に至らないためには、こういった経緯を経て、また原発の危険性から目をそむけずに十分に検討し、あいまいに妥協してしまうことのないようにすることが重要ではないでしょうか。」
と書き換えていただいてもいいでしょう。

もしもですが、「こういった経過」の内容が伝わっていないようでしたら、再度ご説明さしあげても結構ですので、その旨お知らせください。
再度読み返していただければ、たぶんおわかりになるとは思いますが。
    
  

お礼日時:2011/04/13 21:32

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す