プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 自殺志願者ではないです。
二つ質問です。

1・生きる意味は何でしょうか?
2・生について、死について考えた哲学者は今までいましたか?

A 回答 (34件中1~10件)

1、生きる意味とは



幸せになることです

幸せな生 こそが意味のあると思える生です

生きる意味を問うのは 今が苦しいからであり

今に安心 満足できないからです。


2、生と死とをつきつめた哲学は
  西洋よりも東洋の仏教思想が多いと思います。

  無常を観ずるは菩提心の一なり といわれるように
  ブッダ 釈迦の教えだと思います。

  以下のサイトが分かりやすく仏教の死生観を
  教えていますね

  いろは歌の真実について

  http://jns3.netfarm.ne.jp/~ac206277/4ae5c1fa/i/i …

  

参考URL:http://jns3.netfarm.ne.jp/~ac206277/4ae5c1fa/i/i …
    • good
    • 0

答えにはなりませんが一雑感を詩にしてみました。


一方通行でしたらご容赦下さい。


見えない炎は沈黙に等しく

沈黙の揺らぎは明日を夢見る

凝縮した時のかけらを踏み台に

見えない炎が動かす手足を借りて・・・・・


見えない炎は知られざる炎

生きている限りは消えない

小さな確かな炎

私にも

こんな私にも・・・
    • good
    • 0

物質に「目的」はありません。


しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする方向性に変わりはない)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
    • good
    • 0

1.生きる意味は何でしょうか?



他の方の回答を見る限り、質問者様が求めているのは・・・
「生きる事に価値があるのか無いのか?そして、その理由は?」
って事で宜しいでしょうか?

生きる事に価値があるかどうかは、客観的に見た時には「無い」
と思います。
(ここでいう「無い」というのは、対象に対して「無い」のでは
無く、価値自体が存在しないという意味です・・・分かるかな?)
何故かというと、元々決められている「価値」など誰にも分から
ないからです。
その「価値」というものがあるなら、私が逆に知りたい位ですね。

誰も分からないから日々の生活に「価値」を見出すわけで、
その「価値観」を基に生きて行くのではないでしょうか?
その「価値」を見出せない時に、人は「生きる意味」を
見失い、「死」を選ぶのではないでしょうか?

ですから、もし仮に自殺志願者の救済を考えるのであれば、
その人の「生きる価値」を一緒になって探してあげる位しか
出来ないと思います。
もし、元々決められている「生きる価値」が分かったと仮定
しても、その「価値」をその人自身が「生きる価値」として
認識出来なければ、結果はあまり変わらないと私は思います。

要するに、生きる価値・価値観は人それぞれであり、価値
そのものは「ある」物ではなく「創る」ものではないかと。
その価値を「生きる」事の糧に出来るか出来ないか・・・
そういう事なのではないでしょうか?

以上から私の「生きる価値」に対する答えとしては、客観的に
見れば「無い」、主観的に見れば「在る」という事になります。

2.生について、死について考えた哲学者は今までいましたか?

たくさん居ます・・・挙げればキリがありませんよ?
Wikiで「人生の意義」を調べれば大体有名な哲学者は
出てくるはずです。

ちなみに、私の「生」や「死」に関する見解としては・・・

「生」・・・動的。変化がある世界。
「死」・・・静的。変化が無い世界。

ですね。
    • good
    • 0

生きることに悩んで、本を読んだり人に尋ねたりしたことがありました。



今は難しく考えるのはやめました。

(1)生きていることに意味を持たせる必要はないのかもしれません。
生まれてきたから生きています。
生きていると苦痛も沢山ありますが、苦痛より怖いことは死だと
感じます。
死とは、今見えている景色・家族・大切な人とのかかわりが、その瞬間にシャットアウトされる・・
魂の問題は別として、肉体としては終わりなのです。
その恐怖と比べたら・・
生きることに意味を持たせなくても、生きているだけでラッキーなのではないでしょうか。

(2)生や死を考えた哲学者は沢山います。
哲学的観点から考えるとやけに難しくなりますね。

簡単でいいんです。
命があるだけで幸せなんですから。
    • good
    • 0

そもそも“意味”という発想自体が、刷り込みなのだと私は思っています。


ですので生きる意味はそれぞれが獲得の中で見出すものというのが私の答えです。
子供が「これは何?」と聞いてきますが これは「これは何(に使えるの)?」 と解釈できそうです。
この子供はこうして自分の五感に反応したモノの使い方を教わり
その使い方に則って遊んだり 困難を回避したり 恐怖から逃げたり
そして欠乏を補ったりしているのだと思います。

ですのでナルホド 欠乏を知っている感性を持つ先人達により 世界は 
道具とみなされ 価値を見出され 意味を付帯される(私はこの一連を便宜的にレテルと呼んでいます)
という作業が施され 意味と名前が与えられてきたのだと思います。
(それまでただ高くて怖い場所と呼ばれるだけだったところも
位置エネルギーという観点で道具として扱えればジェットコースターの
ピークという価値を見出され快感をもたらす意味が与えられる様に)

ですので モノには意味があるといった刷り込みの連続により
この世界にも、そしてこの生にも、そもそも備わった意味があると考え
レテルしようとするのだと思います
ですので 生きた(AからBへ移動させた/新陳代謝した)ことから
達成を生んだのなら それは生を道具として捉えられ 意味はあったということになるのでしょうが 哲学的には この生に 備わった意味は無く 備わった欠乏があるのみだと思います 全ては“欠けている”というコンテクストから興っていると考えています 
ですので欠乏を強力なIDとして備え 省エネの指針に用いるプログラムにとって 意味とは獲得・補充の中にのみ見出しうる概念のように思うのです
    • good
    • 0

全ての、宗教家が、考えた事です。

人間は、そのように「考えるよう
に」出来ています。それは、聖書にも書いてあります。

アダムと、イブが、智慧のリンゴを食べてしまって、楽園から、追放さ
れた。という、事の意味は、天国に、居られなくなった。と言う意味です。

是は、貴方が、今までは、生きる意味さえ、考えなくて「天国」に居
た。という事です。幼子と同じく「天国に、一番近い存在」だった、と
言えます。

生と死を、考えた人が、お釈迦様です。そして、悩み、苦しんで「精神
疾患」とも言える。『一切皆苦』の世界で、のたうちまわった。と言え
ます。

そうして、『生死の問題を』解決しました。それが、仏教です。

私も、かなり昔に「生死の問題を、解決」しました。
    • good
    • 0

1・生きる意味は何でしょうか?




人格の陶冶

それがだめなら、せめて感性の陶冶

それもだめなら、体験を豊富に持つこと

人生が何者の影響も受けず、自分の思うとおりに
生きられるということに気が付くだけでも
生きていることの価値はあるのだと思います。

2・生について、死について考えた哲学者は今までいましたか?

人間なら必ず考える問題です。哲学者も考えました。
ただしそれを記述するのは神学や宗教の領域なので曖昧なのです。
空海や道元など宗教家というより哲学者です。
「生を諦め死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり(修正義 冒頭)」
    • good
    • 0

自分で探すしかないですね。



ただいい人生だった と満足して死ぬる人は少ないらしいですので、もし質問者様がたとえ個人的にでも心の片隅でも 満足して死を迎えることができたなら、人類の中でも極少数の勝ち組に入れることは間違いないはずです。

その意味ではこういう問いかけは悪いことではなく優秀だと思いますが、答えを出すのはそれよりも遥かにレベルの高い作業になります。

まあ人を大切に。
全てが終わって、それで幸せだったらそれで良いのではないかと。
    • good
    • 0

<<(細かいのを除き)生きる意味(価値)を見付けられるなら、自殺者は減るのではないか?と考えます。

>>

「元々ある意味」などは我々は知りません。少なくとも私は発見できませんし知りません。概念として後からどのようなものでも造り出すことは出来ますが。

理性的に物事に対し具体的に観察しているなら発見することは叶わないように感じます。そもそもあるならばもう知っているでしょう。

そのような理性の道の逆の道もあることも知っていますし、あってはならないとも思いません。妄信する概念が、心穏やかに、人に優しく自分の苦しみが減少する性質のものならば危険性も少ないと思いますし、それ自体は自他に役に立っているでしょう。

しかし理性がなければないほどに苦しみの道に陥る危険性が高いと言うことも事実としてあると感じます。

生命の関係のなかで、生きていく中で見出す、生きることについての意義つまり、自他の苦しみを滅する性質のある「充実感」のことならば、これはまさに自殺志願者の心のなかに「生きる意義」「充実感」がうまれ「存在意義」「理性的な判断力」が発生し、自殺志願と言う心がなくなるものだと思います。

自他の苦しみを多く生む性質のものならば、自分によって自他を潰し、他者によっても自分を潰させるものとなると思いますので、「生きる意義」「充実感」「存在意義」「理性的な判断力」は一時的な思い込みに過ぎず、結局その逆を行きそれらをなくす性質のものとなり、再び自己破壊である自殺志願の道に導く性質のものと思います。

<<>そしてそれを根拠なく信じることを勧めず、自ら事実として確認して信(自信)を強める事を勧め、その自己の概念も柔軟に保ち、執着してはならない。あくまで理性を大事に・自己および他者を尊重し守ることを大事にすることを勧めたおしえとかんじています。★★まぁ、そうですね。それ以外の考え方もあるのではないか?とも思います。>>

もちろん理性と逆の考え方のほうが多いと存じます。

その理性以外の道で柔軟でなく自己のいだく概念に執着する性質のをもつ、その考え方のもつ危険性を鑑みて、その中から理性的で自他の苦しみに導く性質のものか確かめて、妄信によって執着する対象を選ぶ事を進めたくもなりますが。

それをしたら、結局は理性的に柔軟に執着せずに、自他を尊重し守ることを大事にすることになるので不可能ですね。

理性のないまま大事にすることなく、人生の賭けとして自分が根拠なく信じた何を選び、妄信するよりなくなりますね。

大変な賭けです。確かめること考えることを放棄する道。

なんとも危険です。

もちろん危険でない教えや宗教もあるでしょう。しかし、その危険性を自己の理性の許す限り柔軟に精査構築していかなければその危険性に気付くことも叶いません。

妄信の道・非理性の道におおく執着を持ってしまえば。その道にまっすぐ進むことでしょう。自他に、どんなに危険を産む性質のものでも。

<<それ以外の考え方もあるのではないか?>>

確かにあるでしょう。ほとんどがそのような「それ以外の」道に感じます。しかし個人的には絶対にその道を勧めることはしません。自ら、自他の役に立つ道を見つけ出す道にこそ価値を見出します。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
    • good
    • 0
1  2  3  4 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す