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何故、ドン・キホーテは

「事実は真実の敵なり」

「一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために戦わないことだ」

と言っていながら、風車という幻想と戦うのでしょうか。

この作品が伝えたい事は何なのか、解釈の仕方、または、隠されているメッセージを、ご教授下さい。

A 回答 (3件)

私個人的な考えです。



「一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために戦わないことだ」

 この言葉を象徴しているのが、アルドンサとドン・キホーテだと思います。
アルドンサは、蔑まれた世界で生きています。そしてその人生をそのまま受け入れていた。
ドン・キホーテは、風車を悪魔と思うほどの狂気ではありますが、
弱気を助け、悪しきものを倒すという道を進んでいます。

 アルドンサの意識、ドン・キホーテの出現によって変わったのです。
ドン・キホーテは、アルドンサを姫と呼び、それにふさわしい扱いをしてくれた。
アルドンサは自分にも価値があり、自分でその道をあきらめていたことに気が付く。

今の人生に折り合いをつけて、流されあきらめる人生と、
理想を求めて、他人から理解されずとも進むべき道を歩む人生と、
どちらが愚かであるかを説いているのだと思います。


「事実は真実の敵であり」も全く同じことを言っているのではないでしょうか。
高貴な志や理想は、宿屋の下履きの女または、年老いた男という事実によって妨げられる。
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 昨晩の補足です。


この作品が「三重構造」(原作者のデール・ワッサーマン氏の表現ですが、実質的には「それ以上の多重構造」ともいえます、観客一人一人の目線が入ることになりますから)であるとの具体的な演出は、冒頭とそれに続く扮装シーンに表されています。
 吊り梯子から降りてくる人物はセルバンテスですが、彼が自らの申し開きをするために扮装をするやいなや、彼は一人の老人そして同時に彼が想像した人物に変身します。しかし劇中の人物に同化するのはあくまでも「仮想現実(虚構と言い換えてもよいでしょう)」であり、実際の彼が直面するのは「宗教裁判に喚問される被告」であるとの紛れもない現実(ドン・キホーテの言葉を借りるなら「事実」にあたる)です。
 時には、その老人が創り出す「理想像」を冷静に見つめ、そして時として不思議にも共感してしまうとの矛盾に満ちたともいえる言葉を発する。
 作品の終幕では、喚問されるセルバンテスに対し、牢獄にいる囚人達が暫しの猶予を求める台詞があります。それはなぜでしょう。
 キハーナの狂気を正気に戻す荒療治が功を奏し、キハーナは自らがキホーテではないことを自覚する。騎士など何処にもいないことを知る。けれどそれによって「理想を求めて流離うことの意味」を知る周囲の人間は、ドン・キホーテが非ドン・キホーテ化することに疑問と不満を抱く結果を招き、セルバンテスは「自らの意思」で作品の結末を「書き換える」との決心をします(ここからラストシーンまでがセルバンテスがドン・キホーテと同化し、観客を一気に引き込んでいく部分であり、この作品のクライマックスです)。
 人は生きる。これだけはいつの時代そして場所を問わない普遍の真理です。けれど「その中身」がどうかといえば、全てを貫くほどの抽象化も説得力を持ってして万人を納得させるほどの説明などもなされていないことの方がより現実を反映しているともいえましょう。
 当時のヨーロッパ社会の規範からすれば「宗教裁判」は死を意味します。あるいは物理的な死でなくとも社会からの抹殺を意味します。冒頭で吊り梯子を降りてくるセルバンテスが俯き加減であるのに対し、ラストシーンでは顔を上げて前を見つめ毅然とした態度で梯子を上がっていきます。対照的です。そこからは「自らが疚しいことなど何一つとしていない」との自負に溢れた者の息づかいが伝わってきます。
 演劇を含めた文学も絵画や彫刻などのアートには「これが正解」などの高校までの試験にある模範解答などはありません。一人一人の解釈に整合性があって完結していれば、それで可とされる世界です。ですから野暮は申しません。作品を恃んでいただければと存じます。
 
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 こんばんは。

日本でも松本幸四郎氏のライフワークとして知られ、長年の間に渡って上演されている作品ですね。私も83年以後、今日までズーッと拝見させていただいている作品です。
 さて作品中のこともご存知かと存じますが、大枠についてお話しします。この作品は三重構造の作品です。収税吏でありまた詩人でもあるドン・ミゲール・デ・セルバンテスは「職務」そして同時に「事実から言葉を紡ぎ出す仕事」に実直であるがゆえに、教会を差し押さえるとの前代未聞の行為に及んだとの科で宗教裁判所に投獄されます。
 彼が送り込まれた地下牢にはいつ行われるかとも知れぬ裁判を待つ罪人達がいて、そうした奇行を嘲笑する目的で「裁判」を開きます。セルバンテスがそこで選んだ方法は、自らの作品を即興劇の形で上演し判断を仰ぐとの奇抜なものであり、彼はアロンソ・キハーナという老人役を務める。そしてそのアロンソ・キハーナが「とある物語」を読んで自らを我欲に溺れた世の中を正すべく闘う「遍歴の騎士」と勘違いして旅に出る、との形です。
 この作品でキーワードとなるのは「理想と現実」「あるべきとあるがまま」の一見「対称関係」に見えるものが実は表裏一体、不即不離の関係でもあるとのシンプルではあるものの深遠な問い掛けともいえます。
 ですから、作品を語るセルバンテスの視線が時には評論家であり、時にはドン・キホーテに重なり、そしてアロンソ・キハーナであると変化していきます。けれどドン・キホーテは「実存する人物」ではなく、アロンソ・キハーナが描いた「偶像」であるといえます。
 従って、ここで最初の質問「風車(これは、キホーテからすれば、風車が巨人に見えるとの主観的事実を誤解している?)という幻想と戦うのでしょうか」との疑問に対する答が導き出されてきます。
 自らを遍歴の騎士と思い込んだ(或いは勘違いした)段階で、キハーナは「正気を失った状態」にあると、ドクター・カラスコは病理診断を下します。この部分で「理想主義」と「現実主義」の対峙を、劇作家としてのセルバンテスが描いている形です。ですからセルバンテスの目線が変化するとは、ひたすら理想を追い求める遍歴の騎士(理想主義)とそうする姿を精神に異常を来したとする周囲の常識的見解(現実主義)の両者を複眼的に往還することを意味すると僕は理解しています。つまり「セルバンテス=ドン・キホーテである場合」と「セルバンテス=ドクター・カラスコである場合」の両者が同じ作品の中で書き分けられているともいえます。
 
 >「事実は真実の敵なり」これは狂気に満ちた主を連れ戻そうとして訪れたカラスコと神父に対し、キハーナが応えた台詞です。この時のキハーナは正気と狂気が相半ばしている状態です。ですから「キハーナの思考」であるとも「セルバンテスの目線」を代弁しているとの何れとも解釈可能です。

 >「一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために戦わないことだ」これは明らかにセルバンテスの主張であり、この作品のメイン・テーマと呼びうる台詞です。
 この台詞は「狂気とは一体何だ。あるがままだけを見てあるべき姿を見ないのも狂気かもしれぬ。またあるべきばかりを見てあるがままを見ないのも狂気かもしれぬ。だが最も憎むべき狂気は、あるがままの人生に折り合いを付けてあるべき姿のために戦わぬことだ」として、何時の世にも「生きる目的や志を失わないことの意味」を観る者に問い掛けています。
 風車と戦うのは作品の冒頭であり、この段階ではまだセルバンテスの目線が何れに向くのかは提示されていません。後から考えてみれば、それは狂気の行為と判断できますが、なぜ彼がそうしたかを考えるのは観客一人一人に出された宿題ともいえます。
 流れに抗うことは日本では異端視されます(自らの意見を言うなどはその典型とも言えましょう)。それほど重いテーマであるともいえますね。
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