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例えば、浮気されたら

・気持ち悪い
・いやらしい
・いかがわしい
・こんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い

となるのではないでしょうか。

だから、お化けになるような情念は罪悪感からの幻想ではないかと思うのですが。
違うのでしょうか。

A 回答 (11件中1~10件)

 人が伴侶や恋人に浮気をされてそのように考えるとしたら、その人は伴侶や恋人の事を真に愛してはいなかったのでしょう。

それどころか、その人は恋人や伴侶に対して関心すら持っていなかったとすら思えます。

 それはともかく・・・
 お化けが「人間の巨大な情念が形を成したもの」というような説明をされることがあるので、情念の存在とお化けとをつなげて考えておられるようですが、情念の実在とお化けの実在はそもそも別問題です。
 「情念」そのものは現在は心理学上の用語として定義されており、数値化・計量化はされないものの観測可能な事象として確認できます。よって存在します。

 それが「お化け」に結びつくかというと、全く別問題です。
 問題を一緒くたに考えず、一つ一つ丁寧に分けて考えるべきです。マクロ的視点からまとめて考えるのはその後にした方が良いでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

失礼いたしました。

>人が伴侶や恋人に浮気をされてそのように考えるとしたら、
>その人は伴侶や恋人の事を真に愛してはいなかったのでしょう。
>それどころか、その人は恋人や伴侶に対して関心すら持って
>いなかったとすら思えます。

この部分を、とてもお聞きしたいです。
例えばもう消えてしまいたい。存在をなくしてしまいたい。(死んでしまいたい)
とか思ったとすると、愛していて、関心も持っていたといえるのでしょうか。

お礼日時:2012/05/26 21:41

だから、お化けになるような情念は罪悪感からの幻想ではないかと思うのですが。


違うのでしょうか。

○ちょっとちがいますね。
情念というのはいつの時代にでもあるのですね。言葉も言い得て妙ですね。情は愛情の情ですね。念は執着した状態のことですね。つまり、愛情に執着した状態が情念ということなのです。
江戸時代では、火をつけてでも会いたいと江戸を火の海にした八百屋お七なんかが有名ですね。近代では阿部サダ事件とか、情念にまつわる例は多いですね。
例えば、「浮気されたらこんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い。」となるようでしたら情念はありませんね。私の亭主を寝取ったと、包丁をもって相手の女のところに押しかけるような人は、情念がありますが、決して良いことではないですね。
何が悪いかは、愛情の情が悪いのではなく、執着するような念がよくないのですね。執着しすぎは、まあ愛情に限らず例外なく悪なんですね。仕事に執着、学歴や地位に執着、モノに執着、家に執着、家族に執着・・・など。これらはみんな幽霊になる主な原因ですね。つまり、幽霊になりたいなら執着すればいいんですね。
情念で幽霊になると、男は女を追いかけ、女は男を追いかけ、いいことないですね。また、家に執着している人はいつまででも家にいますよ。おじいさんやおばあさんが仏壇に住んでいるしたらどうですかね。家を売れば、前の所有者の幽霊付きはいやですよね。
河の水の流れのようにさらさらと水に流していくことが幽霊にならない方法ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

執着っていうと、執拗にこだわるということですよね。
ということは、それでもまだ嫌いになっていないということだと
思うのですが。それほど愛情が深いからということですよね。

それほどの愛情があるのだったら、幸せになってほしいはずですよね。
もう心はこっちにないわけですから。包丁でおどして、心を取り返せ
ませんから。きっと「こわー」って思われて、もう本当にそこからは
嫌われちゃいそうじゃないですか。
絶対に嫌われたくないと執拗にこだわって考えるのも執着のような、
気がするんだけど。

どっちも執着ってことでしょうか、さらさらとしてないですよね。

本当にさらさらするには、どうしたらいいのでしょうか。

お礼日時:2012/05/26 22:24

>どっちも執着ってことでしょうか、さらさらとしてないですよね。



○どちらも愛欲であって、愛じゃないんですよ。愛の本当の意味は、相手に良くなって欲しいという気持ちなのですね。自分中心の愛は、すべて欲ということですね。愛欲は愛ではなく乾きですね。乾きには何を注いでもまた、乾くものです。
>本当にさらさらするには、どうしたらいいのでしょうか。
自分がしてもらいたくないことはたいてい相手もしてもらいたくないのですね。逆に自分がしてもらいたいことは相手も喜ぶのですね。
男の操縦は本当に簡単なことなんですよ。いってらっしゃい。おかえりなさい。お父さん一日ごくろうさまでした。あなたには才能がある。おとうさんはすごい。こんな言葉だけで、男は一生懸命働くのですね。一目散に家に帰ってきますよ。近づきすぎず離れすぎずという間合いも必要ですね。まずは褒め上手が本当の愛を理解するための一歩ですね。
愛とはね、こんなことを実践するだけでいいんですよ。これが、さらさらなんですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

相手に良くなって欲しいという気持ちからくる、実践ということですね。
これがさらさらのもとということですか。

これって、とんちんかんな人は間違った実践してしまうかもしれません。
それをさけるには、結局、認識を深めるという方法しかないのでしょうか。
認識が間違っていると、そこからくる関係も間違ってしまいますよね。

どうなのでしょうか。

お礼日時:2012/05/27 22:02

おばけにつながる部分がよくわかりませんが


気持ち悪いと感じることは正常かと思います。
ただし、私から言えば、私も含めて人間のおよその活動そのものが気持ち悪い。
お互いに気持ち悪いわけですから寛容さが大切と思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「気持ち悪い」という感覚は以前から私も気になっていました。
それは、距離を遠ざけますよね。

その為の、身だしなみとか、礼節なんでしょうか。

でも、この人は「どう見ても気持ち悪いなあ」って
言われそうな人は(もしかしてわたしも?)かわいそう
ですよね。
ああ、だから慣用さが大切だってことですね。

おかげで「気持ち悪い」感覚の整理ができました。

お礼日時:2012/05/28 12:53

愛情が深い人は相手の気持ちや幸福を優先します。


だから自分がフラレても、相手を許します。
人類愛や生物愛が強いからです。

一方で、恋愛感情に縛られる人は相手の心まで縛りたがるものです。
恋愛感情は相手への愛情とは反比例しがちです。
相手の幸福より自分の幸福を優先します。

「お化けになるような情念」は束縛したがる恋愛感情です。

相手にそれがありすぎると辛いでしょうが、無さ過ぎても辛いものです。


自分の感情が、恋愛感情なのか愛情なのかを知る術もありますよ。
自分が先に死ぬ定めを想い描いて、相手もあの世に連れて行きたいなら恋愛感情です。
自分が死んだ後の相手の幸福な生活を心から願えるなら、それは深い愛情です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「あの世に連れて行きたい」というのは、特別な人の感情かと
思っていました。

それは、本当でしょうか。
そんなこと考えるのは、男の人だけじゃないのでしょうか。

本当に聞いたことがないです。

本当ですよ。

お礼日時:2012/05/28 12:57

お化けって幽霊の事ですね。



私の祖父の話ですが、長年連れ添ってきた祖母が
他界しました。
その後、祖父の部屋に祖母が訪ねてくるように
なりました。
祖父の話では、着衣の模様まではっきり識別出来た
というのです。
頭がおかしくなったのか、と医者に相談したところ、
そういう人は多い、という話でした。
何でも、脳に焼き付く、という現象が発生する
そうです。
時間が経てば見えなくなる、と言われ、その通りに
なりました。
怪談などというものは、こういう処から発生したの
でしょう。

だから、幽霊てのは罪悪感からの幻想だけでは
ない、と思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なんか、じーんとくるいい話ですね。

最近思うんですが、ピノキオが再開したのは、
お墓じゃなくて、本物のゼベット爺さんで良かったって。

死者におもいをはせることも、大切ですけどね。

お礼日時:2012/05/28 13:01

 No.1で回答したものですが、恐らく質問の主題からは離れてしまうと思いますが、お礼を受けて再回答します。




>例えばもう消えてしまいたい。存在をなくしてしまいたい。(死んでしまいたい)
>とか思ったとすると、愛していて、関心も持っていたといえるのでしょうか。

 愛していて、関心を持っていた可能性はあります。しかし、同時にそうではない可能性もあります。人の心理は単純ではありません。

 一口に「愛」といっても多くの宗教や哲学で説明されているように、そこには様々な種類の愛が内包されています。それら多種多様な愛に共通する部分を愛の本質として捉えるならば、それは対象となるものに深い関心を持ち、かつ自分に身近に感じることです。より具体的にはそのものの成功や名誉を自らの誇りとし、そのものの失敗や恥辱に忸怩たる思いをし、そのものの幸福に喜びを見出し、そのものの不幸を嘆く。同時に自らの喜怒哀楽をそのものも共有してほしいと願う。つまりは自分自身と同一視する、あるいは己の半身とする。そのものの存在、あるいはそのものが存在することに責任を持つ。

 では、それほど究極的なまでに身近な存在が浮気したならば、つまり自分を裏切ったならどう感じるのか?
 もしそれまでの愛情が負の感情へ転化したならば、「気持ち悪い」「いやらしい」「いかがわしい」「こんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い」という感想を持つ程度では済みません。これらは所詮、赤の他人の裏切りに対して抱く感想です。
 他者を自分自身と同一視するほどの強い感情は、その対象に裏切られたら必ず同程度以上の強さで反転します。つまり恨みや憎しみに転化します。「可愛さ余って憎さ百倍」と言うでしょう?あれがそのまんまその通りに再現するわけです。そして、不思議なことに関心の強さそのものはほとんど変わりません。
 「気持ち悪い」「いやらしい」「いかがわしい」「こんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い」という、まるで他人事のような感想を持った程度で相手への感情が収束するということは、まずあり得ないのです。相手を責め苛み批判する言葉としてこれらの言葉が出てくることはありますが、根底にある負の感情はその程度ではありません。

 逆に負の感情に転化しなければ、そして尚も愛し続ける事を自ら辞められなければ、当然ながら「気持ち悪い」「いやらしい」「いかがわしい」「こんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い」などという感情は出てきません。
 相手の裏切りを受け入れられなければ、ただただ悲しみ、絶望し、それこそ「もう消えてしまいたい。存在をなくしてしまいたい。(死んでしまいたい)」と思うこともあるでしょう。
 相手の裏切りを受け入れ、なおも許容するほどの包容力があれば、「仕方ない」と諦めつつも尚も愛し続けることもあるでしょう。ただし、これはかなりのレアケースです。


 この問題を複雑にしてしまう厄介な要素が一つあります。「その愛情の真の対象は誰なのか?」ということです。

 極端な話ですが、世の中には自分しか愛せない人がいるのです。
 例えば恋愛をしていても、恋人を愛し恋人に夢中になっているのではなく、恋人に恋をしている自分を愛し恋愛している自分に夢中になっていたりするのです(「ああ、自分は恋をしている。まるで映画の主人公のようだ」・・・という具合)。思春期の子の恋愛の多くはこういうパターンですが、一生成長せずに大人になってもこのパターンから脱却できない人がいるのです。
 当然ながら多くの場合、当人はこのことを自覚できません。自分はあくまでも恋人を愛しているのであって、うぬぼれているわけではないと考えています。(稀に自覚しているナルシストも居ます。)
 こういう人の場合は相手に浮気されたり、幻滅するような場面に出くわすと「気持ち悪い」「いやらしい」「いかがわしい」「こんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い」といった感情を抱き、一気に冷めてしまうこともあります。同時に、前述したように相手を真に愛していた場合と同じように憎しみに転化したり絶望したりする場合もあります。
 相手を真に愛していたわけでもないのに憎しみに転化したり絶望したりする理由は、「その人を愛していた自分」を裏切られることで自尊心を傷つけられたからです。自分しか愛せない人は自尊心が非常に強いので、憎んだり絶望したりする傾向は決して少なくありません。(自覚しているナルシストは裏切った相手なんかおかまいなしに、裏切られた自分の悲劇に酔いしれる場合もあります。)

 愛情の対象が本当に相手なのか、それとも自分なのか?はハッキリと別れるわけではありません。通常は両方です。自分を愛せない人は他人を愛することも出来ませんから、相手を愛しているけど相手を愛している自分のことも愛しているのが普通です。
 相手をどれだけ愛し、相手を愛している自分をどれだけ愛しているか?という割合はそれこそ人により千差万別です。そして当人はどれだけ相手を愛し、どれだけ相手を愛している自分を愛しているのかという割合を正確に自覚できません。他者に向けられた愛と自分に向けられた愛の境界線は曖昧で判別不能なのです。

 それが相手であれ自分であれ、誰かを愛しており、その感情に突き動かされて何らかの行動をとる。そうした自分を突き動かす感情こそが情念の本質です。情念はその人を突き動かしますが、どの方向に突き動かすかは単純に決まるものではありません。また、情念に突き動かされた人が同じように行動するとも限りません。
 感情を制御することが出来る人と出来ない人がいるように、全く同じ情念に突き動かされたとしても、それを上手に制御できる人と出来ない人が居るのです。したがって、結果(一つの事象・・・例えば浮気・・・に接した人の言動)から、情念の有無や強さ等を測ることはできません。
 ある人が浮気をした伴侶を殺したとして、その人の情念が強くて殺害に至ったのかもしれませんし、単に理性が弱く感情を制御できなかったから殺害に至ったのかもしれません。
 ある人が伴侶に浮気され裏切られたのに何も積極的な行動をしなかったとして、その人に情念が無くて何もしなかったのかもしれませんし、情念はあったけどそれが自分に向けられていたから何もしなかったのかもしれません。あるいは理性が勝ったから何もしなかったのかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ブロジェロンヌさんみたいな長い回答なので、お礼に時間がかかってしまいました。
すいません。
あまがっぱさんが訪れてくれたので、すごく嬉しいんだけど、まだ時間がかかる
かもしれません。


一番理解に時間がかかった部分は「様々な種類の愛」と冒頭にあって、
「究極的なまでに身近な存在」または、
「他者を自分自身と同一視するほどの強い感情」

とあったので、この矛盾感が正直いって処理しきれませんでした。
なので、「様々な種類の愛」はとりあえず、ペンディング状態にして、

仰られている
「究極的なまでに身近な存在」または、「他者を自分自身と同一視するほどの強い感情」
という方がきっと回答者様のご意見の核の部分だろうと勝手にとらせてもらっちゃいます。
(つまり、この場合は博愛は除外して考えます)


「愛の対象への感情から突き動かされた行動」がイコール情念であると仰られている。

「感情を制御すること」とは理性だと思うのですが、

それと回答者様のご意見からは「情念の制御」=「感情からの行動の制御」ということ
だと思うのですが。

感情の強弱、感情制御の強弱、行動力の強弱、感情行動制御の強弱、他か自への感情の分配、
この五つのバランスによって、行動が決まってくるはずということでしょうか。

ここでとても気になったことは、感情制御(理性)、感情行動制御(これも理性の気がするのですが)

この制御という機能は、なんの為のものか考えてみると、
私としては、ただ単に抑制、抑圧の為だけではないと思っているのですが、
勿論、否定はしませんが、では何故どういう目的で、抑制するのかと考えると、
「正しい認識の為の思弁」をして、「正しい選択的行動」をする為のような気がして
なりません。
まあ、それだけともいえませんが、例えばとりあえず行動の決断を遅らせるだけの選択
かもしれない。

ただそう考えると(認識目的を考えると)前述した、「博愛」という概念もはいって
きちゃうきがするのですが。

きっと、わたしの理解不足もたぶんにあると思うので、

もし、宜しければ、理解不足についてと、また制御ということについても、
改めて教えていただけると有りがたいのですが。

お礼日時:2012/05/28 22:38

>>これって、とんちんかんな人は間違った実践してしまうかもしれません。


それをさけるには、結局、認識を深めるという方法しかないのでしょうか。
認識が間違っていると、そこからくる関係も間違ってしまいますよね。
どうなのでしょうか。

○結局、変われるのは自分でしかないのですね。
世界には30億の女性と男性がいますが、それは皆他人であっていないのと同じなんですね。でもその中からひと組のペアが生まれるのですから、不思議な関係といえば不思議ですね。親子のような夫婦、兄弟のような夫婦、同僚のような夫婦、教師と生徒のような夫婦などなど、いろんな関係がありますね。これは、他人目で見た関係ですが、実際は2人にしかわからないことですね。
でもその2人も結局は他人ですね。だから、変われるのは自分でしかない。ということになるのですね。
自分の心のみしか管理できないんですね。いろんな考え方を学び、実践を経て自分の立場を明確にしていくのでしょうね。自分がとんちんかんであれ、相手がとんちんかんであれ、縁があればペアになれますし、ダメな場合はどうしてもだめですね。背伸びしても見下してもダメですね。長い目で観ると自分の身の丈にあった人しか合わないようになりますね。はれてペアになったのなら、どうであれ褒めないとね。自分も相手も褒めていいのですね。伴侶を求めるには多少の知恵はいりますが、成就した場合は、どうであれ、さらさらと生きるのが最良の方法ということですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

mmkyさんらしい、すっきりと達観した意見に脱帽です。

これ以上、コメントがみつからないくらい。
すっきりしていますね、ありがとうございます。

お礼日時:2012/05/28 22:56

以下のように質問文を書き直すわけにはいかないのですか? 



「例えば、(鶴屋南北の四谷怪談でお岩さんが伊右衛門にされたように、あるいは円朝の真景累ケ淵で豊志賀が若い旦那の新吉にされたように) 浮気されたら (お岩さんや豊志賀の心情としては)

・気持ち悪い
・いやらしい
・いかがわしい
・こんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い

となるのではないでしょうか。

だから、(情念ゆえにお化けになるとすると)、(お岩さんや豊志賀には)お化けになるような情念は(ないかもしれず)(男らが古女房の情念の具現としてのお化けを見るのは男ら自身の)罪悪感からの幻想ではないかと思うのですが。違うのでしょうか。 」

質問の意味が上記のとおりでよろしければ、
(1)浮気されたら情念はどうなのか 
(2)お化けは情念の具現化か 
(3)情念のこもったお化けというのは見る側の罪悪感からの幻想か、
という質問だと思われますがよろしいですか。

答えとしては、
(1)人によりけり 
(2)南北や円朝にみるような物語の面白さはそこにあって、西洋で言えばロマン主義寄りの自然主義文学のようなもの。町人の日常や事情がリアルに扱われているなか、ドラマを牽引したり展開したりする動機は個人的な心理や心情となる。つまり牽引力となり展開力となるほどの情念を登場人物が持たないとならない。
(3)物語の位相ではそうはいえない。批評の位相にゆだねられる問題。歌舞伎や落語の怪談に関してなら言うだけ野暮。演じて楽しい、観て楽しいのは、罪悪感の物語ではなく情念の物語のほうで、さらに、髪の毛が伸びるまで恰好悪くて出てこられなかった、なんていう、情念よりも都合のいい話。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

あいかわらず、面白い意見だと思いました。

いつからアナーキーになられたのか。面白いなあ、やっぱり。
これも、これ以上コメントが見つからない。

懐かしい人が、訪れてきてくれて、嬉しかったです。

お礼日時:2012/05/28 23:00

ご質問の回答そのものではありませんが、



>浮気されたら

・気持ち悪い
・いやらしい
・いかがわしい
・こんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い

こういった気持ちになるのは、浮気した当人を第三者が見た場合に起こる思いだろうと思います。

また

>お化けになるような情念は罪悪感からの幻想ではないかと

これは、

お化けを見るような情念は罪悪感からの幻想ではないかと

と書き換えれば私にはしっくりきます。

さて

おっしゃる内容そのものを分析すると、

>・気持ち悪い
・いやらしい
・いかがわしい
・こんないやらしい人は気持ち悪くて嫌い

こういったエレメントはたしかにお化けというものの性状にあります。

ですから、お化けを見なければならない人は、(そのひとが犯した罪の犠牲者であろう)お化けになった人を見ているのではなく、
自分自身の情念の客観的なあらわれ(姿)を見ているのかもしれない、とも考えられますね。



情念は存在すると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そんな気がしていました。でも、何か振り出し感が。
わたしも、勿論いじわる言っちゃうときはあるんですよ。

女の人ばっかりおばけになってるじゃないですか。
男の人っておばけになるはなしはあるんでしょうか。

熱海でけったりしたのしか、見たことありません。

けらないけど、パチンて叩いたりして、終わりにするのって
いいかもしれないですね。

お礼日時:2012/05/29 22:28

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