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▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~
1 夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい 
目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の
道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。

 湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬か
5 ら落ちた。                             

  《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》

 見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。

  《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》

 《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりま
10 してな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議
な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に
腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。

 若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳
房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼
15 女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へ
た美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。

  《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》

  《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》

  《さやうですか。》

20 鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。

  《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》

 彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。

  《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》

 鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。

25  《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》

 《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を
反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。

 (あの少女だ。)

 彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山
30 南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。
しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残
酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。

 鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。

  《さあ 一ぺん沈め。》 

35 妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢
い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。

 そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとう
かがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶ
つてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して
40 傾いてゐた。

 泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつ
かないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつた
のも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうま
で不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。

45 鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判に
なつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩とし
て誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来な
いので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。

 湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出 
50 て妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 
湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに
手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせ
て 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつた
りしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんで
やつた。

55  帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原は
ほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下
に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。

 鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らず
のうちに素直な心で呟いてゐた。

60   《神います。》

 自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない
考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを
求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけら
れたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間
65 を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。

  《神よ 余は御身に負けた。》

 彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で
聞いた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

(あ) 問題は 人と神とのタテの関係ではなく 人間どうしのヨコの関係のほうにある
とも考えられ それとしては 次のような事実関係またはそれをめぐる心のたどった内容
にある。はずだ。
 ▼ (川端) ~~~~~
 ・ 鳥屋と手足の不自由な若い妻

 ・ その妻は 《彼》が五六年前の旅で山南で傷つけた少女だったかと思われる。

 ・ この少女が病気になつたのは 彼の罪かもしれないとまづ思ったこと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

(い) 《少女=若い妻》の内面については何もしるされていない。夫を得てやさしく介
護されつつも 堂々と・ともに生きている様子がえがかれている。

(う) 《彼》と呼ばれるひとりの男は この様子をながめて 《神います。 / 神よ 余
は御身に負けた》とつぶやき この主人公の女は すでに古傷は癒されていると見た。否
その心が傷つくことなどはいっさいなかったのだと捉えた。

(え) 問題は 男が確かに《傷つけた》という言葉で表わした一定の行為が女に向けて
おこなわれたという事実 そしてそのことについてその後《女が病気になったのは 自分
の為したそのおこないの所為かも知れない》と思ったという事実 これらの事実をめぐっ
て むしろ女のほうは どのように対処したか? どう解きほぐしたか? でしょうか。

(お) もし男に自分で言うほどの行為があったとしたなら 女は ムッとしたりムカつ
いたり怒ったり憤ったりしたのではないかと推し測られる。つまり 心の上っ面において
だけとしても 相手に敵対心をおぼえたり報復は成し得ず恨みをかこったりしたかも知れ
ない。これを どう解きほぐしたか?

(か) 男は この湯場での出来事をとおして 女との関係におけるわだかまりや罪悪感
からすっかり吹っ切れて 世間とのそしておのれとの和解が成った。ようである。――女
は どうであったか?

(き) 女はすでに初めから 何のわだかまりや怒りやも覚えず 心のひねくれも へそ
のひん曲がりも 味わわなかったのだろうか。

(く) 質問者は 一方で上っ面の心理的な動きとしては 怒りや恨みなる波風をみづか
らも立てたが 他方でそれはあくまで海の表面のそれであって 心の奥底には到っていな
い。と見ることで 解こうとしている。――これで よいか? まだ一面的ではないか?

(け) あるいはつまり 女は 男が 身から出た錆びだとは言え 相手に対して心に損
傷をあたえたのではないかと悔やみつつ良心のとがめをも感じていたというその有りさま
について 無関心でいてはおかしい。とも考えられる。

(こ) そのあたりは 女の内面において どうなっているか? その・どうなっている
かについての男の思いや考えは どうであるか? もうありがたいという思いとその受け
留めで 済ませているのか?

質問者からの補足コメント

  • ふたつだけ別々の回答がある場合そこからBAをえらぶのは ひとしくありがたいと
    思っているなら とてもむつかしい。

    てふてふうさんは わたしにとって馴染みですので 今回は遠慮してもらいました。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/12/17 11:13

A 回答 (2件)

これ多分 昔読んだことあるかもな


リアルな描写ですよね何か・・
要は 彼女は彼に気付いていないので 事無きを得た

事件のせいで? 彼女が手足に障害はあるものの 
鳥屋と結婚して 幸せに暮らしている
ここに 神います かな
しかも彼は気付かれもせず

彼は多分 金星のでかく美しいのに驚いて泣く 感受性の強いやつ
この序章が 神 についての布石みたいなものかしらん・・
彼女が彼に気付いていたら 修羅場になっていたのかも・・?

伊豆の踊子 とか その辺の物語は 他にも書かれているのかな??
清張の 天城越え とか 歌もありましたね昔
この回答への補足あり
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    • 3
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(さ) ★ 要は 彼女は彼に気付いていないので 事無きを得た
☆ そうみたいではありますね。ただ 推測するにですが これほど男が心に動揺を来たしている
ところを 何も気づかないとは思えないんです。

(し) つまり その場は何だかあの人 おかしいなといった程度で気にかかって あとで思い出
すというような場合がなきにしもあらず。ではないかと。

(す) そうすると 作者は その点に何がしか触れておいてくれると 女がいまは仕合わせの状
態であることが 現実味を帯びてくるのではないかと。

(せ) その点 こたえは無いかも知れませんね。

(そ) ★ この序章が 神 についての布石みたいなものかしらん・・
☆ いえ。これは 掌編小説とか言って これで全部なんですって。短編の短編。

(た) ★ 彼は多分 金星のでかく美しいのに驚いて泣く 感受性の強いやつ
☆ そうですね。ただ いろいろ考え事をもしていますね。

(ち) ▲ 61 自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知
らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。・・・
☆ ここらへんについて〔みなさんにも〕掘り下げて欲しいとも思っています。

(と) 先の(そ)の問題として この作品は ほかの伊豆の踊り子や天城超えとは独立している
かとは思われます。

お礼日時:2015/12/13 14:08

こんばんは bragelloneさん



彼にとって観える全ての景色が神の行いのように感じられたのは、彼の心の働きです。
それは、この小説の作者である川端康成の心の働きから来ています。

この小説に共感できる人の心の働きでもあります。
確かに、「神います」よね。

▲ 61 自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。・・・

人の心の働きが、その人の幸せを決めるということです。

>生命体は、エントロピーによる散逸構造によって維持されているのならば、人の心の働きは散逸構造で決まるのかもしれません。
例えば、情熱と冷静さの微妙なバランス。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(な) てふ_てふうさんは たぶんこの質問は 二度目かも知れませんね。少し問いを変え
ましたけれど。

(に) ★ 散逸構造
☆ の人文や社会の分野への応用には 信頼をおいていません。《自己組織化》という話なら
受け容れられると思いますが。

(ぬ) ★ 人の心の働きが、その人の幸せを決めるということです。
☆ 大ざっぱに言って そうなのだと思います。つまりは 《わたし》の心もしくは意志のは
たらきによって 自己組織化をも促すのではないかという見方です。心の傷も癒えるというも
のです。

(ね) ★ この小説に共感できる人の心の働きでもあります。 / 確かに、「神います」よね。
☆ そうなんだと思います。そうなんだと思うのですが わたしも含めてさらにもっと そこ
のところを哲学として分析して説明できるようにしたい。とは考えています。未達成です。

(の) ★ 彼にとって観える全ての景色が神の行いのように感じられたのは、彼の心の働き
です。
☆ 作者の心の問題でもあるということですね。このとき なお(お)(か)(き)に触れた
ように 女の心が ひとまづ罪責感を持った男の心のことを どう思ったか。これが気がかり
です。

(は) 女はそのことに気づかなかったとしたら このいまの状態の作品だけからは 答えが
出て来ないかも分からないのですが。

(ひ) たぶんそのことで 《神います》の感覚がより一層よく分かるようになる気がします
ので。

(ふ) エントロピーや散逸構造の問題について 理解が深まったときにはまた どこかでそ
のことについて おしえてください。

お礼日時:2015/12/14 00:01

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