プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

さて、なんのことやら。
ビールの美味しい季節がやってきますね。
一応、ビール禁止の私ですが、堪らず、一杯、そのまま二杯。
三杯目を睨みつつ、不思議だなぁ~なんでかなぁ~???

一杯、二杯、三杯。いっぱい、にはい、さんばい。
いっ「pa」い、に「ha」い、さん「ba」い。

1)判りましたか、どうしてこんな変な使い方をするのでしょう?

2)清音、濁音、半濁音の使い方には何か規則が有るのかな。

一杯pa、二杯ha、三杯ba  
一匹pi、二匹hi、三匹bi  
一分pu、二分hu、三分pu
一辺pe、二辺he、三辺pe(be)
一歩po、二歩ho、三歩bo
  
3)此処でも、規則が有りそうだが、同時に逸脱もある。

そこで、哲学のカテゴリーで、音韻学の質問をしても意味がありません。
哲学的な考察を
一歩目
発音しやすいから、この様な使い方をしているという理由は、全く理由にならない。
もし仮に子供の頃から、これと違う発音をしていれば、その発音がしやすくなる。
なぜこんな使い方をするのでしょうか?
二歩目
規則に逸脱が許されるとしたら、それははたして規則といえるのか。
そもそも、そこでは、規則と非規則が同居するというありえないことが起きてしまう。
つまり、例外を許すような法則はあるのだろうか?
三歩目
此処から先は、皆様の出番です。教えてください。

A 回答 (7件)

 【発音が、生得的に、或いは先験的に決められているという考えが在るような気がします】


 生得的、或いは先験的に決められていれば、私たちはそれを受け入れるだけで、理由や根拠をの妥当性については云々できないのでしょう。ただ、その生得性や先験性の性格についての検討をする事はありうるし、或いは有意義でしょう。
 日本語、そして日本民族性ということと出自を同じくするものかもしれません。
 アプリオリ(ア・プリオリ)のgoo辞書に質問しましたら、最近の哲学辞典にはそう書いてあるそうです。
 私は頑固に先験的をつかいますが、これは生得的とは相容れない概念ですので、併置している質問者さんのご見識は私には理解できません。

 【オバマ大統領の英語が、日本で英語学習の教材になったり、日本人が多くの時間を費やして、英語を勉強したとしても、なかなか現地人のネイティブな発音が身に付かないようです。】
 私もヒンドゥや英語での宗教の勉強や精進をしておりますが、どんなに慣れてもちょいと心が油断していると、その真意を滑らかに通り過ぎてしまいます。
 日本語であれば、決してそういう現象は起きません。
 中国の言葉であって、日本のことばになっている漢語や漢詩でも私自身です。
 ところが英語はやはり自分の内で理解するという作業が介在します。漢詩や日本語は理解や解釈という介在作業が全く不要です。
 ヒンドゥ出身、そして今はアメリカ人の会長の文章は名文です。
 自分の言語として自分に入ります。
 でも、やはり日本語と同じではありません。

 【発育期における発音の繰返しにより、不可逆的に発音構造が固定化されてきた、と考える理由は十分に有ると思うのです。】
 批判がありましょうが、日本の言語はある霊、とか、魂とか、あるもの、ある力がはいっていると存じます。
 そりゃ発するひとの気持ち次第でもありますが、ことばは日本語では霊魂がこもります。
 じっかんですから、信仰では在りません。批判や否定はあるでしょう。
 何かホーム・ページにありますが、あんなふうな信仰や思想は無縁で、全く日常の経験でことばは人間です。日本語では。

 清音、濁音、半濁音ですか。
 日本語というもののリズム、あり方、人間の存在でしょう。
 日本では人はこういうリズムを無視しては存在も生活も、そして取り運びも、更に生活も成り立ちません。
 方位方角、そしてリズムを否定したり、無視するのは勝手でしょうが、機能している事は無知が否定できません。
 迷信と想う人はそれだけのことしか判らない人です。
 何度も生まれなおさないとダメ。
 今は欧米流に、何でも、何かがあると、科学知識や科学技術で処理していけることも多く為りました。
 それはそれでその範囲で有効で、有益でしょう。
 それで人間や宇宙が全てだと思いこんでいては、どこかで何かがくるいます。
 欧米人はそれでいいでしょうが、東洋、日本や日本人はそうは行かないようにできています。

この回答への補足

う~ん、生得的と先験的の区別の問題は面白いですね。
私自身は、○○主義と言う言い方は好きではないのですが、いつの間にか、ある意味で経験主義的な考え方になっていたようですね。経験と関わりのない認識は、生得的とほとんど同義で、以後の認識は、すべて経験による記憶に還元できるのではないだろうか、と、自分自身ぼんやりと考えいてます。
ですから、今回の言葉の表現の規則と逸脱に関しては、無意識と言う表現は正直余り好きではないのですが、暗黙知と表現されたり、自律神経的習慣といった奇怪な新造語を作り出して、自分自身は普段意識していないにも拘らず、一定の規則に従ったり、時として、その規則から逸脱している。或いは、こう申しましょうか、規則から逸脱する事が規則になっている。と

このような、不思議な私たち自身の言語行為を、どのように分析し、納得できる理由をどのように知る事が出来るのでしょうか。とはいえ、生得的とか先験的と言う言葉の理解に、違いがあるとすると、ここで早計に話を進めすぎると、行き違いや誤解を推し進めるばかりのようで、この件は、お礼ではなく、補足欄を活用させていただきます。

>私は頑固に先験的をつかいますが、これは生得的とは相容れない概念ですので、併置している質問者さんのご見識は私には理解できません。

krya1998様は、このように書かれますが、生得的と先験的に関して、どの様な違いをお考えなのか、また、各々の言語の意味に関して私の解釈に間違いがあるのか、そして、その違いが、発音の規則にどのように関わるのか?

こちらは暇人ですので、ゆっくりで結構ですが、お時間が有りましたら、この三点に関して、ご説明いただければ幸いです。
有難うございました、お礼はまた後ほど書かせていただきます。

補足日時:2009/07/13 05:19
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

12日の日曜日でしたか、ご回答を拝見した後、雑用のついでに、地元の小さな図書館に予約した本をとりに行きましたが、珍しく行列が、そこで小さな図書館の中を一周すると、偶々、池田晶子さんの、「魂とは何か」とかいう本を見つけました、普段なら手に取らないのですが、なにやら偶然の一致、折角の機会ですから、ちょっと読んで見る事にしました。

『六月十七日(1997)参院にて修正案「臓器移植する場合に限り、脳死は人の死」が可決された。つまり、同じ脳死の人でも、移植する人は死んでいて、しない人は生きているというわけである。・・・』
(『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田昌子 )

今回の質問とは、直接の関係ないのですが、別の質問の臓器移植法関連で、池田さんのように、著名で多くの読者を持つ方も、臓器移植には反対されているようです、尤も、池田さんのこの事に関する考えを全面的に肯定するわけではないのですが、この様子なら、今回の臓器移植の改正案も廃案になるだろうと信じていたのですが。

七月十三日(2009)参院にて修正A案「脳死は人の死・年齢制限の撤廃」が可決された。つまり、池田氏の上記の批判には形式的にはかわした形ですが、子供は親の所有物であるというわけである・・・

これには、流石にショックを受けてしまいました。
ここ一週間、全くもって思考停止状態、国権の最高機関における、規則の整合性の不在なのか、体系的な規則なら一本の筋が通っているべきでは・・・会社や工場、或いは現場のレベルでの、時々いわれる、恣意的・理不尽な差別ならいざ知らず、立法というレベルで不可解な事実の前に言葉をなくしました。

再度のご回答に関しては、少し時間を頂いて、改めてお礼申し上げます、
つまり、それほど混乱しております。お許し下さい。

お礼日時:2009/07/19 16:04

 議論の場でもなく、前回で一応投稿の結末をつけたつもりでしたが、・・・。



fishbowl66様
 【上に引用した、krya1998様の文章は、原理的に二元論に移行して行くと考えます、つまり、一方に宇宙の物質の法則体系と、他方に、人間の精神や社会の法則体系を配置し、その両者が全く無関係である、と言う事になります。】
 ◎投稿者:説明と議論はしませんが、残念ながらそういう理解・解釈はわたしの申し上げている趣旨とは異なります。規範と宇宙原則のことを対照させて、課題を説明したつもりです。

fishbowl66様
 【この様な考え方は、魂とか言霊といった神秘的と言うか精神的なものが物質から独立して、無関係に成立すると言う考え方を持っていれば、全体としての整合性が取れます。】
 ◎投稿者:物質やその他の不可視の存在などの事は、今次質問から離れており、私はfishbowl66様がご分析、解説してくださった見かたにはおりません。

fishbowl66様
 【しかし、krya1998様と違って、質問者のように、魂とか言霊といった神秘的な存在を否定して、精神的なものの由来をあくまでも物質の中に求めようとする場合、整合性がとれないのです。】
 ◎投稿者:魂とか言霊のことに私は言い及んでおりません。精神的なものを云々のおはなし、唯物的上部構造下部構造ですね。その見かたでも冒頭の私の説明の内容は通用しますが、私は物質も精神であり、精神も物質だと存じており、日常、齟齬のない生活です。そしてラディカル革新で二十歳から50数年活動しております。

fishbowl66様
 【物理法則のような法則体系と、例えとして選んだ、言語の文法のような法則体系が、本質的に別のものなのか、或いは、ある種の連続的な同種のものの形状・様態の違いだけなのか。】
 ◎投稿者:言語って、生活の所産ですよね。いうなれば生活の生態でしょう?一定の仕方、法則的なことが見出され、それを無視すれば通じないし、精神的な脈絡を欠いていることになりますね。でもその生活生態が優先している分野でしょうね。物理の法則とは異なりますよね。そういうことは必ずしも二本立てを主張しているのではないですが、また、二元論を足場にしたり、それに帰結していくことでもありません。

fishbowl66様
 【相同か相異なのか、】
 ◎投稿者:それぞれのどの側面を取り上げて、【相同か相異なのか、】を問題にしているのかが問題ではないですか?

fishbowl66様
 【一方から他方を引き出すことが可能でない限り、二元論と言う事になります】
 ◎投稿者:どちらの一方からも引き出せるし、二元も一元も、多元も同じだと存じます。私自身は唯物論的世界とその通用を否定しない、伝統的用語タームでいえば観念論です。一切は唯一なる創造者の意識と意志の所産であるとしております。そして唯一なるお方の多なる姿としての多神教である一神教であります。

蛇足:冒頭の“一杯、二杯・・・”に引き入れられました。
    李白や杜甫、たくさんの漢詩や
    牧水でしたろうか、
      白玉の歯に染透る秋の世の酒は、・・・
      白鳥は悲しからずや、・・・。
    こういうみなさんと酌み交わすのが大好きなものでして。
    もう殆どやりませんが。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり、大変失礼致しました。
お忙しい中で、再度の投稿の原因を作ってしまった事に関しても、お詫びいたします。
改めて考えてみると、#3でのご回答を誤解してしまったようですね。
問題としては、
>上に引用した、krya1998様の文章は、原理的に二元論に移行して行くと考えます、
の部分ですが、一般論として書いたのですが、#3のご回答からkrya1998様にも同様な指摘が可能かと誤解してしまいました、krya1998様のお考えは、今回のご回答の通り、と了解いたしました。
さて、質問の趣旨は、一杯二杯から始まって、自然の法則と社会の法則の二つの違いまできましたが、「発音しやすい」とか「この二つは別のものである」と言う理由は、実は理由になっていないと、私が考えている、ということでしょうか。
ご指摘の通り、此処は議論の場では有りませんので、一々の内容には触れずにおきましょう。
今回の選挙も、前回同様、大変な結果となりましたね、個人的には唯一の救いとして、二大政党の狭間で旧来の革新二政党が辛うじて現状を維持できたと言うことでしょうか、つまり、小泉劇場や政権交代と言ったスローガンに惑わされず、四年前と同様の意思表示を維持し続けた人々が僅かながら存在していたのですね。
政治のことはよく知りませんが、一人の有権者が実質二票の投票を行うと言うことは、前回と今回のことを考えると、どうしても極端に走る傾向があるようで、これが良い事なのか、私にはさっぱり関心がありません。
この一ヶ月ほど、シュタイナーの経済学講座と言う本を、暇を見つけては読んでいます。
実は、この本は、おそらく今回が、三回目か四回目です。正直この本の場合は何度も途中で放り出しているんです、それでも、この本がなぜ気になるのかと言うと、経済に対する見方が、マルクスともケインズとも、全く違うのです。
全く違う見方をどのように理解するのか、自分の忍耐力との戦いですね。
ふと、経済学の主要な関数表は、なぜ「空中に浮いているのだろう」?
或いは、物質が記憶を持つためには記憶はどのようなものになるのか?

解らない事ばかりですが、今回はkrya1998様にご迷惑をお掛けしたことだけは、確かなようです。

詩仏と言われる杜甫の、河は緑にして鳥はいよいよ白く・・
いつの日か解る時が来るのだろうか・・などと、最後を変えてみたくなります。
有難うございました。

お礼日時:2009/09/06 18:24

★fishbowl66さん【7月13日の臓器移植法改正案の成立を見て、私自身が大変混乱していると書きましたが、、、、】


◎投稿者:fishbowl66さんが、臓器移植の制度に深いご関心、ご関係があることをまず認識します。

★fishbowl66さん【具体的には、幼い子供を亡くした親は、時間の余裕もなく、悲しみに身を浸すゆとりも与えられずに、非常に決断しにくい判断を強要される事となるでしょう。】
◎投稿者:私もこのことを、そしてこれに関連しての事業にたいへん危惧を抱いております

★fishbowl66さん【ある種の外圧が、私たちの耳には聞こえにくいところで有ったのだろうと想像でき、その外圧に取り敢えず早急に対処する・・・】
◎投稿者:このことについては、私もfishbowl66さんと同じ推測をいています。多分日本共産党以外には、公明、民主ですか、みなきちんとその筋が挨拶していると存じます。そしてそういうことはみな墓場に持っていく事柄です。表にはでません。外国関係の商売がからみ、俗界権力の魔界の力が動いていることです。

★fishbowl66さん【言葉上の規則であるのか、規則の逸脱なのか、どちらなのかと言う疑問です。
杯と言う文字をどう読むかは、規則で決まっているわけですが、それを時によって変わってしまう事は、規則からの逸脱ですし、、、、、】
◎投稿者:宇宙や自然の原理と人のなす法律などの規則があります。両者は無論異なります。
法律や規則は当為原則原理です。そして当然に一定の目的を以って、対象を律する定義体系です。あくまでも人為的な定義の規範体系です。
言語に関するありようがこの両者のどちらに入るかといえば、意識的定義定立ではない以上、規範的な定義体系ではありません。では宇宙や自然の原理かというと、そういうものとして存在してはいないことはいうまでもありません。
 言語のありようは便宜と事情の中で何か共通になってきているもの、一般的なありようがある、ということであると存じます。
 そのように生成してきた事実生態であると存じます。ですからfishbowl66さんが、規則とか逸脱とかいうことを考えておられますが、それはそういう状態のものだという事実しかないのだと存じます。
 つまり逸脱はどういう原理で逸脱しているかとか、逸脱したらどうなるか、ということを考察する対象界ではないと存じます。
 むろん逸脱が大きければ、当初は通じにくいとか、通じないとか、言いにくいとか、へんな言い方だということはありえましょう。
 でもその場合も、規則がどうのでなく、現にどう発音され、通じているかと言う現状の事実が先に有効な世界で、理論や理屈はあとについていくものであると存じます。
 なお、仮にfishbowl66さんがのいわれる規則性を重要視して考える上で、二つの参考視点をお伝えします。
 一つは、私たち法学の徒がときに参考にするのは、ラートブルッフという方のことばでいえば、抽象的原理性と事実の本性を勘案する具体的妥当性。という原理です。
 規則という原理も妥当な適用をするためいは、事実対象をみながら、その内容を作り上げていく、というようなことです。

 もう一つは例外のない原則はない、というもっとも卑近であるが、合理性のないことばです。

★fishbowl66さん【非規則性と規則性が同居している、とすると、これは理論的におかしな事になります。では、同時ではなく、非規則性と規則性が連続しているのか?】
◎投稿者:大きな言語体系のどこまでの範囲の中で仰せの質問事項を捉えるか、という問題もありましょう。
 そしてまた他方においては、これらは全て結局は生活事実なのではないでしょうか。
 だからその自然現象的事象の中にどんな生態を見出すかの問題でもあるのではないでしょうか

★fishbowl66さん【生得・先験の区別は、取り敢えず必要ないのかな、、、】
◎投稿者:生得と先験は大きな違いがありますが、fishbowl66さんのご質問には直接は関係させる必要も在りませんので、説明を省かせていただきます。
 以上を以ちまして、わたしの回答欄投稿を終了させていただきます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
これで最後のご回答との事、私も、今回の質問を整理してみます。

◎投稿者:宇宙や自然の原理と人のなす法律などの規則があります。両者は無論異なります。
法律や規則は当為原則原理です。そして当然に一定の目的を以って、対象を律する定義体系です。あくまでも人為的な定義の規範体系です。

上に引用した、krya1998様の文章は、原理的に二元論に移行して行くと考えます、つまり、一方に宇宙の物質の法則体系と、他方に、人間の精神や社会の法則体系を配置し、その両者が全く無関係である、と言う事になります。
この様な考え方は、魂とか言霊といった神秘的と言うか精神的なものが物質から独立して、無関係に成立すると言う考え方を持っていれば、全体としての整合性が取れます。
しかし、krya1998様と違って、質問者のように、魂とか言霊といった神秘的な存在を否定して、精神的なものの由来をあくまでも物質の中に求めようとする場合、整合性がとれないのです。

ですから、今回の質問の問題点を整理してみると、物理法則のような法則体系と、例えとして選んだ、言語の文法のような法則体系が、本質的に別のものなのか、或いは、ある種の連続的な同種のものの形状・様態の違いだけなのか。言葉を変えると、適切な表現かは微妙ですが、相同か相異なのか、ということです。質問者としてみれば、最初から違っていては論理的に困った事になるわけです。

一方に、たった一つの例外が見つかれば否定される物理法則と、他方、多くの例外や逸脱を許容する文法に代表されるような法則体系を比較して、この両者の関係の中で、一方から他方を引き出すことが可能でない限り、二元論と言う事になります。尤も、頭から二元論を否定するわけではありません、私の考えは、唯物論的ですが、物質の階層性を連続と断絶の同居といった表現しにくい理解を認めた上で、多元論的な考え方をしています。二元論の問題は、方や、科学の対象である物質と、方や、由来のはっきりしないものを扱うと言う困難が付き纏う事が困るわけです。

krya1998様には、示唆に富んだご回答を何度も頂き感謝いたします。

量の変化が質の変化に繋がる、と言った抽象的理解から前進する事は出来ませんでしたが、改めて、問題点を整理でき、ご回答頂いた皆様に感謝いたします。

お礼日時:2009/08/23 17:22

音韻、発音、前後の文章で、いろんな意味に転ずることもたくさんあるよね。


なぜ意味が通じるのか、それは、人間だから、と言うのはダメかなぁ?
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この回答へのお礼

残念ながら、ダメですねぇ・・・

まぁ、今回のことは、
車で走っていると、前方に、好みらしき女性(男性)か歩いてくる、
ところが、どうしても電柱の影に入って、はっきり見えない・・・

こんな感じでしょうか、ご期待に沿えず申し訳ありません、
これに懲りずに、また、このサイトを楽しんでください。

有難うございました。

お礼日時:2009/08/23 17:44

 回答番号:No.3  


 欲張りの私、krya1998は、二十年ほどまえから漸く人生の残された時間でやることが明確に為り、毎朝2時半からおきて、1分も無駄にしないようにして、狭隘に生きております。
 以下、仰せのことに関連して、思いつくことを書いておきます。
 量が多いので、申し訳ありません。お会いできれば、極く簡単なことなのですが、ことばだけに頼るのは難しいことが多いものです。

 梅雨後半、蒸し暑い気候で少し心身に寛容性をなくしており、最初に私のことば表現や使用の仕方との齟齬するところを、確認させていただきます。

【☆ご質問者さん:私自身は、○○主義と言う言い方は好きではないのですが】
〔解答欄投稿者:“○○主義”という言い方について好きも嫌いもないのですが、安直なことば遣いの一つに為りやすいとは存じます。〕

【☆ご質問者さん:いつの間にか、ある意味で経験主義的な考え方になっていたようですね。】
〔解答欄投稿者:ここでの経験主義的な考え方という意味は、“経験や知覚を根底と原則にした判断と認識の仕方に依拠する”という意味であると判断し、受け取ることを提示されているのであると理解できます。〕

【☆ご質問者さん:経験と関わりのない認識は、生得的とほとんど同義で、以後の認識は、すべて経験による記憶に還元できるのではないだろうか、と、自分自身ぼんやりと考えいてます。】
〔解答欄投稿者:“生得的”とは“生まれながらに持ってきている”、或るいは“経験に依存しない”ということを意味されている言語としてお使いだと了知できます。〕

【☆ご質問者さん: ですから、今回の言葉の表現の規則と逸脱に関しては、】
〔解答欄投稿者:ここでの“今回”というのが具体的に私の頭の中で“このこと”として思い、定めることができなくて困っています。次に続く“逸脱”は“言葉表現の規則の逸脱”だと理解できます。“その逸脱”という意味であると理解できます。〕

【☆ご質問者さん:無意識と言う表現は正直余り好きではないのですが、暗黙知と表現されたり、自律神経的習慣といった奇怪な新造語を作り出して、自分自身は普段意識していないにも拘らず、一定の規則に従ったり、時として、その規則から逸脱している。或いは、こう申しましょうか、規則から逸脱する事が規則になっている。と】
〔解答欄投稿者:ここで仰せの内容は、表層的意識の認知や自覚、或いは指示や意図がなく、なされる言語表現上での行為の仕方を仰せなのであろうと、解釈いたします。なお、無意識という言語遣いは同語反復という無意味性に陥っているのではないかと、私も感じ、私の理解としての仰せの内容に、同意できそうです。意識は表層も、サブ意識も意識できていなく、経験や行為、知覚(みな同じことですが)の結果、記憶受け取りとして知っているのに過ぎないと存じます。己を意識とするなら、己を知ること、つまり意識を意識することは、通常では困難であると存じます。そのこともあり、ヒンドゥの修行を勤めております。〕

【☆ご質問者さん:このような、不思議な私たち自身の言語行為を、どのように分析し、納得できる理由をどのように知る事が出来るのでしょうか。】
〔解答欄投稿者:私たちの言語行為、これは生命行為であり、現象行為、知覚と経験の行為や生命活動に関する、一定のフィルターによる紡ぎと編集の行為であるとぞんじております。私たちの意識は、私たちのものでもないし、孤立したものでもないと存じております。仰せの問題については、大1ですから、五十数年前も一生懸命考えた記憶があります。西洋哲学の一部にのめりこんではいましたが、結局、ここ四十数年は伝統のヒンドゥの思想に回答があると想うようになりました。無論、私としての回答でしかありませんでしょうが。これは不可視や超経験、超思考ですので、勤行や生活を抜きにした認識はできないところが、西洋的な、理性あれば悪魔にも通じる、という民主主義とは異なります。(ラートブルッフのレヒト・フィロソフィーからの引用:法とは、理性があれば悪魔に対しても効力を持つもの、妥当するもの、施行されるものである。)〕

【生得的と先験的に関して、どの様な違いをお考えなのか、また、各々の言語の意味に関して私の解釈に間違いがあるのか、そして、その違いが、発音の規則にどのように関わるのか?
〔解答欄投稿者:ことばの意味としての“生得的”とは、“生まれながらの”ということで、規範性や当為性の相やレベルではない。だから結果として生得である、ということもありうる。しかし先験(これを先天とか超経験という言い方に置き換えることくらい無理解はない。哲学辞典の筆記者は恥ずかしい。)は当為、規範性としての次元と要請を示している。経験や生得のあり方の枠を提供しそれを可能ならしめている、枠自体である。こういう意味で、生得という言語とは区別をしております。なお、ここで平叙文にしてありますが、“であるべき”という表現を省いてあります。〕

 全体として、ご質問者さんの注意が向いている方向や対象は、私も私の中で、考えてきたことでもあります。無論、具体的な襞は異なるし、温度や風景は違うでしょうけれども。
 何より私は、今回都議選で思わしくない結果の革新党派での労働問題と労働運動が本領でして、論理や思索はあまり得手ではないのです。
 これは埒も無い言い訳です。

この回答への補足

お礼が大変遅くなりました、前回のお礼で、7月13日の臓器移植法改正案の成立を見て、私自身が大変混乱していると書きましたが、今回の質問とは直接関わりないとはいえ、この混乱の整理について、ご説明する事から始めた方がご理解が得られるのではないかと、少々長くなりますが、書き始めてみます。

 現在の殆んどの法治国家において、法律の原則は、私的所有権の擁護と言うものであって、何人も法による承認・執行等々以外では、自らの所有するものを自らの意図に反して他人から奪われることはない、そしてこの事を法治国家の国民が了承する事によって、互いに表面上平和に暮らす事が可能となるわけです。

 改正以前の移植法には、本人の意思が尊重され、曖昧かつ微妙な問題を残しながらも、形式上は本人の所有権の影響下にあったものを、本人の意思により、他者に譲渡するという私的所有権擁護の原則は、ある程度は保持されていたと考えられます。しかし、今回の改正では、未成年の臓器移植が可能となり、法的にも所有権と処分権の対称性が崩れて、自分の意思とは無関係に、また、自分のものであるのかどうか分からないにもかかわらず、処分を決定するという負担が発生する事でしょう。具体的には、幼い子供を亡くした親は、時間の余裕もなく、悲しみに身を浸すゆとりも与えられずに、非常に決断しにくい判断を強要される事となるでしょう。

 さて、私は、原理とか原則とか、法則といった言葉に拘り過ぎていたのでしょうか。当時の国会の様子は、解散含みの流動的な雰囲気の中で、今回の改正法のように、原理的に不備のあるようならば、当然廃案になる可能性が高いと信じていたのですが、みごとに裏切られ、その後国会はご承知のように、解散総選挙へ。移植法改正による具体的な詳細は、省令なり政令で詰められるのでしょうが、さっぱりどうなるのかは聞こえてきません。

 では、私はこの混乱をどのように乗り越える事ができたのでしょうか。一ヶ月の間、ずっと悩んでいたわけではもちろんありませんが、結局のところ自分を納得させる理由をこしらえる事でしたね。
尤も納得しやすい説明は、生命進化の行き当たりバッタリ、とでも申しますか、或いは、旅館がお客が増える事によって、新館・別館・新本館などと継ぎ足しして、なにやら迷路のような旅館が出来上がった、と。つまり、今回は、諸外国の法規制と較べると、日本が臓器移植に厳格すぎるという、ある種の外圧が、私たちの耳には聞こえにくいところで有ったのだろうと想像でき、その外圧に取り敢えず早急に対処する・・・
 ところが、面白い事に、私自身にも外圧が襲ってくる事に気が付いたのです。つまり、いつまでも納得できない事を、長々と考え続ける事ができない、時間の外圧とでも言いましょうか、そうすると、上記の進化論的言い訳のように、もう一つしっくり来ないものでも、取り敢えず納得するしかないという外圧ですね。只でさえ遅れているお礼を早く書かなければならないし、前回の質問に拘り過ぎて、今回の質問をおろそかにする訳にもいかない。

 そこで、結局納得できない事に関しては、ここに書き込んで、記録として残して、忘れてしまう。取り敢えず忘れてしまわないと、先に進めない。全く情けない話ですが、こんな泣き言を聞かされる方も、迷惑な事でしょう。

こちらも、拉致のない言い訳になってしまいました。

補足日時:2009/08/16 17:15
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この回答へのお礼

あらためまして、御礼が遅くなり、大変申し訳ありません。
お礼が遅れた顛末は、補足にてくどくどと書き込みました、気を取り直して、今回の質問に戻ってみます。すでに、いたずらに駄文を書き続けていますので、この質問に関しては、二点の問題点を。
まず最初に、
>ここでの“今回”というのが具体的に私の頭の中で“このこと”として思い、定めることができなくて困っています。
「今回のこのこと」に関して説明が不足していたようです。
一杯二杯三杯と言う表現で、杯と言う文字を、時によって、ぱい・はい・ばいと読み分ける事が、言葉上の規則であるのか、規則の逸脱なのか、どちらなのかと言う疑問です。
杯と言う文字をどう読むかは、規則で決まっているわけですが、それを時によって変わってしまう事は、規則からの逸脱ですし、ところが、殆んどの人がこの杯と言う文字を時によって使い分けているという事実は、規則性の表現ですね。このように、今回の例では、非規則性と規則性が同居しているのか?
もし仮に、非規則性と規則性が同居している、とすると、これは理論的におかしな事になります。
では、同時ではなく、非規則性と規則性が連続しているのか?
残念ながら、このような表現は、意識の埒外で決定されていて、順序すら意識する事ができません。
或いは、複数の規則が同時に影響する事が可能なのか?
複数といえども、それは、二なのか三なのか、そしてその選択は、いかに可能なのか。等々。
これらの疑問は、従来、発音しやすいという説明で納得してきたようですが、この発音しやすいという説明は、わたしが補足欄に書いたような、無理やり納得する説明でしかなくて、なぜ発音しやすいのかと言う疑問がすぐ現れてしまい、実際のところは、本当の答えにはなっていないような気がするのです。
もう一点は、生得的と先験的の関係ですね。
簡単に申し上げると、生きる事と経験することは同義ではないのかな?こう考えると、生得・先験の区別は、取り敢えず必要ないのかな、ただ、ご質問者様が規範性に注目して区別されると仰ると、興味深い問題のあることは理解できますが。
さて、ご回答者様のインドの古代思想と、私の親近感を覚えている社会有機体説の考えは、ある程度似ているということでしょうか。興味深い事ですが、長くなりました、又の機会に。
時節柄、お忙しい事態となりましたが、ご活躍を応援します。

お礼日時:2009/08/16 17:25

こんばんわ、fishbowl66さん。


一歩目:発音の規則性はちょっと知らないけど、
二歩目:こういう変化は、「変則」って言えばいいんじゃないかな?
三歩目:言葉は、意味が通じればそれでいいんじゃないかな。

ちょっと一杯、ごちそうさんでした(^^
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この回答へのお礼

ホップ・ステップ・ジャンプで、あっという間に、三歩目ですね。

ところで、
>ちょっと一杯、ごちそうさんでした(^^
これが、
ちょっと三杯、ごちそうさんでした(^^
ちょっと さんばい ごちそうさんでした・・・と音になると、三杯か三倍か判りませんね。
特に、単独で、さんばい と言う音だけが聞こえた場合など、
ただ、もう少し良く考えてみると、
三倍=「さ」んばい、三杯=さ「ん」ばい、と「○」にアクセントがあります。
しかし、私たちは正直ここまで意識して、言葉を使っているのでしょうか?

>三歩目:言葉は、意味が通じればそれでいいんじゃないかな。
全く、その通りなのですが、そこが、暇人の暇人たる極意、なぜ意味が通じるのか?

上に書いた考察では、「さんばい」と言う単語が、単独で意味を持ちうるし、しかし、前後のつながりで意味がはっきりしたり、ひょっとして、違う意味になる可能性も有り、はっきり言って、正反対の可能性が混在していますね。こういう事が、暇人にとっては、癪に障るのです。

鉛筆と消しゴムが、一つの質問で偶然出会う、何が描かれるのか、楽しみですね。

ところで、今、上に書いた様な発音は、私だけではないですよね。
ご回答有難うございました。

お礼日時:2009/07/12 08:04

 過去にこんな質問がありました。


ご参照くださいませ。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2763399.html
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。
成る程、国語の世界では、発音しやすいと言う理由が、大勢を占めるようです。

では、慌てず、最初の一歩から、詳しく検討しなおさねばならないでしょうか。

国語と言う学問の中では、発音しやすい、あるいは、連濁といった現象がなぜ起こるのかに関しては、国語の範疇を超えて、生理学とか音韻学の分野であり、国語としては、発音しやすいといった回答で、満足するのが国語の学問的方法であり、効率的な姿勢と言えるのかも知れません。

ところで、以下は、個人的憶測ですが、
このような方法の前提として、発音が、生得的に、或いは先験的に決められているという考えが在るような気がします、ところが、オバマ大統領の英語が、日本で英語学習の教材になったり、日本人が多くの時間を費やして、英語を勉強したとしても、なかなか現地人のネイティブな発音が身に付かないようです。

そうであるなら、発音は、発育期における発音の繰返しにより、不可逆的に発音構造が固定化されてきた、と考える理由は十分に有ると思うのです。

さてはて、問題は、どこに問題があるのか、と言うことでしょうか。
規則なのか理由なのか、一般性なのか特殊性なのか、共時性なのか通時性なのか。

お礼日時:2009/07/12 08:01

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