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No.4
- 回答日時:
こんにちは。
質問内容に対しては先の回答にて網羅してると思っていますが、私へ問いかけ在りましたので意見を記します。
(1)他人を感動させる体験(戦争、天災、病魔による肉親の死など)」を持っているか持っていないかという、およそ作句とは異なる次元の要素が、句の良し悪しを決めてしまうのではないかという点です。
→そんなことはないでしょう。それが作品を鑑賞に影響するのであれば、レベルが低すぎます。そんな人の評なんて無視すればいいです。
(2)実体験を切り売りしただけの句に、どれほどの価値があるというのでしょう。
→価値なんて無いです。へーっと聞き流すだけです。しかし、そこに作者の心情が込められ、共感させる力が宿っていたら感動するかもしれません。
(3)私は実体験偏重の俳壇に、疑問を抱かざるを得ないのです。
→「実体験偏重」の意味が分かりません。被爆した長崎市を見た人なんてもはや数少ないはずです。金子兜太さんは「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」を詠まれました。この句は、被爆を経験した人のどんな体験談よりも、長崎が被爆し復興した力を心に刻みつけるでしょう。兜太さんは、間違いなく、長崎で開催されたマラソン大会をみたのでしょう。ランナーの走る姿、応援する人、長崎の町並みに思いが高ぶり、この句を書き上げたに違い在りません。兜太さんは、被爆を経験したわけではありませんが、マラソン観戦は経験したわけです。質問者様もマラソン観戦は出来るでしょう。
(4)日野草城の「ミヤコホテル十句」も、再評価されてしかるべきではないでしょうか。
→あまりに有名なエピソードなので、私に先入観が在るかもしれませんが、改めて読み直してみました。やはり空想して書いたように感じられます。本当に体験したら、きっと別のことに目がとまっただろうし、もっと微妙で複雑な心情を書き留めたと思います。草城の感性が一流なだけに、この10句の陳腐さが余計目立ちます。恋をしたことのない少女が恋にあこがれて恋愛小説を書いたような陳腐さです。この10句は、俳壇への問題定義として、歴史的な価値を見いだすべきでしょう。
以上、私の個人的な意見です
追伸 老婆心ながら、質問者様の所属する結社がどこかは存じませんが、自身の価値観とあまりにずれがあるようなら、脱会すべきではないかと思います。もはや青玄はなくなってしまい残念ですが、現代俳句協会に紹介してもらってはいかがですか。ただ、新興俳句の系譜結社に所属したとしても、写生の大切さは言われると思いますよ。
重ねてのご回答、ありがとうございました。私は平成3年に俳句を始めました。その後、4種類の俳句結社に同時に所属していた時期がありました。この内、3種類の俳句結社では同人を務めました。しかし、平成20年に体調を崩し、俳句からは遠ざかりました。平成24年快方に向かい、俳句を再開したいという思いにかられ、横山白虹先生師系の結社と坪内稔典先生主宰の結社に入り、現在に至っております。現代俳句協会にも所属しております。
恥ずかしくはありますが、私の句を挙げておきます。
疲れ果てこの身が蜃気楼となる
物の怪の憑きて白百合揺れやまず
ひとすぢの髪に残り香星の恋
つがひとて夢は異なる浮寝鳥
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
前衛的だったり実験的な物なんかは別として、庶民的な視点で意見を述べたいと思います。
俳句に限らず、絵や歌、写真、小説などなど、何がよい作品なのかと考えると、多くの人が共感し感動させる力を持っている物が「良い作品」だと思います。
そして、俳句は写真によく似ていると思います。いろいろ演出したり加工したりして表現するのも、実際の風景を切り取って表現するのも、どちらも有りだと思います。その作品が、多くの人に共感と感動を与える物であれば「良い作品」でしょう。
ただし、未熟な作為は見る人に感動を与えるだどころか、不愉快にもしてしまいます。
「良い作品」が他人に共感・感動を与える力はどこから来るのでしょうか。私は作者自信が感動した心情が作品にあるからだと思います。
今更ですが「流れゆく大根の葉の早さかな」という句にで会えば、多くの人が、それぞれの経験によって、それぞれの風景を思い浮かべ、それぞれが感動を覚えます。作者の虚子は、後に、橋の上から流れる大根の葉をみて作句した旨コメントしていますが、単に風景描写ではなく心情を描写して句に凝縮したといえましょう。
一方、横光利一の「蟻台上に飢えて月高し」という句は、漢詩的な情景を連想させます。秀逸ですが、虚子の句からえるようなふるえるような感動は覚えません。私自身は、新感覚派の小説の旗手である利一の世界は大好きなのですが、このように比較してみると、空想による作句に思え、心情をテクニックで表現しようとしているように思えてしまいます。これは、利一が実際の風景描写に基づいていたとしても変わりません。
そう考えると、心情を表現するには写生句が絶対的に向いていると思います。いくらテクニックを駆使しようが空想という邪念が邪魔してしまいそうです。
写生句に始まり一生写生句を追求するか、まったく新しい俳句観の創始者となるか、いずれにしても大変険しい道のりとなることでしょう。
質問者様が、そんな大げさな話ではないというなら、結社代表の教えに添って続けるのが宜しいかと思います。もし、結社代表と意見が食い違い、える物がないと思うなら脱会するのも宜しいかと思います。もしかしたら、一度横道にそれたことで元の師の教えのすばらしさに気がつくかもしれません。
とりとめなく書き込んでしまいましたが、参考になれば幸いです。
ご回答、ありがとうございます。私は、実体験に基づく俳句には、ある「危うさ」が内在するような気がしてなりません。それは、「他人を感動させる体験(戦争、天災、病魔による肉親の死など)」を持っているか持っていないかという、およそ作句とは異なる次元の要素が、句の良し悪しを決めてしまうのではないかという点です。無論、親が亡くなっていないのに亡くなっているかのように詠むことは、許されないと思います。自己の境遇をでっちあげた句など、認められるはずもありません。しかし、言葉は悪いかも知れませんが、実体験を切り売りしただけの句に、どれほどの価値があるというのでしょう。私は実体験偏重の俳壇に、疑問を抱かざるを得ないのです。日野草城の「ミヤコホテル十句」も、再評価されてしかるべきではないでしょうか。
No.1
- 回答日時:
鉢に植えられ人為的にねじ曲げられた小さな木が、風雪に耐えてきた古木の歴史をよく表現しているというのはよくある話です。
フィクションが事実よりも「真実を物語る」ということもよくあることですから、俳句でも「真実」が表現されるならフィクションでも「良い」と思っています。
お書きでナイ件では、松尾芭蕉の句も、曾良の随行日記などと照らし合わせていると「合わない」ということがしばしば有るようです。
どっちかがウソを書いているわけですが、歩行距離などを考えると、曾良の書いたほうが正しい、と。
★ 荒海や佐渡に横たふ天の河 ★
・・・ 「越後本土側から見た場合、天の川が佐渡に横たうことはありえない」という話もありますし(荒海の季節は、という話だったかな)。
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