プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

近年、障害者のボランティアをしており、
ふと、「命の大切さ」というものに
疑問を持っています。
自分自身、障害者の人と接する上で
なおさらそのように感じています。
もし、この投稿で「命の大切さ」を感じた方は、
回答していだけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (9件)

命の大切さなんて、色んな責任や重荷を回避したいが為に言うものです。

    • good
    • 0

こんにちは。


私も以前、病院で働き出した時、そういう思いに苛まれた事があります。
私自身は、「命の大切さ」なんてないと思ってます。
大切なのは、「命」ではなくて、「生きたいという希望」なのではないかな?
というのが私の今までに得た結論??です。
    • good
    • 0

文字でまとめてしまうと たったの五文字ですが・・・


 脳死状態で延命装置を沢山付けられながらも 身体は生きようとする人・・・
 事故で 片腕片足を失って 救助の甲斐も無く死にたくないよ・・・と呟いて亡くなっていった人・・・

 生死を目の当たりにした時に 命が形として見える様な気がします。
 言葉の持つ意味を探るより 自分はどう関わり合いたいのかを 思った時に 想う事なのかも。
 命とは・・・難しいです。。。大切さとは・・・壊さない事。。。
 自分はそう考えますが・・・??
    • good
    • 0

医療関係、福祉関係に携わっていませんので普通の生活から感じた事を回答させて頂きます。



人との関わりによって感じたり考えたりするものなのではないでしょうか?
私には愛する主人、子供がいます。「大切にしたい、守りたい」と思うのもご質問に関連しているように思います。1日1日が大切だとも思います。
言葉に表すのは簡単だけど気持ちと行動が伴わないもどかしさもありますね。
今はこういう考えを持っていますが、もっと他にもあるようにも思えます。難しいですね・・・・。

生きている間にこの答えが見つかるようにしたいと思いました。
    • good
    • 0

さめた目で見ると、重度の障害者、重病人は何のために生きているのだろうと思うことがあります。

自分の意志でなく生き続けていることは当人は知らない場合が多いでしょう。早く死にたいと思う重病人もいると思います。
それでなくとも死ねないから生きているのだ、と言う健康な人もいます。

しかし、家族や友人から見ると1分1秒でも一緒の時間を過ごしたい思いがあるはずです。1人でもそう思ってくれる人がいることが「命の大切さ」ではないでしょうか。
先月親しい友人が1年近くのガンとの闘病の末亡くなりました。見舞いに行って顔を見るだけでもまだ生きていてくれる、話ができて一緒に笑える、これが私達にとって楽しみでした。
家族、友人としてそれ以上何を望むでしょう。

今は友人の家族や他の友人と楽しかった思い出を偲んでいます。
それだけでも友人が生きていた価値はあったと思います。

障害者のボランティアとは大変なことと思いますが、一時一時がその人と周囲の人たちのよい思い出が作れるようがんばってください。
    • good
    • 0

貴方がどんな疑問を持っていらっしゃるのか、それは貴方自身が身をもって経験した中から得られた回答に対する疑問であると察しました。


私はうつ病という病に数年侵され、日々、自分の命をどう扱っていいのか悩み続ける毎日でした。
うつ病は、最終的には、「死んでしまいたい、この世から去りたい」というところに行き着きます。
今さらながら思うことは、ただただ傲慢であったということです。
それは、私が死ぬことで一つもいいことはないということです。
命の重さを軽んじたということです。
しかし、それ自体がうつの病魔であったことも否めません。
また、自分が侵されている病に引け目を感じたことも事実でした。どこかで、健常者ではないという負い目を精神科の扉を前に独り感じたことも何度とありました。

しかし、障害者の方々を見かける度に最近思うことは、「あなたが生きていることが何よりも価値がある」という思いです。

いわゆる健康ではなく、病気をお持ちの方に対する気持ちが変わったということです。
それは、命の大切さというものがどういうものかを知ったからということになりますが、それでもまだどんなに大切かという本質はわかりません。
それは、私が今こうして生きているからです。

ご質問の内容上、身勝手な文になってしまったことをお許しください。
何かご参考になれば幸いです。
    • good
    • 0

母親になるまで「命の大切さ」なんて考えもしませんでした。

でも、我が子を宿して、つわりに耐え、無事出産を迎え。。。。それから、果てしない育児が続いています。こうして親になって初めて「命の大切さ」を思うことができています。
私自身も自分ひとりで生きてきたような錯覚を持っていましたが、そうではなかった。
私の命を大切に思ってくれた多くの人のおかげで今の自分があり、そして、この命を次の世代へつないでいるような気がします。
「障害がある」ことと「命の大切さ」が自分ではどんな関係があるのかわかりません。
ただ、健常者中心の社会を早く終わらせて誰もが1歩歩み寄れるような、そんな社会になってほしいと思っています。
そうすることで、誰もが「命の大切さ」を考えることができるんじゃないかなぁ?
    • good
    • 0

障害者の人と接すると、「ああ、なんてかわいそうなんだ」と思うことはあります。

この人に与えられた命と、私の命、この人の今後の人生と私の人生、あまりにも違いすぎる。どちらも同じくらい大切なものなのだろうか?

人間って、生まれながらにして平等であるとよく言われますが、実際にはかなり不平等です。親を選べない、生まれる国を選べない、性別を選べない、など、生まれながらにしてその人それぞれの問題や葛藤を抱えています。

五体満足な人でも「ああ、もっとお金があれば」という人もいますし、お金持ちの人は「ああ、もっと愛があれば」と思う人もいます。

でも、ほとんどの人は自分の出来ることをして精一杯生きていると思います。貧乏人は貧乏人なりに、日本人は日本人なりに、人間だけでなく、ライオンはライオンなりに、桜は桜なりに。

他人のことを考えて思いやることはとても大切だと思います。そして、その人が持つ友人、時間、そして命などはその人にとっては大切なもので、私(たち)から見て大切でなくても、不憫(ふびん)であっても、その人にとっては非常に尊いものです。

障害者の人と接するということは、その人の大切な友人の中にあなたが加わることであり、それは障害者にとっては明日の朝ごはんよりも、迫り来る寿命よりも大切なものかもしれません。

悲観的に考えれば本当に世の中は悲観的です。でも、このような考え方をすれば、それぞれの人に大切なものはあり、大切なもの、友人とか、愛する人とか、家とか仕事とかお金とか、それらをつなぎとめるもの、それが命だと思います。

あなたがこの事について考えたことも、私がこの事について考えたことも命あってのことで、命に感謝したいと思います。
    • good
    • 0

この投稿で「命の大切さ」を感じた方…とは難しいですね(笑)



 もし、その相手-障害者の方-が、あなたにとって心休まる方であったり、迷惑をかけない人であって且つ助けてくれる人であったりするならば、その人を大事だと思えるでしょうが、なにぶんそんな障害者の方は少ない少ない!
 では、それならば、…迷惑をかけるだけの存在であるならば、死んでくれた方がマシなのではないか!?いや、それならば、もし自分がそんな状態…役に立たない状態になったら…。
 などと、自分を振り返ってくれる人なら、安心です。
 もし、そこで、「こんなやつの命なんて、価値無い!!」なんて思ったら、ナチス・ヒットラー組の誕生で~い(-o-)

さてさて、こんな言葉があります:
  『わたしの目には、あなたは高価で尊い。
   わたしはあなたを愛している。
   だからわたしは人をあなたの代わりにし、
   国民(くにたみ)をあなたのいのちの代わりにするのだ。(イザヤ書43:4)』

 誰の言葉??なんて思ってくれたら、嬉しいですね。これは、旧約聖書に記されている、神様からの言葉です。もっとも、このときの「あなた」とはイスラエル(ヤコブ)の子孫であるユダヤ人ですが、実はそれ以外の人々にも当てはまることがあります。なぜなら、新約聖書には、
  
  『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
   世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりと
   して滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
              (ヨハネ3:16)』

  『あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からでは
   なく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変
   わることのない、神のことばによるのです。
   「人はみな草のようで、
    その栄えは、みな草の花のようだ。
    草はしおれ、
    花は散る。
    しかし、主のことばは、
    とこしえに変わることがない。」
   とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音の
   ことばがこれです。(ペテロ(1) 1:23~25)』

  『愛の無い者に、神はわかりません。なぜなら、神は
   愛だからです。
   神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私た
   ちに、いのちを得させてくださいました。ここに、
   神の愛が私たちに示されたのです。
   私たちが神を愛したのではなく、神が私たちの罪のために、
   なだめの供え物としての御子を遣わされました…
           (ヨハネ(1) 4:8~10)』

 できるだけ文脈もわかるようにしたつもりですが、いかがでしたか?
 結局、もし、人生を儚く思う状態であれば、「この命に何のよさがあるだろう。」となります。人生八十年とは、短いものです。
  『私たちの齢(よわい)は七十年。
   健やかであっても八十年。
   しかも、その誇りとするところは
   労苦と災いです。
   それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
            (詩篇90:10)』
とある通りです。
 しかし、その人その人を「愛している」とまでいわなくても、少なくとも「大切だ」と思っているならば、その人のいのちも大切だと思えるでしょう。
 そして、「愛している」ならば、それは当然!ということになります。なぜなら、愛している者のために、どんな犠牲でも払うことを否まない程になるからです。
 
 最後に。障害者と呼ばれる部類に入るお友達の「ケンちゃん」を紹介させてもらいます。URLは長いので省略いたしますが、「ケンちゃんファンクラブ」で検索してみてください。きっと、益になるかと思います。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!