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先日、単行本(マンガ)の『おくりびと』を読みました。
その中のセリフに違和感を覚えました。

それは以下です。
(1)「人は死ぬときは皆平等だ」
(2)「どんな死に方でも、死は同じ死だ」

(1)は解釈の違いが生じるかもしれませんが、「人間には死が平等に(必ず)訪れるもの」と考えれば違和感はない。

(2)はそうではないと俺は思う。「どんな死に方でも、同じ死」なわけがないと思う。
極論を言えば、90歳まで生きて老衰で亡くなった方と、7歳で殺人事件に巻き込まれて亡くなるのは『同じ死』ということだ。
そんなバカな話があるか!!

皆さんは先の2つの発言、どう感じますか?
ちなみに、マンガ批判でも映画批判でもありません。

A 回答 (10件)

「死」を、テレビの電源が切れた時の沈黙、とすれば、それまでにどんな番組がやっていても、沈黙は同じ。

番組が中身が濃いとか薄いとか、人生の長さは個々ね。

「死に方」というと、沈黙におちる直前の状態の事になるので、それは個人で違うと思う。つまり死に方は「死」の中にはなく、「生」の最後を飾るエンディングなのでした。

以上から、「死」はやはり皆同じ、「生」は別々。
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#1の方と似ていますが、死は生との約束です。



母体から出てくる生も皆平等です.(背景は含みません)たとえ双子・三つ子で生まれることになっても命はひとりに一つです。

だから死ぬときも、1人でしか死ねないから平等ではないでしょうか?
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貴賎を問わず、死は必ずやってきます。


ですが、亡くなる場所が家なのか病院なのか、はたまた特養なのか高級老人ホームなのか・・・
たったひとりで身内もなく、病院関係者に看取られて亡くなるのか、亡くなってしばらくたって見つかるのか、大勢の家族孫親戚に囲まれながら亡くなるのか・・・
亡くなり方は、その人の「生き様」が反映されるような気がします。

もちろん亡くなる原因(病気、事件、事故、自殺)は人それぞれで、こればかりは予測が付きません。予測がつかないところは、ある意味平等と言えます。
ただ、2の意味を「死に様」ととらえたら同じ死ではありませんが、「身体的現象」とみるならば同じかも知れません。
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作品を読んでいないので前後が分からず的外れの怖れはありますが



「どんな死に方(経緯)でも、死(結果)は同じ死(結果)だ」

ということではないでしょうか。

90年かけてゆっくり行っても7年で駆け抜けても、行き着く先は同じところ。

本人的にも死の寸前までは違った想いがあるでしょうが、死が確定すればそこにあるのは両者とも同じ『無』だと。。。

※死後が『無』だと思っているのは私の勝手な推測です。
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 まぁ、受け取り方なんだけどね、二つとも事後を表している。

死と宣告された後であって、あなたの振り分けている死する前ではないのね。
(1)は、いずれ来る時間的な平等さ。天文学的時間から考えると、あるいは大人になってから感じる一生なんて一瞬という実感から考えると、生まれた直後で死ぬのと、大往生するのと、それほど大きな差はないかもと、確かに思える。
(2)は、死して後の物体は、死体であって、それ以上のモノではないという意味。故にペットも人も荼毘に出されて天に上っていく。その時の体は、殺しでも大往生でも事故死でも手を合わせて焼かれていく。
 と思います。
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>>どんな死に方でも、死は同じ死だ



どんな風に死んでも死んじゃったことに変わりない。
という意味ではそうですよね。でも、死に方、というとやはり違うかな。

私は父親を亡くして、その時、本当にたくさんのことを悟りました。
お金をためても、高級品を買っても、墓場まで持って行けない。っていうのはすごく実感したんです。
その時から、私は「旅人」になったのでした。
父の死因が、がんであれ、交通事故であれ、老衰であれ、確かに死んだことには変わりないから、死は死だ、というのも分からなくはないですけどね。
微妙。
一つだけ思うのは「ピンピンコロリで死にたい。」だけです。
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あなたの思考回路にも感服いたしますが、



死はたどり着くゴールです。
どんな道を通ろうが(死に方でも)ゴールはゴール。
というのは正しいと思います。

あなたが引っかかっているのは
死に方のことですが、それって生き方のことです。
90歳まで生きて老衰で亡くなった生き方と
7歳で殺人事件に巻き込まれて亡くなった生き方では
「同じ生き方」ではありません。


カンニングしようと努力しようと合格は合格。
でも勉強の仕方は同じじゃないですよね。

この回答への補足

俺が引っ掛かっているのは死に方(死ぬ直接の原因)だよ。
生き方(内容)じゃないよ。

(2)は「どんな死に方でも同じ死」って言っている。
死は確かに同じだ。それはわかる。誰にでも平等に訪れる。
でも、プロセスが全く違うのに、それを「同じ死」とは到底考えられないんだな。俺は。

補足日時:2011/05/17 23:40
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この回答へのお礼

ところで、感服ってなんだ?皮肉か?

お礼日時:2011/05/17 23:59

(1)も(2)も文字だけを読むと納得は出来ません。



不死の人がいない限り、「死は」誰にでも訪れると言う意味では「平等」だと思います。

しかし、「死ぬ時」も「死に方」も平等である筈がありません。100人いれば100通りの「死ぬ時」「死に方」が有るのが当然で不平等・不公平は当たり前だと思います。

しかし、死んだ後(の肉体)は、誰でも平等・公平だと思います。(天国や極楽、地獄等の概念を持っていなければ・・・。)

天寿を全うしようが病死、事故死、はたまた殺害であっても其処にあるのは、物言わぬ肉体のみですから。
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そうですね。


1も2も同じ意味で書かれたセリフなんだと思います。

死に方で何かが違うとしたら何が違うんでしょうかね。
少なくとも「平等さ」をはかる事はできないように思います。

質問者様のあげられた、90歳まで生きて老衰で亡くなった方の場合、この人間を作り上げるのに90年もの歳月を費やしているのです。人間の命を値段にする事はできませんが、死ぬまでに要した金額は概ね計算できるでしょう。
一方、7歳で殺人事件に巻き込まれて亡くなった人の場合、おそらくですが、90歳の人ほどの金額には及ばないように思います。
このように考えると、90歳の人の方は、90年間分の費用が無駄にならずに済んだなと言う気持ちになりますし、7歳の人が死んだ場合は、なんとなく無駄金になってしまったなと言う気持ちになります。
これを、私の祖父母と私の子供にあてて考えた場合の例えです。
これは、死に方の話ではありませんが、このような方法でしか、私にはそれをはかる事ができません。
とは言え、90歳の方には、納得できますし、7歳の方には、かわいそうにと言う思いの違いはあります。
けれども、その前提に、私の場合、人は死ぬものだと言う確固たる考えがあるので、死は死で同じである、と言う考え寄りです。
人の話しかしなければ、そんなものだと思います。
すべての生き物を対象に考えれば、また、少し違った考え方もあるように思えます。
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1は誰しも納得できることだとしても、



2は、読んだ人が、「なぜ人格や本人の行為に関係なく死に方は違っているのか。そこには明らかに不公平があるのに、漫画の作者は同じ死 という現象として扱っている。(かのように描かれている。)だから、違和感がある」

と思われたのでしょうか?わたしもそう思いました。
ただ作者の意図は、冷たい感じの描きかたや言い方ではなく、「どんな死に方をしようが、人間の想像や推測を超えたものがあるのではないか」と思ってるようにも受けとれます。やや仏教的な捉え方なのかなと。無念で残念な死(早世された方の死)と、そうではないように見える死も、命が終わりを迎えるという意味で同じ死なのだと。かといって作者は論理的な意味だけで言ってるようには、わたしは思えませんが。。
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