こんにちは、僕のかねてからの悩みを相談したいと存じます。
死刑制度、ようは悪人を殺すことについての善悪観念です、
僕は悪は滅びるべき、削除されるべきだと思っています、
もちろんこれは僕の主観での正義です。
一般的には善悪わかれますが、日本は法治国家ですので、
法が正義です、つまり法で認められた死刑は正義ということになります。
ですので僕が訪ねたいのは個人の、観念や思想での正義かどうかについてです。
悪人でも人だと言う人もいらっしゃるでしょう、
逆に僕と同様に悪は排除されるべきだとお考えになる方もいるでしょう。
反対派の方の意見は大体、悪人でも人だ、殺せばそいつも同じ。
といった具合ですが、根本的に僕の考えとは違います。
僕の中では、殺人自体に善悪の観念はありません、
対象が悪か、正義かで、称えるべきか、罰するべきかが変わります。
こうなると、次の意見として多いのは、正義は誰が決めるのかです。
僕も永いこと悩みましたが、おそらくいままでのこの疑問に当たった方々も、
ここで立ち止まってしまったんだと思いました。
つまり、皆が受け入れる正義を考えるから、何もできずに終わる。
ならば、自分が信じた正義の下、善悪を判断し、悪を削除すればいい。
皆に受け入れられる正義などない、ということです。
長くなってしまいましたが、僕の考えに関して、あるいは皆様方の意見を
僕にお聞かせ願えばと存じます。
僕に反対的な意見でも、もちろん歓迎です、貴重なご意見です。
が、茶化すようなものは無視しますのでよろしくお願いします。
No.12ベストアンサー
- 回答日時:
私自身、貴方と同じ考えで、悪人は死刑で当たり前と思っています
ただ、貴方と違うところはその考え方は違った角度から見ると悪である、ということを理解しています
貴方は他の回答の補足で「違った考えがあるのは当たり前」と答えています
その違った考えの人からすると私や貴方は「悪」となります
それでも行動する場合は、TVの必殺仕事人同様、正義であれど法の基に裁かれる「悪」となります
よく言われる言葉ですが「勝った方が正義、負ければ悪」ってことです
ちなみに私も「どっちでもいい」って嫌いです
これをいうヤツに限って、後になってから、なんだかんだと文句いうヤツが多いです
意志も考えもないなら最後まで文句も言うな!って思いますね
結論を言うと、
私は貴方とほぼ同じ考えですが、自分を正義とは思っていません
ご回答ありがとうございます。
おお、私とほとんど同じ考え方の方がいらっしゃいましたか、とてもうれしいです。
たしかに私は違った考えの者から見れば悪です、これは当然のことかもしれません。しかし、他の意見は違えど私は正義です。自分を信じていますし、私のアイデンティティはほとんどこれで保たれているので、これがなくなると生きている意味がなくなってしまいます。
私は、どっぷりとではないですが、神様はいると信じています、
神はどのように善悪を決めるのか考えたことがありますが、そもそも神の世界とこの世界の善悪の尺度が同じなわけないですし、もしかしたら神に善悪など無いのではないかとまで思ってしまったので、考えるのを止めました、
こうなると元も子もないので。。
兎に角、私に近い考えの方がいらっしゃって少し救われた気がします。
ご回答ありがとうございました。
No.14
- 回答日時:
僕なりの意見を述べますね。
まず最初に言いたいことは、人間は社会的な生き物である、ということです。
人間というのは一人一人違います。皆何かが欠けていて、皆何かに秀でている。
だから、人間は互いに協力し合って、悪く言えば利用し合って生きていっているわけです。お互いの欠点を埋め、お互いの長所を生かす。そうしていけば、一人で生きていくよりずっと楽ですからね。
でも、人間が互いに協力し合うというのは、なかなか難しいことなんです。なぜなら、価値観が一人一人ちがうからです。人によって、何が正しいとか何が間違ってるかとかは全く違っている。質問者様もよく分かっている所だと思います。
でも、そのままでは人間はまともに協力し合えないわけです。一人一人全く違うのでは、結束できない。だから、ある程度価値観を統一する必要がある。そのために、人は法を作った。
法はそれに反するものに厳しい罰則を与えます。なぜ罰則を与えるかというと、それが「悪い」ことであるからです。それが「悪い」ことである絶対的な根拠はありませんが、ともかくその法に従う人々は、当然それが「悪い」ことであると認識することになります。こうやって、法は人々の価値観を律するわけですね。
まとまった集団をつくるには、法は必要不可欠であると僕は考えます。法がまともに働かない場所を考えていただけば、それは納得してもらえると思います。
そして、それを鑑みると、「自分が信じた正義の元、悪を削除していけばいい」という質問者様の考えは、非常に危険な思想であると考えます。自分が帰属する組織の法=正義ではなく、自分自身の正義に従って物事を判断する。これは確かに強い考えだとは思うのですが、反面組織を破壊する可能性もあります。もし組織の構成員のうち数分の一でもこの思想を掲げれば、組織の破滅は免れないでしょう。
そのため、死刑制度に関しても、僕は法に従って行われるべきだと思いますね。誰かが決めた正義でも、それが組織を保っているなら、僕はそれに従うべきであると考える。そう結論づけます。お付き合いくださりありがとうございます。
ご回答ありがとうございます。
非常に丁寧で読みやすい文章でした、仰っていることもわかりました。
しかし、なぜ危険なのかがわかりません、組織(あるいは組織の秩序)を壊すからですかね、それとも削除行為自体か。いずれにせよ、独断ってところが回答者様の指摘されてるところみたいですね。
確かに、私の考えのみの決断では偏りも出るかもしれませんが、公平に公平にと皆が考え、時間が過ぎてその間に善人が殺されるのは私には耐えきれないことです。でしたら、己の正義を信じる者が、その正義を貫けばいい、そういう考えです。
ですが、私も法はある程度大事なものだと考えています。
ようは支配の方法ですね、法によって民を縛り、罰を見せることで抑制するか、悪を消し、数を減らすことで次は自分かという恐怖で鎮めるか。
いずれにせよ、丁寧に回答下さったことに感謝しています。
ご回答ありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
この質問は意見表明であって、質問じゃないから、運営削除される可能性があるわけですが、
そうすると、相談者さんの意見は、この場の悪として排除が遂行されちゃうんですよ。それは正義か?
相談者さんの考え方は、暴走族やテロリストの正義だと思うなあ。
自己肯定のため暴力を用い、社会的に明確な悪として認定される。正義がどこにもない主張。
結論が、そこに辿り着いたらなら、
思慮が足りないのではなく、世界が狭いので、選択肢がなくなってる。
しかたなく行使する正義は、善悪も正義も失っています。自分に言い聞かせている盲信なので論理が全くない。
反論を聞き入れろってのは無理な話なので、
世界を自分で拡張しない限り、正義の答えが出てくることも、認められることもないと思います。
ご回答ありがとうございます。
僕の多大な不備、申し訳ありません。
たとえこの場で僕が他の者から悪とされようとどうでもいいことです、僕の正義は正義であり、他が理解できなかっただけ、というだけです。
暴走族やテロリストの正義ですかあ、、、そうですか。。でも彼らの中にも私と同じように正義を貫いている者もいるわけですから、むしろ喜ばしいことなのかもしれません。
暴力も僕の中では悪に使えば正義、善に使えば悪という考えです。
正義はありますよ、私が持っています。
どうやら、ご回答して頂いた皆さまの貴重なご意見を拝見いたしましたが、私の考えは一般社会では受け入れ難いもののようですね。だからといって私の正義は変わりませんが、そのようなご意見を聞けただけでも、質問した価値はあったかと存じます。
私のような者の質問に2度もご回答していただきありがとうございました。
No.10
- 回答日時:
死刑制度の是非についてはここでは問題になっていませんね。
もちろんこれについてもさまざまな意見があるでしょうが、死刑制度が「正義」かどうかはここでは取り上げずにおきます。ここであなたが問題にしているのは「個人の、観念や思想での正義かどうかということです」という部分ですね。わかりやすくいいかえると「個人が人を殺すことが『正義』となり得るのか」ということですね。結論を先に言えば、あなたの考えは間違っている、ということになります。
あなたは「悪は滅びるべき、削除されるべきだ」と思っているわけですよね。
「対象が悪か、正義かによって、称えるべきか、罰するべきかが変わります」とも書いていらっしゃいますが、これは簡単に言えば「悪人は殺すべきだ」あるいは「悪人は殺してもいい」ということですよね。
しかし、ある人を「正義」か「悪」か、を誰にでも納得できるように判断する基準はありません。
確かに、例えば会社の同僚の山田さんが「正義の人」か「悪人」か、なんて決めることはできませんよね。
だから、ある人を「悪人」と判断して殺すべきかどうかは、各人がそれぞれ決めればいい、ということですよね。
法を犯した人は警察や裁判所に任せるとしても、それ以外の人々の中で各人が「こいつは悪人だ」と判断した人間については殺していい、ということですよね。これがあなたの主張の中心ですよね。
とすると、自分の希望する進路を認めてくれない頑固な父親を高校生の息子が「こいつは悪人だ」と判断して殺してもいい、ということになりますよね。
電車の中でイヤホンからカチャカチャと音を漏らしている青年を隣のおじさんが「こいつは公衆道徳をわきまえない悪人だ」と判断して殺してもいい、ということになりますよね。
調査捕鯨船の乗組員を、捕鯨反対運動をしている人が「こいつは悪人だ」と判断して殺してもいい、ということになりますね。
大型スーパーの店長を地元商店の店主が「このスーパーができたせいでうちの店は売り上げが激減した。こいつは悪人だ」と判断して殺してもいい、ということになりますね。
酒屋の店主を、「酒があるせいで世の中には悪事がはびこるんだ。酒がらみの犯罪はたくさんある。こいつは悪人だ」と判断した人が殺してもいい、ということになりますね。
「自動車があるせいで交通事故でたくさんの人が死んでいる。自動車に乗る人は悪人だ」と判断した人が、自動車を運転している人を次々に殺してもいい、ということになりますね。
こうなると、この世界に暮らしているどんな人でも殺される可能性があります。おちおち外にも出られなくなるでしょう。いや、家にいても家族に殺されるかもしれません。これはどう考えてもいい社会とは言えないでしょう。「いや、そうなってもかまわない」とあなたが考えるのであればそれはあなたの勝手ですが、それは大部分の人には認められないはずです。「正義」を各人が判断し、「悪人」を殺してもかまわない、という社会はその社会に生きる人々にとって極めて不幸な社会です。
また、AさんがBさんを「悪人だから殺そう」と判断したとしても、Bさんは自分を悪人だとは思っていない場合(まあほとんどの場合はそうでしょうが)、Bさんにとっては「悪人ではない自分を殺そうとするAさんこそが悪人だ」ということになりますから、AさんとBさんが殺しあうということになります。とすると結局は相手を殺す能力が高い人が生き残ることになりますから、この社会は「強い者が勝つ」社会になります。こんな社会も、どう考えてもいい社会とは言えないでしょう。
更に、自己の利益のために他者を殺した人が「いや、これは正義のために殺したんだ」と主張したらどうでしょう。当然罰することはできませんよね。「正義」という理由をつけていくらでも人を殺せることになってしまいます。これは最悪の社会になりますね。
上記のようなことから、「正義」の名のもとに人を殺してはいけない、とこの社会では決められているのであって、それは正しい選択だと思いますよ。
ひっくり返して言えばあなたの主張は間違っているということになります。
「皆に受け入れられる正義などない」というのは正しいのですが、だからこそ各人の判断する「正義」で人を殺すことを認めることはできないのです。
もちろん、個人の心の中を無理やり変えることはできませんから、殺人を犯して刑に服している人が「俺があいつを殺したことはどう考えても正しいことだった」と確信している、という状況は考えられます。あなたが人を殺して「自分は自分の『正義』の基準に基づいて『悪』を『削除』したのだ」と信じ続けることができたと仮定すると、これは簡単に言えば「あなたの勝手」ですから私たちには何とも言えません。それはここに質問するまでもないことですよね。ただ、上に述べたような理由で社会としてはそのようなことを認めることはできないのです。
ご回答ありがとうございます。
少し誤解が生まれているようなので訂正いたします。
>自分が信じた正義の下、善悪を判断し、悪を削除すればいい。
というのは各々がではなく、僕が、です。
僕はそれだけ正義に自信がありますし、どうせどんな正義も批判しようと思えばできます。
もし僕の親が悪いことをすれば僕は必ず削除するでしょう、もちろん親と仲が悪いわけではありませんが、それが正義だからです。
私利私欲の正義では断じてないこと、僕は本心から正義のありかたを切望し、正義に染まった世界を切望しているだけです。
無論貴方の意見では、僕の判断による正義などもはや論外でしょう、ですがそれでも僕にとっては絶対の正義です。
どんなに小さなことでも、普通は無視すれば済むことでも、悪いことなら駄目、すぐに削除。それが正義だと信じています。
これとは別にご回答者様のご意見も大変参考になりました。
ご回答ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
世の中を善(=正義)と悪とに分けるとすれば、世の中の半分か、それ以上は悪です。
1人の人間の内面にも善と悪が存在します。
そんな状態で善悪を基準に物事を考えるのは無意味です。
善か悪か、を基準にすれば、そのバランス感覚は個人によって異なり、質問者さんのいうとおり、人それぞれ自分の善悪観を押し付けあって、基準が定まりません。
ですから人間は、法という概念を作って、最大公約数的に社会を平和にしよう、としているのです。
ですから対象が悪か正義か、というのは、法の下では問題ではないのです。
法に違反しているかどうか、が問題なのです。
ものすごくざっくり言うと、正義と悪とが、法という最前線で争っている、と言えるかもしれません。
悪は法の基準を緩くしろ、といい、善は厳しくしろ、という。
法というのは絶対ラインなので、それを越えれば善だろうが悪だろうが関係なしに罰せられる。
法は正義でも悪でもない、機械のようなものです。
あと、注意しなければならないのは、死刑廃止論者が、必ずしも良心からそれを叫んでいるわけではない、ということです。
彼らは法曹界で自分達の主張を押し通し、それによって世間から手腕を高く評価される、それによって仕事や名声を手に入れることを目的にしています。
廃止論者だった弁護士で、自分の身内が実際に殺され、死刑肯定論者に転向した人もいます。
一般人が想像もつかないような悪が、この世には存在します。
死刑は絶対に必要です。
ご回答ありがとうございます。
確かに法の下での正義は不明瞭です。
もし世の中の8割が悪なら、その8割は削除して、残り2割で、生きよう、、というのが理想ですね。
ですが、このように書くと、残りの2割からまた悪が生まれる、という事を良く言われます。
たしかに善悪は一定の範囲において、ある基準から外れた者を悪としますし、たとえその悪を消しても、今度は残りの善の中から善悪を分けていってきりがないというのもわかっています。
ですが、僕はそれでいいと思います。
初めは特に悪い者、徐々に罪の軽いものまで、、と言う感じで削除すればいいのではないかと思います。
まあ、最も大事なのは思想より行動だと僕は思っています。
ご回答ありがとうございました。
No.8
- 回答日時:
”皆が受け入れる正義を考えるから、何もできずに終わる。
ならば、自分が信じた正義の下、善悪を判断し、悪を削除すればいい。
皆に受け入れられる正義などない、ということです。”
↑
1,万人に受け入れられる正義など存在しない、というのは
その通りです。
10人いれば、10通りの正義が存在することだって
あり得ます。
しかし、それでは正義の意味がありません。
正義だ悪だ、というのは、人間が秩序を造る為に考え出した
概念です。
秩序にとってマイナスを悪と名付け、プラスを善と名付けた
だけです。
そうやって悪には制裁を科して、秩序を維持しようとしたのが
善悪の概念です。
だから、個人が勝手に善悪を決めてよい、とするのでは秩序が
造られず、善悪の概念を定めた意味が無くなってしまうのです。
2,では、善悪は誰がどうやって決めるのか。
それは、時の政府、権力者が決める場合もありますし、
大多数の人の考えで決まる場合も、歴史的に決まっている
場合もあります。
現代の民主制国家では、歴史的通念に沿って国民の代表者が
法という形で決めています。
3,そもそも正義だ悪だ、という考えは西洋の考え方です。
つまりキリスト教に基づく概念です。
神=善 悪魔=悪
という訳です。
だから、正義論は欧米では盛んですが、日本ではどうも
しっくりこないのです。
どこか偽善的なにおいを感じるのです。
戦国時代、イエズス会の神父と日本の庶民との問答を記録した
文献が残っています。
そこにこんな問答があります。
「神だ、悪魔だ、善だ悪だ、というが、善悪など時代や立ち位置に
より変わるものだろう?」
神父はこの質問に答えられませんでした。
武士の支配が700年続いた日本では、善悪というよりも
己の行動が美しいかどうかで物事を決める傾向があります。
私はこの方がしっくりきます。
美しいかどうかは歴史的にそう思われているかが基準となります。
いじめは、美しくないから止めよう、ということです。
4,死刑については単なる善悪美醜で決められる問題では
ありません。
死刑にすることにより、秩序がどうなるのか、を科学的に分析
して決める必要があります。
フランスや英国では、死刑を廃止した途端、殺人罪が激増して
います。
カナダでは減少した、という報告がありますが、
これに対しては、数字のマジックだ、という反論が
あります。
また、一人を死刑にすることにより、8人の市民の命が
助かっている、という研究結果もあります。
ご回答ありがとうございます。
一部ですが、同意していただける箇所があってうれしいです。
歴史的、宗教的に言及して頂いてありがとうございます。
すごく端的に、乱暴に僕の考えを言ってしまえば、
共通の正義はない、だれかが正義を貫け、最後に残ったものが真の正義だ、誰もやらないなら私がやる。
といった感じです。
おそらくセレクティブメモリのようなことが起きているのでしょうが、
僕は今まで生きてきてニュースをみたり新聞を読んだりして、
罪のない人が悪により不幸になったり、命を奪われることがとても多いことが許せません。悪同志で勝手に殺し合いでもなんでもしてればいいのに善人を巻き込むのは駄目です。
そして、正義についてさまざまな資料を見ましたが、
結局は思想によって正義はちがうというようなことばかりでした、
頭の良い方はそれでもいいかもしれませんが僕は駄目です、
ちゃんと行動に移さないと意味がありません。
ので、聊か乱暴な考えになってきていることも否めません。
ご回答ありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
法と善悪は別ですよ。
法が正義というのは建前です。
それはなんとなくわかると思います。
あぁ、ちなみにぼくも、「悪には悪を」って考えですよ。
ただ、本を読んでて、「善悪なんて存在しない」っていう意見もあります。
そして、なんかこれも真実だなとも感じています。
人を殺すのを例に取りましょうか。
相当ひどい目に遭わされて、殺したなら、ぼくは同情します。
罪のない人を殺したら、もちろん死刑です。
でも、罪のない人っていますかね?
加害者本人には、害を与えてなくても、
たとえば10年前に恋人を裏切ったとか。
そういう事情が出た時、どう思いますか?
感情的には、加害者も被害者も死んで、せいせいした
ってところでしょうが。
もはや善悪ではなく、感情の問題ですね。
悪を裁くのが善なら、見方を変えれば、すべての犯罪者は善になってしまう。
結局、善悪ってのも、人が作り出した観念。
存在しないものを存在すると錯覚してるだけかもしれません。
「正義」って、言葉はぼくはキライでね。
「正義」ってのは、排他的な感じがします。
宗教戦争なんて、まさにお互いの歪んだ正義感のぶつかり合いだから。
悪を裁きたいという感情はあるが、正義は存在しない。
こんなところでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
法はあくまでも、公式での正義を一般的に示す例です。
例えばAがBを殺した、しかしBは以前に罪を犯していた、つまりBは犯罪者だった、ならAは正しいか?許されるべきか?
ということになったとすると、これは条件によってわける必要があります。
i)AはBが犯罪者だと知っていた場合。
これは無罪です、むしろ悪を消したので称えられる行動です。
ii)AはBが犯罪者だと知らなかった場合。
Bが犯罪者だと知らず、ただ殺したのであれば、Aは死刑。たとえ後からBが犯罪者だったという情報がでても、Aの考えでは普通の人Bをただ殺したのでAは危険人物(≒悪)ということで削除。
こんな感じでしょうか、もちろん僕の中の正義は、ですが。
ご回答ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
相談者さんの意見には、正義の言葉の定義がありません。
正義とは、ものすごく単純には、倫理の道。人として正しい理論が筋道だっているか。
だから
>対象が悪か、正義かで、称えるべきか、罰するべきかが変わります。
これは悪か正義かを感情論で判断していて、論理建てて判断できていないので、他人には正義とはいえません。
善悪は感情論の多数決であり、正義はどれだけ善悪が理にかなっているかの説得力。
正義は基本的に、悪を判断しないのです。善の肯定のみの価値観。
善の敵は悪という正義はありませんし、悪を罰するのが善ではない。悪いことをしないのが善。
相談者さんに、概念としての理解はあっても、言葉としての理解がないので、
皆に受け入れられる正義などないという間違った結論になります。
皆に受け入れられる正義は、作れないこともないのです。反論できないほどに幅広く細かにひとつひとつ理由をつければ。
その方法論のひとつが法律と契約。
長すぎて誰も全文を知らないから、一応の正義を誰にも説得できるし、批判があれば改定できる。
問題点として、バレなきゃいいだろという不正が起きます。これが悪。
キリスト教なども、もともと地獄という概念は存在しませんでした。天国の説得力を持たせるために作られた後付の設定。
>善悪は感情論のその場の多数決であり、正義はどれだけ善悪が理にかなっているかの説得力。
この善悪と正義の定義が微妙に違う、言葉のあやがあることで、正義の敵は正義として対立する衝突が起き、
正義の敵は悪であるかぎり、皆に受け入れられる正義は存在します。
ご回答ありがとうございます。
正義は普遍的なものではないので定義はできません。
他人からどう思われるかは気にしてはいません、そういうのを気にしているからいつまでも、悪が繁栄している、と思っています。
そして、皆に受け入れられる正義はありません、
批判されれば改訂して、、ではそもそも受け入れられていません。
歴史的とか、文化的、モラル的、宗教的、色々考えました、
僕が小さいころからずっと考えていますが、やはり、
そういう色々な思想から共通の正義なんか無い、というのが暫定ですが、今の僕の結論です。
だから僕の意見は間違っていると言う人もいて当然だと思います、それも万人に受け入れられる正義はないということからです。
思想は後から付いてくる、まずは行動。というのが最近至った考えです。悪い言い方をすれば後付けになりますね。
ご回答ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
善悪としてとらえるから、難しくなるのです。
法律は、多くの人が平和に幸せに暮らすための、ルールです。
ルールを破る人が現れれば、平和には、幸せには暮らせなくなります。
自分のために、他人を殺す人なら、次々と多くの人を殺していく用のなります。
そこに罰則がないのなら、自分勝手な人が増えて、殺人鬼が増えてくるでしょう。
殺人を犯す人を、取り除いていけば、多くの人が平和に暮らせていけます。
死刑制度は、多くの人を守るためのルールです。
殺人者を増やさないためのルールです。
自分は、殺されることがないと思っている、危機感のないひとは、この制度に反対かも知れません。
平和ぼけしているのでしょう。
ご回答ありがとうございます。
平和ぼけしてるんでしょうね。僕もそう思います。
法律は一般論の例ですが、
善悪は僕の中ではとても重要なんです、これで生きてるようなものです。
絶対的な正義が広まれば、人々は従うはず、、、考えが甘いですかね、
性善説を僕は信じていますが、僕も平和ぼけしてしまっているのでしょうかね。
ご回答ありがとうございました。
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