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自殺願望者を死なせないのは、生きていたい人を殺すのと同じくらい酷なことだと僕は思います。

皆さんはどう思いますか?

A 回答 (8件)

私はすこし前まで、自殺願望がありました。



死にたいと思っているときは、本当につらいのに何の苦労も知らない人に「死なないで」と言われるのが辛かったです。

だから、狂ってると思われるかもしれませんが酷いこととは思いません。
というか、思えません。
一番幸せなことに思います。
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生きていたい人には特に理由がありませんが、死にたい人には理由があります。


その理由がつまらないものばかりで、本当に死ぬことで救われる人なんてごく僅かでしょう。
そんな人の現実逃避の手伝いをすることはありません。
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生きていたい人を殺すのと同じ?



死んだら終わりなんで、自ら死にたい人とは違う。

本当に死にたい人は、死なせない人とは接触しないよ。

心のどこかに生きたいという思いがあるから死ねない。

死のうとする人を止めるのは、目の前で人が死ぬとき自分が後悔するからでしょ、ある意味エゴですが。


エゴだという観点から言えば同じかもしれないけど、論点が違う。

もしかしてたけのこさん死にたいの?

だとしたらやめときなよ。と、言っておきます。
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病気が治療困難で苦痛を伴うような場合なら、既に安楽死が認められています。



それ以外の場合は

精神疾患での自殺願望 → 病気がそう言わせているのですから治して下さい
生活苦 → まっとうな理由なら生活保護があります
ギャンブル等で食い詰めた → 甘えんな

となると思います。
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自殺願望は、衝動なので、


その時だけを(保護)回避すれば、人生を終わらせる必要なく、その後も継続できるし、回復の芽はあるのです。
死にたい人間は、今死にたいだけで、死ぬ時まで死にたがってると思うのが近視的な間違い。

当然、尊厳死や安楽死とは違うものです。
尊厳死は生きる見込みのない人が当人の意志への死のケアですから、
自殺幇助ではあっても当人に自殺をさせるわけではありません。
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同意見です



本当にその人に生きてほしいという人もいれば、その人が生きる事を促すことで自己満足するだけの人もいます
この場でもよく自殺願望がある人の質問等がありますが、その質問での回答者のほとんどが後者でしょう
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自殺を望む人を止める理由は、私を「形成してきた存在」を、敢えて殺すことになるからですよ。



人間は、社会を作って生きる生き物。
だから「自分」という存在は、様々な人たちの影響を知らずのうちに受けているのです。
例え直に会ったことがない赤の他人であれ、それは変わりないんです。

有名な話ですが、昔あるアイドルの方が投身自殺したという出来事がありました。
もちろん、私には縁もゆかりもないけど、私は確かにそのことで傷ついたし、喪失感を受けたのです。
同じように感じた方は、多分ここの回答者の中にもいらっしゃるかと思います。
「自分にも何かできたのではないか」とね。

アイドルであったがゆえに、波及効果も高かったというのはあります。
しかし、そうでなかったとしても、それが「無」ということはありえない。
意識をしてしまう。
それは人間が、他者に対して無関心ではいられないからです。
社会というのは、人々の関心というものを接着剤にして成り立っているんですよ。

死んだほうが楽なことがある、なんてのは、陳腐な話ですよ。
そんなのはいくらでも見聞きしてるし、私自身だってそこまでの経験はないけど、抱えているものはある。
だから単に「善心」だけで、人を止めることなんてしない!。
そこまで甘っちょろくはない。
止めるのは言ってみれば「人として」止めるのです。
理屈じゃなくね。

生きていたい人を殺すのは、人の本心じゃないでしょ?。
人を生かしたいからこそ、人を生み、人を育て、そして死んでいくんでしょ?。
同じじゃないどころか、全くの正反対。
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結局は、その人にとって酷な意見に対して、その後に本人がどのような意思をもって行動するかが問われるのだと思います。

その人自身が、自分の命をどう扱うかが問われるというか。

私は生きていたいと思って生きていますが、持病の影響でそれほど元気ではありませんし、他者から強制されて生きているわけでもないです。自分の意思と寿命に従って人生を全うしたいと思っています。いつ来るかわからない最期、だからこそ生きることを大切に、それが私の意思ですね。いつでも命を危険にさらすような場面は屋外に出ればたくさんあるので、いつでも意思が向かえば一度で終えられます。ビルの屋上もたくさんあるし。

他者がどのような意見を持とうと、その人の願望を止めることはできないし、最期を自分の意思で判断したい人もいると思います。それを尊重する考え方もあれば、生きられるだけ生きて、勝手に死がやってくるのを待つという考え方の私もいます。

みんなが同じ気持ちで生きているわけではないので、ちょっと耳を貸す時間があってはどうか?と思うだけです。いろんな意見を聞いて、いろいろ考えてみてそれでも…という場合は、他人としては否定も肯定も制止もできません。

「自分の最期を自分の意思で」という考え方に対しては、私はもう少し生きられる状態にあるなら別の考え方にも触れてほしいと思うし、生きててよかったと思う機会に会わないで終えるのはもったいないという思いがあります。それで生きてほしいという趣旨で回答することがあります。心痛を背負う人も周囲にいるはずですから。

ただし、生きていること自体が苦痛というのは、私の親類で末期の病気にかかっていた人が数人いたので、そういった人達と接したときに本人が「苦しい、死にたい」と言っていた病院のベッドでは言葉が出ませんでした。別に、一つの価値観だけで、生きる事を強制しているわけでもないですし、どうしてあげることもできない無力を感じました。

私が本当に残酷だと思うのは、どのような意見に触れようと、結局は本人の決断によるのが現実だという点です。他者としては、どうしてあげるのが良かったのかわからなくなってしまいます。
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