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年々、お正月三が日も商店・コンビニは開いており、街に晴れ着姿も少なく、門松や日の丸の旗を見かける場所は神社や官庁等に限定され、子供たちの服装や遊びも普段と同じように思え、テレビ番組や食卓のおせち&雑煮を除いては、冬休みの中の単なる普通の一日の暮らしの風景しかないような感じです。

そこで質問ですが、皆さんの発見・感動・驚きの正月風景、または懐旧談をお教え願えませんか?

A 回答 (5件)

確かに、お正月の風物詩が風化傾向にあり、どこか


寂しいような気がしますね。
私が子供の頃は、お正月には、凧揚げや駒回し、羽子板などを
して、遊んだものです。
しかし、今の子供はどうでしょうか?
外で遊んでいる姿すら見ることなく、家で、ゲーム。
普段の休日での遊びとは変わりませんよね。
やはり、お正月つまり、1年の始まりですから、お正月の
伝統的な遊びで、年初めとしてほしいものです。
ただ、そういう伝統は、継承されるものですから、若い人たちが
知らなければ、いずれ淘汰される恐れがあります。
ちょっと悲しいですが、それが、世の趨勢なのですかね。
私なんぞは、今だに凧はあげますし、羽子板もします。
ただ、周りを見ると、そんな姿がみえません(恥)
でも、死ぬまで私一人でも日本の伝統文化を守りたいと思います。
変ですかね?
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


>お正月には、凧揚げや駒回し、羽子板などを
して、遊んだものです。

たしか、お正月の歌「もういくつ寝るとお正月・・・」にもありましたニッポンの正月風景でしたね。

それが、時代が変わり、少子高齢化に伴い、凧はカイトに、そしてラジコンにも。
それは、時代や環境の変化に加え、近所の友達が少なく成り、広場が無くて遊べないのかも?

羽子板はバトミントンやフリスビーに、百人一首やいろはカルタはTVゲームや人生ゲーム等の屋内に変わっているのかも?
悲壮感のある死守とまでは言わずに、良い物は残り繰り返す楽しく味わってください。

お礼日時:2013/01/01 15:12

お正月は近くの母の実家で過ごすのが習わしで、まだ学生だった下の叔父やいとこと、


裏白を取りに山に行きました。松の小枝も、貰いました。
山は村のもので、人家もないところで、夢中で一生懸命ついていきました。
床の間の鏡餅の下に敷いたり、花道の先生だった母が、庭の花とアレンジして
立派な正月のお花にしたり、お正月はみんなでトランプをしたり、祖母が花札が好きで、
お正月だけ許されました。手七の場六なんて言葉も覚えました。
一番広い座敷で子供たちはごろ寝しました。
今から思うと祖母はみんなの世話を焼き、大変だっただろうなと思います。
思い出すと楽しい思い出なのに皆いなくなり、涙が出ます。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。

>裏白・松の小枝・山・村・人家・鏡餅・正月のお花・トランプ花札・・・
手七の場六なんて言葉も覚えました。
一番広い座敷で子供たちはごろ寝しました。
今から思うと祖母はみんなの世話を焼き、大変だっただろうなと思います。
思い出すと楽しい思い出なのに皆いなくなり、涙が出ます。

懐かしい言葉や単語、並べてみただけで、幼いころの思い出のお正月の香りや響きや息遣いが伝わって来るようです。
手七の場六(3人打ち?、2人は手八の場八だったか?)何て言葉を数十年ぶりに見つけて、私も小さなころの従妹や近所の悪童を思い出し嬉しい気持ちに成りました。

そうですね「思い出すと楽しい思い出なのに皆いなくなり、涙が出ます。」
誰が先、我が・・・との無常や宿命を感じつつ今を精一杯に生きよう!
先に行って待って呉れている父母友人知人が多く居ると思うようにしています。

お礼日時:2013/01/02 05:33

私が中学・高校生だったはるか昔、家では杵と臼で餅をついていました。


その頃は自動餅つき機(実際は、中の羽がもち米をクルクルかき混ぜるうちに餅になる感じ)が出回っている頃で、それでもペッタンペッタンついている音を聞いて、見ず知らずの人が垣根越しに“餅つきですか、珍しいですね”と声をかけてきたものです。
もち米を蒸して4~5臼くらいつきますが、つきたてはあんこや大根おろし納豆にまぶしたりして食べました。
薄く延ばして平餅、そのまま丸くしてお供え餅、中にあんこを詰めてあんころ餅など、いろいろと作った記憶があります。
もう両親はとっくにいませんが、その臼と杵は使われぬままいまだに置いてあります。

あとは凧揚げですね。
昔の四角い和凧ややっこ凧は後ろに2本長いピラピラをつけましたが、そんな中で衝撃的だったのは大きい血走っためん玉のゲイラカイトでした。
ビニール製の三角凧でほぼ真上に揚がる構造で、やたら高く揚がりました。
もちろんピラピラなどなくても安定性抜群で、NASAだかどこかが開発したアメリカ製というふれ込みに、当時の子供はワクワクして揚げたものです。
今では、凧を揚げる場所さえもなくなりましたね。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。

>私が中学・高校生だったはるか昔、家では杵と臼で餅をついていました。

私も、40年前くらいまでは、本家に親類が集まって数軒分の餅つきをしていました。
日にちは12月28日早朝(苦の餅と29日は避けてた)だったように記憶してます。

>あとは凧揚げですね。
すっかり見かけなくなりましたね。
凧上げ風景もTVで観る大会や名物行事の様な催事物のみ、お蔭で電線や樹木に引っ掛かっているのもありませんのは良いのだが・・・。

お礼日時:2013/01/01 17:56

こんにちは。



生放送配信サイトを見ていると海外にいる方のほうがきちんとしていますね。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。

>生放送配信サイトを見ていると海外にいる方のほうがきちんとしていますね。

望郷の念や愛国の心、アイデンティティから来る自然な帰属意識から伝統文化や生活様式の継承の志向が高いのでしょうか・・・
新しきものも取捨選択し取り入れ、古き良きものも大切にしたいものですね。

お礼日時:2013/01/01 17:06

3が日を外して、やや屠蘇気分が抜けかけている頃にきまって男二、3人の獅子舞いが来たことを記憶しています。

彼らがどこを根城にしていたのか、どこを回っていたのか、今となっては調べようもありません。半世紀前、丹後の海沿いの町です。ずっと帰っていませんので、今も回っているのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。

>3が日を外して、やや屠蘇気分が抜けかけている頃にきまって男二、3人の獅子舞いが来たことを記憶しています。

獅子舞は私も遠い遠い記憶であります。
そして怖くて泣きだし、夜も寝つけなかったような・・・純真な少年のおそらくは55年ほど前の日の思い出です。

お礼日時:2013/01/01 14:28

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