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起源は?


よろしくお願いします。

A 回答 (15件中1~10件)

昔は池や田んぼの近くに行くと、ガ-ガ-ゲロ、ゲロ、とカエルの声が賑やかでしたが、もう何年も聞いていない、ように思われます。

カエルが鳴くのは、発情した♂が♀に対する呼びかけ、自己主張、のようですが。夜中に遠くから、ウオ~ン・ウオ~ン。と響く牛ガエルの声には、わび、わびしさを感じるものがあります。
言語の起源は、発生、発音、それに、♀への思い?が付随しやがて、他の思いに拡散してゆく。へびに噛みつかれ、飲み込まれようとする小さなカエルが、ギャ-ヒ-ヒ-とまるで人間の悲鳴のような声を出しますが、♀への思い、ではなく、精、間違い、生、への執着=死への恐怖、のような思い=行動 なのでしょう。
生命には、環境と共に、いろんな言の葉、が付随してゆくものでしょう。
エスペラント語とは別のむ世界共通語をつくるべきだ、英語を共通語に当てようなどは、きちがいじみたことだ。言葉を理で考えて作り、その言葉を組み立てて、新たな理を作る、漢字言語に比べたら、英語は発声言語であり、英語を学ぶとは、馴れる、事でしかない。とある通訳が言っていましたが。たしかに西洋に科学の進歩が起きたのは、言語文化の知恵のなさへの反動として、記号数学が進化したことにありそうだ。
しかし世界共通語は、手話、手話だけの、世界統一、であり。手話、手話記号、に当てる、言葉は統一しない、
各国、各民族の独自性が失われないようにするべきでは。と言った事があります。

この回答への補足

>「ガ-ガ-ゲロ、ゲロ、とカエルの声」
>「夜中に遠くから、ウオ~ン・ウオ~ン。」

全部、判っちゃう訳ですね。
(判るように、成ろうとして来ました?)

補足日時:2015/01/20 01:16
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この回答へのお礼

hannya-g|様、ご回答ありがとうございます。


>「生命には、環境と共に、いろんな言の葉、が付随してゆくものでしょう。」

「0の発見」とかは、どうですか?


>「エスペラント語とは別のむ世界共通語をつくるべきだ、英語を共通語に当てようなどは、きちがいじみたことだ。言葉を理で考えて作り、その言葉を組み立てて、新たな理を作る、漢字言語に比べたら、英語は発声言語であり、英語を学ぶとは、馴れる、事でしかない。とある通訳が言っていましたが。たしかに西洋に科学の進歩が起きたのは、言語文化の知恵のなさへの反動として、記号数学が進化したことにありそうだ。
しかし世界共通語は、手話、手話だけの、世界統一、であり。手話、手話記号、に当てる、言葉は統一しない、
各国、各民族の独自性が失われないようにするべきでは。と言った事があります。」


「世界共通語」、、、「hentai」とか?


「通訳の不要な世界」って、どうなんでしょうね。
現状「ツーリズムのガイドさん」をも必要としていると思うんですけど。

お礼日時:2015/01/20 01:02

 □ 言語とは、予め動機づけられた信号(声、文字)を介して、発信者と受信者の脳内に類似のイメージを想起する事だ。


 ☆ これは 循環論法だと思います。

 なぜ《話し手の言った言葉が 聞き手の中で 話し手の思った内容と同じような意味として呼び起こされる》のか?

 それは 《社会生活の中で 慣れてくる》からである。《言葉の使い方が あらかじめ社会的に動機づけられる》からだと。

 なぜ 言語生活が習慣化されうるのか?

 互いに脳内のイメージが 類似しているように摺り寄せをおこない合って行くから。
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この回答へのお礼

B様、ありがとうございます。


>「互いに脳内のイメージが 類似しているように摺り寄せをおこない合って行くから。」

最近、あるところで「非言語コミュニケーション(の重要性)」というのも、
寡聞にして伺ったところです。


・・・専門を志す人の言は、一目置くべし。

お礼日時:2015/01/20 00:52

 くりなるさん お邪魔します。




 〇 簡単に言うなら、言語の内側でしか生まれない思考や論理を、言語起源論はそれ自体に適用して語ろうとするからだ。
 ☆ わたしは 言語の起源については どうでもよいと思っています。

 その探究にも一理あると考えます。

 この上の命題でマチガイであるのは 《言語の内側でしか生まれない思考や論理》であっても その――あくまで言葉を用いておこなうところの――自己表現には その言語に内在する範囲内の論理がみづからを超えた思考内容を可能にするということ このことを見落としていることです。


 言語は 事実に対応したモノゴトとそれからは離れた想像上のモノゴトとを 言葉によって表わし得ます。
 事実と想像とが 人間の現実だということです。

 ところが じつはこの事実や想像をも超えたところの世界を 言葉によって 絵画いて見せることも できます。
 それは 神ですが そして神は 事実と想像とを超えた場であるナゾですが それをも《事実と想像との現実にのみ対応する言葉》が指し示すことがあります。

 つまりは 神という言葉は その神という内実と対応しているとは限りません。神は 事実でも想像でもありません。(そういう用法はありますが それは お遊びとしての神のことです)。

 つまりは 神という言葉はけっきょく 神にとっては代理の言葉です。仮りに神を指し示すために想定しただけの言葉です。つまり ふつうの現実を超えたところを何ものかをも 代理の言葉(依り代・補助線)を得て(または そのように想定して)指し示すことが出来るのです。

 この神が 霊としてわれわれの存在にやどるからだと言ってしまえば これまた議論を最初から起こさねばならなくなりますが いづれにしましても 《ことば》の役割りないしそのチカラを勝手に狭いところに押し込んでしまっていては ダメでしょう。
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この回答へのお礼

B様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。

(他回答者に「触発」されてのご回答も、勿論、結構です)



>「言語は 事実に対応したモノゴトとそれからは離れた想像上のモノゴトとを 言葉によって表わし得ます。
 事実と想像とが 人間の現実だということです。

 ところが じつはこの事実や想像をも超えたところの世界を 言葉によって 絵画いて見せることも できます。」


なるほど。「読み書き」って、改めて、重要なんだな、と。

お礼日時:2015/01/20 00:46

言語とは、予め動機づけられた信号(声、文字)を介して、


発信者と受信者の脳内に類似のイメージを想起する事だ。

上記の定義において、既に「起源」についての指摘が先入
している。
たとえば、一般に動物の鳴き声は信号として特定の行動を
導きはしても、それは条件反射的な場合が多く、「脳内に
類似のイメージを想起する」というものではない。
その結果として、言語の特徴の1つである“組合せ”、“再
構成”といった現象は見られない(類人猿や一部の社会的
動物を除き)。
そのためには、1つの入力信号に対して反射的に1つの
反応をするのではなく、五感の相関した経験の蓄積により
脳内のニューロネットを発達させ、新たな情報性の高い
刺激(光や音)において五感の相関した経験を励起させる
(=そこに行った時に起きる、より生理的刺激の予測=空間
的広がり)事が必要だ。
それによってこそ様々な性質の複合した“対象”として把握
し、その「様々」から抽出(抽象化)して単語化し、再構成
(文章化)する事が可能になるのだ。
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この回答へのお礼

psytex様、ご回答ありがとうございます。


「理解」って、understand

お礼日時:2015/01/20 00:38

言語の起源といえるほど壮大な話は知りませんが、


「メイン」を「メーン」と表記するようになったことに
私は未だに慣れません。
日常で、「メーン」と言ったり、読んだりしていますか?
こういうのはどこの誰が決めているのか疑問です。
「マネジャー」とか。
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この回答へのお礼

kazamidori365様、ご回答ありがとうございます。


>「「メイン」を「メーン」と表記するようになった」

「メリケン粉」ですか。


>「日常で、「メーン」と言ったり、読んだりしていますか?」

寡聞なもので、初めてです。



>「こういうのはどこの誰が決めているのか疑問です。
「マネジャー」とか。」

「マネジャー」は、「上から下へ」で、例えば法律で決まったら、ほかの表現(マネージャー)のほうが亜流、ということになるのでしょう。

お礼日時:2015/01/18 03:45

補足します、



互盛央の「言語起源論の系譜」を評して前田英樹は、

「言語の起源を問うという思考はそれ自身の中に病根を持っている。けれども、この問いは人間中心主義の西欧文明では、ほとんど避けて通れない難問として付いて回る。言語の起源という問いがニセの問いに他ならないことをソシュールほど明確に指摘した言語学者はいない。ソシュールその人は言語の始原を求めてさかのぼった結果、言語そのものを不可能にするところに到達した。晩年のソシュールは言語というのは存在しないのではないかという懐疑に落ち込み、沈黙するに至り、書くことを断念するに至った。著者の互盛央のしようとしたことはソシュールの謎の沈黙を追跡することにあったように思われる。言語の起源を問うことが、なぜニセの問いなのか? 簡単に言うなら、言語の内側でしか生まれない思考や論理を、言語起源論はそれ自体に適用して語ろうとするからだ。太古の闇にまでさかのぼっても、人は昨日話したことを話したことでしかありえない。人間は言語の発明者ではない。神、自然、理性、民族精神、それらのどれをとって言語の発明者に仕立て上げようとも、それらを語る言葉は言語それ自体の内側にあり、昨日話されていたがゆえに今日も話しているということだけである。互盛央がこの本でやりたかったことはソシュールが言語と正面から格闘して、ついに沈黙せざるを得なかったことを確認するためであったに違いない」

「人間は言語の発明者ではない」ということは、人間であることがそもそも言語なんだから、つまり人間に先天的に備わったものだから、言語の起源を問うことは、ボロメオの輪、ウロボロスの蛇、であって、循環に落ち込むことが避けられない、ということ。
だから言語の起源を問うことは人間として避けがたいけれども、しかしニセの問いだということです。

日本語にも、その起源はありません。
太安万侶や本居宣長がやったことは「ヤマト言葉」の「発見」ではなく、「発明」だったのです。
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この回答へのお礼

urigadai2013様、ありがとうございます。


>「どれをとって言語の発明者に仕立て上げようとも、それらを語る言葉は言語それ自体の内側にあり、昨日話されていたがゆえに今日も話しているということだけである。」
>「太安万侶や本居宣長がやったことは「ヤマト言葉」の「発見」ではなく、「発明」だったのです。」

判る気がします。
E・H・カーの『歴史とは何か』に通じるものを感じます。

お礼日時:2015/01/18 03:39

 ソシュールの《言語記号の恣意性》説は ただの推測によるものであって 実際とは ずれています。

マチガイです。それを例証します。
 したがって もし証明し得たならば 言語が――丸山圭三郎の説としての――《言分け》による一挙なる生成に成るという説も くづれます。


 【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。】 ~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8693037.html

 ソシュールの《言語記号の恣意性》説については まだ或る程度の《定説性》が残っています。これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。

 すなわち この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 
  《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。

  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール・といより丸山圭三郎の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説です。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。

 けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

B様、ご回答ありがとうございます。


>「オノマトペ」

これは、実用的に使えるようですね。

お礼日時:2015/01/18 03:32

 《ことばの生成》をめぐる随想をかかげます。



 【Q:われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。】 ~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8505592.html


 われなるミクロコスモスと世界なるマクロモスモスとは 同時に生成する。   
 この仮説を問います。例証として コトバの生成について想像した仮説なるタトエをかかげます。

        *

 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

 と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずである。

  HA.....SI。

 というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。これは 音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。

  HASI . / はし。

 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

 ――愛(は)し。

 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

 と作って これを添えれば

   うる‐はし。(心愛し・麗しい)

 とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。


 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。
 つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。

 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。
 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり

   やまと(山‐処)‐は うるはし。
 〔ここで ジン( Sinn )が――プロト‐ジンが――生まれた。ジンを帯びる言葉の内部は 《はし。うるはし》である。外部が 見ている光景としての《やまと‐は》である〕。
 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。

   やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

 と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて

  やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。

      *

 すなわち 問いのねらいとしては うたのヌシとその心と周りの山々なる環境とは 言葉の生成をめぐって 同時発生である。
 
 人間の認識が先行するというもの(そういう一面のみ)ではなく また 環境が人間をつくるといった一面のみではない。基本は すべての存在や現象が 同時一体である。〔わづかにわが内なる心のうごきが その世界の静けさを突き破って 言葉を生成した〕。

 ものごとは それとして(そう言ってよければ)量子現象として励起されるし 存在は・つまり特に人間は 知性(ないし精神 つまりは 記憶・知解・意志の三つの行為能力の一体)をともなってそのユラギが励起されるようになる。
 
 ユラギは もともと 世界すべてにわたって 同時一体である。
 どうなんでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

B様、ご回答ありがとうございます。


やはり「環境」が、大事なんですねえ。
日本でも北国では、「口をなるべく開けないで済むように」ということが、あるようです?

お礼日時:2015/01/18 03:26

 こんにちは。




 互盛央は 最近の著『言語起源論の系譜』において 必ずしも《起源》としてではないが その〔同じような意味だが〕《起こり》には あたかも神なる言葉からの射影としての発生が考えられるのではないかという含みを持たせたと見ます。

 ところが 《ことば》に超越論的実体はない。と言いたい。その応酬を披露します。
 
 互盛央が書いている。
 上掲書の《第5章 起源をめぐる闘争――乱立する言語起源論の時代:18世紀 (pp.234-235)》

 △ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だが A.スミスのように そしてコンディヤックやテュルゴのように人間に《交流》(*1)を認めるなら その帰結は あらゆる国民が立ちうる王の位置には現実のいかなる国民も立ちえない というものになること(*2)――ルソーが《一般意志》を通して明らかにしたのはそのことではなかったか。
 
 それは 主権者とは《それ( es )》であると同時に《神( Gott )》でもあるのでなければならないということだろう。むろん これは矛盾している。だが 矛盾していようがいまいが それこそがやがてフランス革命が扉を開ける人民主権に基づく《近代》の民主主義というものだ(*3)。

 フーコーがこんなふうに表現したように――《私たちの近代性の始まりは 〔・・・〕人間と呼ばれる経験的‐超越論的二重体が作り出された日にこそ位置づけられる》(*4)。



 ロマン主義への道
 ひとたび社会が成立した途端 経験的領域にある者には立ちえないはずの王の位置に何かが立っているように見える。それは 《経験的‐超越論的二重体》の宿命である。だが それが絶対王や皇帝という姿をとったとき 国民の権利を保護するはずの国家が逆に国民の自由を脅かすという逆説が現われ 国家の起源で作動していたはずの《交流》は軽視される(*5)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ところが 《ことば》は なるほど《あやまちうるスサノヲ人間語 ‐ あやまち得ない〔と見なされた〕アマテラス普遍語》なる複合構造から成ることはあっても この後者の《アマテラス普遍〔科学および人格〕語》が どれだけ間違っても《超越論的なるもの――つまり要するに〈神〉――》ではあり得ない。と知らなければならない。

 それどころが 普遍性を捉えたと誇る科学語もそしてまた倫理規範とされる人格語であっても これらアマテラス語は かなしいかな人間の用いる言葉なのであって いつでも・どこでもあやまち得ると言わねばならない。

 というよりは 或る程度・またかなりの程度において普遍性を探究した結果をもろもろのアマテラス科学語は反映していると思われるのだが いかんせん人間がこれを用いるときには 一般に政治的な思わくがはたらいて 都合のわるい部分は隠すとは言わなくとも触れることなく 都合のよい部分だけを公開するというクセが出て来る。
 
 つまり一般に アマテラス普遍語も じっさいには官僚が司ごとに省益を顧慮しまた学者がその政治的信条にもとづき駆使する結果 諸アマテラス方言として現われている。

 このアマテラス普遍語を 《超越論的なるもの》と見なすことは あり得ない。

 ただし 社会が国家という《スサノヲ市民社会 ‐ アマテラス公民圏》といった二階建ての家なる形態を取ったときには やがて アマテラス公民の中からさらにその抽象体として いわゆる象徴:アマテラシテが生まれるべくしてのごとく現われた。
 すなわち

 《スサノヲシャフト(*6) ‐ アマテラストゥーム(*7)(アマテラス公民(政治家・官僚等) ‐ アマテラシテ)》なる連関制

 となった。このアマテラシテ( l'amatérasité; the amaterasity; das Amaterasität )が たとえ神であると人びとが見なした(つまり 現人神あるいは明つ神)としても それはあたかも神のごとくであるという単なるタトエでしかない。神本体の依り代である。という通念の仕組みである(*8)。
 よって

  《経験的 ‐ 超越論的二重体》

 なる捉え方には 現実性がないと千回言いたい。



 註
 *1:《交流》 commerce : 言語の起源あるいは起源の言語を認める・認めないにせよ また認めてそれがどうであるにせよ それとは別に人びとのあいだでふつうに《言葉をとおして話し合うという交通がおこなわれること》を言うらしい。

 *2:あらゆる国民が立ちうる王の位置には現実のいかなる国民も立ちえない というものになること: なぜなら つづく行論にあるように《三人称( es / il )》が 《非人称(たとえば Es regnet./ Il pleut.(天(あめ)降る)》である場合には 国民一般にとっては 《三人称=非人称に成る王》は同じ世界の住民ではないゆえであるらしい。

 *3:フランス革命が扉を開ける人民主権に基づく《近代》の民主主義: 上野修:『デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀 (講談社学術文庫)』 2011 p.53頁参照 とある。――そうかなぁ。単純すぎないか?

 *4:《私たちの近代性の・・・》: Foucault:Les Mots Et Les Choses Les mots et les choses: une archéologie des sciences humaines pp.329-330 『 言葉と物―人文科学の考古学』 p.338

 *5:・・軽視される: このあと《ルソーが『言語起源論』の最終章に記した一節に反映している》とつづく。

 *6:スサノヲシャフト: der Susanowoschaft

 *7:アマテラストゥーム: das Amaterasutum

 *8:アマテラシテ=象徴=国王:この国王を 《ひとたび社会が成立した途端 経験的領域にある者には立ちえないはずの王の位置に何かが立っているように見える》と明言したように《経験的領域にある者には立ちえないはずの王の位置》として・つまり《超越論的なるもの》として・つまり神として すでに著者・互盛央は 決まっている。
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この回答へのお礼

B様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。


>「《経験的 ‐ 超越論的二重体》

 なる捉え方には 現実性がないと千回言いたい。」


どうも、起源というより、
それは「up to date」されるものらしい、ですか。

お礼日時:2015/01/18 03:14

言語起源論というのが、いろいろな人によって唱えられている。


ヘルダーの「言語起源論」、ルソーの「言語起源論」、そして最近、互盛央が「言語起源論の系譜」という本を著し、古代ギリシャから中世を経て、近代までの「言語起源論」の各種の説を追跡しているけど、結局よく分からない、という。
動物の鳴き声が言語の起源という説、哺乳類が脳を持っているから、その脳の機能が言語だという説、チョムスキーが「デカルト派言語学」でいうように言語の文法は先天的・ア・プリオリで生まれつきのものという説、それに反対して文法は後天的、模倣によるものという説、また、言語は神が人間に与えたものという中世のユダヤ・キリスト教の説、ヨハネ福音書の第1章に「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」と言っている。

赤ん坊は2~3歳に誰が教えたのでもないのに、ちゃんと文法的に間違いのない言葉を話します。
ひじょうに不思議。
アメリカ人でも、日本で生まれれば日本語を話し、日本人でもアメリカで生まれれば、周囲の人たちが英語を喋っていれば、英語をちゃんと喋るようになります。
だから、言語は、そして文法は、生まれつき、先天的に有するというのも分かります。
それだったら、どうしてアメリカ人の子供でも日本で生まれ、周囲が日本語を喋っている環境だったら、日本語を覚えるのか、その説明がつかない。
アメリカ人の子供が生まれつき、英語の文法を持っていたら、日本で生まれても、周囲が日本語を喋っている環境でも、それとは無関係に英語を喋らなければならないが、そうなってはいない。
やはり周囲の環境が重要なファクターと考えざるを得ない。
だから文法は模倣によるもの。
しかし、言語も模倣かというと、そうとも言えない。
人間が生まれつき有するもの。
言語を持っていることが、人間と動物を分けた。
動物は鳴き声でコミニケーションできるけど、文法は持っていない。
文法を持っていなければ、言語とは言えない。
哺乳類はだいたい脳を持っているけど、脳を持っているから、言語を持っているともいえない。
脳を持っていることは必要条件だろうけど、逆は言えない、つまり人間が言語を持っているのは脳を持っているからだとは言えない。

言語学に革命をもたらしたソシュールに言わせると、言語は「差異の体系」であって、個々の語彙が集まって言語体系ができたわけではない。
たとえば、海を見て「ウミ」と名づけ、山を見て「ヤマ」と名づけ、そして名づけた語彙を集めて、言語体系を作ったのではない。
言語を言語というためには言語体系が、文法が、先行しなければならない。
そして言語体系の「切り分け」として個々の語彙が生まれた。
物を見て、一つ一つ名づけて、それを集積して言語体系を作ったのではない。
動物は言語体系・文法組織を持っていないから、言語を持っていない。
言語の代わりに鳴き声でコミニケーションしているにすぎない。
動物の鳴き声は、だから言語ではない。

そしてソシュールに言わせれば、言語の意味は「語と語とのネガティヴな差異から生じる」という。
個々の語彙は意味をもっていない。
私たちは辞書を引くと、個々の言葉の意味が説明されているのを見るけど、それは形式的な意味であって、実際の意味ではない。
言語の意味はコンテクストによって、コロコロ変わる。
つまり言葉の意味は周囲の状況次第なのだ。
そしてソシュールによれば、「言語は恣意的である」。
猫を指して「ネコ」という必然性はない、「サル」と言ってもいいし、「クマ」と言ってもいいし、ただ、習慣的に「ネコ」と呼んできたから、猫と「ネコ」が必然的に結び付けられているように錯覚しているだけ。

日本の国学者・本居宣長は「古事記伝」で、漢字の前に音声としての「ヤマト言葉」があったという。
平安時代から、我が国は中国から漢字を輸入し、それによって文字表記して来て、音声としての「ヤマト言葉」を抑圧してきた、だから今こそ、漢文を排して、「ヤマト言葉」の復権を図らねばならないといい、幕末に国学主情主義を唱え、それで「尊王攘夷」のイデオロギーを唱えた。
漢字表記の前に音声としての「ヤマト言葉」があったなんてのは、真っ赤なウソ。

昔、「古事記」の序文を書いた太安万侶は、稗田阿礼の口承で伝わっていた伝承を万葉仮名で書きとって「古事記」を著したという。
それも真っ赤なウソ。
ヤマト言葉というものは太安万侶が創作したもの、稗田阿礼も架空の人物、同じように本居宣長のいう「ヤマト言葉」も宣長が「古事記」の読みから創作したもの、最初っからあったものではない。
漢字の読みとしてヤマト言葉が作られたので、ヤマト言葉が先行したものではない。

私たちは言葉というと、音声を表記したものというけれども、そういう考えが登場するのは西欧では16世紀、日本では明治以降に過ぎない。
明治以前の日本では、話し言葉と書き言葉は別であり、書き言葉は漢文、平安時代から公的言語と言えば漢文であり、漢文は中国の言語表記、それを長く、江戸時代まで使ってきたので、文字は音声を表記したものではない。
このことは西欧でも同じで、公的言語と言えばラテン語であり、ラテン語はローマ帝国の言語、各国はそれとは別に自分たちの話し言葉があったので、やはり音声を表記したものが言語ではなかった。

19世紀のナショナリズムの台頭とともに、言文一致が唱えられ、話し言葉と書き言葉が一致せしめられ、その結果音声を表記したものが言語という言説が作られたもので、たかだかその考えは200年くらいしかさかのぼれない考え。
それ以前の長い人類の歴史からして、話し言葉と書き言葉が別々なのは当たり前だったのだ。
そして今の私たちは文学作品を「内面」の表現だという。
しかし、人間の「内面」が作られたのは、その言文一致の結果であって、原因ではない。
もともと人間に「内面」があるわけではない。
それは明治の言文一致という制度が作り出した人為的なものに過ぎない。
明治以前にも文芸作品がいっぱい作られたけど、いずれも「内面」の表現なんかではない。

いろいろ余計なことまで述べてきましたが、互盛央の「言語起源論の系譜」によれば、言語の起源というのはありません、というのが結論です。
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この回答へのお礼

urigadai2013様、ご回答ありがとうございます。


図らずも鉱脈を掘り当ててしまったようで。



>「やはり周囲の環境が重要なファクターと考えざるを得ない。」

それは、そう思います。



>「公的言語と言えばラテン語であり、ラテン語はローマ帝国の言語、各国はそれとは別に自分たちの話し言葉があったので、やはり音声を表記したものが言語ではなかった。」

ああ、ウッカリしておりました。
この度のご質問も、かなり不備があったようです。


>「互盛央の「言語起源論の系譜」によれば、言語の起源というのはありません、というのが結論です。」

>「言葉の意味は周囲の状況次第なのだ。」

勉強になります。

お礼日時:2015/01/18 03:04

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