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小説好きの人が海外文学は名作が多いというのをよく目にします。
質問なのですが、海外文学は英語を日本語に翻訳したものを読んだとしても、名作としての価値を落とさず素晴らしさを認識できるものなのでしょうか。
というのも、小説では、小さなニュアンスの違いでも

たとえば、今まで下らないと思って読んでいた小説を、作者がこういう意図があって書かれているんだよと知った後に読んだら感動したという経験もあります。

まして、名作と言われる作品は、無駄な文章や表現がない。あったとしても計算された形になっていると想像します。

たとえば、クラシックは詳しくありませんが、全く同じ楽譜を見て演奏しても、世界的に有名なピアニストが引いた曲と地域のコンクールの優勝者が演奏したのでは感動が違うと思います。
翻訳者の方も、文学力は優れていると思いますが、何十年、何百年といった時間を超えて語り継がれる文豪の表現したいことをフルに伝えて翻訳出来ているのでしょうか。

気になったのですが、海外文学の素晴らしさを分かる人というのは原文で読んで、
名作と呼ばれる作品は、文章構成が素晴らしいのでしょうか?
内容が素晴らしいのでしょうか?
それとも、一文一文の小さなニュアンスが素晴らしく、全体として素晴らしいものになっているのでしょうか?

私に名作を理解出来るだけの読解力、感性がないだけなのか、原文で読んでいないからなのか気になり質問させていただきました。
海外文学は数冊しか読んでいませんが、個人的には日本文学の方が感性に合います。

A 回答 (5件)

NO.4 です。


微妙に前回答がご質問とずれていたようなので、捕捉させていただきます。

>海外文学は英語を日本語に翻訳したものを読んだとしても、名作としての価値を落とさず素晴らしさを認識できるものなのでしょうか。

わたしは、出来ると思っています。例えば森鴎外の「即興詩人」などは、翻訳によって原作よりも良くなったと言われていますが、これは例外てきなものあのでしょう。
本来、文学作品は言語芸術なので、母国語以外の意訳で完璧にその価値が味わえるはずはありません。そこはあきらめるか、外国語を懸命に学んで母国語同然の能力を獲得する以外にはないでしょう。

しかしそうするには大変な努力が必要ですし、海外の文学は英語、仏語、独語、露語などさまざまであり、それら全部に通暁するにはよほどの才能をもったひとでも一生掛けて努力するしかないでしょう。不可能に近いことです。
それを考えれば、読むのを諦めるよりも今ある翻訳された作品を読み、それからの感銘を得るほうがずっといいのではないでしょうか。

>海外文学の素晴らしさを分かる人というのは原文で読んで、
名作と呼ばれる作品は、文章構成が素晴らしいのでしょうか?
内容が素晴らしいのでしょうか?


私自身は原文で読む能力はありませんが、私見ではやはり内容そのものの面白さ、筋立てに彼らの人生観や世界観が盛り込まれていて私自身の考え方に広がりができると思いました。

>一文一文の小さなニュアンスが素晴らしく、

当然ながらそういった文章そのものを味わうには原文で微妙さを読むしかないと思います。しかし、外国語の詩なども多くが翻訳されていますし、そういったところも良い翻訳家は極力日本語にうまく移すことを心がけているだろうと思います。
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伊藤整というひとのエッセーだったと思いますが、彼は一時高名だったベストセラー小説家で、英文学者で翻訳もやっていましたが、「海外の小説を読むときは他人の翻訳で読むのがふつーだ(もちろん自分も)」と言っていました。



これを一般化できるかどうかは疑問ですが、わたしはそんなものだろうと納得しました。

一流の翻訳家でも、日本の小説を読むように自在に海外の、特に凝った文体の一流小説家の作品をすらすら読む能力を持ったひとはほとんどいないのではないでしょうか。

つまり

海外の文学を普通の日本人がしっかり読むには一流の翻訳家が訳したモノで読むしかない、ということです。

時には変な訳もありますが、ほとんどの場合、海外の文学の日本訳は、その原作の味がよく伝わるように訳されているはずです。

トルストイもドフトエフスキーも、チェーホフも、トマスハーデーもシェークスピアもエミリーブロンデも、ロマンロランもトマスマンもヘッセもリルケも、フローベールもスタンダールも、エドガーぽーもモームもメルヴィルもみなわたしは翻訳で読みましたが、寝る時間もなくなるほど面白い経験でした。
詩以外はおおむね翻訳で楽しめるものだと思います。

海外の名作は日本文学とは異なったもので、スケールが違います。読まねば損です。
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>フルに伝えて翻訳出来ているのでしょうか。



質問者のall or nothing的な発想に違和感を覚えます。

学校の成績が0点から100点まであるというのはその両端に振り分けるという

のが目的ではありません。大部分はその途中に入っています。

翻訳というものの点の定義は難しいでしょうが、巧拙があるのは明らかです。


>私に名作を理解出来るだけの読解力、感性がないだけなのか、原文で読んでいないからなのか気になり質問させていただきました。

自分で原文と誰かの邦訳を読み比べたらどうですか。そもそもこの質問の趣旨は何で、人の意見を聞いてどうしたいのですか。

売れっ子の推理小説を除いて、現代の純文学のジャンルでは著者の名前は知られていても邦訳されていない小説が数多くあります。トニー・モリソンというアメリカの黒人女性はノーベル文学賞をとっていますが邦訳されていないものの方が多いでしょう。彼女の小説を読むと確実にアメリカに対する見方が変わります。

英米の作家なら何とか読めても、ドイツ人やランス人の作品はドイツ語またはフランス語を大学で履修したような人を除いてまずは原文では読めないでしょう。カフカやカミュの作品を読んだという人は専門の研究者を除いて大部分邦訳を読んだのでしょう。
多くの日本文学はそれらを日本の風土に合わせて味付けを下にすぎないとも思われます。いずれにしろ外国文学の多大な影響下で日本文学は育ってきたのであって、日本語で取り入れるか原文で取り入れるかの違いにすぎません。それらが100%一致していないといけないという質問者の根拠は理解不能です。
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 序論;さらば、文学談義 ~ わたしの読書論 ~
 
 日本文学は、かつて日本語を読める読者のためだけに書かれました。
 欧米文学は、国境を越え、異民族や異教徒に対しても書かれています。
 中国文学は、漢字文明とともに衰亡し、いまや誰も継承できません。
 
 未来言語は、アジア系英語人口が首位を独占すると予測されています。
── わたしは(略)翻訳ソフトが理解できるように心がけています。
http://my.chiebukuro.yahoo.co.jp/my/gswyn755 (三行革命宣言)
 
── わたしの東西文化論序説(過去回答より)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5170483.html (No.3)
 不易流行 ~ 復興なき進化の概念 ~
 
 本論;文系文学から理系文学へ
 
── 「本を読む人と書く人がいる。私は書くほうだ」
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/B000 …
── コールドウェル/田中 融二・訳《作家となる法 19650720 至誠堂新書》
 
── 「わたしの研究室では、来年の課題を“文学”と決めることもで
きます」(略)化学者は、小説家が“化学”というテーマでは小説を書
けないことを、ずばり指摘してしまったのです。
 
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4149869.html (No.3)
 理系文学待望論 ~ さらば、余りに文系的な文学談義 ~
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5815376.html (No.1)
 
 余論;通説・俗説・俗信からの脱却
 
>有名なピアニストが引いた曲と地域のコンクールの優勝者が演奏<
 「音楽は国境を超える」と対立する、根づよい俗信にすぎません。
 古典音楽の演奏家は、口承文学における朗読者のような役割です。
 
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7192157.html (No.1)
── 音楽の抽象性・独立性を論じた歴史的な論考です。
http://q.hatena.ne.jp/1200746273#a796106
 
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 どの程度本を読んでいるか、どの程度文学について知識があるかによって、回答の仕方が変わってくるのですが。


 その辺の情報がわからないので、とりあえず広めの回答をしておきます。

 日本語に翻訳すると、元の言語の背景にあったものが失われてしまうので、それを忠実に捉えたいのであれば、原語で読むべきです(もちろん、その国の文化をよく知っておくことも重要。住んでみるとか)。
 たとえば『シャーロック・ホームズ』シリーズだと、アメリカなまりの英語がよく使われるのですが、こいつは日本語に翻訳できません。日本の方言にしてみるなどの方法で無理になんとかしようとすると、かえって変になる。

 そういう意味で翻訳された作品は、原作にあった何かをいろいろと取りこぼしてしまうのですが、その代わり、別の言語から日本語に輸入された作品としての価値を新たに得ます。つまり、日本語に翻訳された海外文学は、その時点で日本文学として取り込まれているのです。
 翻訳された海外文学を読んで「素晴らしい」と言う場合、日本語で書かれた作品として「素晴らしい」と言っています。それは原作の評価とは、厳密に言えば異なります。つまり、原文で読まないと理解できない「素晴らしさ」とは別のものです。
 イタリアのスパゲティと、日本に輸入された「スパゲティ」という料理は、やっぱり何か違うはずですよね。日本の料理として輸入された際、ある程度日本人の味覚や日本の風土・文化に合った調整や改良が成されているはずです。原作と翻訳の関係はこれに似ています。
 そして、日本のスパゲティを「うまい」と感じることは、イタリアのそれを「うまい」と感じることとは別ですけど、だからといってそれが偽りだとか、ダメだというわけではないですよね。

 具体的に何が素晴らしいのかは作品や読む人によって異なるので、ここで一概には言えません。あなたが何を「名作」と呼んでいるかも分からないですし。
 作品の価値は相対的なもので、絶対ではありません。「名作」は誰にとっても「名作」ではありません。だから「名作」を名作として理解できないなら、「名作だ」と言っている人に尋ねるのが一番です。その結果、なるほど名作だと思うか、やっぱり納得できないかはわかりませんが、少なくとも、自分とは異なる視点からの読解を知ることは、自分の視野を広げる手助けにはなります。

 ちなみに、言語の違いによって落とされてしまったニュアンスは、解説や論文、注釈を読むことで、ある程度補完できます。
 くだらないと思っていた小説が、解説を読んでニュアンスを理解したら感動できたという経験をお持ちなのですよね? 同じことが海外小説でもある程度はできるわけです。

 海外の作品が読みにくい原因はいくつかありますが、主に、相性の悪い作品を読んでいる、読み慣れていない、翻訳された日本語が古くて合わないと、三つの原因が考えられます。

 相性については、海外の作品にも当然いろいろあるわけで、ゴーゴリは好きだけどトルストイは嫌いとか、そういうことは当然あります。いくら日本文学が感性に合うといっても、全部が全部合うわけじゃないですよね。
 有名だからと何の脈絡もなくドストエフスキーに手を付けて、海外文学は苦手だと思い込んでしまう人は結構います。単にロシア文学が合わないだけで、イギリス文学を読んでみたら面白かった、ということだってありえるわけです。

 読み慣れていないというのは、日本文学でもろくに長い作品を読んだことがないのに、有名だからといきなりドストエフスキーの長編に手を付けて挫折して、海外文学は苦手だと思い込んでしまうようなパターンです。
 ロシア文学に手を付けるならゴーゴリから入った方が絶対に楽ですし、ドストエフスキーなら、いきなり長編よりも『貧しき人々』や『地下室の手記』あたりから読んだ方がいいでしょう。そもそも文学作品に手を付ける前に、ポーやドイル、クリスティなどの軽い作品から入って、翻訳もの独特の文体に慣れればいいのです。

 翻訳が古いというのは盲点で、たとえば『白鯨』なんか、私は以前は全然読めなかったのですが、読めなかった原因が図書館にあった1940年代に訳された本で読んでいたせいで、講談社文芸文庫から出た千石英世・訳版を買って読んだら難なく読めた、ということがありました。翻訳物だけはケチらず、なるべく新しい訳のものを買った方がいいです。

 なお、名作だから無駄がないとか計算されているというのは、端的に間違いです。フランス文学は過剰な緻密さが無駄ですし(フローベールは「この一文を書くのに一日かかった」と自慢したという逸話すらある変態。それだけ労力をかけても、生前はほとんど評価されてない)、ロシア文学は冗長さと混沌さがウリ(ドストエフスキーやトルストイで挫折する人が多発する原因はまさにロシア風味のせい)。カフカの『城』なんかはもう、最初から最後まで読むだけ無駄な作品です。なにしろ、主人公がいつまで経っても城にたどり着けない様を延々と書いているだけの作品ですから(その無駄さがたまらんのですけどね)。スターンの『トリストラム・シャンディ』は読む人を馬鹿にすることに全身全霊を傾けた作品。『白鯨』は何の脈絡もなく鯨に関するうんちくが延々と挟まりますし、まあ、そうですね。名作と呼ばれる作品の多くは、緻密でも完璧でも計算高いわけでもなくて、変なんです。
 普通の小説を読み飽きた連中が刺激を求めて読むのがアレであり、高尚でもなければ誰もが理解しなければならないものでもありません。むしろ理解できる方がおかしいのです(生前に全く評価されなかった作家も多い。つまり、プロの批評家でも理解できない作品だということ)。
「名作」とは、普通の小説とは違うことをしているから「名作」と呼ばれるのであり、それは言い換えればかなり変な小説だということです。変な小説は普通の尺度では測れないですら、完璧もなにもありません。測定不能です。
「名作」という言葉に抱いている幻想を捨てて読めば、あるいは面白さがわかるかもしれませんし、分からなくても「そんなものだ」と思えるかもしれません。
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