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私は、小学校高学年、中学校、社会人10年以上、いじめを受けた経験の持ち主です。社会人では、村八分をされ、会社に行き、やることもなく、倉庫に行き、ぼーっとしていたこともありました。

いじめをする、という行為は悪い行為であり、絶対に許すものではない、との考えを持っています。

しかし、今、振り返ると、自分にも非があった、問題はあった、との認識にあります。自分の問題点を受け止め、その問題点を改め、自分を少しでも変えるように努めています。

ですから、今では、必要以上に恨んだり、憎んだりはしていません。

世間で多く報道されていて、テレビ番組等を見ていますが、いじめられる人間にも問題がある、と、述べると、そんなことはない、と攻撃的に意見を言う方がおられます。

果たして、いじめられる側の人間に問題はない、0%である、微塵もない、と言い切れるのでしょうか?

もし、0%であると断言できるのならば、いじめる人間を除外した形で、理由は何なのでしょうか?(例えば、普段から正しい行為のみしている、等)

また、仮に、いじめられる側の人間に原因があるとするならば、何が原因であると想定できるのか、具体的に教えて下さい。

A 回答 (106件中91~100件)

私は恥ずかしながら両方の経験があります。



小学校4年生まで身体的特徴でいじめられていました。ですが4年生の半ば位からいじめる側の立場に立ちました。今ではその両方の経験はこれまでの人生での最大の汚点とさえ考えていますが当時は必要な事でした。何故か?命の危険に晒されるまでにいじめられる事が脅威となったからです。

何度と無く死ぬ事を考えた時期さえあります。が・・・ふと思ったんですよ。何故ボクが死ななきゃいけないの?とね。
いじめる側は確実に弱い人間をターゲットとします。いじめとは娯楽であり暇つぶしなのですから自分が傷つく必要は無い。壊れたら(死んだら)別のおもちゃで遊べば良い。ただそれだけです。そこには善も悪もありませんよ。何故そこまで出来るようになるのか?と問われれば後からいじめた事も後悔する日々が来るのが分からないからとしか良い様がないのです。


私はその当時は週に3回はケンカしていた覚えがあります。勝負に関係なく勝っても負けても続けていました。理由は殆ど覚えていません。恐らくは本当に些細な事だったのでしょう。5年生になる頃にはすっかりいじめる側です。それまでいじめられた相手は勿論の事関係無い人間までいじめていました。同じクラスで知らない訳が無い。助けてくれなかったからあいつらもグルだとね。


私はこの頃の事は後悔しています。しかし必要だったとも考えています。そこまでしなければ状況が打破出来ずに潰されて死んでいたと思うからです。

どちらの側に原因があるか?と考えるのは意味が無いと思います。あえて言うならば「弱い」と言う事がこの場合の最大の原因としか言えないのではないのでしょうか?・・・訂正します「弱い」事は状況によっては最大の悪徳とさえなる場合があるとでも言うのでしょうか?

単純に腕力の有無は強弱の判断になりますが得物があったり、多勢に無勢といった場合にはそれさえも誤差にしかなりません。誰もが「弱者」なのだ。或いは簡単に「弱者」になるのだという自覚が無いから感嘆にいじめが起こるのかもしれませんね。
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場合と状況によっていじめられるその人にも問題があると思います。


いじめられる側に問題がないのは、努力によって変えられるいじめられやすい性質(極端に偏向した性格の人物である、etc)がなく、且ついじめの対象として気まぐれなどによって選ばれた場合だと思います。
当然、どんな状況であれ、加害者と被害者を比べれば客観的に、圧倒的に悪いのは加害者なわけですが、多くの局面(学校すべての現状を知らないのですが)では、全く過失や良くなかったところがなかったかというと、否定できます。なぜなら、誤りがない人はあるわけなく、限定的な状況ですら完璧であるのはとても難しいからです。
まとめると、大体のケースでは被害者にもどんなに少なかろうと0,0…(以下略)ぐらいの割合でよくなかった部分があります。0%が多くの場合不自然になるなら、いじめられる側に問題が無いとするのは、単なる強調、絶対に悪いと主張したいがために、そういった発言をしたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>なぜなら、誤りがない人はあるわけなく、限定的な状況ですら完璧であるのはとても難しいからです。

不完全な存在、それが人間であると思います。なんでも完璧に、間違いを犯すことなく、迷惑をかけることなく、人生を全うできるか、と問われれば、それは無理、としか回答しようがないはずです。
「間違いがあっても、迷惑をかけても、失敗しても、弱点があっても、人なのだから、いいんじゃない、もっと肩の力を抜いていこうよ」、と、言いたい、という考えがあるだけです。

ちなみに、いじめの原因は、何だと思われますか?

お礼日時:2007/01/06 15:37

>>ANo.8の補足に述べた、闘牛士の例えを読まれて、どう感じますか?



この部分は、自分の回答と直接関係ないとして読んでいませんでした。なので、今読んでみました。

>>現場経験がない者が、短期的な施策を立てることは難しく、対症療法的な方法で、個別に対応していかなければならない、という意味では、今の現段階においては、いじめる子供に厳正的に接するのは、必然であると考えます。

いろいろと意見の相違があるとしても、この「いじめる子を厳正的に接する」が「厳正な処分」という意味なら、「別ルートを通ったが同じ結論に着いた」ってことで異論はありません。
(ただ、現実はいじめる側が多数派であり、いじめの「証拠隠滅」がうまくて処罰されることは少ないようです。いかに証拠固めをするかが課題でしょうね)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「別ルートを通ったが同じ結論に着いた」ってことで異論はありません。

私のいじめに対する方法ですが、大きく分けて2つ考えています。
1.短期的な方法
2.長期的な方法

【1について】
短期的な方法とは、今起きているいじめに対して、いじめられている子供達をいかに救うのか、という対症療法的なアプローチのことです。いじめられている子供にとっては、いじめる子供を無くして欲しい、という一点だけが願いなわけで、理屈を言っても仕方のないことだと考えています。
【2について】
長期的な方法とは、理屈を基本として解決していこう、という考えです。大前提として、いじめがそもそもなぜ起きているのか、の原因を、「大人の腐敗」に求め、この腐敗を無くし、日本人の質を向上させることで、社会全体の歪みを解消していく、その中で、歪みの結果として現れているいじめを減らしていく、というものです。

子供は、大人の矛盾、不条理さ、筋の通らない言動、欲望に走る姿、大人だけが許されるという傲慢さ、を見て、大人に対して、社会に対して、教師に対して、不信感と失望感を感じています。例えば、今テレビで、「命を大切にして下さい」「自殺をしないで下さい」というようなメッセージを出していますが、そもそも大人達が命を大切にした日々を送っているのか、と言えば、大筋、「ノー」と言わざるを得ません。

・お酒を過剰に飲む
・タバコを吸う
・睡眠不足
・外食に依存
・暴飲暴食
等々

とても、大人達が体に気をつけて、命を大切に生きている、とは言えません。こういった明白な矛盾を抱えながら、キレイごとだけ並べる大人達に指導されて、「はい、分かりました」と、耳を傾けるのか、と言われれば、恐らく傾けないのではないかと思います。

話の筋がズレましたが、1と2の方法を同時に行う、というのが私の考えです。

お礼日時:2007/01/06 12:07

いじめの原因は様々です。


ニキビが多い、太っている、成績が悪いなど短所の場合。
逆に頭がいい、スタイルがいい、人気があるなどの場合も時によってはいじめられる原因にあります。
ですので一概にはコレが苛められる原因だと言い切れないし、原因はないものと思います。

考えなければいけないのは苛められる原因より、人を苛めてしまう原因の方が考えるべきではないでしょうか。
その人その人によっても違いますが何も考えなしに苛める人はいないように思います。

まだ親に甘えたい年頃の子供ですと、親が共働きで寂しい思いをしているのに他の子供は自分と違って親に遊園地に連れて行ってもらった、など羨ましくもありねたみの理由になります。
ただ自分がそれが羨ましいなどと悟られるのがいやでその人の短所で突付いてしまう。

自分の持つ強いコンプレックスがあるため、自信がなく自分がそこを突かれないよう、自分より劣っている人間を苛めることで自分が苛められる側へ回らないための自己防衛策を取る。

私は最近まで苛められていましたが、苛められる中で苛める側の心理としてはそういったことが多いように感じています。

苛めることは確かに絶対にしてはいけない行為です。
ただ、なぜ苛めが発生するのか。
社会でも人を苛める人もそうですが、同じ人間的に発達途上である子供の時代、悩みや精神的な問題を解決する策を知らない。
周りに相談できる人間がいなかったり、子供のことを考えてやるべき大人が相談に乗ってくれない、余裕がないなど苛める側の精神的な問題を充分に解決してやれない社会に原因があるのではないでしょうか。

この回答への補足

いじめられる原因は以下のこと、ということですね。
・ニキビ多い
・太っている
・成績が悪い
・頭がいい
・スタイルがいい
・人気がある
・妬まれる生活

いじめる原因のひとつに、自己防衛、保身のために、いじめをする、ということですね。

補足日時:2007/01/06 12:10
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>考えなければいけないのは苛められる原因より、人を苛めてしまう原因の方が考えるべきではないでしょうか。

まさにその通りと考えます。
・善悪の判断が、日本人全体で、希薄になっているから
・不条理な社会にイライラしている
・テレビ等のお笑い番組で、いじりやいじめが笑いのネタになり、いじめはおもしろいもの、と刷り込まれているから
等々が挙げられると思います。

お礼日時:2007/01/06 12:18

んー。

何か一杯書いてありますので全てに目は通さないで回答しています。

私の感想ですが。イジメた側が100%悪い。
だけど、悪いと知りながらイジメをするのだから
イジメられて泣きたくなければ防衛策も必要。
泥棒のたとえ話になっていますが
窓も開けっ放しですぐ手の届く所に金品を置いて置いて盗難にあった。
その場合でも、そりゃ取った方が100%悪い。
けれど、取られて泣きたくなかったら、せめて鍵ぐらい閉め
取られて困る様な大事な物は人目の付かない場所に。
そいう事だと思うがね。
それでも泥棒に取られる時は取られるんだけどね。
犯罪者が悪であることは間違いないでしょうが、
防犯意識の欠如は悪とは言い切れないのではないかな。
それらの全く別の問題をイジメた方も悪いが
イジメられた方にも原因があるといった感じに
同列に置いて語られている事自体が、そもそも話しをややこしくしている。
何故、そうなってしまうのか。
それは、どこからがイジメで、どこからがイジメでないのか
明確な線引きをする、ガイドラインもなければジャッジする機関もない。
昨日から友達が口をきいてくれない。それをイジメだと感じる人も居れば
そんなの良くある事だから気にしないと言う人も居る。
これじゃどっちが悪なのか、甘えてるのか解らない。
終いには、見て見ぬフリする人が一番悪い。
とかややこしい事を言い出す人もいる。
だから、出来る限り何がイジメで、何がイジメでないのか
そこを、例えば法的に決めなければ、永遠に水掛け論が永遠に続く。

この回答への補足

>それらの全く別の問題を、
「イジメた方も悪いがイジメられた方にも原因がある」といった感じに
同列に置いて語られている事自体が、そもそも話しをややこしくしている。

ご指摘の通り、このいじめの問題は、そもそもややこしいものです。
いじめられた方といじめた方とは、同列に考えるのは、いけないと思います。同列ではなく、違った列として、別々に対応するのが賢明であろうと思います。
ただ、両方共に、対応しなければならない、という意味では、同等に、いじめの当事者として、それぞれの原因(弱点)を認識する必要はあると考えます。
程度や種類の差こそあれ、それぞれが問題(弱点)を抱えていることには間違いない、わけですから。

補足日時:2007/01/06 12:20
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>何故、そうなってしまうのか。
それは、どこからがイジメで、どこからがイジメでないのか
明確な線引きをする、ガイドラインもなければジャッジする機関もない。
>だから、出来る限り何がイジメで、何がイジメでないのか
そこを、例えば法的に決めなければ、永遠に水掛け論が永遠に続く。

法的に決めるのは、限りなく不可能ではないか、と思います。それは、例えば、恋愛において、「私はもう既に彼女だと思っていたのに友達だなんて、信じられない!」というように、女の子が悲鳴を上げた場合、法律で、こうなったら恋人、ここまでは友達、と明確に線引きができるのか、というと、これは無理です。なぜなら、恋愛は当事者同士の問題であり、第三者が割り込んでジャッジできる種類のものではないからです。

同様に、いじめに関しても、あくまで当事者同士の問題なので、法律という杓子定規な基準で采配するのは、無理であり、危険なことであると言えます。

いじめが起きても、周囲の人達によっていじめを止めさせる、という自浄作用が働く社会の構築、あるいは人間育成をしていかなければならないのではないでしょうか。

お礼日時:2007/01/06 12:37

>いじめられる側の人間に問題はない、0%である、微塵もない、と言い切れるのでしょうか?



それはケースバイケースであり、また、人によって意見が変わると思います。
例えば、いじめる人間はいじめられる側が悪いと主張する事が多いのではないかと思います。


また、いじめも様々です。
自分が見たこと、経験したことのあるいじめとしては・・・
1.いじめられっ子の成績が悪く、書類などの提出物も出さない、学校全体で悪い子として有名。その上、人の悪口を平気で言う。生徒どころか先生からも嫌われてた雰囲気が原因と思われるいじめ。

2.いじめっ子のお母さん曰く、いじめっ子がいじめられっ子に何をやっても(勉強、運動など)勝てないから嫌いという理由のいじめ。

3.いじめっ子が暇つぶし、楽しむためのいじめ。いじめっ子本人が「いじめって楽しい。暇つぶしはいじめに限るよね」と言っていたとか。
その上、ある日突然いじめの対象となる子が変わり、それまでいじめられていた子は普通に話しかけられ可愛いニックネームで呼ばれるようになったとか。

こんな感じです。

>いじめられる側の人間に原因があるとするならば(以下略)
1と2の場合、いじめられる側の人間に原因があるなら、いじめっ子より劣っている事、優れている事、ですね。


それと、他の回答者さんへの補足やお礼を拝見させていただいたのですが・・・
>いじめられる側の人間が、大人になった時、「恨み」や「復讐」を心に持ち続け、持ち続けることによる弊害で、人生自体を苦しんで欲しくないからです。恨んだり、復讐心を抱きながらの人生は、端的に言えば、幸せではありません。(No.9さんの回答への補足より)

それも人によりけりです。
いじめられっ子だった自分は、いじめっ子や助けを求めても何もしてくれなかった大人に対して憎しみを持っていない、と言えばウソになります。

でも、苦しんでいませんし幸せでなくはありません。
確かに、世間一般に多々いる人々に比べて自分は変わった考えの持ち主ではありますが、自分なりの考えを持ち、自分なりの幸せをちゃんと持っています。
むしろ、いじめられたことで学んだこともあるので、いじめられて良かったと全く思わなくもないです。

>誰でも、いじめたい、という欲望を持っています。それは、相手をいじめることで、相手を引き下げ、自分が優位に立ちたい(中略)という本能があるからです。企業の競争社会を見れば、優越欲を満たしたい、を目標に競争しているようなもので、これは、他の企業をいじめる、という行為なのです。(No.9さんの回答へのお礼より)

それは違うと思います。確かに、他社より優位に立ちたいという思いは自分にもあります。
でも、それは正々堂々と戦って勝利を勝ち取りたい、というものです。
自分は、いじめなんて運動競技でドーピングしたりテストでカンニングしたりするような卑しい行為だと考えています。
そんなズルして勝っても嬉しくないですし、むしろ自己嫌悪におちいる気がします・・・したことがないので、本当に自己嫌悪におちいるかは分かりませんが。

企業の競争だって、幾つかの企業がグルになって1つの企業を倒産に追いこむのならともかく、努力して売り上げを上げたり技術を開発することによって得た優越は正当に評価されるべきであり、いじめだなんて言ったら、努力した人たちがかわいそうだと思います。

この回答への補足

いじめられる原因は、以下のことっていうことですね。
1.成績が悪く、提出物を出さないという面で目立っている
2.悪口を平気で言う
3.生徒からも先生からも嫌われている
4.勉強、運動で優れているから

いじめる側の意識
・「いじめって楽しい。暇つぶしはいじめに限るよね。」という意識

補足日時:2007/01/06 12:42
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>いじめられっ子だった自分は、いじめっ子や助けを求めても何もしてくれなかった大人に対して憎しみを持っていない、と言えばウソになります。

恨みや憎しみがゼロになるとは考えておりません。人間である以上、憎悪や嫉妬心といった煩悩が消え去ることはありませんから。
ただ、いじめられた程度が悪く、強く恨みを持っている人にとっては、そのいじめの記憶自体を抹消しようとします。なかったことにする、ということですが、これは心の性質から言うと難しい、としか言いようがありません。ですから、事実を事実として受け止め、正面から向き合い、「相手も相当悪い奴ではあったが、私にも生きてきた中で悪いことのひとつやふたつはしてきている。同じ悪いことをしてしまう愚かな人間同士なのだ。私にも、少なからず責任の一端はあったであろう。」との認識を苦しいながら決断すれば、心の傷は癒されていく、と、自分の体験からは言えます。

>でも、それは正々堂々と戦って勝利を勝ち取りたい、というものです。

競争原理に乗って、競争原理を肯定している時点で、それは、他者をいじめ、自分らが利益をあげればいいのだ、という思想に取り憑かれている、と言えます。社員個々人はいじめの気持ちがなくても、会社という主体は、他の会社を蹴落とし、優位に立ちたいだけの代物です。この競争原理を否定して、緩めていかない限り、いじめ体質ニッポンはなくならないでしょう。

お礼日時:2007/01/06 12:55

とりあえず回答への反論です。



>>リスクを他の人間に責任転嫁するような店主であれば、それは単に無責任極まりない人間である、としか言いようがないのではないでしょうか。店を構えれば、万引きに遭えば、放火にも遭うわけで、存在することの責任を自覚することが、人としての一歩であると考えます。

たぶん、質問者さんは、渋谷のバラバラ殺人についても、殺された短大生の仏前?で「兄を侮辱するような一言を言わないことが人としての一歩である」と言うのでしょうね。

>>誰でも、いじめたい、という欲望を持っています。それは、相手をいじめることで、相手を引き下げ、自分が優位に立ちたい、優越感を味わいたい、優越欲を満たしたい、という本能があるからです。

それは本能と違うんじゃないですか?ちゃんとした競争の結果、勝利して優越感を味わうっていうのはあると思いますが、イジメで優位に立つというのは、すごく気分の悪い目覚めの悪いことだと思いますけど・・。(私は小学生のころ、今のいじめと比べて、とてもいじめといえない、軽いいじめを集団でやったことありますけど、心の傷になってます)

>>しかし、大抵の人は、子供社会のいじめには注目するものの、企業間のいじめは容認しています。このこと自体が問題であり、社会全体が腐敗している理由でもあるのです。

たしかに、ここでの質問を見ていても、企業内のいじめは多いような感があります。たぶん、ニュースバリューとして子供たちのいじめがマスコミ的には上なんでしょう。

>>「私は、正しいとは限らない。人のせいにしてはいけない。」
という考えにあれば、人の意見も聞け、物事を客観的に洞察することもできるようになると考えます。

それはそのとおりです。そして、客観的に見て、いじめの後遺症で苦しむ人に対して、原因を作ったのは明らかにいじめた人であり、被害者である、いじめられた人のせいではないと洞察する必要があると思います。


ところで、こうした意見のすれ違いは、別次元のことをごっちゃにして述べているからではないでしょうか?例えば万引き犯を例にすれば、

法律としての「窃盗は悪い」という原則論と、犯人の「情状酌量的な弁論」と、「書店店主の心得」を混ぜて議論しているように思えてきます。

たぶん、現在問題にすべきは、あまり語られない「防止方法、いじめた側の処罰内容」ではないかと思います。つまり釈尊の説法にある「毒矢のたとえ」ですね。毒矢で射られた負傷者を前にして「毒の種類は?どこから射られた?犯人は誰か?」などを議論しても負傷者を救うことはできません。そんなことよりも苦しんでいる負傷者の治療が先です。

いじめでいえば、「即日、いじめをやめさせ、被害者を苦しみから救う方法」を実施することです。つまり、いじめの首謀者数人をすみやかに出席停止にし、内申書にそのことを記録することのルール化です。つまり罰則規定の強化・明確化ですね。(実際には証拠固めが難しい面があるのですが、ドラマのCSI:マイアミなみは無理にしても、ちゃんと調査すれば証拠は出てくるでしょう)

私も含めて、あと数十年すれば、この世を全員が去り、今の子供たちが日本を背負っていきます。その子供たちが、いじめを正当化する、あるいは見て見ぬふりをする、いじめられるほうも悪いという考え方で学生時代を過ごして、社会の第一線で活躍するようになったとき、どんな社会になってしまうのか?なんだかとても暗い気持ちになってしまいます。

この回答への補足

ANo.8の補足に述べた、闘牛士の例えを読まれて、どう感じますか?


>渋谷のバラバラ殺人

この場合、殺した方が悪いのは言うまでもありません。ただ、人として生きている以上、天災や災難や殺人等で、いつ死ぬか分からない、というリスクは意識しないといけません。絶対安全な孤島であるなら別ですが。(感情論では述べていません)

>それは本能と違うんじゃないですか?

回答者さんは、集団で行い、自分がリーダーになってしたわけではないと思います。だから、自責の念を感じたのでしょう。
本能、と分かりやすく表現しましたが、正確に言えば、煩悩です。そして、その煩悩の中には、名誉欲というのがあり、名誉欲と優越欲とは、ほぼ同等の意味になります。煩悩をそのまま行動に移してしまうことは、大筋悪い行動になってしまいます。名誉欲を満たしたいために、様々な悪事を働く場合もあります。

ちょっと勉強ができてスポーツマンの男の子をいじめたくなってしまうのは、そのままだと彼の方が位置的に高いと感じてしまうわけで、いじめることで、彼の位置を少しでも下げ、優位を感じたい、ことから、いじめたりするのです。あいつ羨ましいなあ、妬んでしまうなあ、という嫉妬心からいじめる場合もありますが、この嫉妬心も煩悩の一つです。

補足日時:2007/01/05 23:11
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>いじめの後遺症

これは非常に難しい問題です。心の傷は容易に癒されないのではないかと思います。この心の傷は、忘れるようにしたら忘れられるのか、時間が解決してくれるのか?と、問われれば、ノーであると思います。人間は、一度起きた事象を一生記憶に残してしまうものであり、消えることはありません。トラウマとか、フラッシュバックとかで、思い出してしまうものです。

では、どうすればいいのか?ケースバイケースなので、個別に対応するかは言い切れませんが、「そのいじめの事象と正面から向き合い、相手のせいである、という捉え方を改める」、これしか方法はない、と考えます。恨めば恨むほど、傷の強化を増すだけであり、弱体化させることにはなりません。自分のせいもある、自分の責任として引き受ける、認める、ことで、相手への恨み、つらみが軽減したところで、心の傷は、少しずつですが、癒されていくと考えます。(私もその考えで、恨み体質から脱却しました)分かりやすく言えば、発想の転換、逆説的なアプローチ、ということです。

心というものは、不思議なもので、道理に反する思いを持つと、混乱をきたし、痛みになるものです。つまり、心とは道理に反する思いを嫌うということです。逆に言えば、心とは道理に沿った思いを好む、ということです。

道理に沿う考え:自分のせいにする
道理に反する考え:人のせいにする

自分のせいにする、責任として引き受ける、というのは、必要以上に自分を責め立てたり、自分を追い込んだり、自分をけなしたり、することではありません。自分の責任として、事実を事実として受け止めるだけです。(ただし、いじめに関しては、いじめる人間が卑怯極まりないので、まずは、いじめる人間がいじめは悪い行為であるとの認識を持てるように、大人達が、世の中を変えないといけません)

道理とは、自業自得、で言うように、自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならない、ということです。これは、言い換えると、自因自果、とも言えます。自分が行った行為は必ず自分に結果として返ってくる、ということです。つまり、原因は必ず自分の中にある、ということです。

他因自果、とは、他人が行った行為が自分に結果として返ってくる、ということですが、これは道理に反していて、絶対に有り得ない、ということです。

お礼日時:2007/01/05 23:17

>>いじめの解決にあたっては、どちらか一方を解決すれば、双方共に解決し、いじめが減る、という考えにはありません。

双方ともに、問題や弱点があって、両方共に解決を図ることで、いじめが減る、と考えています。

つまりは、万引きの多い書店で、「盗むやつも悪いが、書店も盗みやすい陳列方法と警備員が不足しているのが悪い。全品に盗難防止タグをつけるとか、監視カメラを増やし、屈強な警備員を置くように」ってことですね。

こういう考え方では、イジメは絶対無くならないでしょう。この世の中、五体満足な人ばかりではないですし、知能的な発達面でも問題がある人は多いです。障害とまではいえないけど成績不良とか気弱な人はそれこそ沢山いることでしょう。
つまり、「問題」を抱えた人は、人間が数十人あつまれば、その中に数人いると考えられます。「イジメられる側に問題があるのが悪い」と言っていたら、たとえうまく「イジメられる問題を克服した人」がいても、明日は、別の問題をかかえた人がターゲットになり永遠にイジメは無くならないでしょう。

「イジメる側が絶対的に悪い」という価値観で対決しないとダメだと思いますし、「出席停止」というイジメる側の経歴に傷がついて、将来の進学に困ることになるような報復を取るべきではないかと思っています。また、手をこまねいている学校や教師、教育委員会は大いにマスコミで実名報道されるべきだと思いますね。

この回答への補足

ある音楽家が述べてました。

「人間生きていて、罪がない人はいない」

この言葉の通り、我々人間は存在しているだけで、少なからず周囲の人間、あるいは地球環境に対して良い影響や悪い影響を与えながら、生活を営んでいます。存在していなければ、他に影響を与えることはなく、罪を犯すことは有り得ないので、周囲から責めを問われる言われはありません。しかし、地球上に生を受け、人間として生きていくという覚悟を持ったならば、他に何らかの影響を与えているわけで、この罪を真摯に受け止め、自分に降り懸かる災難や問題は、自分にも責任の一端はある、との捉え方は、人間として潔い捉え方であり、人を恨むことなく、感謝できる人生になるとの考えにあることから、いじめられる側にも少なからず、責任がある、と述べているのです。

決して、いじめられる側だけに責任を感じなさい、というデタラメな考えを持っているわけではありません。

なぜ、両方に問題(弱点)があると言いたいかというと、それは、いじめられる側の人間が、大人になった時、「恨み」や「復讐」を心に持ち続け、持ち続けることによる弊害で、人生自体を苦しんで欲しくないからです。恨んだり、復讐心を抱きながらの人生は、端的に言えば、幸せではありません。心の状態から言っても、健全ではありません。はっきり言えば、間違った心の持ち方(捉え方)であり、今後生きていく上で、マイナスにこそなれ、プラスには絶対にならないのです。

人のせいにして、恨みや復讐心を持つ、これは間違いです。恨んでも、復讐心を持っても、己が消耗するだけで、相手はピンピンしているものです。正直、得はしません。自分にも至らない点が、わずかでもあったと捉え、自分にも責任があると認め、受け容れるならば、相手のせいにしていること自体、馬鹿馬鹿しいことになっていきます。相手のせいにしても、相手の行動は、その人本人が心から自分の行動の悪さに気づかない限り、修正されることはありません。自分の思い通りに、他人は行動することはない、ということです。

今、世の中の日本人全体が、自分の責任として心から引き受ける、という勇気や度胸がなくなっていることに、いじめ頻発の原因があると考えています。自分の責任として引き受ける、ということは、恥ずかしいことでも、悪いことを認めたという情けないことでもありません。潔い行為であり、尊敬、尊重されるものであり、胸を張っていい行為なのです。ただ、こういった行為が敬遠されてしまう理由は、今の社会風潮が歪んでいるだけなのです。

日本人全体が心の腐敗を起こしている現状、どちらが良い、とか、悪い、とか、という小さいことにこだわるのではなく、全員で猛省するべき、なのです。みんなで反省し、心を改めれば、いじめが悪い行為である、ということが、徐々に理解できるようになると、考えています。

補足日時:2007/01/05 14:40
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>万引きの多い書店で、「盗むやつも悪いが、書店も盗みやすい陳列方法と警備員が不足しているのが悪い。全品に盗難防止タグをつけるとか、監視カメラを増やし、屈強な警備員を置くように」ってことですね。

店を開くということは、様々な人間が出入りすることを承知している、ということです。ですから、盗みや万引きが起きてしまう事も承知しているわけで、たまたまそういう行為が起きたなら、リスク部分が予想通り出てきた、というだけの話です。リスクは店主の責任であり、そのリスクを押しても店を出したのは、店主の責任としか言いようがありません。リスクを他の人間に責任転嫁するような店主であれば、それは単に無責任極まりない人間である、としか言いようがないのではないでしょうか。店を構えれば、万引きに遭えば、放火にも遭うわけで、存在することの責任を自覚することが、人としての一歩であると考えます。

誰でも、いじめたい、という欲望を持っています。それは、相手をいじめることで、相手を引き下げ、自分が優位に立ちたい、優越感を味わいたい、優越欲を満たしたい、という本能があるからです。企業の競争社会を見れば、優越欲を満たしたい、を目標に競争しているようなもので、これは、他の企業をいじめる、という行為なのです。しかし、大抵の人は、子供社会のいじめには注目するものの、企業間のいじめは容認しています。このこと自体が問題であり、社会全体が腐敗している理由でもあるのです。

悲劇のヒロイン、被害者意識を持ち続けることは、非常に怖いことであり、その蟻地獄から脱却しないと、人生は苦しいものなります。

「私は、正しい、相手が悪い、周囲が悪い、親が悪い、社会が悪い」

という妄想的考えが、今の腐敗した世の中には蔓延してしますが、この呪縛にはまると、人の意見が聞けなくなり、悪い意味での暴走が始まります。

「私は、正しいとは限らない。人のせいにしてはいけない。」

という考えにあれば、人の意見も聞け、物事を客観的に洞察することもできるようになると考えます。

お礼日時:2007/01/05 14:59

> 双方ともに、問題や弱点があって、両方共に解決を図ることで、いじめが減る、と考えています。



では、言い換えましょう。「両方共に解決を図ることで」いじめが解決した、という事例は、私の知る限りありません。
私の知る数少ないケースですが、いじめる側が100%悪い、ということを明確にしておいて、解決した事例は知っています。ですが、それ以外のほとんどのケースでは、「双方に問題がある」として、両者に指導をしていましたが、卒業まで解決しませんでした。

もう一度申しますが、これまでの教育現場は何十年もそういう考え方でやってきています。「いじめられる人間にも問題がある」というのは、多くの教師のいじめ問題に対する「見解」でした。
戦後の教育は、良くも悪くも「平等」を最優先にしてきました。いじめた側もいじめられた側も双方に問題があり、両方を指導すべし、というのは、その平等主義にかなった考え方で、まぎれもなく「これまでのやり方」です。その結果が「現状」です。

それを承知の上で、その考え方を信じるのは御自由です。私の言うことを信じないというのであれば、それも御自由です。ですが、その考えには、先ほど述べたように本質的な矛盾があると私は思います。

ひとつ申し上げるのでしたら、「いじめられる側の人間に問題はない」「いじめはどんな場合にも正当化されない」というのは、少なくとも矛盾の無い、明快な考え方です。それに対して、あなたの考えを同じようなワンセンテンスにまとめてみてください。まとまらないのでしたら、その理由はやはりその本質的な矛盾にあるのではないですか?まとめる過程で見えてくるものもあると思います。ぜひトライしてみてください。

この回答への補足

>「いじめられる側の人間に問題はない」「いじめはどんな場合にも正当化されない」というのは、少なくとも矛盾の無い、明快な考え方です。

「いじめられる側の人間にも問題があり、その問題は弱点と表現した方が適当である」
「いじめる側の人間に問題があり、それはいじめを心から悪と認識していないところにある」
「いじめられる側が弱点を修正し、いじめる側がいじめを悪と認識すれば、いじめ自体が減っていく」

双方の問題点を克服できれば、双方に問題が限りなくゼロに近づくので、争い事も減っていく、ということです。

例えは悪いのですが。、ひとつ例を挙げます。
闘牛士という方がいますが、彼は、赤いマントを持っています。実際には、赤いマントを持って煽ったりしてわざと牛の闘争心を引き出しています。もし、闘牛士が赤いマントを持たず、手ぶらで登場してきたら、牛は猛然と闘牛士を襲ったりするのでしょうか?

赤いマントがなくても、襲ってこないという確証はありませんが、持っているより、確率は低減されると思います。つまり、赤いマントとは、いじめられる側の弱点であり、牛が襲うとは、いじめる側がいじめをする、という例えです。いじめられる可能性はゼロにはならないものの、その可能性を少しでも低減するものとして、弱点克服が挙げられるのではないか、と、述べているのです。

短期的に、いじめを減らす、とか、現場での具体的ないじめを救うには?、という観点で、述べているのではなく、長期的に見て、我々大人世代は、この世の中をどう捉え、どう変えていかなければならないのか、という視点で、僭越ながら、述べているのです。

現場経験がない者が、短期的な施策を立てることは難しく、対症療法的な方法で、個別に対応していかなければならない、という意味では、今の現段階においては、いじめる子供に厳正的に接するのは、必然であると考えます。

補足日時:2007/01/05 15:05
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>まぎれもなく「これまでのやり方」です。その結果が「現状」です。

いじめは、社会の歪みの結果として、出てきた悪い副産物です。ですから、社会が歪んでいる、社会が腐敗している、大人が腐敗している、という反省するという大前提がなければ、これまでのやり方がいくら良くても、結果は絶対に出てこないでしょう。

当事者である子供が悪い、という一点だけ見つめて、いじめを解決しようと考えても、どだい無理な話です。我々は、日本という土壌の上で生活し、その中で、人間形成をしてきているはずです。そうなれば、今のいじめの原因は、大人の腐敗、ここに全てが集約されることになります。

歴史が正しい、偉人の言った言葉が正しい、慣習が正しい、常識は正しい、日本の民主主義は正しい、道徳は正しい、という視点で、疑いもなく、我々日本人は、戦後生きてきました。しかし、本当に正しいのでしょうか?間違った刷り込みを受け、間違った世の中を作り、その間違った歪んだ社会に適応しようと努力して、精神を病んだり、体を壊したり、自殺者が年間3万人以上になったりしているのではないでしょうか。

物事は、ミクロ的にのみ見るのではなく、大局的に、全体的に、マクロ的に見ないと、見誤る可能性があります。

なんでもありの風潮、おもしろければ許される、多様な考えを容認、欲望を満たすことに不信感を持たない、利益のためだったら法に触れてもいい、等々、疑う余地はいくらでもあるはずです。ぜひ、ここのところを日本国民である人は考えて欲しいです。

お礼日時:2007/01/05 15:38

> 「いじめられる人間にも問題がある」に誤解を生むならば、どういった表現ならばいいのでしょうか?



そうですね、どう表現したらいいんでしょうね。あなたはどういう表現がいいと思われるでしょうか。

ただ、一応、私の考えを申します。あなたのおっしゃるところは、
○どんな理由があっても、いじめを正当化することはできない。
○だが、いじめられる側にも、いじめを受けるだけの問題がある。
という、2つのことを、同時に言い表すことができる表現、ということだと思います。
ですが、この2つを同時にあらわすことのできる表現というのは、ちょっと思いつきません。それは、私やあなたの表現力の問題、という解釈もできますが、それより、この2つは相互に矛盾しているからだ、と理解したほうが素直だと思います。

私は、いじめの問題と、後者の問題(「協調性が無い」とか「自分本位」)とは、分けて考える必要があると思います。
なぜかといえば、「協調性が無い」とか、「自分本位」といったことが本当に「問題」なのであれば、これはいじめの有無にかかわらず対処すべき問題です。(私は、こういったことを「矯正」しようという考え方には必ずしも与しませんが。)
つまり、いじめとはまったく別の問題なのに、これを「いじめ問題」に組み入れてしまっていることが、「いじめ」問題を複雑にしている元凶だとも思います。

そして、今一度申しますが、「それぞれが直していかないと」という考え方は、むしろこれまでずーっと、何十年も教育現場で行われてきたやり方です。その結果、いじめ問題は解決するどころかいっそう陰湿化し、複雑化し、収拾が付かなくなってきているのです。
あなたが問題にしている、「いじめた側が全面的に悪い」という考えは、このような「両成敗」的な考えに対する「反省」の上に立っているのです。

あと、私の経験から付け加えるのであれば、「いじめられる側」が「変わった」結果、いじめがなくなった、などという事例は、一種類の例外を除いてほとんどありません。その例外とは、いじめられる側がいじめる側に回った、というケースです。

実際のところ、いじめられる側が「直して」みたところで、本当にいじめ問題が解決するのか、そもそもそんなことができることなのか、それが、いじめる側を徹底的に指導する以上に効果的なことなのか、もう一度考えてみてください。

この回答への補足

>実際のところ、いじめられる側が「直して」みたところで、本当にいじめ問題が解決するのか、そもそもそんなことができることなのか、それが、いじめる側を徹底的に指導する以上に効果的なことなのか、もう一度考えてみてください。

ここの部分だけ、補足説明します。いじめの解決にあたっては、どちらか一方を解決すれば、双方共に解決し、いじめが減る、という考えにはありません。双方ともに、問題や弱点があって、両方共に解決を図ることで、いじめが減る、と考えています。いじめの対象がクルクル変わるのに、片方だけ対応するのはナンセンスな話だと思いますから。

補足日時:2007/01/04 21:17
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>あなたが問題にしている、「いじめた側が全面的に悪い」という考えは、このような「両成敗」的な考えに対する「反省」の上に立っているのです。

両成敗的な観点で、見ています。ただ、比重からすれば、確実にいじめる方が程度的に、圧倒的に悪いです。

我々人間は、妄想を描くものです。人というのは、そもそもキレイな存在ではありません。キタナイ心を持っている、不浄極まりない存在です。妄想的な見方で、人というものは、キレイだ、というように、美化したり、理想化しますが、これは、全くもってデタラメです。願望であり、妄想にしか過ぎないのです。

あいつ怒られたらいいのに、あいつ成績悪ければいいのに、あいつバカにされればいいのに、あいついじめられればいいのに、あいつ泣けばいいのに、あいつバナナの皮の上にのって転べばいいのに、というように、人は腹底の心でキタナイ考えを持っており、人として、キレイなどとは到底言えない存在なのです。

日本人は、特に、心の教育を疎かにして、表面上でなんとか解決しようと試みますが、それは、目をつぶって運転するぐらい危険なことです。人間の心とは、どういうもので、その心とどう接していったらよいか、を教育や家庭現場で、しっかり学ぶべき、と考えます。

お礼日時:2007/01/05 15:51

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