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私は、小学校高学年、中学校、社会人10年以上、いじめを受けた経験の持ち主です。社会人では、村八分をされ、会社に行き、やることもなく、倉庫に行き、ぼーっとしていたこともありました。

いじめをする、という行為は悪い行為であり、絶対に許すものではない、との考えを持っています。

しかし、今、振り返ると、自分にも非があった、問題はあった、との認識にあります。自分の問題点を受け止め、その問題点を改め、自分を少しでも変えるように努めています。

ですから、今では、必要以上に恨んだり、憎んだりはしていません。

世間で多く報道されていて、テレビ番組等を見ていますが、いじめられる人間にも問題がある、と、述べると、そんなことはない、と攻撃的に意見を言う方がおられます。

果たして、いじめられる側の人間に問題はない、0%である、微塵もない、と言い切れるのでしょうか?

もし、0%であると断言できるのならば、いじめる人間を除外した形で、理由は何なのでしょうか?(例えば、普段から正しい行為のみしている、等)

また、仮に、いじめられる側の人間に原因があるとするならば、何が原因であると想定できるのか、具体的に教えて下さい。

A 回答 (106件中81~90件)

いじめられる人間に問題はあるのか、否かについて



『いじめられる人間に問題があったとしても
 いじめていい理由には ならない』ということです

この回答への補足

参考です。

(No.5でレスした内容を再掲)--------------------------
いじめの構図について考えてみました。

人間は多面的な要素を持っています。
【いじめる人間】
「いじめをしてしまう要素」を持っている
        ↓
 問題である(=悪いことである)
        ↓
 直す必要がある(大人が注意・指摘・教えをすることで善悪を学ぶ)

【いじめられる人間】
「いじめを受けてしまう要素」を持っている
        ↓
 弱点である(=問題である、好ましくない)
        ↓
 直した方が好ましい(内容によっては直さなくて良いのもある)
 (=自分の物事の捉え方を変えることで、自分を変える努力をする)

要素として、種類は違うものの、問題(弱点)を抱えているという認識が大事で、その問題(弱点)を踏まえた中で、それぞれが直していかないと、いじめの構図を破壊することは難しいと考えます。

両方の問題(弱点)点を敢えて挙げるのは、昨今の事情である、いじめの対象がクルクル頻繁に変わる、という「いじめの質の変化」という背景があるため、いじめる側だけに問題点を投げかけることだけでは解決にはならない、と分かるからです。

つまり、被害者も加害者であって、加害者も被害者である、という状況が今のいじめの実態です。そうなると、今の人というのは、心の中に、「いじめる要素」と「いじめられる要素」を共存させながら、生活している、と言えます。どっちが悪いとか、勝ち負けとかではなく、全体的に、心の質の低下が起き、心が腐敗している、というのが現実であろう、と見る方が、より真実であると考えます

補足日時:2007/02/04 20:06
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>『いじめられる人間に問題があったとしても
> いじめていい理由には ならない』ということです

その通りですね。たとえ、いじめられる側に問題があり、非があっても、いじめの行為を肯定することは許されません。

いじめられる側が防御していく上で、どういう考えにあったらよいのか、あるいは、どういうスタンスにあればよいのか、を論点にしており、いじめる側の立場を肯定したい訳ではありません。

いじめられる側が、相手が悪い、あいつが悪い、周囲のいじめる人間が全ていなくなればいい、という考えに固執している場合、いじめられるという状況から脱却できますか、というと、かなり難しい、としか言いようがないのではないでしょうか。

人のせいにすることに力点を置き、自分の状況を度外視してばかりいては、状況は好転するどころか、場合によっては悪化していくものと予想できます。

いじめる人間、いじめられる人間がコロコロ変わる風潮にありますが、いじめられていた人間がいじめる人間に立場変えした場合、それは、心の奥でいじめの素質があった、つまり心として問題を抱えていた、ということです。ですから、いじめられた時代においても、心に問題を抱えていた訳で、この問題一つとっても、いじめられる側に問題はない、非はない、と言い切ることはできない、と、言えると思います。

お礼日時:2007/02/04 20:06

言い切れます。

いじめられる側の人間に100%問題はないと言い切れると思います。

例えば、いじめる原因が、態度や外見からくる「生意気だから」や「髪を染めて目立っているから」という理由であった場合、それは『いじめる側の人間』に、生意気な態度や目立つ人間を許せない、気に入らないという、それが無意識または無自覚であっても、心理的な原因(問題)があるから、いじめているのだと思います。

相手の生意気な態度によって、不快感を感じたのであれば、それが自分にとって不快であることを伝え、改善を求めればいいものを、いじめる側の人間の都合(自分本位な考え)で『いじめ』という悪質な行為に発展させているのは、他でもない『いじめている側の人間』ですから、いじめの原因は100%『いじめる側の人間』にあるといえると思います。

私は、不潔や生意気、裏切ったなど、仲間がいじめの対象としているからという理由で、いじめに参加したことがあります。後に、謝罪し、その人とは友人となりました。大人になった現在は疎遠となってしまいましたが、20年以上経過した今でも、いじめの被害にあった相手の気持ちを考えると、謝っても謝っても謝り足りません。過去に犯した自分の罪の重さに苦しみ、恥ずかしさと後悔で、かみなりに打たれて死にたくなりますし、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。地べたに頭をこすり付けて謝罪したいと今でも思っています。
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結局 「いじめる」という行為はとても恥ずかしいことというモラルがない国なんです。

そのようなこと自体 親やその他の大人から聞いたことがないという人が大半じゃないかな。

まずはその根底の考え方がないのでここまでエスカレートするし いじめられる人にも悪いところはあります」なんていう議論になるのでしょう。

「いじめる」という行為はとても恥ずかしいことという考え方を親や社会が子供にしっかり教えていれば こんな議論もないはず。

その原因はいろいろあるけど とりあえず小学校から仏教の教えなりしっかりしたモラルを教え込む必要はありそうですね。
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結局 「いじめる」という行為はとても恥ずかしいことというモラルがない国なんです。

そのようなこと自体 親やその他の大人から聞いたことないと人のほうが大半じゃないかな。

まずはその根底の考え方がないのでここまでエスカレートするし いじめられる人にも悪いところはあります」なんていう議論になるのでしょう。

「いじめる」という行為はとても恥ずかしいことという考え方を親や社会が子供にしっかり教えていれば こんな議論もないはず。

その原因はいろいろあるけど とりあえず小学校から仏教の教えなりしっかりしたモラルを教え込む必要はありそうですね。
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私は、少し違った見方考え方をしてみます。


野生の世界では、理由原因がなんであろうとその時点で弱かったら、制圧されます。食べられます。殺されます。 だから、幼少の時期などは、危ない時期だと思います。 しかし、成人すれば逆になります。 自分を守る方法手段を大なり小なり身につけます。 そして、今度は立場が逆になります。 またはなれます。 ところで人間は人間社会は、大人になると、知恵がついて立場が逆になると準備されている法律などで裁かれます。 つまり、幼少のころは、いじめられ、成人になるとしかえし出来ない。やられっぱなしで終わります。 やられたら、やり返す。またやり返すことが出来るが、相手にしない。ぐらいの気持ちで自分自身を納得される以外ありません。 何百年も昔だったら、目には目を歯には歯を だったと思いますが、何年たっても仕返しをする。 それは、当然のことで、さんざん自分をいじめた人間を懲らしめるのは当然です。 皆さんと違って非常に軽卒で単純お粗末な内容ですが、犯罪、殺人は、昔からこの地球上で繰り返されていると思います。人間ってそんなに立派な生き物ではない。 やる方は都合よく忘れてもやられた方は忘れません。 これの繰り返しでしょう。 ところで、いじめとは一緒にしたらいけないけど、話は飛ぶが、イラク中東問題だってやられた方はそう簡単には忘れないでしょう。 さあどうなるか?...
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ざっと斜め読みさせていただきましたが、一部の回答者の「いじめる側が100%悪い」という意見に反論気味のお礼を書き込んだため、質問者様がWEBいじめにあっているような印象を受けました。

(不条理なギャグのつもりかも知れませんが)

true-1様の質問内容には、「義務教育後半から社会人になってもなおイジメを受けてきたが、自分をイジメた奴等を恨んだり、憎んだりといった思考から距離をおき、自己を見つめ直したら、自分にも非があった、問題はあった、と認識した」ってことですよね?つまりtrue-1様のイジメ体験においては、イジメた相手が100%悪いとは言い切れない自己の過失(のようなもの)を感じるってことでしょ?これはあなたの実体験である以上、否定のしようがないと思います。
ただ、あなたは慎重に、実体験の感想を一旦仮説的に留保し、世間で騒がれているイジメ問題に当てはまるのか、または、自分の意見の客観性を確かめる目的があったように感じました。

とするならば、「イジメる側が100%悪いなんて当たり前だ」、「いや、いじめられる側にも問題があるのでは?」「そんな訳ねーだろ論理的に考えろ」なんてやることはナンセンスですよね。(成り行き上、不本意でこうなってしまったんでしょうが)

私の意見は、当然ケースバイケースですが「イジメる側が100%悪いとは言い切れない」と思います。またイジメ問題として語るなら、
>世間で多く報道されていて、テレビ番組等を見ていますが、いじめられる人間にも問題がある、と、述べると、そんなことはない、と攻撃的に意見を言う方
こそが大問題だと思います。

確かに特別理由もなく行われるイジメ(昨日までイジメ側だったのが、翌日立場が逆転するたぐい)や、本人の努力では克服不能な身体的欠陥を理由とするものは100%と言いえるでしょうが、平気で嘘をつくとか、簡単に人を裏切るとか、異常に不潔とかのマイナスの要素が起因するケースはイジメられる側に問題ありだと思います。後者については、どう考えても「それでもイジメられた側は悪くない」とは思えませんし、仮に悪くないとしてもそんな意見に乗っかって「いじめられた僕は悪くない」と思い込み自己正当化したところで、進学、就職等環境が変わればきっとまたイジメに遭うでしょう。
「施錠を怠ったので、泥棒に遭ったけど、俺は100%悪くない」とはいえますが、その事例事件のみに焦点をあわせ善悪の判断をすることに何か意味があるんでしょうか。

泥棒の例でいえば、何十年か前の下町では「泥棒が100%悪く、施錠をしないことに全く過失はない」ってな風潮があったのかもしれませんが、現在はどうか?古き良き時代を懐かしむのはいいけど時代はかわっていくんでね。

あなたはイジメに遭って自分の問題点を受け止め、その問題点を改め、自分を少しでも変えるように努めておられるとのこと。その感覚は決して間違っていないし、そういったものを若い世代に伝えていくことこそが、イジメ問題克服の一助となるのだと思います。
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#12です。

お礼、補足ありがとうございます。

>法的に決めるのは、限りなく不可能ではないか、と思います。それは、例えば、恋愛において、「私はもう既に彼女だと思っていたのに友達だなんて、信じられない!」というように、女の子が悲鳴を上げた場合、法律で、こうなったら恋人、ここまでは友達、と明確に線引きができるのか、というと、これは無理です。なぜなら、恋愛は当事者同士の問題であり、第三者が割り込んでジャッジできる種類のものではないからです。


出来ない、決めれない理由は本来ありません。
(まぁ、実際決めるとなっても、色々ややこしい団体の存在や
他の諸事情によって法的に決めるなんて簡単には無理でしょうが。)
ジャッジ出来ないというのは、何も決めてないからです。
上記の恋愛の話しでも、法的に決めようと思えば決められます。
ただ、ここからが付き合っている、付き合っていないを
決める事を社会的に必要としていない、それだけの事だと思います。

いじめは当事者同士の問題。もっともです。
では痴漢や暴漢はどうでしょう。
当事者同士の問題ではありませんか?
詐欺、窃盗、ひき逃げ、殺人。
全て当事者同士の問題ではありませんか?
違いは法律で犯罪と決められているかどうかです。

>杓子定規な基準で采配するのは、無理であり、危険なことであると言えます。

何故、無理なのでしょうか?貴方が勝手に無理だと決めつけているだけ。
危険?何が危険なのでしょうか?
確かに、法律は完璧ではありません、辛い思いをしても
法律の隙間で救われない子も出てくるでしょう。
それらは日々研究と改正していく他ないでしょう。

先にも書きましたが…
貴方が決めれない、あるいは決める必要がないと思っているだけです。
逆に私は、法整備とシステム作りでイジメの大多数を無くせると思っています。
周りが止められないであるとか、大人社会が悪いだとか
教員がダメだとか、何十年言ってるのだろう。もう聞き飽きました。
言ってるだけじゃ何も変わりません。そろそろ議論から形として行動する時だと思います。
その手段は法整備だけではありませんが、もっとも影響力の強い方法は法整備。

誰が悪いとか何が悪かったといった原因探しは必要ですが、
今、一番必要なのは皆が責任を持つ社会だと思います。
得に今からの子供には、今より、もっと権利を持たせてあげる事
そして同時に責任も持って行動する社会になるべきだと思います。
昔は子供の権利は小さい物でした。子供が何を言っても通らない。
親や社会から虐げられて居ましたが、その分親の責任が問われて居た。
今は親が責任を果たしてない。子供にも責任を持たせてあげてない。
もう一度、子供から権利と責任を取り上げるのか、
それとも、子供に権利と責任を持たせるのか。
どっちも方法だと思いますが、どっちにしてもイジメた本人の責任の比率が
今は小さすぎますね。
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> 短期的に、いじめを減らす、とか、現場での具体的ないじめを救うには?、という観点で、述べているのではなく、長期的に見て、我々大人世代は、この世の中をどう捉え、どう変えていかなければならないのか、という視点で、僭越ながら、述べているのです。



まさしく僭越としか言いようがありませんが、それが、「いじめられる側の人間にも問題はあるのではないか」という、あなたの「質問」とどう関係するのでしょうか。

あなたがまとめた「ワンセンテンス」にしろ、闘牛士の比喩などにしろ、要するにあなたの「本心」としては「いじめられる側が悪い」に近い考え方があるのが良くわかります。いろいろと奇麗事は言っていても、あなたは、いじめられっこを、赤いマントを翻して挑発する闘牛士にたとえたりしているわけですから。
(ちなみに、本当の闘牛でマントを持たずに闘牛士が登場しても、牛はそれまでに十分怒らされていますから、猛然と突進するでしょう。)

あなたは今の社会を歪んでいるとかなんとかおっしゃいますが、その「歪んだ社会」と同じコトをあなたは繰り返しおっしゃっているのです。そのゆがんだ社会に対する批判として、「いじめはいじめるほうが100%悪い」という、本来は大前提となるべきごく当たり前の話が出ているわけで、そこら辺を考えて欲しいと、私は繰り返し言っているのです。

もっとも、この点についてはいくら申しても理解してもらえそうに無いので、別の点から同じことを申しましょう。

> いじめる人間を除外した形で、理由は何なのでしょうか?

多少性格が悪くても、反撃ができるものはまずいじめられません。(腕力があったり、教師にうまく訴えることができたり、両親との信頼関係が密で親同士の問題に発展する場合など)
したがって、「性格が悪い」というような類のことは、いじめの本質的な「理由」ではありません。

それに対し、反撃がほとんどおそるるに足らない場合、その子はいじめの対象になりえます。もちろん、そのいじめっ子にとって「好ましい」人物はいじめの対象にはなりません。(好きな女の子を逆にいじめてしまう、などの例外はありますが。)

ごく簡単に言えば、いじめられるものの条件というのは、
○いじめる人にとって好ましくない
○いじめる人よりも弱い
の、二つだけです。この条件に合致するもののうち、言い訳をつけやすいものであったり、反応が面白いもの、というのがターゲットになりやすいということです。

いじめっ子もバカではありませんから、教師が出てくる事態は十分に予測し、出てきた場合に言い訳ができるよう、それなりの口実を用意します。
この点から、こういった口実が用意しやすいもの、いじめることで得られる快感の大きいもの(素直に痛がったり、苦痛を訴えるものなの)が、いじめのターゲットになりやすいことになります。「お前にもいじめられる原因がある」と、先生が言ってくれそうな相手、ということなら、格好のいじめ相手、ということになります。障害児などで教師に訴えることが難しいもの、気が弱くて告げ口する気遣いが無いものなども同様です。

したがって、性格が悪いとかなんとかは、本質的な問題ではなく、「いじめられやすい」二次的な要因でしかありません。

一方、いじめられた側には「お前が悪いんだからな」という形で釘を刺しておくのが常です。これにより、いじめられたものは教師はもちろん、親にも「いじめられるお前も悪い」と言われるのを恐れるがゆえ、告発が困難になります。

このような状況下で、「いじめられた側にも問題がある」などということがまことしやかに通ればどうなるのか、誰でもわかると思います。
それどころか、悲壮な決意を持って教師に訴えたところで、「お前にもいじめられる原因がある」と、言われるのがこれまでの常です。

また、最近深刻な問題として言われているのが、「いじめに加わらないと自分がいじめられる」という理由であり、裏を返せば、「いじめに加わらなかったがゆえにいじめられる」という「原因」です。
このような問題に拍車をかけているのも「いじめられるほうにも原因がある」という、ごく単純な理屈です。そういったもろもろの事象を織り込み、「いじめられる側の人間に問題はない」という意見が、ごく最近盛り上がってきているのであり、「いじめられた側にも問題がある」という意見に、山のような反例が突きつけられているのです。

耳当たりの良い「理屈」も結構ですが、実例に即して考えることが大事であり、理屈に合わせて現状を解釈するようでは、いわゆる「科学的社会主義」や、一部の新興宗教のように、かえって人々を不幸に陥れることになります。もうすこし、論理的に物事を考えてください。
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No.11です。


質問からは少しずれてしまうのですが、いただいた回答のお礼で少し気になった点があるので、再び投稿させていただきます。
なんだったら、スルーしていただいても構いません。


>>でも、それは正々堂々と戦って勝利を勝ち取りたい、というものです。
>競争原理に乗って、競争原理を肯定している時点で、それは、他者をいじめ、自分らが利益をあげればいいのだ、という思想に取り憑かれている、と言えます。社員個々人はいじめの気持ちがなくても、会社という主体は、他の会社を蹴落とし、優位に立ちたいだけの代物です。この競争原理を否定して、緩めていかない限り、いじめ体質ニッポンはなくならないでしょう。

それだとオリンピックやワールドカップも、自らが優勝という利益をあげればいいのだ、という思想に取りつかれた人によるいじめと考えることが出来てしまうのですが、質問者さんはその様にお考えなのでしょうか。

また、競争原理を否定するということは、資本主義を否定することともとらえられます。
共産主義の国でいじめが起きているのか起きていないのかは知りませんが、共産主義の国でもいじめられっ子の成績の良し悪しや外見に対するいじめが起きている可能性はあると思います。
だって、「誰でも、いじめたい、という欲望を持っています。(No.9さんの回答へのお礼より)」なんですよね?

また、会社がより優位な立場に立とうとするのは、そうしなければ潰れてしまうからです。会社が潰れ無職になる人が出る→その会社員の家族は貧しくなる→貧乏を理由に子供がいじめられる、ということだって起こり得ます。
共産主義社会になって、全ての会社が国営になれば潰れる可能性は少なくなりますが、上記のように共産主義社会でもいじめは起こり得ると思います。
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いじめられる人間の中のいじめられやすい要因についてはいろいろあると思いますが、極端な性質を持っているときに発生しやすくなります。

(ここで言ういじめの発生場は、小学校、中学校、高校ということにします)
いじめられる具体的な原因は、その人の振る舞い、成績が顕著に良かったり悪かったりすること、外国やハーフなどの生まれで肌の色が違うこと、背が低い(または高い)などの身体的特徴、家庭が荒れていたり、離婚が多い、親が身体障害者、などの特殊な家庭の事情などです。
多数派である平均的な人が、少数派である特殊な事情がある者をいじめることが、いじめられる者の側にある原因で発生するいじめだと思います。要は変わっている、自分たちと違っているといったことが、いじめられる要素になっています。
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