プロが教えるわが家の防犯対策術!

 僕も、ここでいろんな方に回答したりしながら自分を見つめてきました。このことは、このままでもいいのだろうかと思うようになったんです。

 精神病にかかると、周囲の人間、家族、友人、医師、保健婦さん、など自分にかかわる人たちが、いかに頼りにならないか気づくと思うんです。家族は医師や関係機関の人々の話は聞きますが、自分で調べるようなことはしない。医師は自分の学んだ理論に縛られてしまっているし、その範囲を超えて理解しようとはしないし、患者の苦しみを考えて接しようという努力があまりない。友人は、そこまで踏み込もうという人はほとんどいない。保健婦さんも仕事のラインからは踏み込んでこない。
 
 これらは僕の場合だけなのかもしれないけれど。僕には人徳がないというのもあるので。
 でも、結局、頼りにできる、あてにできる人がいなくて、一人戦ってきたという感じが強いのです。
 そういう一線を越えた状況で頼りにできる人がいなかったというのが、僕の中に限定的な信頼で人と接するというのができあがっています。
 そのせいか、僕は、例えば、彼女いない暦=人生でした、精神状態が悪かったときはそれが本当につらかったんですが、落ち着いてきて前述のような考えになると、進んで彼女を作ろうという気にはなりません。家族も、唯一の友人も限定的な信頼の上で付き合っています。もちろん、医師や保健婦さんたちとも。

 こういう考え方って不健康というか、おかしいのでしょうか?このままでもいいようにも思うんですが(別につらい事はないのですから)、このままではいけないような気もするんです。
 どう思うか聞かせてください。

A 回答 (24件中1~10件)

最後の最後です、また登場したことお許しください。


どうしても気になったものですから。

まず、
>僕としては、今、自分の経験と知識を人の踏み台にしてもらおうと思っています。
踏み台だなんて、おっしゃらないでください!
kumosuke32さまを踏もうなんて失礼なこと考えてません、笑。
でも、おっしゃりたいことは、人の役に立ちたい、力になりたい、ということなんですよね。それはすばらしいことだと思います。

しかし、人の役にたつ、ということは非常に難しい課題ですよね。

jacsさまのNo.22の回答を読んで、ハッと思いました。
人の心の助けになる、ということが、どんなに難しいことであるかを知っている方、経験されたことのある方の回答だと思います。

私も自ら友人の問題に意見していったことがあります、が、結果は失敗でした。何も変わらず、自分のエネルギーも切れてしまいました。疎遠になるのは覚悟の上でしたが、それは自分の問題なので、彼女にとっては無責任だったのでしょうね。間違ったことをしたのかもしれません。

心の問題はデリケートで、立ち入るのに勇気や莫大な労力が要ります。それはkumosuke32さまもおっしゃってますね。
jacsさまのように立ち入って上手くいくかどうかわからない、相手が深い傷を負うのではないか、とあんじるのも、やさしさであるし、kumosuke32さまのように、積極的にこちらから手を差し出したい、というのもやさしさでしょう。
どちらが正しいというのはケースバイケースでしょうけれど、実生活では、自分からは踏み込まないけど助けを求めてくれれば助力する、というjaksさまのご意見が暗黙の了解だと思います。だって、助けを求めても家族でもそれが得られない、という状況のほうが、おかしいのですから。普通は助けを求め、求めに応ずる、なのでしょう。

話が飛びますが、愛情って水の流れのようなものだと思うんです。誰かから受けて、また誰かに与えて、たえず流れていく。流れが大きく、よどむことがない人の心、が豊かな心なんだろうな、なんて思っています。
私自身は、心の中に入ってくる水の流れが小さくなりやすく、だから出て行く流れにも限りがあります。つまり自分の許容範囲の愛情を人に与えすぎると、自分が乾いて、また心が病んでしまいそうになります。
そうなると自分が与えていた人も、急に愛情の流れがとまってしまうので、迷惑することにもなりかねませんし、
バランス、が必要なのかな、と感じています。

以上は私の感覚の話なので、理解していただけたか、不安ですが、

結論として、人の役にたとう、という気持ちはすばらしいことですが、積極的になりすぎて力尽きると、相手はおろか、ご自分を守ることも危うくなる、ということを伝えたかったのです。
前回No.20で「相談者さまの心の内にはぐくんだ愛情を、機会がみつかったら、ぜひ他の人に与えてあげてください。」と書きましたが、下手なアドバイスでした。kumosuke32さまは、すでにそのようなことは重々承知だったのだと補足やお礼の文章の節々で感じました。
特に冒頭でもお伝えしたように、踏み台、という表現が気になりました。まずはご自分を大切に。
r1r1r1さまもおっしゃってますが、あせらずよいペースで頑張ってください。

この回答への補足

 新しい視点で話してもらえてうれしいです。jaksさんの話は回答しながら、自問し続けていましたので助かります。
 人の問題に踏み込むことは、確かにすごいエネルギーの要る作業です。そして、自分のエネルギーが尽きてしまうこともあるのも僕も体験していま。localtrain470さんがおっしゃるように大変なことなんですよね。そして、jaksさんの言ってることが一般的で、それは、普通の家庭なら求めれば応じられるものだということ、これは結構効きますね。そういうものなんですよね。
 一つ余談ですが、最近読んだ本の中に、きちんと愛情を受けて育った人というのは、相手を信じる思いが崩れず、相手にどんなことされようと言われようとすぐ立ち直って、相手の世界に踏み込んでいって信頼を勝ち取るのだそうです。人間とは生育状態でそれほど違ってくるものなのかと思ったものです。わかっているつもりでも、こういう例を聞くと愕然とする自分がいます。

 愛情の話、よくわかります。僕も同じ感覚のときがありました。だから、悪い、迷惑をかけてしまうと思って、積極的に自分から人に関わらない時がありました。人に頼られたときなど、”やばいなぁ・・・・大丈夫かなぁ”という思いが常に離れずにいたものです。そのせいか、子供が怖くて怖くてしょうがなかったし、親戚のおばあちゃんとか会いたくなかったです。そういう自分を責める気持ちもありましたし、家族も責めていましたね。
 今は、違うと感じています。病気のせいだったんだと感じています。よどむこともあるけど、きちんと冷静に受け止めている自分がいて、”僕はまだまだ弱いなぁ”と思いながらも、そうでない自分がいるのもわかるという感じです。
 感覚的なものがlocaltrain470さんと同じように感じられるのですが、どうでしょう。たぶん、同じだと思うんですよ。違いがあってもかなり近い感覚だと思います。話を聞いていると、localtrain470さんは元々人情を重んじる人と感じられます。重んじるというと意識的な感じがる良くなりますね、そうではなく、人情豊かな人と言ったほうがいいでしょう。僕も人生で始めてのいい状態になりましたから(といっても、いろいろ病気は抱えているのですが)わかるのですが、そうなったときに自分の本来の資質が発揮されてくるという感じです。localtrain470さんもお話を伺うと、人としてとてもしっかりしていて、きちんと事象と向き合おうと姿勢が感じられます。その随所に本来の資質が除いて見えるのです。僕の聞いている主観的な感じでは、遠くない未来に良い状態に向かわれるのではないかと感じます。お世辞ではなく、自分に起こったこととしっかり向き合おうという姿勢が長年の苦しみを耐えた中から、しっかりと根を張っているのが随所に感じられるのです。まだまだ苦しんでいるさなかだとは思うんですが、回復に向けた萌芽が結構出てきていると感じるのです。この僕の感覚は正しいと思います。恐れ多いことですが。
 近い将来に、localtrain470さんは、自分の本来持っている心の温かさと豊かさを感じられると思うのです。そして、今まで持っていた自己像が崩壊し、自分はもっと素敵な人間だったと気づくはずです。でも、僕は今でもあなたは素敵な人だと思い

補足日時:2006/08/12 00:55
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この回答へのお礼

ますけれどもね。
 踏み台というのはスッテップボードという感じです。より高く跳んでくれるとうれしいなと思います。人はいつ死んでもおかしくないと感じるのです。その日まで悔いのないように過ごせればいいと、ありきたりですが思います。ちょっとおおげさでしたかね(笑)。
 まだまだ、話したい思いもあるのですが、皆さんにも失礼かもしれないし、僕も忙しくなってきたので、これにて、このカテを閉じさせていただきます。localtrain470さん、並びに皆さん、お付き合いくださってありがとうございます。未熟な僕を相手してくださったことは本当に感謝しています。では、また、どこかで。

お礼日時:2006/08/12 00:55

r1r1r1です。



諦めるなといいつつ、心の中では諦めている自分がいて…支える側が、こんなじゃいけませんよね。kumosuke32様のこと、家族に話します。過去とは決別し、未来への夢や希望が持てるように、私も頑張りたいと思います。ありがとうございました。

犬、いますよ。マルチーズ(6才オス)。それからもう一匹、今月の19日で一周忌になりますが、15才の雑種(メス)がおりました。時々は癒されることもあるのでしょうけど、なんともいえません。しかし犬にはとてもやさしいですよ。親ばかなこといいますけど、可愛いので(笑)。なので犬に鬱憤をはらすことはないみたいです。鬱積した怒りが極限に達すると、攻撃の捌け口はきまって私たちに向けられます。暴れることはないのですが、一度罵声をあげるとすっきり治まるようです。それも必要なことだと理解していますが、本当に良いことなのか、わからないでいます。

性のお話についてですが、本当にその通りですね。性に対してもそうですが、心に絶えず、タバコ・酒・女・博打は絶対ダメ!っというような掟があるようです。また発症時に他人から影響を受けた言葉や事件や出来事が自分と関連があるなど、長年、これらに縛られてるような感じです。

病院でのこと(トラブル)は、とりあえず曖昧のままで終わった、っという具合です。スタッフとの接し方に疑問を感じているようです。結構踏み込んでくるのに何故?っという矛盾を感じているような。ディケアでは特別親しい人(患者さん)がいるというわけでもなく、なので唯一、会話が出来たスタッフに依存してしまったのだろうと思います。そもそも対人関係が苦手なことがトラブルの原因なのだろうと思うので、恐れることなく人に慣れ・話すという習慣を身に付けてあげたいです。まだまだ限定的なかかわり方までは程遠い段階ですけど、いつの日か、kumosuke32様のところまで行けることを願うばかりです。

カテから離れた内容になってしまい、すみません。また励ましの言葉、アドバイスや大きな希望を頂いたこと、感謝します。私たちがやれることはわかっていますが、今以上に前向きに頑張っていきたいと思います。kumosuke32様とここでお話できて良かったです。ありがとうございました。

またこのカテで様々な方々のご意見を参考にして行きたいと思います。みさなん、ありがとうございました。

この回答への補足

 心の中では諦める、そうならざる得ないほど本当に大変ですよね。本人も何回も諦めているだろうし、そこの心労は本当に深いものがあると思います。家族の者も患者との生活に埋没しないように気をつけないといけないですよね。自身の生活の楽しみもあり、でも、大変なときの対応はしっかりする、ぐらいの配分はないと辛いだけですよね。

 犬を飼っているんですか。犬はかわいいですよね(笑)。僕がこのカテで書いた”他者への愛”を知ったのは、今、一才の愛犬のおかげです。犬は無償の愛を求めますが、同時に無償の愛を与えてくれる。これは大きかったです。どうも、有償の愛が多かったようですね。なかなか、この年になって無償の愛は得られませんから。 はけ口があるというのは本人にとって、とても重要なことなんです。社会に出れば圧倒的な弱者になってしまうので、相当に鬱積してしまいますから、自分を保つのには、はけ口がないと維持できないところがあるのです。甘えが固定する部分もあるとは思うのですが、そこの判断は難しいところですね。アドリブでいろいろ交えてみて本人がどう取るのかを計ってみることはやってみる価値があると思います。性などに関して絶対だめと言っているのは、ものすごくしてみたいの裏返しのように思えますね。
 ひとつ気になったのは、お父様がほとんど帰られなかったということでしょうか。僕の父も仕事さえしていれば後は何をしても許される的な人で、家庭に関わることが少なかった人です。口だけ出すが後は知らんみたいな感じです。日本という国の社会構造は明治維新以来、ドラスティックな変化をし続けています。士農工商から皆国民、敗戦からGHQの日本改造により価値観も変わってしまって、そして、高度経済成長によってだと思うのですが、皆サラリーマンみたいなかんじになって、そして今、中流崩壊、。これだけ変わっているのに、父親は働いていればいいみたいなのがあって存在感が希薄ですよね。もう、背中の見えるところで働いているわけではないのですから、父親は家庭での役割の変化に敏感にならなければならないと思うのです。しかし、これだけめまぐるしく変わると追いつけないというのも実情ですので、父親の重要性を認識できない今の時代は子供が荒れるのもしょうがないと思うのです。ふと言った父親の言葉に救われたという話があり

補足日時:2006/08/10 22:35
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この回答へのお礼

ます。家族の中で能力などで落ち目になり精神を病んでいた青年が父親にある日”自分と変わらない、昔の自分はお前と同じようだった”と言われて自分の居場所を見つけるという話です。家族の中で父親の機能の重要性がわかる例の一つではないかと思います。そういえば、対人関係は両親との関係をコピーしたようなものだという話を今思い出しました。家族内の関係を考えるというのも、この病気を考える意味では大事かもしれませんね。
 長々と話してすいませんでした。どうも話を聞いてて人事ではないような気がしてしまいました。ご家族ともどもr1r1r1さんの心にも安らかな日が来ることを信じ、祈っています。今回はありがとうございました。

お礼日時:2006/08/10 22:35

ANo.10・18です。



また誤解を生むような書き方をしてしまったようで、申し訳ありませんでした。友人の事はネット上で意見を求めたのでは無く、現実世界で状況を知っている周囲の方たちへ意見を求めたものです。それは過去の苦い実体験を考慮して、一人で考えて行動するのではなく、意見を求めて行動した方が良いと判断したからです。

これも経験上ですが、失敗を恐れず行動するのも大切なのですが、あくまでそれは自分が責任を負える範囲での事です。他者が関わるのなら無謀で無責任になってしまいます。思い切って何かをして、自分に返って来るのは、自分が望んで自分がした事ですから残念とは思っても悔いはなかったのです。でも私にとっての誰かを思っての「失敗」とは相手の望んだ形にならなかったり、迷惑が掛かる事です。問題が複雑であれば躊躇もするし容易には動けません。だから、状況を良く知っている周囲の方へ相談しました。
正直、私には力がありません。極々一般人なので、一言で混乱している場を治めてしまう凄い人等は凄いと思うタイプです。
kumosuke32さんのお友達がどうだかはわかりませんが、私のようなタイプが一人でも居たら、具体的に言ってくれれば協力するのにと思っているかもしれませんよ。

この回答への補足

まず、誤解があったことをお詫びします。すいませんでした。

 苦い実体験がおありで、複雑な状況では躊躇することと思います。正直に言って、周囲の状況を知っている方たちの考えが正しいのかは聞いた話だけでは、わからないです。放って置いたほうがいい時期もありますし、そうでない時期もあります。でも、それは案外第三者にはわからないことですから、友人のことを思うならそのあたりは自分で探る必要があるとは思いました。周囲の人間の判断は友人の思いとは別にありますから。自身にとって大切な友人なら、過去を思うより友人を思うほうが僕としてはいいと思います。友人というぐらいなのだから、失敗を恐れながらも恐る恐る聞いてみるぐらいはできるのではないでしょうか。すいません、過去に苦い体験というものが、どれほど重いものなのかがわからないのです。友人がどれほどの困難にあっていたかもわからないので、こういう発言になります。
 しかし、気になるのは、自身を極々一般人といっていることです。皆そのようなものですよ。そんな一言で混乱している場を収めてしまうような人が、適切なことを言っているとは限らないし。、そんな人でなければ何もできないというなら、われわれは手をこまねいて静観するに終始してしまいます。困難を抱えている人たちに関わる際に大事なのは、生まれ持った才能ではなく、当人の誠意とほんの少しの勇気だと思うのは僕だけでしょうか。

 最後の一文ですが、僕はすでに過去の補足、お礼などで”具体的に言っている”ということを書いているのですが。それでも得られなかったときの傷や苦しみをトラウマとして抱えていたことをlocaltrain470さんと話し、共有していたのですが。それに、”具体的に言ってくれれば”では親しい人に苦しんでいる人がいたときに困ることになりますよ。”待ち”の姿勢では何も変えられないし、変わらないというのが僕の経験上の学んだことです。”雌伏”のときはあっても”待ち”などはない、ぐらいでないとなかなか抜け出せない。精神病者の現実とはそれほどシビアなのですよ。

補足日時:2006/08/10 21:52
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この回答へのお礼

 きつい表現でありました。と書いてからおしばらくして思いました。なんと言えばいいのか、僕のような体験をして、ある程度状態も良くなれば、僕のような考えももてるでしょうが、精神病で一生懸命戦っている人も状態が良くならなければそんな余裕はないですし、そうでない人なら尚更僕のような考えや行動には至らないのは良くわかります。ある種の極限状況を超えないとそこまではできないと思います。だから、ご友人でも、身の回りの人でも困難な状況に立っている人がいたら一声でもかけてあげるというのはどうでしょうか?苦い思いや自分に自身がなくてもできることと思い、提案してみます。やはり、”親しい人”と思うなら自分で確認することは必要かなと思います。でも、それも難しいことなのかもしれないですね。この考えは結局自分のエゴなのかもしれないです。僕の経験で言えば、失敗して苦労しても、苦しんでも、自分の判断でした行動と思えば、後悔を引きずるようなこともなかったし、受け入れることができたんです。人の言葉に従ったときは、その反対だったんです。
 きちんとお話できたことは良かったです。僕の話は頭の隅にでも入れておいてもらえれば幸せです。

お礼日時:2006/08/11 23:56

r1r1r1です。



>失礼かもしれませんが、ご家族の行動範囲や、家での家事の範囲を少しづつ広げてあげるのも大事ではないかと思います。

ありがとうございます。ディケアーではトイレ掃除までやる意欲があるというのに、家ではまったくやる気なしです。甘やかしはいけないと頭ではわかっているのですが…。しかし行動範囲を広げてあげることは大事なことですよね。アドバイスありがとうございました。

私の家族は統合失調症で、主な症状は幻聴と妄想。暇があると考えてしまっています。小・中・高とイジメがあり、高校卒業と同時に発病。拒食症になり自殺未遂もありました。包丁でつくった傷跡が首になんてことや、二日ほど行方不明になった時は青木が原へ行くつもりだった、なんてこともあったり。生涯、友人と呼べる人は一人もいないですし、恋愛経験も勿論ありません。単身赴任していた父も数ヶ月に一度帰宅する程度でしたので、そばにいたのに助けてあげられなかった私たちの責任なのでしょう。現在は、過去への未練ばかり。いまを生きることを拒んでいる、そんな状態にあります。病院とのトラブルに悩み過ぎて半月ほど鬱になっていましたが、ここ数日、少しずつ状態が良くなったようです。またディケアへ参加できるようになりました。信頼を寄せていた人(病院スタッフ)に裏切られた時の傷が、とても深かったようです。依存し過ぎては危険なこともある、と改めて感じました。そういった意味で、kumosuke32さまのいう限定的な信頼関係も必要なことだと私は思いました。

回復され失った時間を取り戻したいというkumosuke32さまの状態がとても羨ましく思います。どうかこのまま良いペースで焦らずやってくださいね。

この回答への補足

 お気遣いの言葉、ありがとうございます。前回は、お礼ではなく、補足に書いてしまったこと、申し訳ありません。ちょっと、訂正に疲れてしまって、気がついたらという感じでした。

 そうですか、ご家族は統合失調症ですか。僕は統合失調症でもだいぶ良くなって、企業の社員食堂で働いたり、以前やっていた、ホテルマンの仕事を、またやり始めた人を知っています。最後にあったときは、将来の夢を語っていました。障害年金も二級をもらっている人なので、かなり持ち直したと思います。決して希望を失わないでください。
 そうですね、あまりいいのかわからないですけれど、最近の人は特にコミュニケーションが苦手で、親の世代を見ていて仕事に対しても意欲を持てない人がかなりいるそうです(以前の自分と重なっているのですが)。ある医師は、ネットはそんな人たちの避難所として機能していると言ってました。ネットでコミュニケーションの経験をつむと言うやり方もあるのかもしれないと思いました。ちょっと僕的にはお勧めできないですが。
 話を聞いていていろんな方法が浮かぶのですが、ご家族は末っ子なら、自分より弱い立場として動物を飼うというのがあります。末っ子は家では一番立場が弱く、それで、いじめなどによって学校でも立場がなくなるとはけ口がなくて、自身の中で破裂してしまうことがあるようです。家族内に立場の弱いはけ口がいると、虐待の恐れが出てきますが、本人は心の行き場ができたりします。ちょっと、気の毒ですが、動物にはけ口になってもらうというものです。あまりいい方法ではないですが、はけ口の対象に愛情を感じるようになることもありますし、鬱積したものがさらにたまることなく、効果はあります。アレンジして、家族内の心身ともに丈夫な人が攻撃の受け口になったあげるということでも対処できます。
 それと、精神病の人は性のバランスが崩れていることが多いです。家族内でこのテーマが禁忌になっていると、精神のバランスを崩すこともあります。安心していけるホステスのいる店などを探して、彼女らに会話をリードしてもらいながら話をするだけでも訓練にもなるし、性の不満が軽くなると思います。ちょっとr1r1r1さんには難度が高いですかね。押川剛という、自覚のない引きこもりの統一失調症の人を医療につなげたりしている人が実際にやっている方法なのですが。
 デイケアで病院にスタッフ以外には信頼を寄せていなかったのでしょうか?僕もデイケアに軽い就労訓練の加わったプログラムに参加していたことがありますが、対人関係の苦手な人には結構つらいところでもある場合があります(まさに僕がそうでした)。病院スタッフ(僕の場合は施設の職員でした)は、通所者を気にして声をかけてくれますが、限定的なかかわり方だと思います(そこは違うのかもしれないですが)。それで傷ついてしまったのかなと思いました。いろいろ工夫はしてるとは思うのですが、第三者の意見も借りて、何とかコミュニケーションのできる

補足日時:2006/08/10 00:56
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この回答へのお礼

場を設けることができれば本人の意欲も変わってくると思います。それだけでも、本人の気持ちはだいぶ軽くなると思います。大変だと思いますが、がんばりすぎることなく、トライし続けてください。ご自分を責める気持ちがあるようですが、これは家族の絆を深めるいい機会だぐらいの気持ちでいたほうが本人も楽かもしれないです。限定的な信頼はかなり楽にならないと取れない態度だと思うので、人は誰にでも良い面と悪い面があるのだということを感じる機会が増えていけば、傷つくことも減るのではないかと思います。お大事に。なんかえらそうですいません。

お礼日時:2006/08/10 00:58

3度目、失礼いたします。

補足でお尋ねになったことがあるので再度登場しました。

>傷はふさがりましたか?まだ、くすぶっていますか?それは気になります。
まだ傷はあって、くすぶっています。真昼の月、というんでしょうか。ふだん心にお日様が照っているときは大丈夫なのですが、心が闇に入ると、姿をあらわす、というか。
こういうのを、トラウマ、というのでしょうね。一生抱えて乗り越えられないのか、いつかは消えてなくなるものなのか、わかりません。しかし前進するのが乗り越える方法だと、自分は思っています。

No.15の方が次のようにおっしゃってますが、
「信頼できる人との出会いや機会を待つ間は距離感を保って人と付き合う、ということについて私がいまはそれでいいのでは…っと感じた理由についてですが、人間関係で、”今は無理をしたくない”というお気持ちなのではないのかなっと思ったのです。躊躇わず、できれば向こうから踏み込んで欲しいと感じるとすれば、そろそろ頑なな心を解放させてもよいかなぁっという兆しでもあるような…。」
とてもよい意見だと思ったんです。
普段は限定的信頼をもって自分の心を守りながら、しかし、この人ならうちあけてみたいな、もっと近づきたいな、という人が現れたなら、限定的信頼から一歩踏み出して自分からアタックしてみていいと思うんです。

No.18の方がこうおっしゃってますが、
「人は歳を重ねる程、相手の領域に踏み込み事を躊躇します。
配慮といった気持ちもあるでしょうし、踏み込み過ぎる事で判断を誤らないかと(余計なお世話になってしまう可能性を)心配するからだと思います。
だから、何か援助が欲しい時は自分から口にしなくてはならない時もあるのだと思います。」
最もご意見だと思いました。自分から近づいて求めなければ、得られないことのほうが多いということでしょう。

仮にアタックしてみて、上手くいかず、ストレスになったり、傷つくこともあるかとは思いますが、それも大きな経験になるかもしれません。自分の中で培って、ぶつかって、壊して、また培って、その繰り返しで、心は成長していくのかもしれません。

>最近は近所の子供と話すことが増えたし、お年寄りとも、年配の方とも話すことが増えてきた。”限定的信頼”というものを、もてあまし始めているのかもしれないですね。
子どもの無邪気な笑顔、経験豊かなお年寄りの話、は心の栄養になると思います。私自身、近所の年配の方とほんの短時間ちょっとした話をするだけですが、そういうおつき合いで心が和みます。ほんの少し愛情をわけてもらったような感じでしょうか。そういうちょっとしたふれあいから得る暖かいイメージは大事ですよね。

相談者さまも、心の中に暖かいものを培うことが出来ているのではないか、と思います。
相談者さまの心の内にはぐくんだ愛情を、機会がみつかったら、ぜひ他の人に与えてあげてください。
グッドラック!です。

最後にわたしも回答者という立場でありながら、実は相談者でした。このご相談に回答していくことで、自分の気持ちが整理できました。分析力などはありません、自分の感覚でお話した次第です。
相談者さまに感謝します。ありがとうございました。
なお文を引用させていただいた回答者さま、他の回答者さまたちも、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 僕はこういうとこで話したときに、きちんとコミットできた場合、自分からも気づかなかった色々なものが出てくることがあるからいいなと思うのです。僕も回答者として、ここに立つことが良くありますが、質問に答えながら、自分のことが整理されていく感覚を良く味わいます。こういうところはネットのすばらしい場所だなと思います。文字という少ない情報でこれだけのものが得られることあるのかと、感動を覚えることもあります。
 お互いにいい出会いを増やしていけるといいですね。

 真昼の月、まさにそのとおりですね。詩性を感じさせるすばらしい表現力だと思います。苦しい思いは決して無駄にはならない、と言うと、チープに聞こえますが、僕の経験ではこれは本当でした。必ず実を結ぶ日が来ます。生涯抱えることなんてlocaltrain470さんの姿勢ならありませんよ。支えてくれる夫もいる、そう遠くない日に何らかの形でlocaltrain470さんの力になる体験になると思います。感覚で話を組み立てているときに、その人の資質がストレートに表れることがあるものです。趣味のひとつとしてでも、詩や、文章を組み立ててると面白い形になるかもしれません。自己表現の場をを広げる意味でも役に立つかもしれません。お勧めします。
 僕としては、今、自分の経験と知識を人の踏み台にしてもらおうと思っています。近いうちに近所の子達に、今はここの人たちの踏み台になれればいいかなぁと思います。お年よりは敗戦で歴史が途絶えてしまっているのがかわいそうですよね。お年寄りが尊敬される土壌がかなり失われてしまったと感じます。子供もお年よりもストレートなとこが面白いです。

 localtrain470さんと話せたことは望外の幸せでした。ありがとうございます。

お礼日時:2006/08/10 01:18

>だからですね、専門家ならその典型的な例というのを詳しく語るべきなのではと言っているのですよ。

典型的な例というなら、具体的な名前、症状例などを挙げて説明するのが専門家と名乗る人の方法論でしょう。それをしないで言葉を箇条書きにしたものは専門家の書くものではないといったはずですが。

書きたい、知りたいのは山々ですが、ここではそのような行為を行うと医師法に触れるとの事で、それが出来ない事を理解してください。
これでもジレンマを感じているんですよ。

>ええい読解力のないやつだな、文意を取れといっている。吐き出していますよ、あなたに言われなくても。と、これでいいですかね?

読解力を指摘する以前に、自分向きの意見を尊重するところを見直してみればいかがですか?
ここは自分の意見を言い、それに対してたくさんの人から意見をいただき、その中で自分の中で納得できる、出来ないを整理して自分を成長させる場所であって、自分とは考えの違う人に愚痴や文句を言う場所ではないはずです。

もっと専門的に、というのは、この場では無理です(削除されてしまいますので)。ですので、これからの人生が、よい方向に向かって進んで行かれる事を祈っております(専門家でそう思わない人はいませんし、私も別にあなたを完全に非難しているわけではありませんので)。

この回答への補足

 もっととうか、専門的に話している人できちんと登校され続けている人たちをたくさん見ていますよ。僕はきちんと論理を組み立てて話をしてくださいと言っているんです。dadachanさんのは、一つ一つ意見を並べただけで、突然脈絡のない話が出てきたりするので、僕としては受け取りようがないのです。
 自分の考えと違う人ではなく、訂正してもそれを認めることができずに話を載せてくるので、疲れてしまっただけです。無視してる人もいるぐらいの中できちんとコメント載せてるだけでもいいほうだと思いますよ。
 削除されないで、きちんと論理を組み立てて話すことは可能です。あなたも病気経験者で、別に専門家という理由で投稿した訳ではないようなのですから(最初からそういう感じでした。それはとっくに認めています。)、きちんと論理を組み立てて、話をわかるようにしてから、ここを去られたほうがいいのではないですか?別に、同意はできないかもしれないけれど、しっかりした論理だったら、それはそれで僕はdadachanさんの話を認めますよ。まぁ、もう話すことがないなら、それはそれでかまわないですよ。

補足日時:2006/08/10 01:19
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ANo.10です。


前回は配慮に欠け、言葉がなっておらず失礼致しました。
ご気分を害されました事、大変申し訳ありませんでした。

>真に困難な局面に立ち会ったとき、本当に頼れる人はなかなかいない

此方の文章の方が「頼りにならない」よりも的を得ていると思うので、仰りたい事が良く伝わりました。
お友達には、踏み込み加減が分からない、病気の事を根掘り葉掘り聞くのは失礼だと思っている方や、自分には何も出来る事が無いと思っている方も居ると思うので、その方達にいかに自分に協力して欲しいか、手伝って欲しい方向を自分から伝えるのも大事かと思います。
私も、実世界で未だに色々な考え方の人がいるのだなと考えさせられる事がしばしばあります。
今回の質問に近い物として挙げさせて頂くと、以前に悩みを抱えている友人の事をどう助けるべきか複数の方に相談をしたら「向こうが大丈夫と言っているのなら何もしない方が良い、頼まれてもないのに余計なお世話だし、変に動くとおかしくなるから何もしない方がその人の為」と、どの人からも口を揃えて釘を刺されました。
人は歳を重ねる程、相手の領域に踏み込み事を躊躇します。
配慮といった気持ちもあるでしょうし、踏み込み過ぎる事で判断を誤らないかと(余計なお世話になってしまう可能性を)心配するからだと思います。
だから、何か援助が欲しい時は自分から口にしなくてはならない時もあるのだと思います。
回答にならず失礼致しました。
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この回答へのお礼

 ああ、なんか、申し訳ないです。あそこまで言ったのに、ここまで丁寧にきちんと書かれてしまうと、僕が不見識だったということになりますね。すいませんでした。言葉が過ぎたようです。ただ、言葉は時に凶器となるので、語句の使い方は本当に気をつけられたほうが、今後、無用なトラブルを避けられます。そこだけはお心に置いといてくださいいください。僕も時間がないばかりに語句をはしょったことによってここまで誤解を生んでしまいました。文字数の制限が気になるんですよね。

 ご友人の話ですが、失礼ながら言わせてもらいますと、ネット空間を占める意識というものを把握されたほうが良いと思います。ネット空間を占める意識は、回答のように”自己保持”と”自己完結”に終始します。そのような意識をまともに受け取ると自分の道を誤ることになりますよ。これは、資本主義が隅々までしみこんだ現代の弊害とも言われています。自分にとって良いと思うことを友人にしてあげ、そして、うまくいかなかったときに、振り返って再考し、新たな態度で臨むということを繰り返すのが人としての行動ではないでしょうか?ネットは便利な反面、経験の意義を見失わせます。年をとってもわからないことは常に現れると思います。そこで、経験を積まなくては自身の体験とはなりません。経験を積まなければ何も自分の言葉となりません。人は思っているより、かまって欲しいと思っているように僕は最近感じられます。どの世代も一声かけると次の日から何かが違ったりします。思うに躊躇は己の中の問題だと思うのです。僕だって躊躇はよくします。年頃の子はどう声をかけたものやらと思います。でもそれは自分の中で起こっていることで相手は関係ないのです。
 そういう意味では失敗を恐れているのは僕もjaksさんも同じだと思います。
 はしたない文章で失礼しました。

 

お礼日時:2006/08/10 01:52

No.8です。

私も度々失礼します。
なんとなく自分の持った感覚と似ているような気がして(ぜんぜん違っていたら、ごめんなさい)書き込みを続けたくなった次第です。

過去に、家族や友人に助けを求めても、必要なものが得られなかった、ということだったのですね。しかも、その力がある(ようにみえる)にもかかわらず。

とても、おつらかっただろう、とお察しします。

私は辛かったです。信頼していた人が実は頼りにならない。助けて、とサインをだしても知らん振り。私も彼女らの要望やピンチには尽力してきたつもりです。しかし、私の助けて、には応えない。とてもショッキングでした。自分の根幹が揺らいだような、感じでした。

おそらく彼女らは私が強い人間だと勘違いをしています。助けなくても勝手に立ち直ってくれるだろう、と。
相談者さまも、もしかしたら、そう思われているのではありませんか?文章を拝見するところ、自立心が強く、実際お強い方にみえます。

人の助けを得にくい性格なのかもしれません。
そして不幸なことに、周囲にも、愛情や感性が深い人物がほとんどいない。私の家族や友人がそうです。彼女ら自身、性格が特殊だったり、心に問題を抱えているようにみえます。
だから、愛情が薄い、得られなかった、…そういう感じではありませんか?

得られる愛情が少なければ、人への信頼も確立できず、自然と鎧をかぶってしまうと思います。相談者さまが身に着けた「限定的な信頼」というのは、正にそれではないか、と思いました。
他の回答者さまがおっしゃりたいこと、私はなんとなくわかりますし、最もなアドバイスだと思うんです。私は自分にアドバイスをいただいているようにも思えてしまいました。
でも他の回答者さまは、人への基本的な信頼感を獲得されている方々だと思うんです。信じているけど頼れないとこもあるよ、と考えるのと、信じられない当てにできないけど頼れる部分もあるよ、と考えるのとはちがいますよね。前者が一般の方の考えで、後者が相談者さまや私が感じた考え方ではありませんか?

「限定的な信頼」というスタンスを持ち続けることは、いいと思うんです。自分も相談者さまを見習って、そういうスタンスで強くありたいと思います。
ですが、そのままでは、基本的な人への信頼感をもっていない、ということは変わらず、そのことが、これでいいのかな?、という感覚を呼び起こすのかもしれません。

相談者さまは心の状態が回復されてきたようですし、そうなれば、これから人との出会いも増えると思います。メンタルな部分を理解できる人との出会いはものすごく少ないかもしれませんが、もしかしたら素敵な出会いもあるかもしれません。

私は元恋人や夫との出会いで、たえず愛情を確認させてくれる彼らのおかげで、精神を壊してしまうことなく、なんとか生活してこれました。基本的な人への信頼感を獲得してはいませんが、揺らぎかけたら救われて、その繰り返しです。夫には本当に感謝しています。

No.9さん(No.15さん)が、心から信頼できる方があらわれるとよいですね、と書かれていますが、私もそう思います。愛情の深い人はきっといます。
相談者さまは、今まで頑張ってこられて、これからも頑張られるのでしょう。その努力にむくいるような出会いがありますように、心から祈っています。

この回答への補足

 すごいですね。きちんと整理されている。感動しました。自分が強いとは一度たりとも思ったことはありませんが、人の助けを得にくい性格は、まさにそのとおりではないかと思います。引用させていただきます。
>でも他の回答者さまは、人への基本的な信頼感を獲得されている方々だと思うんです。信じているけど頼れないとこもあるよ、と考えるのと、信じられない当てにできないけど頼れる部分もあるよ、と考えるのとはちがいますよね。前者が一般の方の考えで、後者が相談者さまや私が感じた考え方ではありませんか?
    この指摘はすばらしいです。そのとおりだと思います。そして、あえて言えば、僕は、前者の方の気持ちもわかりますが、後者の話も聞いてほしいという感じだったわけですね。一部を除外して。すばらしい、まとめかたですね。何らかの才能(と積み重ねてきた努力)がlocaltrain470さんにはありますね。また、感動してしまいました。僕が言うより、localtrain470さんに代弁してもらったほうが穏便にきちんと話しになるかもしれない(いや、なりますね、これは。)。
>そして不幸なことに、周囲にも、愛情や感性が深い人物がほとんどいない。私の家族や友人がそうです。彼女ら自身、性格が特殊だったり、心に問題を抱えているようにみえます。
だから、愛情が薄い、得られなかった、…そういう感じではありませんか?
    そうですね、僕の周りには自分の人生しか見てない人、自分の視点にとらわれている人、自分の問題にとらわれている人ばかりでしたね。本当に相手のことを思って言う言葉は、相手を見て、考えていなければ言えないんですね。そういうものが本当に”あるとは言えず、ないとも言えず”みたいな状態だったですね。
 洞察もすごいですね、分析力もすごいです。
>とても、おつらかっただろう、とお察しします。
   私は辛かったです。信頼していた人が実は頼りにならない。助けて、とサインをだしても知らん振り。私も彼女らの要望やピンチには尽力してきたつもりです。しかし、私の助けて、には応えない。とてもショッキングでした。自分の根幹が揺らいだような、感じでした。
       まさにこれと同じことがありました。順番がめちゃくちゃになってすいません。非常に同じような体験(経験)をしているのですね。localtrain470さんもつらかったでしょう。傷はふさがりましたか?まだ、くすぶっていますか?それは気になります。

補足日時:2006/08/08 22:25
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この回答へのお礼

>「限定的な信頼」というスタンスを持ち続けることは、いいと思うんです。自分も相談者さまを見習って、そういうスタンスで強くありたいと思います。
ですが、そのままでは、基本的な人への信頼感をもっていない、ということは変わらず、そのことが、これでいいのかな?、という感覚を呼び起こすのかもしれません。
     まさにそのとおりです。加えて言うと、僕が”他者への愛情”というものを実感できるようになったのは、去年の暮れ以降ですので、今までの人生の道程はこれを得るための苦しみでもあったわけです。ある意味ではですが。そうして湧き上がった、”他者への愛情”というものを”限定的信頼”とともに置いていけるかということでもあるのかもしれないです。
 実際、最近は近所の子供と話すことが増えたし、お年寄りとも、年配の方とも話すことが増えてきた。”限定的信頼”というものを、もてあまし始めているのかもしれないですね。そこで、この場で”限定的信頼”を問うてみたわけです。この場しかないことがちょっと恥ずかしいですが。う~ん、それにしてもすばらしい能力ですね。ここまできちんと整理して語る事ができる人はなかなかいないですよ。localtrain470さんといえど、僕と語るのはちょっとつらかったのではないかと思います。ここまで付き合ってくれたことに本当に感謝しています。優しい心配りの言葉ありがたいです。localtrain470さんも心の回復を感じる日が来ることを祈っています。ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/08 22:26

>えと、また、的外れな回答になっています。


本当に申し訳ありません。
全然、力になれていませんね。これが最後の回答にします。

>えと、味わっていないと思っています?僕もいい年ですから、
>それぐらいは通過しているのですが。
恋愛における「信頼感」は年齢とかではなく、
相手とどれだけ深くつながったかで出来上がるので、
「彼女いない歴=人生」の方には、信頼感を会得できるまで
いろんな思いを乗り越えたとは思えなかったのです。
大変失礼しました。
そしてもちろん、これは恋愛においてのことです。
それ以外の人間的なお付き合いはお友達としていると思われるので。

>>うつ病の人に対してはどうやって接していいのかこちらだって悩んでいるのです(私の友人も5年くらいうつ病に苦しんでいます)。
勝手に期待して、勝手に絶望しているのはちょっとズルくないですか?
>そういう捉え方だから、うまくいかないんじゃないですか?
その友人との関係は別にうまくいかない、と思っているわけではないです。
ただ、常に他の友人たちよりも気を遣わなくてはならない相手だし、
自分がどうしたいかよりも相手がどうしたいと思っているかを
考えて行動せねばならないので、ちょっとしんどいのは事実ですけど。

>先入観が先にたっていますよね。”勝手”にしてるわけではないというのは今回の補足で伝わったと思いますが、どうでしょうか?
はい。

>言ったし、時間もあったのですが、向き合ってくれなかったということなんです。

これはとても言いづらいことなのですが、同じように頼まれても
やってあげたくなる人と放っておきたくなる人がいます。
特に長い闘病生活になると、近親者もその状態に慣れてくると思うので。

kumosuke32様が助けてもらって当たり前、と思っていないことは十分伝わっていますが
なぜ、踏み込んでもらえなかったのだろうかとういう部分は、
置き去りになってしまったように思います。

結論を言いますと、
これまでは周囲にも恵まれなかったのかもしれませんが、少しは自分も変わらないと
これから先、”互いに”信頼できる相手とめぐり合うのは難しいかもしれないと思いました。
でも、もちろん信頼できる友人や恋人と出逢ってほしいと切に願っています。
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この回答へのお礼

最後ということだったので、お礼させていただきます。
 いろいろ誤解はあったものの、きちんと話ができたことは良かったです。

たびたびですが、引用させていただきます。

>これはとても言いづらいことなのですが、同じように頼まれても
やってあげたくなる人と放っておきたくなる人がいます。
特に長い闘病生活になると、近親者もその状態に慣れてくると思うので。

 これはそのとおりだと思います。”言いづらい”なんて気を使ってもらって申し訳ないぐらいです。質問に書いてありますが、僕には人徳がないので、ま、それと、対人恐怖症の人はまともに取り合ってもらえませんからね。それも含めて僕に助けようと思わせる部分がなかったんだと思っています。そこは、受容しています。

>その友人との関係は別にうまくいかない、と思っているわけではないです。
ただ、常に他の友人たちよりも気を遣わなくてはならない相手だし、
自分がどうしたいかよりも相手がどうしたいと思っているかを
考えて行動せねばならないので、ちょっとしんどいのは事実ですけど。

 ちょっと、言っとくとですね、鬱病者の要求をかなえることばかりを考えてはいけませんよ。気配りは欠かせないですけれど、いつもの自分を前面に立てたほうがいいんです。気配りはしんどいですよね。友人として大事だと思うのは、苦しいときも楽しいときも、いつもと変わらないで、そこにいてくれることだと思います。僕の友人たちにはできなかったことで、僕も過去にはできず、今、しているところです。

>これまでは周囲にも恵まれなかったのかもしれませんが、少しは自分も変わらないと

 やはり、そういう時期に来ているのかもしれないです。ほかの回答で僕は、以前のように苦しまなくなったし、同時に、ポジティブな感情にも気づかなくなっているというのを書きました。
 最近、近所の子供や、お年寄りとコミュニケーションをなんとなく取るようになりました。性を意識する世代の近い女の子はちょっと苦手ですが(精神病のときは性的なバランスが崩れるのです)、はっきりと言葉にできるような動機はわからないですが、なんとなくですね。
 これからどうなるかはもちろん僕にはわかりませんが。
長い話に付き合っていただいて、ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/08 20:20

r1r1r1です、度々失礼しますね。



名前はアールワン×3、意味もなく適当に付けちゃいましたので適当に呼んでくださいね。

kumosuke32さまは、ご自身のことを強いわけではないと仰いましたけど、私から言わせて頂くと、あなたは強い人です。私の家族は精神病になって14年になりますが、kumosuke32さまとは対照的で、まったく自立心がないのです。医師や家族に依存していますし、なので信頼を裏切られる事柄が起きるとズトーンと突き落とされてしまう。少しで良いので、あなたのその強さを私の家族にもわけてもらえたら…なんて羨ましく思いました。

信頼できる人との出会いや機会を待つ間は距離感を保って人と付き合う、ということについて私がいまはそれでいいのでは…っと感じた理由についてですが、人間関係で、”今は無理をしたくない”というお気持ちなのではないのかなっと思ったのです。躊躇わず、できれば向こうから踏み込んで欲しいと感じるとすれば、そろそろ頑なな心を解放させてもよいかなぁっという兆しでもあるような…。

苦痛や苦悩の中、心から信頼できる人が居なくても、ご自身でやってこれたのですから、人との関わりについて、いま答えを探すこと、ないように思うんです。とりあえずは一つの大きな山を乗り越えた(快復した)という充実感や自信となったのではないのかなと思いました。

この回答への補足

 r と1が繋がっていたんですね。すごいなぁ。驚きました。

 うんと、僕はやっぱり強くないですよ。自殺未遂は何回もあるし、この友人はだめだと思った人と、また、よりを戻したり。頼りにきた友人に応えられなかったこともあった。
 こんなこと言うと失礼ですが、僕とご家族との違いは、僕は幼少のときから自分のおかしさに苦しんできて、それを訴えても何もしてくれない母と、酒を飲んでは暴れ周り、酔いのさめているときは権力者の父、そして、世間体を気にして外ではそれらしく振舞いながら、内ではただの大人になれなかった子供の両親から早く自立して逃れたいという思いが強かったからだと思うのです。
 大きな視点から見れば、僕が病気になったのは、そこからはなればなれになっていった両親と僕のベクトルを再び交差させるためのものだったかもしれない、と考えることもあります(そういう視点から見るとご家族の精神病は家族を維持するための何らかのシステムとして働いていると考えることができます。僕は発症から15年。今も治療中だから更新していることになりますが。外で支援団体などの力を借りて軽作業をご家族にさせてみてはいかがですか?世間が広がりますから、少しは自立心も出てくるかもしれないですよ。)。限定的な信頼ではありますが、今は両親を受容できています。

 引用させていただきます。
>苦痛や苦悩の中、心から信頼できる人が居なくても、ご自身でやってこれたのですから、人との関わりについて、いま答えを探すこと、ないように思うんです。とりあえずは一つの大きな山を乗り越えた(快復した)という充実感や自信となったのではないのかなと思いました。

 川は絶えずして、元の流れにあらず という言葉をある漫画で見ました。これを実感したのは、精神病の霧の中から顔を出すことができたときでした(しばらくして、また、沈みましたが)。このとき、この言葉の意味が体感できたんです。人というのはとどまることなく変化しているものなのだと。ただ、その変化が目に見えないだけで、ということなんです。僕は昨年の暮れに、また、大きな山を越えました(精神病は、僕の感覚で言うと、段階的に少しづつ回復していくんです)。すると、もう、僕の能力はこの程度なんだと思ってきたのですが、失われていた能力が返ってきたんです。そして、無用に苦しむこともほとんどなくなってしまった。今こそが、失ってしまった時間を取り戻すときだと思いますし、ああいう経験をしてると、体と心が動けるうちに動こうという考えが身についてしまうものなんです。それに山を越えて得たのは、自信や充実感より、ほっとした気持ちのほうが大きいです。
 失礼かもしれませんが、ご家族の行動範囲や、家での家事の範囲を少しづつ広げてあげるのも大事ではないかと思います。”広げてあげる”といっても優しくというわけではなく、買い物を頼んだり、食器洗いぐらいはさせるとかですね。自分は家事を担っているんだという家族内での自身もつくと思いますし、つらくても近所に人と顔をあわせたり、買い物の途中で近所の様子を知ったりすることは、本人にとって大きいです。もうやっていたら、すいません。

補足日時:2006/08/08 20:21
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