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小林秀雄という人が「美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。」と書いている。この言葉をどう受け取りますか。
1、たんに、「美しい花」は具体物として実在するが、そこから取り出された「花の美しさ」などという抽象的な概念はない、というありきたりなことを言っているだけなのか。
2、1でないと僕は思うが、だとすれば何を言いたいのか。
1と2に順にお答えくださいね。

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A 回答 (12件中1~10件)

no.9さんの回答で勉強させていただきました。


このままで済ましてしまうのはもったいないので
追加でもう一段参加させていただきます。

>「肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに深遠だから、彼はそう言っているのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい」

①肉体の動き:梵我一如的な自然体で不自然な人為の要素が入り込まない動き。
②観念の動き:不自然で人為的な分析的要素が入り込んでしっくりこない動き。

《美しい「花」》という表現は、
 ‘美しい‘と‘花‘が分離できずにくっついている感覚、を示している。
 これが①。
《花の「美しさ」》という表現は、
 ‘美しい「花」‘という存在を人為的に翻訳しようとしてぎくしゃくしてしまう感覚、を示している。 これが②。

ブルースリーの映画の「考えるな。感じろ。」というセリフにも通じていますね。
(考える②。感じる①。)

そこから、観念の無駄な要素を省いた洗練された象徴としての「面」の肯定という結論に至る。
というのが主旨だと思いました。
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ご質問の文章は、小林秀雄の本を一冊も読んだことのない私でよく知っている、いわゆる、良く言及されるくだりです。

聖書の文言のように、”一人歩き”感がしますね。

皆さんのご回答を楽しく拝読していたのですが、ああ、なるほどお能のことを言っているのか、と、納得しました。

私は、バレエと社交ダンス、両方いたします。お能の仕舞とは似たところもありますし、違うところもあります。似ているのは、たとえば、単純に基本の姿勢をしてひざを曲げるだけ、足を前に伸ばすだけでも、正しい方法を体得し、それを、意識せずにできるようになるには、何百回もその動きを繰り返す。。。それしか、方法がありません。それを、プロの先生にみていただいて、何度も直されて、そして、ようやく、”無心”で、できるようになります。

お能でも同じように、ただ、遙を眺めて、扇をかざす、その姿が人の心を打つようになるには、大変な精進が必要になると聞いています。人の心を打つのが美しさであるなら、それが花でありましょう。その花は、”無心”の上に咲くものであって、それ以上でもそれ以下でもない、”芸術を作り上げよう”などという意気込みで日ごろの精進以上にいきみ返ると、しぼんでしまうものなのでしょう。

演者の側から見ますと、そんな風に読み取れますが、小林秀雄は、観る側でしたから、どんな風な思惑を持っておられたか。
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回答番号5,9のplapotiです。

誤解があつてはいけませんので、追記しておきます。suzumenokoxさんの投稿はウケウリ精神がなく独自の感性が優れてゐて、いつも勉強になります。私のアホ回答は自分の思ふところをそのまま書いただけで、小林秀雄の真の意図かどうかはわかりません。回答番号8の方の御指摘どほり、「花」には、能芸と植物の花のふたつの意味がふくまれ、ややこしい説明になつてゐます。比喩は、理解しやすくするために使用してもらひたいものです。すでに回答が10件ですが、いろいろな解釈が出てくるのは当然です。私以外の、どの回答も有力です。

私が言ひたいのは、内容よりも、「木を見て森を見ず」の危険性です。文学などの人文系にかぎらず、科学の分野でもしばしば生じます。素粒子がわかれば世界がわかる、遺伝子がわかれば生物がわかる、小さく分析すればすべてが理解できる、といふのは、自然への敬虔な態度を失つた、きはめて怖ろしい姿勢のやうに感じられます。私は、古生物学者スティーブン・グールドのエッセイを読むのがすきなのですが、部分と全体のバランスの重要性について、ことあるごとに気づかされます。ここでも何名か指摘なさつてゐますが、次回からこのやうな御質問のときは、きちんと出典を明示なさつたほうがよろしいかと存じます。ネットでは、STAP細胞騒動の教訓がまつたく活かされてゐません。もし不明なのでしたら、まづ「この言葉はほんとうに小林秀雄の文章ですか」といふ質問を立てるべきです。ネット情報は玉石混交がはなはだしく、ガセネタのウケウリの山です。
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回答番号5のplapotiです。

補足かコメントで、言葉の出典について記載なさるのかと思つてゐたのですが、そのおつもりはないやうですね。ちなみに回答番号7の方とは、先日、名言についての出典不記載や文脈無視について話をして共感したばかりです。私はだれのためでもなく、自分自身の勉強のためにQ&Aサイトに参加してゐますので、いつもどほり好き勝手に回答します。小林秀雄の文章は、今回のことばにかぎらず、意味不明です。

今私が所持してゐるのは、小林秀雄『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫)で、66-69ページに掲載された「当麻」と題する評論です。昭和17年に発表されてゐます。「当麻」といふ能の舞台を鑑賞したあとの感想文といつたところでせうか。

多くが語られるのは、「顔」、そして「仮面」です。念仏僧は「麻雀がうまそうな顔付き」、老尼は「何かが化けた様な妙な印象」で注目に値するのですが、観客は小林秀雄をふくめみんな「眼が離せない様な面白い顔が、一つもなさそう」なのに、「お互に相手の表情なぞ読み合っては得々としている。」

素顔の観客より、能面をつけた役者のほうが立派です。他人の顔色をうかがふ人生は、仮面によつて破壊することができます。素顔をさらせ、と主張する近代文明を批判し、仮面を重視した室町文化を礼賛します。

ここまでが前半の内容です。つづいて中将姫の舞について述べられます。あでやかな姿が「花」なのですが、仮面の内側に祕められた場所には、入りこむことができません。そこで、世阿弥の言葉が引用されます。
「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし。」
(『風姿花伝』第五 奥義)
「花」を永遠の芸とするためには、多くの演目を経験し、演出の工夫を徹底的に稽古しなければなりません。

小林秀雄とは別の箇所を引用します。
「時分の花、声の花、幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、そのわざより出で来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。されば久しからねば、天下に名望少なし。」
(『風姿花伝』第三 花の段 角川文庫140ページ)
自然の花が咲いて散ることを繰り返して生き延びるやうに、芸としての花も代代受けつがれてゆかなければならないことを述べてゐます。ここでは「花」とは明らかに「能芸」を指してゐます。

さてここで、つひに問題の文面が登場します。
「美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。」
そして、さらにその解説が述べられます。
「肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに深遠だから、彼はそう言っているのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい」
「肉体」と「観念」とが対比されてゐます。「肉体」によつてうみだされる「能芸」つまり「花」は存在し、その永続性を願つてゐます。そして、「観念」つまり「美しさ」は心の状態であり、物体として存在するわけではありません。だから「花」はあるが、「美しさ」はない。ただそれだけの意味に私は読めます。顔色をうかがふやうな姿勢は、存在しないことにしませう。大切なのは仮面についての主張であつて、花と美しさの区別ではありません。この言葉だけを部分的に取り上げることにどんな意義があるのか、まつたく不可解です。

余計なものは仮面で隠して、「花」のある生き方をしてゆきませう。
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「花」が植物の花と技芸の最高到達点を意味しているので、解釈が難しくなります。


単純に解釈すれば、技芸を極めた「花」がある、その「花」に美しさなどの解釈は不要であると言う事になると思います。
要は、比較する必要が無く、そのまま感じ取るべき事だと言う事を言いたいのだと思います。
「花」=美として解釈している人もいますね。
同一のものに、美しさなどの形容詞や比較要素は不要なのでしょう。
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やはり、出典をハッキリさせないと・・・。



というわけで、アンケート的に回答しますと、

・美しい「花」は、健全な捉え方・・・・?

  美しい「本」と、置き換えますと、その本の中身も含んでいるような感じ・・・・
  
  
・「花」の美しさ、は、技巧というか、嫌らしい捉え方・・・・?

  「本」の美しさ、と置き換えますと、“無い”ような・・・・。



※関係ないですけど、
「花」の美しさ、というと、何か、嫌らしい感じがします。
 どこか、下からジロジロ覗いているような・・・・。下品というか。
  歪んだモノの見方、というか。
(極端な話、女性の下着とか。)

                   <(_ _)>
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Google検索での即席知識を通して思った事は・・・



どうやら"小林秀雄"は自身の実感を大切にした人の様です。他者に依って提供された知識より、自分の感覚に自信を持っていて、だから重視していますね。

たぶん「花」の美しさという様なものはないと表現することで、花の美は感じ取るものであって、その美を分析し薀蓄を述べる様なことをしても仕方ない、と云っているようです。
また推測ですが、"小林秀雄"と云う人は一般的な美的感覚を軽んじているようにも感じました。

上手く言えませんが私の平凡な感想です。
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回答番号1の方の御意見につきる、と思ひます。

ネット上には、名言集サイトが乱立してゐますが、

出典の明示がない
解釈が本来の意味とは正反対
発言者とされる人が言ひさうもない言葉がある

などなど、見るに耐へない情報の山です。言葉の表面だけに魅力を感じて、文脈には関心を抱かず、思想にはなほさら無頓着なのでせう。

質問文のことばは、若いころ読みましたし、今も手元にあります。小林秀雄の文章は、論理的でなく、ウケ狙ひの名言が数多く見られます。今回の文章も、難解で、すぐには結論がでません。私は能楽鑑賞の経験がなく、手持ちの『謡曲選集』(岩波文庫)にも該当演目はなく、そのことがさらに理解のさまたげになつてゐます。平日はあまり時間がとれませんので、日曜日でしたら、『風姿花伝』を読み直してから回答できるかもしれません。この質問に適切に回答できる人をひとり知つてゐるのですが(昨日も回答をもらひました)、哲学カテゴリは休息宣言をなさつてゐて、たぶん無理です。
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読んでないですが、ランボーに傾倒したようですから


美しいものを見て、美しいと感じる者の心に有る美しさを
映し出したかったのだと思います。
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1: ちょっと違うと思います。


2:「美しい花がある。その美しさを分析しようとすると無粋になる。
   美しいものを純粋に美しいとして感じることの大切さ。
   いいものはいい、というような対象との接し方が
   人生の骨子と言える。」
「人生において分析は二次的なものだ」という主張なような気がします。
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Q小林秀雄さんの無常ということがわかりません

今、学校で無常ということについてやっていてもうすぐテストなのですが、分からない事があるのでいくつか教えていただけるとありがたいです。

1.どうして作者は、鎌倉時代に生きていないのに「あの時は実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。」となるのですか。
この、「あの時」とは、比叡山に行って短文が突如心に浮かんだ時でいいのですよね?

2.筆者は「歴史」と「思い出す」ということの関係をどうあるべきだと思っているのか。
筆者は「歴史」も「思い出す」ことも肯定的に見ていると私は読み取ったのですが、関係をどうあるべきか、と問われるとわかりません。

3.「この世は無常(全てのものは移り変わる?)とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。」とありますが、「一種の動物」とは、「鑑賞に堪えないしかたのない代物」でいいのですよね?そうなると、いついかなる時代でも人間が一種の動物的状態に置かれるというのは、過去・歴史にはあてはまらず矛盾するとおもってしまったのですがどうですか。

4.「現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである」とありますが、それは、現代人は動く事無い固定点を失ってしまったので、移り変わるものの基準を認識できないということ、でいいですか。


質問がわかりにくくなってしまってすみません。
どなたか分かる方は教えてください、よろしくおねがいします。

今、学校で無常ということについてやっていてもうすぐテストなのですが、分からない事があるのでいくつか教えていただけるとありがたいです。

1.どうして作者は、鎌倉時代に生きていないのに「あの時は実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。」となるのですか。
この、「あの時」とは、比叡山に行って短文が突如心に浮かんだ時でいいのですよね?

2.筆者は「歴史」と「思い出す」ということの関係をどうあるべきだと思っているのか。
筆者は「歴史」も「思い出す...続きを読む

Aベストアンサー

小林秀雄を読むときには、本当の意味で素直になって考えたり、自分自身の頭で考えたりするのがいかに難しいかを身に沁みてわきまえることが、そのためにも、自分の頭がいかに余計な先入観、偏見、雑念等々に囚われすぎているかをきちんと自覚できることが強く求められるのではないでしょうか。
もっとも、実際には、かく言う私自身にとってもなかなか難しいことではありますが。

>1.どうして作者は、鎌倉時代に生きていないのに「あの時は実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。」となるのですか。
>この、「あの時」とは、比叡山に行って短文が突如心に浮かんだ時でいいのですよね?

小林は、「あの時」にこそ、鎌倉時代の人々の切実な本物の思想、つまり「なま女房」の心を自分自身の心として感じ取っていたからでしょうね。
なお、われわれが歴史と向き合うというのは、それが鎌倉時代であろうと、他の時代であろうと、とにかくその時代を生きた人々の魂に参入することだ、と小林は言いたいようです。

>2.筆者は「歴史」と「思い出す」ということの関係をどうあるべきだと思っているのか。
>筆者は「歴史」も「思い出す」ことも肯定的に見ていると私は読み取ったのですが、関係をどうあるべきか、と問われるとわかりません。

小林は、「歴史」という言葉をめぐるこれまでの呪縛から自分の頭を解き放ち、過去の人々の生きた証や痕跡(ここでは『一言芳談抄』のなま女房のエピソードや『徒然草』といった歴史資料や遺品のこと)をよすがにして、当時の人々の心をありありと「思い出す」ことが本当の意味での「歴史」だと言いたいのです。

>3.「この世は無常(全てのものは移り変わる?)とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。」とありますが、「一種の動物」とは、「鑑賞に堪えないしかたのない代物」でいいのですよね?そうなると、いついかなる時代でも人間が一種の動物的状態に置かれるというのは、過去・歴史にはあてはまらず矛盾するとおもってしまったのですがどうですか。

「人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」という言葉が示しているように、小林は、いつの時代であろうと、生きている人間はまだ発展途上の動物状態にあり、死んではじめて完成された、本当の意味での人間になると言いたいわけです。
その意味では、まだ動物段階にある、人間としては中途半端なわれわれが軽々に「自分の価値観」などという怪しげなものを振りかざさない方が賢明だ、ということになるかもしれませんね。

4.「現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである」とありますが、それは、現代人は動く事無い固定点を失ってしまったので、移り変わるものの基準を認識できないということ、でいいですか。

「固定点を失ってしまった」と言うよりは、現代人が人生における確たる目的や生き甲斐を見失い、時代の表層現象に流されているという自覚がないということでしょうね。
それに較べると、鎌倉時代の「なま女房」は、「此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へ」と念じ、浄土欣求という確たる目標だけを信じて「此世」を生きられたということになります。

テスト、頑張って下さいね。

小林秀雄を読むときには、本当の意味で素直になって考えたり、自分自身の頭で考えたりするのがいかに難しいかを身に沁みてわきまえることが、そのためにも、自分の頭がいかに余計な先入観、偏見、雑念等々に囚われすぎているかをきちんと自覚できることが強く求められるのではないでしょうか。
もっとも、実際には、かく言う私自身にとってもなかなか難しいことではありますが。

>1.どうして作者は、鎌倉時代に生きていないのに「あの時は実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そう...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q自治体の意味

いまいちよく分かりません。
自治体って何なんですか?
いったいどこにあって何をしてるんですか?
もしかして市役所とかのことを自治体って言うのでしょうか。

あと、これも新聞でよく見るんですけど、団体職員ってどういう意味でしょうか。どこの団体なんでしょう。

Aベストアンサー

>つまり、簡単にいうと市役所とかが自治体になるんですね。

 違います。自治体というのは、都道府県、市町村全体をさす言葉です。都道府県庁や市役所は、自治体における行政機関に過ぎません。

Q「15日まで」とは、15日は含まれますか?

15日までに書類を提出しなくてはいけなくて、
私は15日も含まれると思っていたのですが、
14日中に書類を提出してほしかったと言われてしまって。。

「●日まで」というのは、その日は普通含まれるのでしょうか。。

Aベストアンサー

>「●日まで」というのは、その日は普通含まれるのでしょうか

言葉の上では、その日は含まれます。

ここから先は独り言

だだし、これが仕事上のこととなると話は別かも。

 仮に会社で上司が「15日までに書類を提出してく
 れ」と言ったとします。言外には「16日の出張で 商談に使うからな」ということもありますよね。
 もし、そうなら15日の早いうちに書類をチェック
 したいかもしれないですね。できれば
>14日中に書類を提出してほしかったと
 言われることも会社組織のなかではあることですよ
 ね。

 「だったら、そう言って下さいよ。」って言えませ
  んよね。

  また、本当に15日中で提出がいいとしても終業
  間際に提出してたらだめですよね。

もう一つ、ちょっと違うけど、

  「15日までに相手銀行口座にお金を振り込んで   ください。」と言われたら、15日のうちなら
  何時に振り込んでもいいのではないですよね。
  当然相手口座に15日中に入金されていなくては
  ならないですよね。質問とは関係ないですけど。

「書類」という言葉から勝手に仕事の事と考えました
から。
  
14日に欲しいと言わないアンタが悪い、ではね。
確かに質問者は正しい。でもネ。
人生、先手先手。

「15日と言われましたが早めにお持ちいたしました。」

な~んてね。

>「●日まで」というのは、その日は普通含まれるのでしょうか

言葉の上では、その日は含まれます。

ここから先は独り言

だだし、これが仕事上のこととなると話は別かも。

 仮に会社で上司が「15日までに書類を提出してく
 れ」と言ったとします。言外には「16日の出張で 商談に使うからな」ということもありますよね。
 もし、そうなら15日の早いうちに書類をチェック
 したいかもしれないですね。できれば
>14日中に書類を提出してほしかったと
 言われることも会社組織のなかで...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
...続きを読む

Q花が美しいのは?

花が美しいのは、花が美しいから?
それとも人間がただ美しいと感じているだけ?

花は、人間に見てもらうために咲いているのではないと思いますが、なぜ色とりどりに綺麗に咲くのでしょうか?虫に受粉させるため、みたいな話は聞いたことがあるのですが・・・綺麗に咲く理由にはなってませんよね。見てもらう対象がいるから咲いているように思えて仕方ないのです。それは、花の意思なんでしょうか?
くだらない質問かもしれませんが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

花が美しいのは、花の意思ではなく、心の原理だと思います。心の原理が、心のスクリーンに花を美しく映し出しているのだと思います。

この世界のあらゆる現象の「具体的なありよう」は、全て「心」によって決めれています。例えば、赤い花が赤いのは、花が赤いのではなく、「心」の働きが花に「赤さ」を与えているのです。花は、ただ、特定の波長の光を反射しているに過ぎません。その特定の波長が「赤く」見えるか、「青く」見えるか、あるいは、「灰色」に見えるかは、花の側の問題ではなく、それを見る「心」の側が決めていることです。同様に、花の良い香りも、花自身が良い香りを発散しているのではなく、花から発散される特定の分子を「心」が「良い香り」として受け止めているのです。

ここで、最も不思議なことは、ある波長の光が、「赤く」見えるか、「青く」見えるかを決定しているのは、物質的原理ではないということです。言い換えると、科学的因果関係で決まっているのではないということです。何の理由もなく「偶然」そのように決まっているということです。それを「心の原理」と言っても良いと思います。

同様に、花や景色を美しいと感じるのは、花や景色が美しいのではなく、花や景色が心のスクリーンに美しく映るように、心の原理が働いているからです。では、何故、花や景色は心のスクリーンに美しく映るように、心の原理が働くのでしょうか?これに対しては、2通りの答えがあるように思います。

一つは、もし、花や景色が心のスクリーンに美しく映るように心の原理ができていなかったとしたら、例えば、花を見るとムカつき、花の臭いを嗅ぐと、吐き気を催すように心の原理ができていたとすると、そのような心の原理を持った人類種は、人生を悲観して、生存意欲をなくし、早々に滅亡してしまったと考えられます。従って、結果的に、花や景色を美しいと感じる心の原理を持った人類種のみが今日生き残ったという考えです。

もう一つの考えは、人類が生まれてきた段階で、初めから、花や景色を美しく感じるような心の原理を持っていたという考えです。

私は、後者の考えを取ります。理由は、自然は最もエレガントな解を最初から選んでいるように私には思えるからです。

花が美しいのは、花の意思ではなく、心の原理だと思います。心の原理が、心のスクリーンに花を美しく映し出しているのだと思います。

この世界のあらゆる現象の「具体的なありよう」は、全て「心」によって決めれています。例えば、赤い花が赤いのは、花が赤いのではなく、「心」の働きが花に「赤さ」を与えているのです。花は、ただ、特定の波長の光を反射しているに過ぎません。その特定の波長が「赤く」見えるか、「青く」見えるか、あるいは、「灰色」に見えるかは、花の側の問題ではなく、それを見る「心...続きを読む

Qソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?

ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

Aベストアンサー

kobareroさん 了解しました。

なかなか充実した楽しい数週間でした。こちらからも 感謝申し上げます。

わたしの相変わらずのでしゃばり精神については ご海容のほどを 重ねてお願いしておきます。

またお会いしましょう。(そう言えば この言葉をすでに一度申し上げてしまっていましたね)。

Q老荘思想とはどんな思想ですか

老荘思想とはどんな思想ですか

バカでもわかるようにやわらかくお教えください。
例え話なんかも助かります。

Aベストアンサー

老荘思想とは、老子や荘子という人物によって創始された思想です。老子と荘子は別に知り合いでも何でもありませんが、考え方がほぼ同じなので両者の思想をひとまとめにして老荘思想と呼ばれています。蛇足ですが、荘子とされる人物は複数(少なくとも3人)おり、老子も含めそれぞれ生まれた時代が異なります。

孔子の儒教が「人はこう生きねばならぬ」「物事はこうでなくてはならぬ」というガチガチに固められた道徳体系であるのに対し、老荘思想は「物事の善し悪しなんて考え方次第なんだから、気楽にあるがままでいいんだよ」という自由奔放さが特徴です。

自然を崇拝し、無私無我を理想とし、自然にあるがままにいるのを善しとします。
世の中に絶対的なものや、絶対的な価値観など存在せず、すべては相対的であると考えます。

たとえば・・・
・長生きすることは良いことだとされていますが、長生きするということはそれだけたくさんつらい思いや恥ずかしい思いをすることでもあるので、必ずしも良いというわけではない。
・ある人が60歳で死んでしまったとする。60年という寿命は春に生まれ秋に死んでしまう虫に比べればとても長いが、800年生きた仙人から比べればとても短い。その仙人の寿命だって、1万年生きる亀に比べればとても短い。長い短いなんて何と比べるかによって変わるもので、長い短いを決める絶対的な尺度なんかない。
・美人は多くの人に好かれるので良いとされる。でも、美人は悪党にも好かれてしまうし、妬みを買うこともある。神様への生贄にされたり暴君へ献上されたりすることもある。美人であるということが良いこととは限らない。
・大きいけど脆いヒョウタンがあった。大きいからたくさん水が入るが、脆いのでたくさん水を入れると自重で割れてしまう。なので水を入れるためのヒョウタンなのに使い物にならないと捨てられた。でも、そんなヒョウタンでもたくさん集めてつなげて水に浮かせば筏の材料になる。役に立つ立たない、有用か無用かは使い方次第だ。
・仁や義は美徳とされているけど、ヤクザも仁義を大事にしている。戦争になれば仁や義を名分に虐殺が行われたりする。世の中の悪行の多くが仁義を名分に行われていることを考えると、仁や義も絶対的に良いものというわけではない。
・あるところに染物を生業にしている一族がいた。一族は染めた布を冷たい川の水に晒しているので、アカギレやシモヤケの薬を愛用していた。一族の一人は領主である武将に献上し、武将はその薬を大量生産して兵に配った。おかげで武将の軍勢は冬の寒さにも耐えて敵を圧倒し、勝利することができた。薬を献上したものは褒美をもらって豊かになったが、ほかの一族はそれまでどおりの生活を続けた。同じ薬でも使い方次第で成功することもできる。
・知識人は知識をたくさんため込むけど、その知識の多さゆえに常識にとらわれて何もできなくなってしまう。知識は大事だけど知識に閉じこもるのではなく、知識を超えなければ意味はない。
・本には知識がたくさん詰め込んである。でも何かをするコツとか経験とか、文字にできないものこそ本当に大事なのであって、どれだけ文章を読んでも言外の知を読み取れなければ結局何も学べない。だが、知識人は本をたくさん読んで知識をたくさんもって、何もできないのに知った風な気分になって尊大な態度をとる。読書人の読書知らず・・・

老荘思想とは、老子や荘子という人物によって創始された思想です。老子と荘子は別に知り合いでも何でもありませんが、考え方がほぼ同じなので両者の思想をひとまとめにして老荘思想と呼ばれています。蛇足ですが、荘子とされる人物は複数(少なくとも3人)おり、老子も含めそれぞれ生まれた時代が異なります。

孔子の儒教が「人はこう生きねばならぬ」「物事はこうでなくてはならぬ」というガチガチに固められた道徳体系であるのに対し、老荘思想は「物事の善し悪しなんて考え方次第なんだから、気楽にあるがまま...続きを読む


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