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宇多田ヒカルの母 藤圭子の3枚目のシングル 1970年

この曲が流行ったこのころわたしは中学生でした。

歌詞
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=32546


この歌を歌うと、親が歌うな!と怒りました。
歌詞が嫌だったんでしょうね。

歌詞の意味がよくわからずに歌っていました。

1970年といえば、わたしは大阪万博で希望に満ちていたという感覚ですが、
こんな暗い歌詞の歌がどうして流行ったのでしょうか?

A 回答 (3件)

暗いばかりではありません。

それぞれの連のおしまいの行が「夢は夜ひらく」となっています。「ひらく」ですから、明るさがみえます。

全体に暗いムードが漂っているのに、おしまいのところでぽっと光がさしてくるように感じられる曲は他にもあります。

例えば、「雪の降る町を」(作詞:内村直也。作曲:中田喜直)

暗い曲調ですが、連のおしまいの行がそれぞれ、

・あたたかき幸せのほほえみ
・緑なす春の日のそよかぜ
・新しき光ふる鐘の音

――曲の終わりのところで希望が見えてきます。

「雪の降る街を」(歌: 鮫島 有美子)

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
昔の曲は、どうして暗い曲調のものが多いんでしょう。時代背景なのでしょうか。

お礼日時:2017/09/26 08:17

「夢は夜ひらく」は色々なバージョンが有り、藤圭子のものは「圭子の夢は夜ひらく」が正式タイトルですね。

それぞれの歌手によって微妙に歌詞が変わります。
もともとはネリカン(練馬少年鑑別所)で誰が作詞作曲したかわからないもので歌われていたものを作曲家の曽根幸明が採譜し、補作曲しました。
私自身はまだ小学生の子どもでしたが「股は夜開く」なんて替え歌を歌ってたマセた同級生もいましたね(笑)

 1960年代後半から1972年の「あさま山荘事件」や1975年の「連続企業爆破事件」1977年の「ダッカ日航ハイジャック事件」など、右肩上がりに好景気に沸く世間(1973年のオイルショックやドルショックなどもありましたが)とは逆らうように、1960年代の安保反対、成田空港問題などの学生運動がより過激化してきた時代です。
 1970年に19歳の藤圭子は団塊の世代の一番若い世代なので、彼女と同世代の若い連中が支持したのでしょう。その上の世代は企業戦士として日本の経済を支えてきていますし、20代以下の若者たちとの精神的なギャップを感じていたでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
子供心に 10年上の世代が 火焔瓶投げて ゲバ棒振り回して シンナー吸って 何が楽しいのだろうと思っていました。
10年がたち その世代になったころ やはり 上の世代はなんであんなことをしたのだろう と確信しました。
これも世代間のギャップなんでしょうね。(もっともノンポリというのが大多数だったのでしょうが。)

お礼日時:2017/09/26 08:13

懐かしいですね。


確かに暗い歌詞ですが、なんとなく口ずさんでしまう曲でした。

藤圭子さんは当時19歳、可憐な少女がハスキーボイスで歌い上げる夜の女の闇、そのギャップが何よりのヒットの要因だと思います。
高度経済成長めざましい時代ではありましたが、その一方で闇に身を落としているような女性もたくさんいたのも現実でしょう。
いつの時代も光と闇がありますからね。

また人間というのは人の不幸話が好きなものです。
優越感を感じたいのか、自分はまだマシだと慰めたいのか。
そういう心理的なものも曲がヒットした一因じゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

子供頃ですが・・・

伊勢佐木町ブルースを歌うと親にこっぴどく叱られました
叱られると余計に歌いたくなりました。
子供は叱られる理由がわからないからです。
https://www.youtube.com/watch?v=s-dLf7e3cH4

お礼日時:2017/09/26 08:16

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