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小学校入学前後に「人は必ず死ぬんだ」という事実に気づき、恐怖に陥りました。
背景には、小学校での集団生活に対する不安があったんでしょう。
何せ、私は'保育園中退(馴染めなくて)'でしたから…
その後、時々その事を考え、居ても立ってもいられない気持ちになりました。
子どもなりの直感で、"宗教へ逃げて(?)も駄目だ"と思いました。
その後も、この直感を破る宗教や思想に出会えません。

大人になって、それは'死の恐怖発作'と言うんだと知りました。
そして、本を読んで作家や詩人の中にも、子どもの時、似たような体験をしている
人々もいる事を知りました。
自分一人だけでは無いと知って、少しは気が晴れました。

似たような体験をした方。それは何歳でしたか?きっかけは?克服法、あるいは対処法は?

A 回答 (8件)

3歳か4歳くらいの頃、両親に「なんでひとはしんじゃうの?」という質問をずーっとしていた時期を覚えています。


恐いという感情もあったのだと思いますが、その質問をした直後でも友達と平気で遊んでたし・・・。
真剣に死を恐れて聞いていたのではなく、何でしょうね、ただ単に人間の生と死に対しての疑問を抱いただけだったのでしょうか?

成長とともに知らず知らずのうちに死っていうものがわかってきた気がします。
・・・わかっているのかな?今は・・・?。

うーん、何を言ってるのかわからなくなって来た・・・。
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この回答へのお礼

有難うございます
私も何時も、死の観念に捕らわれていた訳ではなく
そうでない時は、普通に遊んでいました。

>うーん、何を言ってるのかわからなくなって来た・・・。

こういう問題って、そうですよね!

お礼日時:2003/01/08 17:20

私も気づきましたが、そんなに長期間怖がりはしませんでした。



それよりも高校の頃に、「死と生にいかほどの差があるのか」と考え、
私達のような有機体物質が生きて代謝活動と知的活動をしていることよりも、
むしろ死の方が自然な状態だと思ってからは、生きていることの方が
恐ろしげな感じさえします。もしかして明日突然意味もなく妙な代謝が起こって
全身の細胞が酸素消費を拒否してしまうかもしれないんですから。怖いです。
・・・まぁ私はそれでも生きることに享楽的ですが。

死ぬという事象は万人に等しく訪れる物で、遅かれ早かれですよね。
ただ、親しい人が死ねば、喪失感から悲しく苦しくなり、
自らの命が余命幾ばくもないと知らされれば、自由となる残りの時間に
窮々としがみつき、刻々と迫る死に恐怖するでしょう。
それでも時間の余裕さえあれば、私が結局最後に行き着く考えは
奇跡的に続いてきた有機体組織の代謝活動が終息に向かうのだな、という
所だと思います。

生きることを感じるのは脳ですが、生きることを感じているのは
私達の進化した脳ならではの所業だとすれば、犬などは自分が死ぬなどとは
考えもできないかもしれません。
そう考えれば、自己の認知的に見て死が生と決定的に違うようには
考えられなくなりました。そしたらあまり怖くなくなりました。

それでも私は生きていたいですが(笑

むしろ私にとって死より怖いのは、生きながら体の不自由に苦悩することです。
痴呆や脳溢血、事故で手足を失ったりといったことです。
もし手を失ったら、足を切ることになったら・・・。そう思うと夜も寝られなく
なるときがあります。
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この回答へのお礼

さっそく、長文の回答有難うございます

私も脳に対する関心はあります。
こちらも、深~い問題ですよね

お礼日時:2003/01/08 17:41

こんにちわ。


私も小さい頃からずっと怖かったです。
毎晩考えては泣いてました。

お母さんもいつか死んじゃう、
わたしも死んだらどこいくの?
たった何十年生きただけでこんなに楽しい思い出は
どうなっちゃうの?
いつも考えてました。

そして私はいつまでたっても死のことは考えてますが
ものすごくポジティブな考え方がしだいにできるようになりました。
(宗教とかやってません!笑。でも宗教も、個人の悟りも紙一重で、
一概に宗教をこわがったり否定するのはいけないとおもいますが)

とにかく今は死に対する考え方がかわりました。
死ぬことは誰だって怖いんですよね。
たぶんわたしはおばあさんになったって死ぬ間際まで
死ぬことが悲しくてしかたないと思います。

でも100歳まで生きても、生きていることのありがたさを実感しない生き方、
友達がいない人、
死んだときに誰にも悲しんでもらえない人がいたとしたら。。。
それって「生きてる」ていうんだろうか?と。

たとえ短い命だったとしても
いつもだれかが思い出してくれる、語ってくれる、
そういう人は「ずっと生きている」んじゃないかなーーって。
そう思えば
わたしは最後にはきっと
「みんなとっても優しかった。結局みんな大好きだった。」て思って
死ねると思うんです。
悲しいけれど。

それに死を意識するってことは生が輝いている証拠じゃないでしょうか?
だとしたら「悲しい悲しい」とばかり言わないで
今をもっと幸せにいきよう、って思いました。
(もちろん、ネガティブな生活をしてきたことはありませんが)
沢山の人に愛されて、愛せるような人間になれたらいいのかなーーて。




よくわかんないですけど(笑)

でも死はだれでも怖いんですよね。
それならなんでもいいからポジティブに生きたもんがち!
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この回答へのお礼

b612さんも早速の長文の回答、有難うございます!

>でも宗教も、個人の悟りも紙一重で、
>一概に宗教をこわがったり否定するのはいけないとおもいますが

私の質問が、言葉足らずだった様です。私も宗教を否定しません。それどころか
'人間とは宗教的存在'だと思っています。
ただ、自分の幼稚なニヒリズムを打ち壊すような
'特定の'宗教に出会っていないだけです。
出会えないような予感がします。これも直感です。

>もちろん、ネガティブな生活をしてきたことはありませんが

私も現在は、ネガティブに生きているわけでもありません。
ノホホ~ンと、生きています。
でも、心の奥底で、ニヒリズムが通奏低音のように、流れているのです。

お礼日時:2003/01/08 18:03

子供の頃、ありやミミズを殺害したことあります、


そして買ってきた貴重な動物(イモリや魚)をうまく飼育できずに殺したことあります。
採集してきた昆虫も飼育できませんでした。
小鳥も飼育できませんでした。
そして、そのうち、死というものが恐ろしいのは死ぬもの自身ではなくて、
まわりの人、それを愛する者が悲しむことだとしりました。
物が壊れたり、なくしたりしたときも同じです。
アニメや映画で愛するモノを亡くしたときの悲しさを体験しました。
子供の頃いやなことがあって死んだらどうなるのだろうと考えました。
そして、自分が死ぬことはさしてこわいことでは無いと知りました。

参考までに
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この回答へのお礼

有難うございます。

私の'動物の死'体験

幼い頃、近所で豚を飼っていて、それが汚くて、臭くて
横目で見るだけで、通り過ぎていました。
ところがある日突然、豚小屋ごと消失してしまいました。
白い粉のようなものを残して。
この時の喪失感!嫌って、ほとんど無視していたのに!
(後で分かった事ですが、豚コレラという病気だったそうです。
白い粉は、消毒)

この体験は、何十年経っても、忘れません。

お礼日時:2003/01/08 18:14

小学2年生のときに「死んだらどこへ行くの?」と親に質問したことがありました。


だんだん歳が上がるにつれて死は必ず起こるものだから今悩んでもしょうがないと考えるようになり今にいたります。それと死の恐怖の最高潮だったのは、私は、筋ジストロフィーという病気でその病気について調べた小学生6年生のときでした。ほとんど20歳ぐらいで亡くなると書いてあったのですごく怖かったです。
でも悩んでもしょうがないので、これかからの人生は有効に使おうと思いました。
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この回答へのお礼

有難うございました

私も、親に「誰でも死ぬの?」と質問したのが、きっかけでした。

現在の私にとって「死」は、'悩み'ではなくて'課題'です。

お礼日時:2003/01/08 18:28

あ、誤解をまねいていたらすいません。


eiji156さんが宗教を否定したとは思ってませんよ♪

わたしもポジティブに現実も生きていながら
やはり根底には、というよりコインの裏表みたいなかんじで
ニヒリズムがあります。

考えて考えて、いろんな経験をして
真理に近付きたいと思ったこともあります。

けれども、私の場合は心の底から大切にしたい人と出会ったことで
かわりました。
大切な人と一緒に食べる食事、綺麗なもの、綺麗な言葉、
そういう喜びを共有することって最高の幸せ、
当たり前のものをもっともっと大切にしようと思ってます。
わたしにとってはこれこそ目指していく悟りの境地だとおもいました。
(もちろんまだまだ私は未熟者ですが)

でも常にある無常な気持。
それだから私は詩をかいたり、絵を書いたりして
バーチャルな非日常体験をしているんだと思います。

夏目漱石がたしか
「人がいやになり、人のいないところへ行きたくなるので小説を書く」
しかし本当にいってしまったらそれは「人でなし」だと。

無理に克服法、対処法なんかみつけなくってもいいと思います。
わたしは人はつねに哲学をもっているべきだ、と思っていましたが
理屈がいえなくても、哲学なんかなくっても、
笑顔で誰にでも好かれる人ってそれだけ素敵だなーーて。
それに毎日現実を必死に生きていかなければいけない母親なんかを
小さい頃からみていて、
それだけ必死だと、哲学なんかしてるひまもないってことを(笑)


とにかくこれだけいろんなこと考えている自分はとっても
恵まれてるってことですよね。


なんか偉そうなこといっちゃいましたが
あくまでもわたしが今感じてることでした。。
ほほーこんな奴もいるのか、、という程度にきいていただければ幸いです。
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この回答へのお礼

再びの回答有難うございます。

>無理に克服法、対処法なんかみつけなくってもいいと思います。

克服法、対処法なんて単純に書いてしまいましたが、
How-to をお聞きしたかった訳ではなく、
子どもなりに、どのように立ち向かっていったのかを
知りたかったのです。

お礼日時:2003/01/08 23:21

私は幼稚園の時、友達の事故死がきっかけで「死」という概念に目覚めました。



ただ"eiji156"さんと異なるのは、恐怖を覚えなかったということです。

「人は必ず死ぬんだ、他の動物と一緒なんだ」という事実を素直に受け入れられたんですよね。(とても悲しかったけど)
私は、生命とは大きなエネルギーの対流のなかの一部分に過ぎず、そのもの自体にはいわゆる「意味」というのは無いと感じています。
宗教とは、それに属する人というのは心から神の存在を肯定しているわけではなくて、ただ他人との共有する時間を求めているだけだとも感じる。
なぜ感覚的に死が怖いのかは、きっと後天的に体験した様々な知識の積み重ねによるものではないかとも思います。
私には真理など語れませんが、それを知りたいとも思わない。
世の中には知らなくて良いことがたくさんあります。
その筆頭が「人間の存在理由」であると私は信じるのです。

私が「死」を怖くないということが何かのヒントになればと思い書きました。
人は様々です。あなたが「死」を恐怖に思う理由もきっとあります。ただ、それに執着しないで欲しいとも思うのです。
「死」以上に意識できる何かに出会えることを願っています。
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この回答へのお礼

有難うございます

質問の書き方が悪かったと思います。
現在の私は、死に執着したり、ネガティブになったり、特別内向的になったりしているわけではありません。

>「人間の存在理由」
mktoolllさんの「質問:人は何故生きるのか」に対する回答も読ませていただきました。
私も、同様な意見です。ちょっとニュアンスは違いますが。

お礼日時:2003/01/10 08:24

私はまだ中学生ですが、死に対する思い出っていっぱいあります。


例えば、小学校中学年くらいの時だったか、手塚治虫の「ブラック・ジャック」がすっごく嫌いになった時がありました。患者が死んじゃうから。その後、成長するにつれて、治りました。多分、「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」的に。
あと、姉が不登校になっちゃって、妹の私がいびられてた頃がありましたね。母はノイローゼだし、父は単身赴任でいないし。志望の私立中学校に入学したばかりで、尚更くやしかった。「私は何か悪い事をした訳でもないのに、何で私だけ辛い目に遭わなきゃならないんだろう」って。
母がノイローゼで家族に負担をかけてるのに、頑として精神科に行かない、って言い張った時、苛性ソーダを服みました。……致死量を越えない様に、計算はしてあったんですが。その時、生きてる事さえすごく辛かったけど、私には立派な夢や未来があったから、耐え切れたんだと思います。
今は、いちおう平和です。姉も、公立高校への編入試験に向けて勉強してるし、母もお薬をちゃんと服んでるし。

「死の恐怖発作」はたまに起こります。人間はどこから生まれて、どこから死ぬのか。哲学的に、生まれるって事は子宮から出てくるって事とイコールにならないと思うんです。胎内での記憶も、無意識となって存在するというから。
私の対処法は、脳内物質の効用を期待する事です。人間は死期が近づくと、脳内にある種の物質が出て、死への恐怖が和らぐ、という理論を組み立て直して、「死ぬ時は脳内物質が醒めない内に死ねばいい。まずは、明日を生きなくちゃ」と自分を励ますようにしています。
あと、宗教に逃げるのは駄目だ、という話もありましたが、教会とかに行ってみるのもいいんじゃないでしょうか。私はたまにプロテスタントのキリスト教会に行きますが、あの厳粛な雰囲気とか、聖書が織り成す世界的な神話とか、簡単なリフレッシュにはなりますよ。あと、こうやって様々な人から質問するのと同義で、キリスト教的な死への考え方も、聖書の行間から読み取れなくもない。

確かに、死に怯える事もなく、むしろ自然の摂理の一部として捉えていた、小学校低学年までの私が、久しいっていうか懐かしいですね。
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この回答へのお礼

若い方の、貴重なご意見、ありがとうございます。

中学生で、大変な体験をしたのですね。

私の中学生の頃は、自分で勝手に悩んでいた気がします。
何に悩んでいるのか分からないけど、とにかく苦しくって…
とにかく、体に来るのです。動きが鈍くなったりして。よく眠れなくて、金縛りにもあいました。
後の自己診断「うつ病」(病院には行きませんでした)
ただ、どんなに苦しくとも、自殺は考えませんでした。
それは死に対する恐れがあった効用かもしれません。

> 宗教に逃げるのは駄目だ、という話

#3さんへのお礼にも書きましたが、宗教を否定する気はありません。
つくづく人間は宗教的存在だと思います。
ただ「宗教へ逃げても駄目だ」と言うのは、
宗教でも私の死の恐怖を癒してくれないと言う、幼い私の直感です。この直感は現在でも訂正できてはいません。
永遠の生、とか、不滅の魂とかいうのも、新たな恐怖を与えるに過ぎません。

> 教会とかに行ってみるのもいいんじゃないでしょうか。

いいですね!
古いお寺や神社も、良いもんですよ。

あなたが、若くして苦しんだ事は、将来きっと役に立つと思います。
本当に、有難うございました。

お礼日時:2003/01/19 11:40

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