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「13歳からの論理ノート」という本に、文学の終焉というタイトルが「変」だと思わないのは、理詰めに対する姿勢ができていないということだという内容が書いてありました。
よくわからないので教えてください。

内容
『文学の終焉』というタイトルの本があったとします。あなたは、そのタイトルを見てどう思いますか?終焉というのは終わりの意ですが、文学に終わりはないので、それは変なタイトルです。・・・(略)もしもあなたが「結構いいタイトルだ」と思ったなら、あなたはレトリック病にかかっています。(レトリックにすっかり浸っていて、無意識のうちにレトリックを使ってしまう習慣の人でしょう)。今のままでは、理詰めに論ずることはできないでしょう。

「文学に終わりはないので」という部分ですが、文学に終わりはないとはどういう事でしょうか。
これは、文学が学問的に終わりはないということでしょうか。
文学の終焉といっているのに、本を出している、という矛盾のことなのでしょうか。
それとも、文学に終わりがないことは明らかなことなのでしょうか。
私は文学に終わりがあってもおかしくないような気がして、何が変なのだろうと思ってしましました。この考えがレトリック病にかかっているという事なのでしょうか。

A 回答 (4件)

「終焉」(しゅうえん)は「終わり」の意味。

「蔫」は強意の助辞です。
 書いてあることは分からないではないが、一方的な論理だと思います。「文学に終わりがある」というのは「文学は死んでしまう」と言うことで、誰でもその事実は信じないでしょう。にもかかわらず、そういうことに抵抗を感じずに、自分でも書いてみる人があれば、それはレトリックとして使っているだけだ。そんなやり方をする人は文学を理詰めで考えることができない人だと、言いたいらしいのです。
 「文学が死滅すること」は有史以来続いてきた文学がなくなること、新たに書かれることがなくなっても、過去の文学は残っているから、完全な死滅は、地球的な異変や人類の滅亡以外にはないし、そうなると文学があろうと、なかろうと、どうでもいいことです。
 そのような、ことにまで思いを巡らすことは「レトリック病」にかかっていることになるのかも知れません。
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それはその著者の私見であると「断定」します。



根拠:文学に終わりはない ← 文学は終わることができます
・人類から文化が損なわれるとき(たとえば言語とそれに類する表現活動が禁止される)
・人類から言語能力が損なわれるとき
・人類自体が終わるとき
・・・

これらの可能性に一切言及せず一方的に「終わりはないので」と決めつけるのは客観的と言えず、
学問的立場に立っているとは言えません。
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最近の書籍の傾向に


中身とタイトルとが違っていることがあります

または
タイトルで手に取らせることもあります

タイトルで買ってみると
中身にそのことを書いていないこともあります

問題は
「文学の終焉」という言葉に関して
どのくらいちゃんと書いてあるか
理解できるように書いてあるかどうかであって
「文学の終焉」という言葉そのものには
問題はないはずです

この言葉がかっこいいという人は
中身を伴わない言葉だけを
使っている人だということを言っているのでしょう

著者も文学関係者、研究者でしょうから
こういう言葉を安易に信用してはいけないという意味で
言っているのでしょう

タイトルでごまかされず
中身もちゃんと確認しましょうということなんでしょう
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「文学」を文字と言葉により伝える体系とするならば 人間が文字と言葉を使い続けることを前提として 「文学に終わりはない」としたのだろう。


いずれ科学が進めば 言葉や文字を使わなくとも意思疎通が可能となるだろうが 後100年位はおそらくないので 今のところ正しいと言えるかと。

自分としては
・本自体が文字を使って伝えるものなので 「文学の終焉」を証明するには 矛盾がある。
・本を売るのは文章を読解する読者がいることが前提なので この本が売れた段階で この証明は崩れることになる。
という2点を主張したいが。

レトリック病?
何でも「病」を付けるともっともらしくなるという効果を狙っただけでは?
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