プロが教えるわが家の防犯対策術!

よく「スポーツするのが好き。」って言うと、真っ先に「運動好き。」を想像します。

他にも「スポーツで体力強化。」と言ったりする様に

「スポーツ」=「身体運動」

って意味で使われる意味が多いので、身体運動がスポーツの絶対条件と思っていました。

しかしウィキペディアの「スポーツ」の近代スポーツの説明を読むと

「sportとは、統括組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新をよしとする競技を第一に意味するようになった。これが現在も行われている近代スポーツである。」

と書かれてあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9D% …

また最近では、チェス等のボードゲームがオリンピックの正式種目を目指していたり、昔の夏季オリンピックにおいて、芸術競技(絵画・彫刻・文学・建築・音楽)が実施されたことがあったそうです。

こうして考えると、日本の場合「スポーツの定義=身体運動」と言う考えが強いですが、近代スポーツやオリンピックの正式種目の定義だと、あくまで統括組織よって整備されたルールに則って他者と数字や記録を競争する事が最も重要であって、欧米(特に英語圏)においてスポーツの条件って身体運動自体はあまり重要ではないって事ですか?

A 回答 (2件)

欧米での「スポーツ」は必ずしも身体運動が必要条件ではありません。



ではなぜ日本で「スポーツ」と言う言葉が、=運動、と連想されるようになったかというと、近代教育の受容に原因があります。

日本では「スポーツ」を近代的な教育の中の身体育成として導入したからです。たとえば
・野球は1871年(明治4年)東京開成学校予科で教えたのが始まり
・1873年に東京築地の海軍兵学寮でイギリス軍中佐が教えたのが始まり(諸説あり)
・1878年に文部省の体操伝習所でアメリカのリーランドが教えたのが始まり(諸説あり)
などのように、日本におけるスポーツは富国強兵を目指す国家政策のひとつとして、学校で教え広まっていったものがほとんどなのです。

そのため、スポーツと運動が一体と連想されるようになったのです。

しかし、特にイギリスの「スポーツマンシップ」という言葉を考えれば、スポーツという言葉はもう少し奥が深く、体だけでなく心も養うために行うものである、といえます。
その心を養う、という点に注目したときに重要なのが「整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新をよしとする競技」ということであり、必ずしも身体を酷使するものである必要はない、といことになります。

この点において本来のスポーツと日本の「道」は非常に近い概念であり、それは騎士道精神と武士道精神の類似にも似たところがあります。

日本では、心の涵養を養うには「道」が良いとされてきました。柔道・剣道のみならず茶道や花道などでも涵養を養うことができるとされています。ただ、団体行動としての「スポーツマンシップ」に似たものはないのかもしれません。

ですので、明治期以降、個人的な涵養は「道」、集団的な涵養は「スポーツ」ということに分かれ、個人的なスポーツはむしろ「道」的な概念で見られる反面、集団で行う身体運動は「スポーツ」という括りになっていったのではないでしょうか。

もちろん、言葉としての定義はSportにあわせる必要がありますので、字義としてはSportもスポーツも同じであるといえます。ただ、どれだけの日本人がスポーツ=運動、以上の認識を持っているかは分かりません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/30 20:00

日本の解釈と大差ないと思います。


http://en.wikipedia.org/wiki/Sport

この回答への補足

英語版のウィキペディアには、チェスが写真付きで紹介されてますね。

やはり「スポーツ」はボードゲームも含まれているんですね。

って事はやはりスポーツの条件に身体運動は無関係って事ですかね?

補足日時:2014/10/19 20:45
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/30 19:59

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!