「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

こんにちは。
キリスト教(カトリック)信者です。
信者ならカトリックのサイトで相談をすればと言われるかもしれませんが、匿名可のカトリックサイトはないのでここで相談させてください。自分の名前を出すと関連する他者の名前・教会名までわかってしまうので、一方的な「告発」みたいにとられたくないんです。相談したいだけなので。
自分の誇りのために、カトリック信者をやめるべきではないかと思っています。
私はうつ・パニックを患っていたことがあり、心気症状が出て体調も悪いけどでも教会に救いを求めたくて行って、聖堂でつらくて泣きわめいてた時期がありました。そのとき婦人会長に「神様のことを勉強してる子ども達にそんな姿を見せたらだめ」と言われました。見せたくないのは私も一緒、でも泣き部屋も信徒会館もないんです。土曜ミサなので、じゃあ子どものこない日曜の御言葉の祭儀に出ようと行くと、信者は私一人で、昨日のミサで人が多かったのでホスチアがなくなって今日はご聖体は切らしてる、だからあげられないというシスターの言葉でした。昨日なくなってしまったのなら、どうして日曜日くる人のためにご聖体をつくっておいてくださらないんだろう。わたしは来るはずの頭数にも入ってないのかと。シスターには、「そんなに調子が悪いなら無理して教会に来なくてもいい」「あなたのことこわがる人もいるもの」と言われました。でも私は暴力はふるったことはありません。つらいときこそ行きたかったのに。いたわりの言葉なんかなし。電話をくれる人もなし。他人の信仰まで否定する気持はありません。でもこれで教会ですか?神の愛はあると思います、でも私にはないです、自分の誇りのために教会を意地でもやめたいと思う私は間違ってますか? 
カトリック信者の方、そうでない方を問わず相談に乗ってほしいです。いろんな分野の人にアドヴァイスしてほしい。お願いします。

A 回答 (17件中11~17件)

せっかく救いを求めたのに期待はずれだったら、自分の意思でやめればいいと思います。

目に見えないものに帰依してしまうよりは人の話を聞いてくれるよいカウンセラーと出会うのが一番いいと思います。

この回答への補足

ありがとうございます。

自分の通う教会も、カトリックの末端なので(カトリック用語でいえば「小教区」)一度私も、教区本部の神父さまに、カトリックをやめたいのですがという申し出をしたことがあります。告発のつもりはなかったのであくまで匿名で理由も言いませんでしたが、答えは「洗礼によって結ばれた神様との関係は、本人がやめたいといっても神様のほうからその関係を断ち切ることはありません」ということでした。自分で行かなければいいんですから、やめられるんですけど、カトリックの教えが頭に残っている自分としては、「神は、父と子と聖霊からなる三位一体であるという」ことは堅い信仰箇条になっていて、特に「おん子(キリスト)を否定しても赦されるが聖霊を否定するものは赦されない」とカトリック聖書にはあり、わたしも地獄に落ちるのかというのが恐ろしいです。よいカウンセラーの必要を感じています。
(管理者様:相談のあまりに、カトリック教会に対する私(質問者)の勝手な言い分を書き込こんで攻撃しているかのような結果になってはいけないことは十分認識しております。書き込んでいるうちにエスカレートして私の書き込みが度が過ぎるといけませんので、この方(#7さん)の補足欄をお借りして事情を書かせていただきました。各回答者様へのお礼も、たまたま最初だった#1様以外短く書かせていただくだけにいたしますが、回答者の皆様はどうぞご理解ください)

補足日時:2004/07/04 20:10
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私はプロテスタントのキリスト教徒です。



すべての事が神様からの事だ、と
感謝を持って受け入れるのは
質問者様には難しいことですか?

カトリックの儀式は存じませんが、
(土曜ミサに多くの人がいらして、
恵まれて帰った人がたくさんいたんだなぁ、
だから今日は自分の分が無かったのか、
違う形で神様から祝福がいただけるのかなぁ。)
と思うことは無理でしょうか?

ご自分の誇りと、神様への信仰を秤にかけるのは
いかがなものでしょうか。

怖がる人がいるのなら、
理解してもらえるよう、シスターに
相談することはできないのでしょうか。

教会に愛があるのではありません。
愛を求めて人は教会に集うのです。
足りないもの同士を見て、
神様を見上げるきっかけとなるのではないでしょうか。
私はそう思います。

あんまりお役に立ちませんで、申し訳ありません。
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私は、カトリックではありませんが、生ける神様を確信している一人です。


 神様の中心は、父母の愛ですが、その愛を失ったのが堕落人間であり、シスターも神父も、牧師も皆、その愛の人間になろうとしている堕落人間です。

 愛のない教会!?そうですね!堕落人間に愛を期待する事は、その人を裁く事につながります。
 
 あなたの置かれている心情的状況を思えば、涙を禁じえませんし、父母なる神様は、自分の代わりに愛してくれるファーザー、マザーが、その使命を果たせない時に、一人泣かれる事を知らなくてはなりません。

 今の状況を「感謝」できますか?神様は、私たちを愛そうとしても、手も足もありません。そのために実際に愛そうとする時に、その環境を通して愛そうとします。
 ですから、今の環境も神様が与えたものなので、「感謝」なのです。ヨブは、悲惨の局地で「感謝」しました。
 イエス様は、「あなたたちは悪魔から出てきたものであって、・・・」と言い放っています。そこで、神様とサタンが、その所有を決定する瞬間は、その人のもっとも悲惨な状況になった時です。

 聖体を拝受したものが、み国に入るのではありません。その「御心を為したもの」が入るのです。

 どうか、あなたを愛している神様のために、許してあげてください。人の罪が見えるのは、私の心に神様が共にいないからです。

 
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まあ、神を否定するかどうかは置いといて。


まず教会全体のポリシーとして精神医学を否定するものでは無い。むしろ、きちんと神について学ぼうとすれば、そこはさけて通れない。

質問されてる方の状況はシンプルに言えば、周りの人間に心の問題を抱えてる人間に対応する能力が無い…ということだけでないかと思う。
その教会にこだわることはないし、心の安らぎを与える所はその教会だけではない…とクリスチャンでもない私は思います。無能な教会よりは、優秀なカウンセラーの方が信頼できます。
もちろん、優秀なカウンセラーであるクリスチャンもたくさんいらっしゃいます。
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こんにちは


私は宗教とか全然わからないから、カトリックで
どういう教えをして何が常識とか全然わからないけど

なんかrgn8さんの話を聞く限りでは
随分教会自体がいいかげんなのではないですか?

それに別に宗教なんかに入ってなくても
私たちの周りにはいつでも神様はいると
私は思ってます。
普段お祈りとかもしないくせにとか自分でも
思ってるけど・・・

だから別に無理してまでその教会に通い続けたり
信者でいる必要ってないんじゃないですか?

何をおいても自分が大事なんだから
教会なんかよりも、辛い時に支えてくれる
彼氏や友達のほうがよっぽど大事ですよ。
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私は教会に属してはいませんが、クリスチャンになる方やもともとそういった環境で育った方の気持ちはなんとなく理解できますし、神を身近に感じます。


たぶん自分だけで問題解決できる方なら、ここでの問いかけも、泣き部屋も求めないでしょうから、あなたにとっては教会や神とのかかわりは、やはり"対峙"してほしい、という思いがあるのでしょうね。

読む限りは、カソリックを辞めるかどうか以前に、その教会の人間関係や運営側との、とても人間くさいどろどろしたものができてしまっているので、そこからは一度抜けるのがいいかもしれません。

ただ、他の教会に通ったとしても、あなたの周りに起こる出来事は、あなたの波長や考え方に合ったものを呼び寄せてしまうので、また同じような人間関係が見え始めるかもしれません。
神や教会に訴えたり求める姿勢から、神のためにこの世のために、あなたができること変われることを見つけて、明るく生きていけば、うつもどこかに逃げていくでしょう。
神は愛と共に光を与えつづけていますが、それを受け具体的に行動するのはあなた自身です。がんばって。

この回答への補足

お礼は別途申し上げますが、ここでは補足だけ。
「泣き部屋」ていうのはカトリック用語で、聖堂にある子ども専用の部屋です。子どもが泣いたり走り回ったりして会衆に迷惑をかけてはいけないということで、たいていのカトリック教会にはあります。それがあれば私が泣いても取り乱しても子どもにはわかりにくいので、「子どもにそんな姿を見せたらいけない」注意もありえなかったかもしれないと思うと、「泣き部屋」がないですし、と書いたのですが。  大人の泣ける空間という意味の「泣き部屋」ではありません。
でも、「対峙してほしいという思いがある」というご指摘はあたっています。

読んでくだすってありがとうございました。

補足日時:2004/07/04 17:36
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 この世に神なんて存在しませんよ。


 神の名を借りた営利宗教団体はあるかもしれませんが・・・
信じられるのは自分だけですよ。そして家族を大切にしてください。人を愛せない人は人から愛されないですよ。
 アインシュタイン博士の自叙伝を読まれたらいいと思いますよ,その中にどういう状態の時に,自分の心の中にのみ神の存在があるかが書かれていますよ。
 いずれにしても,その教会と縁を早く切った方がいいですね。
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この回答へのお礼

読んでくださってありがとうございます。
補足しますが、つらかったとき、シスターに「お願い助けにきてほしい」と電話しました。「車を動かせるシスターは本来の自分のつとめがあるし、ないシスターはもとよりいけない。お祈りしておくからね。ごはんは食べなさいよ。」と断られました。食欲本能がうせたような状態で、やせていく状態でした。食べるものがなかったわけではありません。でも、当時はシスターから電話でもくれないかなあと思って待ってました。でもなかった。さびしかった。医者には行ってました、でも、同じキリストを信じる人に助けてほしかった。
一時、やさしいシスターもひとりいました、その人は、教会で聖書の1箇所を引用して説明してくれた。でも翌日、そのシスターは「昨日私が言ったことはすべて忘れて、あなたはお医者様のいうことだけをあてにしたほうがいい」。人のことをばかにしてるとしか思えません。そのシスターのおっしゃりたいことは、「医者の言うことを最優先にして治るように励んで」という意図だったのだろうと思います。それならそれで言いようがあるのではないのでしょうか。そのときの戸惑いは忘れられません。ただ、わたしが普通の信者さん以上にカトリックは絶対、として依存していたことは確かです。その分ショックが大きかったことは、差し引いて考えないといけない。それにしても、昨日の聖書の言葉を今日は忘れよ、というのは、わたしのことを何だと思っているのでしょうか。一信者ということでなく、自分も意志のある人間なんだという自尊心のために、教会をやめるべきではと考えたのです。
「あなたのことをこわがる人もいるもの」と修道者にいわれたこと、真実です。修道者には教会を預かり運営する責任がありますから、適切でない人物は一時来てもらわないようにする、という考えはわかります。だからといって「教会内では教育途中の子どもには取り乱した姿を見せるな」とまで言われて、治ってからまたおとなしく通うことが、自尊心のある人間のすることだろうか、と考えたのです。カトリック教会において、シスター神父のいうことは絶対です。 
ただわたしが、それまで過分にカトリックに依存していたのは確かです。信じすぎていたのかもしれない。
自尊心と、正常な自分をとりもどしたいです。
アインシュタイン博士の本、読んでみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/04 16:23

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