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いま推古朝について調べている者ですが、
推古朝での聖徳太子の活躍にはどのような特徴があるのでしょうか??
やはり仏教の影響が大きいのでしょうか?

A 回答 (3件)

かつての通説では#2のようなことが言われてきましたが、近年の研究ではかなり違う聖徳太子像が描かれています。



まず、蘇我馬子との関係ですが、太子は蘇我氏と血縁関係の深くて、父方も母方も祖母は蘇我稲目のむすめです。そして、推古朝で行われた政策も、中国や朝鮮の文化・文明を取り入れて、整然とした官僚制を備えた集権国家をつくる、というものですが、これは蘇我氏の路線と重なるもので、聖徳太子が行ったとされるものでも、蘇我馬子の協力と支持の下に行われた、と言えます。憲法十七条は、日本書紀に太子が制定した、と書かれているのですが、冠位十二階の制は太子を主語にしておらず、大和政権全体の決定であり、曽我氏が大きな関与をしていると考えるのが自然です。今あげた2つは、氏族連合政権の原始的な職務分業体制を改めて、能率的な官僚制を整備するためのもの、ということができます。遣隋使・遣唐使の派遣と、それに伴って留学生・留学僧を送り込んだのも、同様の文脈で理解する必要があります。

562年に、大和政権に服属していた朝鮮半島南端の伽耶が滅亡し、589年には隋が400年ぶりの中国統一を果たし、大和政権に対する外圧が強くなります。豪族内での蘇我氏の主導権掌握と推古朝での改革政治は、外圧に迫られて進められました。
曽我氏と物部氏の争いは、仏教の導入をめぐるものとされていますが、政策的争点としては、伝統の保守か、外国の文化・文明の導入による改革か、というもので、仏教は中国や朝鮮の文化・文明の象徴としての役割を担った、というべきです。
推古大王(天皇)は、初の女性の大王ですが、古代において女性の大王・天皇は、いわば「中継ぎ」で、特に、誰を大王・天皇にするかについての政治的力関係が流動的なときに立てられたようです。その前の崇峻大王を蘇我氏が暗殺してますから、その後すぐに蘇我氏に近い聖徳太子を大王にするのははばかられたのではないか、というのが私の理解です。私の理解が正しいのかについてはやや自信がないのですが、王位継承のルールが、国家機構の整備と重なって変動する時期でもあって、推古大王の擁立の事情はその中で考える必要があります。時機を見て聖徳太子が大王に即位する予定だったようですが、その前に太子が亡くなった、ということのようです。

聖徳太子は、日本で初めて仏教の研究を行った人であり、仏教を初めて理解した日本人だと言われることもあります。憲法十七条は、仏教と儒教にもとづいています。聖徳太子の仏教を学んだのは、直接には朝鮮(当時は三国時代で、百済といちばん仲が良かったのですが、新羅・高句麗とも交流を持っていました)の僧や文献によるものです。中国の文献も朝鮮経由で入手していました。
かつての通説は、聖徳太子の事績を過大評価していると言えます。これは、日本書紀が編纂された奈良時代は仏教が「鎮護国家」の宗教として重視されていて、日本初の仏教家・聖徳太子が聖人として信仰の対象になっていたからだと考えられています。日本書紀には、聖徳太子の聖人としての伝説も書かれています。
聖徳太子の実像についてはわからないところも多く、研究者によっては、日本書紀の聖徳太子に関する記述のすべてが伝説や潤色に過ぎない、と主張する人もいるそうです。
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この回答へのお礼

遅れましたがありがとうございました。
助かりました。

お礼日時:2005/06/14 16:45

1)593年推古天皇が即位すると、甥の聖徳大使と  実力者蘇我馬子二人が補佐し実際には大使がほと  んど政治を行った(摂政)


2)日本を中国に学び、冠位12階や17条憲法を
  制定。国を中央集権にしていった。
3)遣隋使を送り仏教を信仰し、法隆寺を建立した、  このころより日本に仏教がねずくきっかけとなっ  た。
貴方がおっしゃるように、大使の大いなる活躍には、
中国および仏教の影響が色濃くでています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4% …

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3% …
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この回答へのお礼

遅れましたがありがとうございました。
助かりました。

お礼日時:2005/06/14 16:45

・仏教を百済より受け入れて普及させた


・憲法十七条・官位十二階など新しい制度を制定

というのが大きいと思いますね。特に彼は実力者である蘇我氏をうまく使って仏教を普及させ、皇太子でありながら自らは帝位に立たず、伯母を表に立たせることで政治改革を推し進めた。これは単なる欲望にかられた人間ではできないと思います。凡人ならまず帝位に立とうと思いますから。如何に彼が頭脳明晰であったか、ということですよね。

しばらく後、彼と同じように皇太子のまま政治を動かした人がいます。中大兄皇子です。大化の改新などはその代表例ですが、その中大兄皇子でさえも最終的には天智天皇となります。そしてそのことが後に壬申の乱を生みます。余談でしたが、生涯帝位に立たず為政者の道を通り続けたということが何よりすごいのではないでしょうか。(天皇の子で為政者になった人物はいましたが、臣籍に下ったなどの理由があったようです)

歴史で習った程度の知識しかないので、お役に立てるかどうかわかりませんが、私が思ったことを書いてみました・・・。
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この回答へのお礼

遅れましたがありがとうございました。
助かりました。

お礼日時:2005/06/14 16:46

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