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 話し合いが出来ない。
 話をしていても 知識とそれをめぐる意味のない言葉とを並べるだけである。
 意味のある話をすると 逃げて行く。あるいは はぐらかしをしながら 話のすり替えの術にかけては 玄人裸足だと言わんばかりになっている。

 もう死んだのでしょうか? こうやって 死んでいくのでしょうか?
 生きている人は もう いないのでしょうか?

A 回答 (73件中61~70件)

A No.12です。

ご指摘部分の補足となります。



つまり、話し合いが成立している日本人とは
「日本人は死んだ」と宣言"しない"人間を指します。
相手の存在、生そのものを否定しないこと。これを質問者さんの引用の言を
借りて表現するならばコミュニケーションする意図を持つ人間そのもので
あるのです。コミュニケーションする意図を双方が持つのならば
いくつかの障害があっても、その意図故に、必ず会話が成立します。
会話が成立しないのは、コミュニケーションする意図を放棄したときのみです。






他方、話し合いの成立しない人間、つまり会話への意図を放棄した人間は
すでに上記の日本人のカテゴリーには含まれていないということです。
なぜなら、前提に則れば、このとき相手を死んだと評価することになるからです。
そういった彼らは「日本人は死んだ」と評価する側へと成り下がるでしょう。

相手の死を宣言する、これはコミュニケーションする意図をすでに放棄し、
相手が言い逃れをしている、言いかえをしている、まるで死人だ。
こういった聞くに堪えない非難を並べることでしかありません。
まるで自分が超越した存在であるかのような不遜さをもって。

これをコミュニケーションと呼ぶのは、彼ら日本人の死を宣告する人間達
(私はあえて彼らをこそ死人と呼びます)の間だけではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 wiz0621 さん ご回答をありがとうございます。

 よおーく考えてくださいね。次の二つの文章を比べてみてください。

 ★ (A) 話し合いが成立している日本人とは / 「日本人は死んだ」と宣言"しない"人間を指します。

 ★ (B) 彼ら日本人の死を宣告する人間達 / (私はあえて彼らをこそ死人と呼びます)
 
 ☆ どうでしょう?
 ○ 《日本人》と《彼ら》との違いがある。
 ○ 《宣言する》と《呼ぶ》との違いがある。
 ○ 《死んだ》と《死人》との違いがある。
 ☆ これら三点の相違を別とすることができるなら けっきょくは ご自分で ご自身の死を宣告なさっているようにお見受けするのですが どうでしょう?

 * もう一点 《あえて》をつけ加えるかどうかの違いがありました。

お礼日時:2009/06/05 23:52

自らの欲望に気がつかない人が多いから。


そういう人は考え方にいちいち価値観を持ち出し、損得だけで判断します。
日本人だけじゃないと思いますよ。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 初めての設問でもないのですけれど 思うところがあってのこの改めての質問です。

 ★ 日本人だけじゃないと思いますよ。
 ☆ わたしは 外国人にかんしては 生活感覚として 知っているわけではないので ご回答に応じて 耳を傾けてまいりますが 自分からは 何かを言えるというまでではないのです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自らの欲望に気がつかない人が多いから。
 そういう人は考え方にいちいち価値観を持ち出し、損得だけで判断します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん こういうことでしょうか? つまり 話し合いの席についているとして 自分の都合や考え方に当てはまる話題や問題は 尋ねたり自分で考えて答えたりするけれども そうでない話になると 途端に 対話ではなくなると。
 でも
 ★ 損得
 ☆ で 話を持ちかけていけば まだ 話し合う余地はあるということになるでしょうか? 
 ううーん。たぶん いつも そのようにするというわけにも行かないでしょうね。この質疑応答も わざわざ 損得の考えに乗るようにと応答するというのも むつかしいかも分かりません。
 
 どうも 少なくとも一部分には こういう芳しくない事態が起こっているようですね。もう少し ご投稿を受けて 考えて行きたいと思います。

お礼日時:2009/06/05 23:21

設問に則り、話し合いが出来ない人を死んだ人と定義します。






話し合いとは通常2人以上で行います。
相手が在って、初めて成立する行為であるわけです。
では日本人はどうか?観察してみるとお互い話し合いが成立しています。
つまり彼らは死んでいません。一方で、日本人と話し合いが出来ない人がいます。
つまり、先の定義に則れば日本において唯一その人物だけが死人であるのです。


それは誰か?「日本人は死んだ」と主張する人です。
彼らは自ら話し合いが出来ないことを認めています。
つまり前提によれば、自ら死人であると宣言しているのです。





この死人を楽しませる言葉を生者が持たないのは
当然のことではないでしょうか。唯一彼を楽しませることができるのは、
彼の従う死者の法のみなのですから。

死人は、死人であるが故に、生きる者の法を批判するだけで
理解しようとしないのです。意味の無い言葉を並べ、話をすり替え、
意味のある話をすると逃げて行く。

「日本人は死んだ」と宣言する人は、こういう相手のことを考えられない
傲慢で不遜な死人であるわけです。
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この回答へのお礼

  wiz0621 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。推論をなさる過程で 次の命題が 何の導入も根拠づけもなく 出されていますよ。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 では日本人はどうか?観察してみるとお互い話し合いが成立しています。
 つまり彼らは死んでいません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この命題を 当否・成否いづれかとして どう扱うか これを問うていますよ。

 ちなみに 《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。聞いてみてください。 
 柄谷行人との討論で 岩井克人が 次のように発言しているところです。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (岩井) 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。
 いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。
 (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 《人間以前であり 人間ではない》場合は 《死んだ》ことになるでしょうね。どうですか? つまり 議論を咬み合わせようとしないというのが 問題のようです。

お礼日時:2009/06/05 23:08

直接にご質問とは関係ないですが。

こんなこともあります。
日本人だけではないと思いますが、もしかしたら?日本人にこういう傾向ってないかなと。

☆電車でもバスでも、到着が遅れ気味で、駅に人がいっぱい待っていて、やっと着てみると込んでいて、ただでさえ遅れ気なのに、降りたり乗ったりを時間かけてやるのでますます遅れてしまい、ぜんぜん混雑は解消されない、で、もうひとつ待ってみると、すぐ後ろのは前がそんな状況で詰まっているものだから割とすぐ来て、ガラガラだということはよくあります。

こういう見え透いたパターンがあるのに、一般の人は込んだ先行列車にぞろぞろ乗り込んでいくという、自分にとっても、鉄道会社バス会社にとっても益のないことをやるというのがほとんどです。

本当に一分を争う急ぎの人はともかく、なぜこうも融通が利く人が少ないのでしょうか?
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この回答へのお礼

 BakaAlice さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。提出されている事例は 
 ○ 話し合いは出来るけれども 多くの人びとが一つのもの(こと)を求めるときには ついあと先を考えずに先を争ってしまう。
 ☆ といったところでしょうか?
 そうですね。わたしは 通勤・通学などの乗り物でのラッシュアワーを あまり体験していない者なのですが 時々経験した限りでは ひとつ乗り過ごして次の列車を待つという人びとは けっこういたように思うのですが どうでしょうか。
 あるいは そのラッシュアワーの時間帯であれば 次や次の次を待っても やはり満員であることも ざらでしょうし。
 ま 反対の事例を挙げてみたのですが たしかに 乗車率二百%ともなれば 次の列車を待てば 比較的空いているでしょうね。一挙に はけたということがあれば そうでしょうね。
 おなじく ま ですが けっきょく その時間帯に関して 乗車人口の絶対数があるでしょうから そこから割り出して どうしても 満員になると分かれば その満員列車に乗るでしょうね。ふつうは。
 どうなんでしょうか。

お礼日時:2009/06/05 22:13

確かに日本人は、死んでると思います、原因は情緒が不足してるからです。

人の心を育てるのは情緒です。脳の思考による人の知恵ではありません。現代人は何でも脳で解決しようとしますが、これが間違いです。西洋的風潮、自己表現、個性化を、無批判に信じ受け入れたために、日本人の行動パターンの基準が、脳の思考による自己表現になりました。昔の日本人は、自然の心である情緒が行動基準でした。脳の思考を理屈ポイ、インテリとかいって嫌ってました。だから日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを追求しています。禅、能、茶道、文楽、雅楽、演歌、日舞、短歌、俳句、浮世絵など、ではなぜ脳が悪いかというと、不調和世界の代表だからです。他方自然の情緒は調和世界の代表です。脳と情緒は対立しています。脳が思考する時は、情緒が無くなり、心がストレスになります。脳が休むと、情緒が交流して心が癒されます。だからこの世界は、脳の不調和世界と、情緒の調和世界が、衝突し混じりあう仮の世界です。仏教でも仮の世界だと教えます。また科学者アインシュタインも、仮の世界を前提にした相対性理論を発表し、その後実験で証明されました。予言では2012年に仮の世界が終わり、人は脳の自我を分離して、調和世界へ帰るそうです。

この回答への補足

 eyasi2012 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。日本の文化のことを取り上げて あらためてしっかりと育てていくのがよいというご見解だと思います。最終的には どういうことをおっしゃっているのか――なぜなら
 ★ 予言では2012年に仮の世界が終わり
 ☆ というふうに 反哲学をのべておられるので―― 分からないのですが まづ基本的に 情緒と論理の二つの側面(ないし世界)については パスカルの文章を確認しておきます。
 ▲ (パスカル:パンセ)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《幾何学の精神》と《繊細の精神》との違い。

 前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。

 ところが繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。というのは このほうの原理はきわめて微妙であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。   (前田陽一・由木康訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よく引き合いに出される(た?)文章ですが 単純に言って 前者が 《意識〔としての人間関係〕の対立と分析と分断と統合》の問題となり 後者は 《情感の共同性・その破綻と綜合》ではないかと見るのですが どうでしょうか? 簡単には 論理と情緒でしょう。

 情緒も 繊細の精神と言うだけあって わたしは 脳のはたらきを持つし 促しているようには思います。思いやり・察し合い・惻隠の情等々と言うようにでしょうね。
 ところが 論理と言っても これもやはり 意識というのは けっきょく  知覚やそれにもとづく認識でしょうから 感性の問題であると言ってもおかしくないでしょう。

 というふうに ひととおり 反論をのべておきたいと思います。一方に片寄っては あぶないですから。

 そうして 思うことは 考えるに 論理は論理で また 情緒は情緒で 日本人は それぞれの分野においてというような恰好で 秀でたところがあるのではないでしょうか。あったでしょうし 一部にはとうぜん あるでしょう。――生かされていないのではないでしょうか? その限りで
 ★ 確かに日本人は、死んでると思います、
 ☆ といちど言わなくてはいけないと わたしも 思います。そしてこのとき
 ★ 原因は情緒が不足してるからです。
 ☆ と同時に けっきょく 理論的な思惟についても どうも 中途半端であると思うのですが どうでしょうか?
 全体の調和も 望まれると思います。

補足日時:2009/06/05 14:58
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No.4の者です。


多分ですが都内の通勤・通学の時間帯(混雑していた可能性大)と書いてあったので、お弁当のニオイがヒトの熱気と混合してその場に居合わせた他の乗客にはお世辞でも「いいニオイ」とは思えなかったのではと私は状況推測しました。その辺の状況も質問者さまが事細かく書き込みしてあったので、回答を投稿してきた方々もその状況を知った上での意見だったのではと...?何かおかしいですかね??
確かに普通電車でも例えば旅先でのローカル線で、窓が開けっ放しで車内にもひとがまばらだったとしたら、食べてもさしつかえないと私もおもいますよ。でも、今回のようなケースでは、いかがなものかと...
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この回答へのお礼

 munamaca さん わざわざ 澄みません。変なところに引っかかってしまいました。

 いまは都内ではないのですが 下宿して住んでいたときがあります。
 ★ 確かに普通電車でも例えば旅先でのローカル線で、窓が開けっ放しで車内にもひとがまばらだったとしたら、食べてもさしつかえないと私もおもいますよ。でも、今回のようなケースでは、いかがなものかと...
 ☆ ま たしかに 迷惑にならないとしても みっともよいものではないですよね。
 そう言えば みっともよくない例を わたしがやっていたと気づきました。郊外をよく歩くのですが 汗をかいてくると アイスクリームを 歩きながら食べることがあるものですから たぶん 食いついたのだと思います。

 とんだことで わづらわせ申し上げて 澄みません。これに懲りず また何かありましたら ご投稿いただきたいと存じます。では。

お礼日時:2009/06/05 12:42

聖徳太子が17条憲法の一番最初に持ってきたのが、


『和を以って貴しとし・・』という条文です。

一見、話し合いでなんでも解決せよという風にも
とらえることができますが、

はっきりとシロクロつけない。
責任の所在をあきらかにしない。

というような、日本人好みの問題解決方法にもみえます。

そういう意味では、日本人は昔からそうだった。。。と
言えるように思います。

この回答への補足

 narara2008 さん ご回答をありがとうございます。

 narara2008 さんご自身は 決して意図しておられないと思いますが ですから このご回答の内容にけちをつける意図もないわけなのですが それでも申します。聖徳太子は わたしにとっては ただのくそったれでございます。
 説明いたします。

 ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
 しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 指摘したいことが 三点あります。
 (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っていると思います。明治維新においても 同じように《万機公論》と言いました。
 ▲ (五箇条の御誓文)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが
 ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて
 ☆ については 眉唾物です。お上つまり二階の論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。
 ◆ (上田正昭:日本文化の原点) ~~~~~~~~~~~~~~
 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔に
   《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと雖も止まず》。
  とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・
 【上田正昭】 その翌年の正月にも 
   《諸国の役民は 郷に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。
   溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。
 というのが出ていますね。
 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。
 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。
     《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か 
      国忘れたる 家待たまくに》(万葉集三・426)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。
 ▲ (万葉集 巻三・415番) ~~~~~~~~~~~~~~~
   上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首

 家にあらば妹が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが
 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。

 以上の三点より
 ★ 日本人は昔からそうだった
 ☆ というその現実は したがって 次のようになるのではないでしょうか?
 (1) 決して 議論としてのけんかをしないのではなかった。 
 (2) お二階さんと一階の市民たちとのあいだには みぞがあった。
 (3) 《和》は 後者の一般ピープルのほうにこそ ゆたかに息づいていたろう。

 ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
 ☆ と言われても 庶民は もともと けんかをしつつも 仲間として 和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだしたとしても けっきょく 自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。
 どうなんでしょう? 初めから 日本は いぢのわるい国だったのでしょうか?

補足日時:2009/06/05 10:52
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おはようございます。

昨日は、早くからウトウトして早朝覚醒してしまいました。

先日京都教育大学の学長が、あの暴行学生らを警察に通報しなかった理由を
「教育的配慮」と発言したことに、私は、その場で逆立ちをしてしまいました。

事件が事件だけに、質問をかわしたいとか逃げたいなら、刑事訴訟法をにらみながらも他にも言い方は沢山あります。

国立大学の学長にこんなレベルの人間が存在するんからね。

この学長個人を非難するために持ち出したのではなくて、
TOPに立つ人間のこれ程までの質の低下がなぜ起こってしまったのかです。

日本人全体が、呆けていて、注意力が散漫で、結局、TOPに立つ者を甘やかしているんだとおもうんですね。その方が自分はずっと楽ですから。
こういう怠惰の楽に落ち着いた風潮は、感性が鋭く、判断力、行動力ある人間を殺してしまうんですね。

そうですね・・日本は、政治は三流とずっと言われ続けて、さらに落ちてゆくと言うことが象徴しているのでしょうかね。
人材がいないんじゃなくて、日本人全体が生きた人材を作れない程に怠惰だということでしょうかね。

でも、落ちるとこまで落ちたら、いずれスサノウが目覚めるでしょう。
そこで息を吹き返すに違いありません。
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この回答へのお礼

 bananasand さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 京都教育大学の学長
 ☆ いやに笑っていましたね。ああいうのは 確信犯と言うのでしょうか。何と呼べばいいのでしょうか。

 そのままの復唱になりますので 引用も よします。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 でも、落ちるとこまで落ちたら、いずれスサノウが目覚めるでしょう。
 そこで息を吹き返すに違いありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あれっ? 必ずしも スサノヲイストでもなかった部分を残しておられたと思っていたのですが? でもその部分よりも スサノヲはスサノヲなんですね。分かりました。もう落ちも いや 締めも しっかりとしてくださったので そのままうけたまわりました。

 * ほかの皆さんに 分かりづらかったですかね。

お礼日時:2009/06/05 06:44

おはようございます、bragelonneさん。



うーん、思い当たることといえば…

【印紙税】

マジ、経理のことは素人ですから、わからんこといっぱい。

領収書に印紙が貼られてないのを目にすると ? こんなんアリか???と

疑問を抱くことしばしば

わからんから、近々税務署へ足をのばし

印紙税のことを聞いてこようかと思っています。

平日になかなか時間の都合が取り難いのが悩みの種。

我がことから、本ご質問を読みつつ

「日本人は 死んだのでしょうか」を

【外国との契約時の印紙税】
http://www.kaneabbott.com/archives/14
【国等と締結した請負契約書】
http://www.nta.go.jp/shiraberu/zeiho-kaishaku/sh …
【No.4138 相続人が外国に居住しているとき】
http://www.nta.go.jp/taxanswer/sozoku/4138.htm

このあたりから考えた場合、話し合いになりはしませんか?

日本人は 生きている。 いかかでしょうか?

この回答への補足

 littlekiss さん こんにちは。あらためて――遅くなりましたが―― お礼欄をおぎないます。あやまらなくてはならないことがあります。

 ○ 外国との間で 課税・納税をどのように配分するか このような問題が 世の中には発生しているので それをめぐって 《話し合い》が必要だし じじつ そのために 税法は完備しているし そのための税務行政も用意がととのっている。死んでいるどころか 生きている。ではないか?
 ☆ こういうご趣旨でしょうか? 健康保険や年金にかんしても 国の範囲を超えて 互いに その保険料の二重支払いにならないように 配慮するようになって来ているようです。
 ○ 話し合いは じゅうぶんに なされているではないか。なにを血迷ったことを言ってるんだ。《日本人は 生きている。 いかかでしょうか?》
 ☆ ということでしょうか?
 税務当局は 徴税の取り残しのないように 血眼になっていると言いかえすのでは 反論にならないでしょうね。たしかに。
 ということは 経済活動ないし経済生活の上では いわば待った無しだから 《話し合い》が途切れるということはない。心配しなさんなというところでしょうか。
 どうも そのようにおっしゃっていたようですね。おそれいりました。どうも澄みません。二三回 もし次のご投稿があるようでしたら わたしのことを罵倒してください。お気の済むように。

 あと 問題は このように経済人間であることが ひとにとって 基本であるのか? ということになるでしょうか。
 妥当な意見が 世の中では 必ずしも通用しないという事態。このように既成事実あるいは既得権益のほうが たとえすでに古くなっていて新しい事態には合わなくなり妥当性にも欠けて来ていたとしても 優先される。
 ひとことで言って 有効な意見が 省みられず ただただそれまでの有力な意見のほうが そのまま 開き直り居坐りつづける こういった事態について やはり――経済活動としても―― 話し合いが望まれるでしょうし ただ話し合いが持たれればよいというのではなく 有効な意見や方策が 実行に移されることが 好ましいということだと考えます。
 社会保険庁の話題とその問題が 取り上げられて来ましたが たとえばその問題の事態について 話し合いは 結実したかということになりますね。はたして 日本人は 生きているでしょうか?

 * ご趣旨をきちんと把握しえなくて 申し訳ありませんでした。これに懲りず 今後とも ご教授のほどをお願い申し上げます。恐々謹言にて。
 これまでにも 失策は数々ありましたが 今回は 大エラーになってしまいました。・・・

補足日時:2009/06/06 08:56
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この回答へのお礼

 littlekiss さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。全体として言って おっしゃっていることが どういうお答えであるのか よく分からなかったのですが どう問いなおせばいいでしょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「日本人は 死んだのでしょうか」を

  ○ 印紙税 および 相続税にかんする具体的な措置のあり方

 このあたりから考えた場合、話し合いになりはしませんか?

 日本人は 生きている。 いかかでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という内容は どういう内容であるのか。なかなか たっぷり時間をとって考えるというわけにも――ほかにご回答をもらっている限り――行かないので ここまでとします。分かりません。

お礼日時:2009/06/05 06:33

40代のアナログ人間です。


どのくらいの期間か定かではありませんが過去に一度一定期間小学校の授業から道徳の授業が消えました。その時点での文部省の理由は確か
〔道徳は学校の授業で教えるものではなく、家庭環境や生活の場から少しずつ学んでゆくものである〕
だった様な気がします。私は授業で道徳の授業があった世代でもあり、また道徳の授業も大好きだったのを今でも覚えています。
まず先生が教室の全生徒に
「学校の帰り道に100円玉が落ちていました。それを拾ったらどうしますか?」と、先生が皆にテーマを与えました。すると一人の生徒が手を上げて
「そのまま交番に届けます。」と答えました。すると、別の生徒が手を上げ
「先生が下校途中は道草せず、真っ直ぐお家に帰りましょう。っていつも言ってるじゃん!だから僕は真っ直ぐ家に帰ってお母さんに渡すよ。」と別の意見を述べました。教室中は意見が真っ二つです。それぞれ2つに分かれた子供同士がお互いの意見を主張しあいます。
さて、この授業ははたして無意味な時間だったのでしょうか。いいえ!決して僕はそう思いません。なぜならば道徳の授業の根底にあるのは正解を導き出すのではなく、その状況下において、どういう判断をしたらいいのか、最適な道はどれなのか、もっとほかに良い解決策はないのかを右脳を駆使し、立体的にシュミレートする能力を身につける場であったと私は思います。
最近、キレてヒトを殺してしまう、といった事件が後を絶たないですよね。確かに私だって過去にカッとなったことは数え切れない程ありますよ。でもヒトを傷つけたことは一度もありません。なぜなら、もしそこで相手と本気で喧嘩して相手を殺してしまったらどうなるんだろう、と瞬時に考えるのです。
ヒトを殺害する→警察に逮捕される→家族や親戚に迷惑が及び辛い思いをさせてしまう→刑務所に入る→出所したが前科がある身なので職が見つからない→家族と離婚=こりゃ、割に合わないな ってことで、その場はぐっとこらえて終了
これがいわゆる【理性】ですよね。
道徳の授業を奪われた期間の子供達は、このシュミレーション能力【理性】が無いまま大人になってしまった訳ですから、とっさのブレーキが効かないのでしょう。
それに道徳の授業を奪ったためにロボット人間(マニュアルで回答を見出す)を形成させてしまったこと。
別の質問コーナーで、都内の通勤・通学途中の車内でお弁当を食べていた学生を注意したら、「ガムは食べていいけど何で弁当はダメなん!?」等水掛け論になってしっまたらしく意見を求めたところ
「売店で売ってるパンはどうなの!」とか「どこかに車内で弁当を食べないでください、と書いてあればルールー違反」だとか「新幹線や特急は弁当食べてるのに普通電車はダメっておかしくない!?」とか散々ロボット的な発想の意見がありました。単純にひと事
【ひとに迷惑をかけてはいけません/道徳の授業の基礎】なんですよね。
幸いにも今は道徳の授業が小学校で復活したみたいなので、この子供達が大人になる頃、人間社会に再び〃生きてる人〃が戻ってくるのでは、そう願いたいですね。
長々と語ってしまいましたが、最後に、胸の中にずっとしまい込んでいた想いを述べる場を提供してくださいました質問者さまに感謝いたします。
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この回答へのお礼

 munamaca さん ご回答をありがとうございます。

 お話 伺いました。
 ★ 道徳の授業
 ☆ は 時間割にきちんとあったのですが いつも 自習になったころの者です。ただ クラス会〔と言ったでしょうか〕があって そのときは 学校での出来事やらについて みなが 活発に意見を出し合うという時間がありました。
 話をしていて はぐらかしはありましたが それを指摘されると だいたいは 認めましたね。不良は いましたが その一部の者たちとして はっきりと決まっていました。そこは 別の世界としてのようにです。
 乗り物に乗るとき 列をつくらず我れ先にという振る舞いがありましたが 車内では 普通にきちんとしていた記憶が強いです。

 ところで
 ★ 「新幹線や特急は弁当食べてるのに普通電車はダメっておかしくない!?」とか散々ロボット的な発想の意見
 ☆ この一点については なぜ《ロボット的な発想》なのかが わたしにも よく分からないのですが どうなんでしょう。なぜ ひとに迷惑をかけるのかが 説明できていないのではないかと ふと 思ったのですが いかがでしょう。特に 車内が空いているときなどですね。変なことに引っかかって 澄みません。

 最近では テレビでも 討論をする番組が増えましたが 話し合いは うまく行かないものでしょうかねぇ。

お礼日時:2009/06/05 06:25

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