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辞書「大辞林」によると「あられる」は、「ある」「いる」の尊敬語であると説明されています。
http://www.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%82%89% …

私はこれまで「あられる」は「ある」の尊敬語であると思っていて、「いる」の尊敬語は「おられる」だとばかり思っていました。しかしこの辞書の説明によると、例えば「恩師は横浜にあられる」は「恩師は横浜にいる」の尊敬語だということになりそうですが、それでいいのでしょうか。
私はこれまでそのようなときは「恩師は横浜におられる」としてきましたが、それはどうなのでしょうか。
いろいろ考えているうちに混乱してまいりましたのでご説明の程、よろしくお願い申し上げます。

A 回答 (10件)

次の観点から判断しましょう。


無生物主語~ある…存在動詞
生物主語~いる…存在動詞
生物主語~ある…所有動詞


1.無生物主語なら「ある」は存在文になる。
中華街は横浜にある。
この場合無生物主語なので話題の敬語は不可。

2.生物主語でも無生物与格なら「ある」は所有文になる。
恩師は横浜にあられる。
(主語)(場所格)(×所有述語)
  ↓               …「いる」で存在文に変換
恩師は横浜にいらせらる。
(主語)(場所格)(○存在述語)

3生物主語でも述部が「である」なら同定(包摂)文になる。
恩師は有名人であられる。
恩師は当90歳であられる。
恩師はご健勝であられる。

4.今日的敬語表現へ
中華街は横浜にあります/ございます。(対人敬語)
恩師は横浜においでになる/いらっしゃる/お住まいになる/住まいなさる。
恩師は有名人です/でおいでになる/でござらっしゃる/でございます。
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この回答へのお礼

本格的なご回答、ありがとうございました。文法に関する専門用語についてを別途調べさせていただき、ようやく理解できました。
どうやらこの角度からの分析が有効なようですね。これですべての疑念を明確に晴らすことができたような気がします。

お礼日時:2014/03/30 09:53

くどいようで恐縮です、面白いので自分なりに整理してみました。


「ある」は存在を表す言葉ですね。
そこに石がある、動かせば、そこには無くなりますが、石自体の存在は変わりませんね、否定できません、否定しても意味がありません、存在の事実は何も変わりません。
人の地位、身分にあてはめたら?、課長・部長は紙切れ1枚ですね、社長・どっかの国の第一書記、失脚がありますね。
恩師はどうでしょう、過去の事実(変えようが無い)のみによって決まり、将来何があっても左遷や失脚なんてあり得ません。
でも恩師とは先生だった、先生になる選択は本人の選択ですね、親のいいままレールに乗って・・・、でも強い意志があれば選択しない、選択枝はあった、出生は本人が選択できません。
水戸光圀公にあらせられる・・・・。
御三家に生まれた、選択しない選択枝も無かった?。
こんな風に考えたいと思っています。
あらせられる、と言われる、尊敬に値する地位・身分・・・、はあった・あるのです、本人の選択によるものでも無ければ、他人の評価でも無い、もともとその人に存在したのだから「ある」。
ただ、身分や地位については、例 総理大臣である、総理大臣でいる(ずいぶん肩身が狭そうですね)。
でも、尊敬語で表現すると、大臣でいらっしゃいます、大臣であらしゃいます、は普通使いません。
やはりお公家さんの言葉かなと思います。
地位、身分に付いては、あられますもあり得るのでは(抽象的なため本人がそこに出向く必要がない、言い換えれば本人が持っている、本人と共に存在している?)、現実の居場所については、人の場合「ある」は違和感を感じます。
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この回答へのお礼

新たな角度からのご回答、ありがとうございました。
ただしお言葉ではありますが、「大臣でいらっしゃいます」ならよく使っていますよ。少なくとも私の周辺では。さすがに「大臣であらっしゃいます」とは言いませんけれどもね。

お礼日時:2014/03/30 21:48

#4です。



1.
>ご回答の(ア)にある「あなたには恩師がすでにいないとのことですが、わたしには、恩師という存在がまだいる」については、私にとっては難しい概念なのでしょうか、正直申していまひとつピンと来ていません。

そうですか。
まあ、例が悪かったのかもしれません。
他の例を挙げてみましょう。
「彼には妹がいる」
「彼には妹がある」
後者の場合、一個人としの妹、ではなく、「妹というもの」がいる、という意味になるでしょう。
これと同じです。
【そういう関係性の人物がいる】のようなニュアンス。

2.
>cの「今、恩師は横浜にあられる」と「は!ただいま到着した使者によりますと、信長様は、今、本能寺にあられます」については、いずれも「おられる」に置き換えても違和感を覚えませんので。

これも例が悪かったかもしれませんが、あくまで c について述べたものです。
大辞泉の下記説明を再度ご確認いただきたいと思います。
【5 (その存在を客観的、抽象的なものとして捉え)人が存在する。居る。「昔々、おじいさんとおばあさんが―・りました」「異を唱える人も―・る」】
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/7643/m1u/%E …
この解説が重要なのは、
「ある」が「(人が)居る」という意味になるのは、「(その存在を客観的、抽象的なものとして捉え)」た場合だと言っている点です。
逆に言うと、
「(その存在を客観的、抽象的なものとして捉え)」た場合には、「ある」が「(人が)居る」という意味になる、ということです。
たしかに、古めかしい表現になる場合が多いかもしれませんが、「ある」は、「いる」とは異なるニュアンスで「人が居る」という状態を表すことができる、という本質をご理解いただきたかったわけです。
上記辞書の例文で言えば、
「昔々、おじいさんとおばあさんがありました」「異を唱える人もある」
と、
「昔々、おじいさんとおばあさんがいました」「異を唱える人もいる」
ではニュアンスが異なる、ということ。
後者が普通に使われるかもしれませんが、前者のように言うほうが適切である場合がたしかにあります。
明智光秀は「敵は本能寺にあり!」と叫びました。(実際にそう叫んだかどうかはおきますが)
これは、「敵がいる場所は本能寺だ!」という意味です。
「敵は本能寺にいる(ぞ)!」の場合は、「敵は本能寺という場所にいる」という意味。
明らかに発言の意図が異なっています。
この微妙な違いは大事にしたい、とわたしは思います。
生物の場合には、一律に「いる」で表現すべき、というのは、日本語の奥深さをむざむざ縮めてしまうことになるでしょう。
使われる機会が希少な表現であることと、使うことができない表現を一緒にせず、分けて解釈する必要があるように思います。

3.
以上の見解に基づき、ご質問文に対して端的に申し上げます。
>、例えば「恩師は横浜にあられる」は「恩師は横浜にいる」の尊敬語だということになりそうですが、それでいいのでしょうか。

シチュエーションによって、そのほうが適切なことがあるので、正しい、と言えます。

>私はこれまでそのようなときは「恩師は横浜におられる」としてきましたが、それはどうなのでしょうか。

シチュエーションによって、そのほうが適切なことがあるので、これも正しい、と言えます。
いずれの場合も、どのような場面で使われるのか、ということに留意なさると良いわけですが、この点に言及なさっている回答がほとんど無いのは、残念ですね。
      
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございました。
シチュエーションの考慮は確かに大切なことですね。貴重なご意見、参考にさせていただきます。

お礼日時:2014/03/30 14:34

「あられる」尊敬語の中でも、特別?。


成り上がることができない、持って生まれた高い身分の人に対して使用?。
あらしゃいます、なんて言葉は、天皇陛下に対してくらいかな?。
和歌山の一部では、人も猫も下駄、も「ある」らしいですね。
尊敬語があられる、なら「ある」も公家言葉の名残かも・・・・・。
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この回答へのお礼

「あられる」は、確かにそのような感じがする言葉ですね。
私がそれを最後に聞いたのは、ある式典で司会者が「○○先生は××の創始者であられます」という紹介をしたときです(もう30年以上も前のことです)。もちろん古文などを別にすれば、ということですけれどもね。

お礼日時:2014/03/30 12:49

文法を考える場合、感覚的にそう言うかどうかがまず先で、それを理屈として裏付けるのが文法と考えた方がいいでしょう。


だから昔は正しかったけど今はそうではないということが起こるわけです。また方言というものも間違いとは言えないでしょう。それはただの地域性であって文法的な別の変化・進化に過ぎないのです(変化にも法則は在ります)。
今上代とか平安時代の正しい文法を使っても通じませんし場合によっては滑稽です。
でも年配の人が昔風の文法を使ってもそれはわかっておくべきとも思います。時として滑稽な感じもしますけれどそれも味ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ごもっともなご意見だと思います。私も感覚的に違和感を覚えましたが、その裏付けとなる文法説明を求めていたことになるのでしょうね。
今後もそのつもりで対処したいと思います。

お礼日時:2014/03/30 12:38

文法的に正しいということと、今の用法として正しいことは別です。

「どこそこに」に対しては「おられる」・「いらっしゃる」が正しい用法です。「あられる」は、例えば「殿下はご聡明であられる」などがありますが、これも今や一般的ではない古めいた表現ですね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
正直申してそれこそが私の率直な感想です。

お礼日時:2014/03/30 09:33

たしかに「ある」は「いる」という意味にもなるのですが、そこには一定の条件が課せられています。


その条件とは何かと言えば2つある、と思います。

(ア)
まず一つ目の条件です。
a.
大辞林の場合、
2-(1)
(誰が存在するかが問題の場合)いる。 「昔々,ある所におじいさんとおばあさんが-・りました」 「今は昔,竹取の翁といふもの-・りけり/竹取」
という用法説明が、それに該当するものと思います。
http://www.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%82%8B

b.
大辞泉では、
5 (その存在を客観的、抽象的なものとして捉え)人が存在する。居る。「昔々、おじいさんとおばあさんが―・りました」「異を唱える人も―・る」
というのが、それに当たるでしょう。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/7643/m1u/%E …

c.
両辞書の説明を総合すると、「恩師は横浜にあられる」の意味は、次のように解釈することができるかと思います。

この文は、恩師を一個人としてではなく、「恩師という存在」という意味で捉えているのでしょう。
よって、
「あなたの恩師は今、どちらにお住まいですか」
「わたしの恩師は横浜にあられる」
という会話は、基本的に成立しない。
あくまで、
「わたしの恩師は横浜におられる(いらっしゃる)」
が正しい。
しかし、
「わたしの恩師は、みな亡くなった。ふと、寂しさに襲われることがある」
「そうでしたか。わたしの恩師は横浜にあられる」
という会話は可だと思います。
つまり、
「あなたには恩師がすでにいないとのことですが、わたしには、恩師という存在がまだいる」といったニュアンスです。

(イ)
次の条件は、
a.
大辞林の場合、
2-(3)(その人が存在すること自体は自明のことで,場所が問題である場合)人がある場所に滞在する。そこに暮らす。 「当時彼はパリに-・って絵の勉強をしていた」 「彼女は今病の床に-・る」
という用法解説です。

b.
大辞泉では、
7 ある場所に身を置く。また、特定の位置・状態にいる。「現場に―・って指揮に当たる」「長年、会長の職に―・った」「病床に―・る」「逆境に―・ってもくじけない」
というのが、それに該当するでしょう。

c.
これらの場合、「恩師は横浜にあられる」は、恩師が「いるかどうか」ではなく、つまり、存在していること自体ではなく、「所在の場」がクローズアップされています。
「旅先の恩師から手紙が来たそうだね。今、どの辺かな」
「今、恩師は横浜にあられる」
のような会話が想定できるように思います。
または、
「どこを探してもおらぬ。いったい、信長様はどこじゃ」
「は!ただいま到着した使者によりますと、信長様は、今、本能寺にあられます」
など。

どちらの場合も、「おられます」に言い換えると違和感が残るでしょう。
ただ、(ア)(イ)どちらの場合も、一個人として明確な扱いをしていない分、個を失って抽象化された存在となっており、そのことから結果的に、ある意味で神格化されているかのような印象を与える表現になるのだろう、と推測します。
逆に言うと、その効果を狙って、あえて(つまり、多少不自然でも)この表現を使う、といった場合も案外ありそうです。
   
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この回答へのお礼

深くお考えいただき、ありがとうございました。
ご回答の(ア)にある「あなたには恩師がすでにいないとのことですが、わたしには、恩師という存在がまだいる」については、私にとっては難しい概念なのでしょうか、正直申していまひとつピンと来ていません。
(イ)cの後半にある「どちらの場合も、『おられます』に言い換えると違和感が残るでしょう」というのは、aとbの使用例のことでしょうね。cの「今、恩師は横浜にあられる」と「は!ただいま到着した使者によりますと、信長様は、今、本能寺にあられます」については、いずれも「おられる」に置き換えても違和感を覚えませんので。

お礼日時:2014/03/30 09:26

リンクにあった用法


1.子供がいる→子供があられる 
2.生物学者である→生物学者であられる

2はそうだろうなと思いますが1はどうか。実際今でも使うのでしょうか。
それと質問の「横浜にいる」を「横浜にあられる」はありうるのでしょうか。

広辞苑によると
【居る】〈動くものが一つの場所に存在する意。
現代語では動くと意識したものが存在する意で用い、意識しないものが存在する意の「ある」と使い分ける〉
とありましたので古語辞典「あり」を見ると
〈生物無生物がそこに存在する、その場に居合わせる、住む生活する暮らす〉などの意味があると書いてあります。

つまり居るの意味で在るを使うのは古語的表現なので今はそんなの使わないという感覚なのだと思います。
ですので「恩師は横浜にあられる」は誤りではないけれどもあまり使わなくなった表現なのでは。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
私もご回答にあるような方向であれこれ考えているうちに、すっかりわけがわからなくなってしまい、質問させていただいた次第です。
確かに「居るの意味で在るを使うのは古語的表現」という感覚もありましたので、そのように言っていただいて少し安心しました。
それにしても「あられる」は、最近あまり耳にしなくなった感じですね。

お礼日時:2014/03/30 09:03

あられる、ある、いる、の尊敬語でかなり改まった言い方と、どこでも出ますね。


恩師は横浜にあられる。少し大げさだと思います。私的には「恩師は横浜におられる」
「恩師は横浜にいらっしゃる。」
の方が自然だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
つまり私の周囲ではあまり使っていないだけで、文法的には正しい表現ということなのでしょうか。

お礼日時:2014/03/29 22:31

「あられる」ですか……。



「間違い」ではありませんが、少し古くさい気がしますが……(自信なし)。当方が教科書がわりにしている『敬語再入門』も「あられる」にはふれていません。
「(~して)いらっしゃる」が一般的では。
「(~して)おられる」は間違いではありませんが、異和感があるので自分では使いません。このことをちゃんと説明するのはかなりメンドーです。


下記の質問に答えたことを再掲します。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

まず結論だけ書きます。
「~しておられる」も「~していらっしゃる」もほぼ同じ意味で使われます。
どちらも「間違い」ではありません。
個人的には「~していらっしゃる」を使い、「~しておられる」は使いません。使う理由が見当たらないからです。
「~しておられる」に異和感をもつ人は多いようですが、下記のように辞書も認めている形です(辞書の記述にはいろいろ疑問も感じますが……)。

詳しくは下記をご参照ください。かなり長い話です。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2801. …
以下は一部の抜粋(重言)。


本動詞の「おる」のほかに補助動詞の「~ておられる」もあるがほぼ同じだろう。
辞書の引用は末尾に。
『大辞泉』と『大辞林』の記述はほぼ同じだが、どちらの記述にも不満が残る。
『大辞林』には〈(イ)「おります」で丁寧な言い方、「おられる(おられます)」で尊敬の言い方として用いられる。〉と明記されている。この点に関しては『大辞泉』も同様。これに従えば、「そういうかたもおられます」「……という先生がおられます」などの表現は「間違い」ではない。ただし、この書き方では「尊敬の言い方」と「尊敬語」がどう違うのかは不明。
これが一応の結論。

(略)


敬語の問題は、菊地本に従うのがイチバンと考えているが、困ったことにこの「鬼っ子」に関しては、『敬語再入門』の記述も煮え切らない。P.158~159に〈「おられる」──適否の断じにくい敬語(2)〉という項目がある。下記のような文章で始まる。
================引用開始
「申される」とはまた違った意味で、正誤の断じにくい敬語です。
これも規範的には、「おる」は謙譲語IIなので、それに尊敬語「れる」を付けた「おられる」は誤り、ということになるはずです。しかも歴史的にも(前項の「申される」の場合と違って)、「おられる」を擁護する余地はありません。
================引用終了

このあと、「おられる」が使われる理由がいろいろ書かれている。詳しいことは原本を読んでほしい。正確には全文を引用するしかないのだが、要点だけを箇条書きにする。
・地域差/個人差がある
「おる」が謙譲語だと思わない人は、尊敬語として「おられる」を使うことに抵抗がない。
・「おられる」全体でひとつの尊敬語と考える人もいる
背景には「いる」をレル敬語の「いられる」にしにくいことがある。
・使う人が多くなれば、「本来」がどうであっても新しい言い方になる
そうなりきらないのは、抵抗を感じる人も多いため。
いろいろ書いて、結びは下記のとおり。
================引用開始
以上のように「おられる」はすでに誤りともいえないほどではありますが、本来は誤りなのだとか、使わない人は使わないのだということも、知っておいてよいでしょう。
================引用終了

『敬語再入門』の巻末には「敬語ミニ辞典」がついている。ここでは、「おる」・「……ておる」は「いる」・「……ている」の謙譲語II、としている。最後に「個人差・方言差」があるとはしているが。
「敬語ミニ辞典」の「おられる」の記述を引用する。
================引用開始
おられる ・ ……ておられる 「いる」・「……ている」意の尊敬語として使うことがあるが、「おる」は本来謙譲語なので、規範的には問題がある。「いらっしゃる・おいでになる」を使えば問題ない。ただし、場面・文体によっては「いらっしゃる」はなじまない場合があり、「おられる」はそのかわりに使われる面もあるようである。
================引用終了

やはり煮え切らない観がある。明言はしていないが、著者自身は使わないだろうな。
当方も、自分では使わない。使う理由がないから。「おる」が謙譲語なんだから、「おられる」には強い異和感がある。辞書があれほどはっきりと認めている以上、「誤用」などと言う気はないが。
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この回答へのお礼

詳しいご説明、ありがとうございました。
「おられる」については私の周囲ではよく使っていることでもあり、このご説明でいいと思いますが、「あられる」についてはどうなのでしょうか。今回あらためて辞書を見たのですが、内心違和感を感じているのが正直なところです。

お礼日時:2014/03/29 22:24

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