プロが教えるわが家の防犯対策術!

疑問を正確に文章にできるが自信がありませんが、質問させて頂きます。

どの宗教でも人間が集って祈る場所があるように思います。
私が知っていて生活に近いところですと、教会・モスク・寺・神社など。
もっと大きな規模ですと、いわゆる聖地や総本山的な場所。
自分がそこから離れてれば、その方角に向かって祈ったり。

神の存在を心の中で感じていれば、
祈る場所は各自どこでも良いんじゃないかと思うのですが、
なぜ特定の場所に行く必要があるのでしょうか?

人が集まるところは政治利用できるので統治者が煽ってきた結果もあるでしょうが、
純粋にその場所に行って祈る宗教的な理由が知りたいです。

「こういう場所を作って祈りなさい」と教典に書かれてるとかでしょうか?

全宗教ひとくくりにできないとは思いますが、どの宗教でも構いません、造詣の深い方の見解を伺ってみたいです。

A 回答 (8件)

聖と俗をはっきり分けることによって、両者が活性化し


メリハリが生まれます。
たえず宗教の世界で暮らせば息が詰まります。聖なる場所と時間を
俗生活から分けることによって、神秘性が増すんです
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この回答へのお礼

一番最初に回答してくださり、ありがとうございました!
自分は割と日常的に祈っているため(話しかけてるに近いかもしれません。カジュアル過ぎるかな?汗)、聖俗の境界を思いつきませんでした。
またよろしくお願い致します。

お礼日時:2019/05/13 15:23

今、神社とか教会などがある場所って、パワースポットと呼ばれたりします。


地球も生命体なので、ツボみたいな、特別な場所が世界各地にあるようです。
だから、どこでもいいのかもしれないけど、そういう場所は、人々の願いをかなえる存在が常駐していたりするし、霊感ある人は、その場所のパワーを感じるようです。
また、どこにいても祈りが届くとは言っても、苦労してその場所に来て祈っている人と、自宅のトイレやお風呂で、ついでに祈っている人では、やっぱり神様としても前者のほうの祈りを優先対応するでしょうからね。

ただ、そんなパワースポットとは無関係に、人間の都合で作られた神社もあるので、そういう場所は、宗教的な意味は無いでしょうね。

>>「こういう場所を作って祈りなさい」と教典に書かれてるとかでしょうか?

幸福の科学では、祈りの場についてのお勧めの場所の作り方が入門者向けの小冊子に書かれていたと思います。
また、やや高額なお布施が必要だった書籍&CDセット(会員限定)には、瞑想などのやり方が解説されています。

キリスト教の旧約や新約聖書には、そういう記述は無かったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
ツボは大変わかりやすい例でした。
自分はスポーツをやっており、体のメンテをするときにツボを大変重要視しています。血流のスムーズさが全く違ってくる。
(即物的なたとえですみません;)

>苦労してその場所に来て祈っている人と、自宅のトイレやお風呂で、ついでに祈っている人では、やっぱり神様としても前者のほうの祈りを優先対応するでしょうからね

こちらもなるほどと思いました。
神道の神社参拝方法を調べていたときに、「ひとさまのお家に行った時と同じで、礼儀を守り勝手なことをするな」と書いてあり、なぜかそれを思い出しました。
人も神も気持ちや心があるのは同じなんだなと、へえと思ったのを覚えています。


すみません他の方へのお礼は、また後程書かせて頂きます。

お礼日時:2019/05/13 15:38

神の存在を心の中で感じていれば、


祈る場所は各自どこでも良いんじゃないかと思うのですが、
なぜ特定の場所に行く必要があるのでしょうか?
 ↑
本来の宗教は、そうあるべきです。
しかし、それでは宗教家は儲かりません。

宗教家にとっては、信者を増やすのが至上命題
なのです。

だからこそ、宗教改革で信者を減らしたカトリックは
我が身の危険を顧みず、外国への布教を目指した
のです。




人が集まるところは政治利用できるので統治者が煽ってきた
結果もあるでしょうが、
純粋にその場所に行って祈る宗教的な理由が知りたいです。
  ↑
神父などから教えを請う必要がある
から、というのが理由だと思われます。

一人で信仰していても、それは間違っているかも
しれません。
だから専門家である神父、牧師、ラビ、坊主などに
教えを請う。
そうなると、学校のように集まる必要が
あります。
専門家は少数ですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
なるほど、信仰の仕方を教える学校の役割ですか。
確かに知識として教えて共通認識を育まないと、宗教としてまとまらなさそうですね。
子供は最初は何もわからないでしょうし。

お礼日時:2019/05/13 22:29

法華経の中に


「まさに知るべし此の所は即ち是道場なり」つまり
「あなたの日常生活している場すべてが道場なのだ」
という一節があります。
心がけの高い人なら、自分の一挙手一投足を「これでよいか?」「神の御心に適っているか?」「人倫に反していないか?」と反省できます。
しかし凡夫はそうはいきません。
勉強をするにも図書館でないと集中できない人がいれば自分の机でないとダメな人がいるように、どうしてもそれにふさわしい環境が必要になります。
また、その方が能率が上がるならそうした方がよいのもたしかです。
理想はあくまで法華経の道場観ですが。

あと、神に祈るにしろ仏に祈るにしろ炎に祈るにしろ、
祈りとはつまるところ「自分の心との対話」です。
神とか仏とかは、対話ができやすいようにする道具立て、いわば方便です。
この主客を間違えるとオカルティックな情景が現出することになります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

>「あなたの日常生活している場すべてが道場なのだ」

自分は上記のように思っている節がありました。
行ったからって何かした気になっている方が問題じゃないかと、普段の心がけのほうが余程大事と。
でも、目の前にご神体があったほうが真剣になれるとか、真摯な気持ちになれるとかあるかもですね。
ご神体関係なくても、例えばお水がたくさんあるところは何か清々しいですし。


>あと、神に祈るにしろ仏に祈るにしろ炎に祈るにしろ、
>祈りとはつまるところ「自分の心との対話」です。

今日バスの中で「そもそも祈りって皆何してるんだろう」と考えておりました。
そうなんです、自分的には石も一神教の神もなんとなく同じ対象だったんです。
(これまでなぜなのかうまく説明できませんでしたが、先ほどNo.7 の方の回答を読んでわかった気がしました)

何にしろ、心を穏やかにする ってことは、着地点は自分ですよね。
確かに自分よりも信仰対象崇拝がメインになってる方は、危うい方が多い印象です。
ああ、書きながらちょっと理解が深まりました。嗚呼!って感じです。

回答者皆さんから、それぞれ色々な言葉を投げかけて頂いて、大変ためになっております。

お礼日時:2019/05/13 22:56

世の中を堕落させるには、「何でもあり」としてしまうことです。

その危険から逃れる方法が、ケジメの認識です。

例えば、日本人は小便をされて困るところに鳥居の絵を描いた。なぜなら、日本人は鳥居には絶対に小便をしません。それがケジメだからです。ところが、何でもありだから、どこで拝んでも同じだろうと言い出す人は、同じ論で、鳥居の絵は単なる絵じゃないかなどと言い出しかねない。そんな人はケジメが理解できず、結局社会をぶち壊してしまう。

神聖な場所を神聖な場所として容認できない人は、社会をぶち壊し、人々の安寧を妨げる危険分子なのです。

要するに、聖と俗の区別が理解できない俗人には、なぜ人々が神聖な場所なるものを容認するのか理解できないでしょう。

因みに、あの有名な新明解国語辞典第4版の「俗人」の項を引用しておきましょう。

俗人:高邁な理想を持たず、すべての人を金持ちと貧乏人、知名な人とそうでない人とに分け、自分はなんとか前者になりたいと、そればかりを人生の目標として暮らす(努力する)人
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
具体的な例でのご説明、参考にさせて頂きます。

お礼日時:2019/05/14 22:22

正直、このような疑問をもったことがなかったです。

 先行回答、1,2,3を読みましたが、ピンとは来ないところが多いです。 で、ちょっと、ちょっとだけ、記憶をまさぐってみました。

「人間が集って祈る場所」ではないですが、山岳信仰、滝、洞窟などで、人気(ひとけ)のないところで修行するとか、瞑目するとか、勤行するとかがあったなぁと思いました。 たぶん、日常生活空間だと、悩みが起きた場合、その日常空間では自分の悩みに向き合い解決するために気を凝らす、集中する、あるいは瞑想するようなことが難しく、非日常的空間を必要としたのではないかと思います。
そこがたまたま、滝、洞窟、岩壁の陰であることが多かったり、目を開ければ目前に開けた世界が見えるところだったのではないかと思います。 一旦、そこで自分なりに悟りを開いたり、神の声を聞いたりした感じを強烈に受けた場合、そういうヒトの中の何割かは、自分だけでなく、誰かを誘い勧誘、説得して、この悟りや救いの気分を広めたいという強い思いを抱いて、下界・世間に舞い戻り神の声を伝えたり、悟りの境地を説いたりしたのでしょう。 自分からは渓谷の滝や人里離れた洞窟、高山幽谷を訪ね霊山を登るまでの気にはなれない人々でも、わざわざと人里にきて説いてくれるなんとなく一風変わった人がいれば、そこに神聖、霊性、聖を感じて、話(説法)を聞き、布施し、居を提供することもあるのでしょう。 その場合、日常生活の延長線上の雰囲気を少しでも切り離す閉鎖空間を一種の聖域、神域、説法所、安吾地、聖者の居所として提供したのではないかと思います。 そしてその日常生活の延長上からは切り離してしつらえた聖者の居所を、説法を聞きに行ったのが、寺院や教会になったのではないかと思います。
日本の場合、神社は後世に出現したのであって、昔はただの祈りの場であったらしいですが、それも自然の災害をなくす、豊作や豊漁を祈願する祭祀の場というやつで、西洋的(あるいは近現代的)な意味での宗教や信仰とは関係がないようです。

また、王や地域の有力者が、「聖人」として著明な僧などを厚遇し領地のからの収益の権利を供与して寺院を作り後代にも「寺院」経営が継続可能なように計らった例は、ほとんどの教会、寺院、神社にみられます。 (新興宗教のように信者の多数の寄付などを原資にしている例は、伝統的あるいは有名なところでは少ないと思います) 王や地域の有力者が、「聖人」として著明な僧などを厚遇し領地のからの収益の権利を供与して寺院を作り後代にも「寺院」経営が継続可能なように計らうのは、武力や富の力、統治者正統性の権威だけでなく、人心掌握をより強固にするためには、(聖的、信仰的、宗教的権威)が、(王や地域の有力者とは独立したところに出現)するのを避け、できるだけ体制内に取り込む意図が働くためではないかと思います。 一種の聖俗の協調体制を作ろうとする場合、王宮とも(市場や農地、猟場、住宅地などの)俗地とも一応仕切った寺院を作るのだと思います。その仕切った寺院に入っているときには、俗界の貴賤や豊貧、幼老、熟若という立場を離れるという建前を公式に認めることで、社会と政治的安定を聖俗の協調体制で形成したのではないかと、想像します。 そのように政治的配慮の下で形成された聖俗の協調体制・寺院であるから、俗事を離れ祈ろうとする場合、俗域ではないとされている寺院に結果として人々が集合するようなことになるのではないかと想像します。 もちろん、心中で祈ったり、お守りに祈ったり、自宅で祈っても良いのですが、PR効果や聖職者からの教示の効果も重なって"特定の場所"に行きがちになるにでしょう。
特に信仰心がなくても、海外観光旅行でも、国内観光旅行でも、そうした特定の場所にヒトは多く行く傾向がありますもの。伊勢参り、お遍路でも、そういう名目があるから目的地も決まるけれど、そういう名目もなしに適当に物見遊山で仕事を休み、居所を離れ、旅行することなど、政権は許さなかったでしょう。 ムスリムでも、カソリックでも、聖地巡りを許容するだけでなく、奨励していたのは、それが聖俗体制を長期安定にしておくためにという事情があるのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
前半部分の、学びに集まるというのもひとつの役割だなとなるほどと思いました。

あと、確かに、統治者の目の届かないところで民衆に勝手にまとまられても困りますものね。
ありがたい方の下に「祈り」の場を提供しておく方が合理的だなと、なるほどと思いました。
その場では「一応皆平等やで」っていうのも響きが良いし、ありがたい感じがするので、ああなるほど、これは人々は行くだろうなと思いました。
勉強になりました。

お礼日時:2019/05/14 22:45

>神の存在を心の中で感じていれば、祈る場所は各自どこでも良いんじゃないかと思うのですが、なぜ特定の場所に行く必要があるのでしょうか?



人間の信仰の初期形態はアニミズムで「自然界すべてのものに、魂や精神が宿っているという前提で、それら霊的存在に対して信仰をもつこと」が基本になっています。これはまだ「神」が発明される前から人類が、自然界に対してもっていた畏れを具現化したもので、日本人の信仰形態はいまでもアニミズムが基本になっています。

なぜアニミズムが生まれたかと言うと、人間が生まれて死ぬ存在だからです。
人類が「意識」をもち知性を発揮し始めた後には、すぐに「なぜ私は生きているのか?」と言う疑問をもったはずです。そして太古の昔は、実に簡単に人が死んだわけです。となればなおさら「なぜ私の弟は昨日生まれて今日死んだのか?だったら生まれてくる必要はなかったのではないか?」というような哲学的な疑問がどんどん生まれたことでしょう。

「神」というのはそのようなことに答えてくれる一種の発明なのですが、神が発明される前には「自然界の法則の中からそれを見つけ出す努力」が行われていて、そこで「(神とは言わないが)なにか自然界を巡る一種の法則=アニミズムがあることを感じるようになった」わけです。

質問者様は「神の存在を心の中に感じる」と書かれていますが、人類の信仰の始まりは「自然界の中になにかすごい力を感じ、畏れるところから始まった」のです。

だから「畏れを感じる場所やモノ」がアニミズムの信仰の「場所」になっていきます。
それは山や川・滝のような「(当時の)人間では作りだすことが出来ない自然の造形物」から、とても古く大きな木や、ヘビ・キツネ・牛などの動物、さらには太陽や火、雷などの自然現象がその対象になっていったわけです。

このうち、山や川などの自然や木などを対象にすると「その場所に行かないと信仰できない」ことになります。ですから、山が見える小高い丘に礼拝所を作ったり、山頂や滝つぼの近く、木の目の前に祠を作ったりして、その自然物そのものに「祈り」を捧げていたわけです。

この「祈る場所」がやがてその他のモノにも影響を与えます。たとえば「この池を守っていたヘビがとぐろを巻いていた場所」に社を建てて、ヘビをお祀りするようになっていくわけです。

その結果として今では「人間が集って祈る場所」ができている、ことになっていきます。

じゃあ「人間が集って祈るけど、場所は無い場合はあるのか」といえばあります。それも日本人はとても身近にやっています。

なにかといえば「太陽信仰」です。日本人は「初日の出」を見るのが大好きで、元旦にいろいろなところに出かけて太陽が昇ってくるのを拝んでいます。富士山の山頂のご来光は有名ですが、他の山々でもご来光は拝みますし、東に突き出た岬や海岸などで初日の出を拝む人もたくさんいます。

つまり元旦の初日の出については「拝む場所がある」のではなく「地平・水平から昇ってくる太陽が見れる場所」ならどこでも「祈りの場所」になるわけです。これはどこに居てもメッカの方角に祈りを捧げるイスラム教のような信仰形態とは真逆のやり方になります。

これらの事を観察してみると人間は「祈りが先」であって「場所」は後であることが分かると思います。

さて、先史時代のどこかで人間は神を生み出しています。太陽はアマテラス・アポロン・大日如来など自然現象に名前がつき、自然現象が神という神格化(というか具現化)が為されたわけです。

神格化されると次には、人間くさい属性がついてきます。アマテラスは女性、アポロンは男性と地域や文化によって性別は違うものの、人間のように性別や親兄弟などの属性が付き、個人の物語がそこに付属していきます。アマテラスは岩戸に隠れましたし、アポロンは双子で音楽の神様でもある、というような属性がつくわけです。

属性が付くと「じゃあ、どこで祈ろうか」と言うことが明確になっていきます。
アマテラスを拝むには「この岩ならアマテラスが隠れたのにちょうどいいから」と言う理由で、アポロンなら音楽学校の日の当たるこの場所、などに「祈りの場所を作るのがよい」と解釈されるようになるわけです。

これらのことが当たり前になってくると、当然に為政者もそれを利用するようになります。古代なら「私の先祖はマルス(軍神)だったから、私は戦争に強い王だ」とマルス神の偶像を軍事基地と王宮に建てたかもしれません。

そのうちに、ユダヤ教が一神教を発明します。この神の最大の特徴は「人間に命令する神=従った人間に褒美を与える神」だったということです。
 人間に命令する神は「人間たちにその教えを説く人間」を必要とします。これにより使徒・司祭・ラビなどと呼ばれる聖職者が生まれ、彼らが日常的に活動する(つまり教えを説く)ための施設である教会が生まれるわけです。

>純粋にその場所に行って祈る宗教的な理由が知りたいです。

整理して書けば以下のようになるでしょう。
・自然物に対して拝むために、適した場所に礼拝所を作る場合
 山頂とか、木にしめ縄をはるとか、岩の前にほこらを置くなど

・そのモノや神とされる具現化されたものに適した場所・理由がある場所などに礼拝所が作られる
 仏陀が悟りを開いたとされる場所・キリストの遺体が安置された場所など

・人間が信仰のために集まる場所と指定した場所
 教会やお寺など

・場所は特定されておらず、モノまたは特定の方向に向かって祈るもの
 日本のご来光・節分の豆まき・ユダヤの過ぎ越しなど

>「こういう場所を作って祈りなさい」と教典に書かれてるとかでしょうか?

教会の作り方やモスクの作り方・お寺の作り方などは「こういう作り方をしなさい」と言う決まりごとがあるわけです。
また、祈りの捧げ方や儀式の仕方を書いている宗教は多々ありますが「こういう場所を作りなさい」というのはあまりないといえます。
 強いて言えばイスラム教が「メッカに向かって祈りなさい。その際にこういう形で祈りなさい(手足を清めて、マットの上で、男女別々になどと指示していること)」ぐらいでしょう。
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この回答へのお礼

圧巻のご回答ありがとうございます。
見ず知らずの方が、なぜ他人の頭の中をこのように一つ一つ整理できるのか不思議でなりませんが、とてもよくわかりました。

自分の信仰(という程ではありませんが)はほぼアニミズムのようです。
自分の中では一枚の葉っぱから、一神教の神と名の付くものまですべて同列で存在しています(信者の方に殴られそうですが)。
だから混ぜて考えてしまってごっちゃになってたんですね・・・。

また、私が「神の存在を心の中に感じる」わけではなく、
これまたうまく言えるか自信がありませんが、疑問のスタートは、

仏教で言う「悟りを開く」には、悟りを開くことへの執着やこだわりを捨てるんだと書いてあるのを読みました。
そこからだったように思います。

古代ギリシア哲学者と弟子みたいに、色々問答してみたいものです。
大変勉強になりました。またよろしくお願い致します。

お礼日時:2019/05/14 23:59

聖書を見ると原始宗教は石を積んで大自然やご先祖様を敬うとのことでした。


イギリスにあるストーンサークル(ゾロアスター教)、インディアン(多神教)みたいなもの。
大自然の力を体内に感じながら暮らしていたんだろうね。
インディアンは山を聖なる山とし祈ってましたね。

西洋の特技は分別するです。
一つを分別した結果が今なのですよ。

昔は科学なんてチリほどもなかったし占星術は単に星を読んで道を探したりしてただけだし。

今はすっごく便利になりましたね
ことあるごとに科学がどうのって言ってさ。
ないから笑マジ
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
初期は自然が信仰対象だったのですね。
当時は現代よりももっと感覚が研ぎ澄まされていたでしょうし、ご神体のそばで何か感じるものが多かったかもしれないですね。
危険もはるかに多かっただろうし、そこで祈ることの重要さがなんとなくわかる気がします。

お礼日時:2019/05/15 00:09

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