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「無私」「利他」などというと、どうも古臭く倫理臭い言葉であって、そんなものはいらないのではないかと考える人たちが増えていると思います。

しかし、過去を振り返ると、何か重大事を成した人は無私でなければできなかったと思いますし、その時の自分の利益が優先されたならばどうなったであろうと思います。
また、子どもを育てるという重大事は親が無私でなければ、その目的は十分に達せられないであろうと思います。

さらに、日常的なことにおいても、我利我利に生きるよりも、無私的に生きたほうが爽やかであり楽しいと私は思います。但し、決して自分の利益を考えないということではありません。私だって収入や社会的評価を上げたいと思っています。

さて、人間の生き方として「我利」と「無私」について、どうお考えですか?

A 回答 (8件)

返答の前にお断り


私は「精神がない」と一言も言っていません。
認知科学において感性とは端的に言えば感覚感情等になります
生物において感覚とはいきていく上で重要な原初的でベーシックな機能。同様に感情は原初的でベーシック的・本能的な欲求や感覚等につながっている反応
感性はいかなる状況においても生存に関わりうることから即応的です
理性は本来感性や欲求に応じた欠陥に導けるようにするための行動が取れるようにするために検討やプランニング等をする機能で即応性はありません
それはそれとして
生きていき上で即応性が要求されことから本来判断するとは生きていき為に即応的に決める事で感性が即応的であることから判断は感性によってなされるもの。ですから感性に蓋をしてそれを排除しようとすると真の意味において判断が出来なくなるのです。
生きていく上で約860億個の脳神経細胞の統合を図る必要があります。つまり脳全体を統合し保って調和を図る事で個々それぞれ固有の特性が生まれるのです。この個々それぞれ特性こそが自我なのです
言い換えるならば自我は脳全体の統合と調和を図るものという事です。
それを踏まえて言えば自我が判断するのではなく、自我は脳内において判断された事柄とその他の事柄との統合を図り調和を図るものとなります
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手に負えないですか。

そうおっしゃるならここで終わりです
それはそれとして
本来感性出だした答えを現実に合わせながら具現化していくのが理性の役割でであるならば感性でだした答えに矛盾する反応はしないものですのでそれが起きているなら脳内の調和が図られていない可能性がありそうだとするとその原因は理性変重です
因みに私の内なる声が発せられるときは僅かとはいえ衝動が伴っていますか。衝動は本能的欲求に伴う原初的な働きでそれすなわち感性によるものという事です
よって衝動を伴っている場合にはその内なる声は真の自分が発した声となりますのでその場合理性の誤った働きを防ぐ為にそれに関して理性で検討させないために内なる声に機械的に従うとしているのです
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この回答へのお礼

つまり、人間の判断とは何によってなされているかということですが、その瞬間の「自我」が成す、と言えると思います。

では、「感性」って何だろう?「理性」って何だろう?ということになって、それは、人間の脳、心の働き、であろうということしか分からないのです、私には。

感性は右脳、理性は左脳、などとも言われますが、その他の脳の部位が関わっているという話もあり、よく分かっていないのではないですか?

すべてを脳が行うことであり、精神というものの存在を考えないのであれば、機械的に仰るようなことが脳内で行われていることも頷けないではないですが、精神分析学などで扱おうとしている「精神」がないという根拠はないわけですから、それは、強引な論理と私には思えるのです。

お礼日時:2022/09/10 22:51

真なる自分と偽りの自分と自我の関係性を卵に例えると


殻→偽りの自分
黄身→真の自分
卵全体→自我
となります
つまり真の自分はコアであるということです。コアであるという事は原初的であるということで、原初的ということは本能に従って機械的条件反射的に反応する生物に限りなく近い状態だとい事です
よって真の自分とは本能に紐付けされている感性によって機械的条件反射的に思考しその結果に従って機械的条件反射的反応しようとするものということです
本能に従って機械的条件反射的に反応するにあたって重視されるのは過去に同じような経験をした結果生理的に嫌な経験を伴った否かで、その経験がなくればそれをとめることなく実行しようとします。そこに善悪の判断や損得等の理性による判断はないのです
長崎で人を殺したいという願望に従って友人を殺害した中学生がいます。その中学生はその願望=内なる声に従って機械的条件反射的に行動したわけですが上記の通りその願望それ自体に善悪の判断や損得等の理性よる判断はなかったのです
ということです
話しを戻して
ニャンポコリンさんが言っているところの主観は理性によるもので感性によるものではないので、その点を踏まえれば内なる声は主観によるものではないです。
付け加えると本来真の自分が主で偽りの自分が従であるのでそれに納得出来ない偽りの自分が主真の自分を従にすべく真の自分をコントロールします。それが間違いなのです
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この回答へのお礼

真の自分と偽りの自分の区別、これは仰るような理論では全く手に負えないと思います。

「内なる声」は私の中にもたくさんあって、矛盾し合うもの、対極的なものもあって、しかも、その時によって、縁によって中心的なものも変化します。

お礼日時:2022/09/04 19:47

自分に利をくれない人のためには金を使わない。


利を気持ちよく呉れる人のために金を使う。

渋々の意志を使う人なら捨てるも道と思いませんか。

ただし、子供は生んだ人に対しては育児責任生じさせる。
責任取らねば罪になることもある。
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この回答へのお礼

私は公益優先で判断します。

お礼日時:2022/08/31 13:09

真の自分からの内なる声を知性を用いてより正確に具現化する



具体的に言えば知的能力を用いて学習してそれに必要な知識や技術を身に着けそれを用いてより正確に具現化するとなります
集団もまた集団自身を守り為に個と同様に鎧を身に着けます。
その鎧をより強固にするには集団を更生する者たち精神集団として統合する必要があります。その個々の精神を集団として統合させる為に個々に対して行う事それが教育です
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この回答へのお礼

自分の真の内なる声、これは、お分かりだと思いますが、主観であるゆえに非常に難しい。
人間の心理は、自分を守るために論理のすり替えをしたり、黒を白と言い張ることは往々にしてあることです。

何の問題にしても、議論というものは「平行線」になるのが現実です。その原因のほとんどは、それであると思います。

つまり、無私の心のつもりでも、知性から引き出されたものは、善悪通じてしまう場合があるということです。
直観と言うか「素直な心」から引き出されたものこそが、善の純度が高いと言えると思います。

しかし、その判断はどこですることが可能となるのか?素直な心の共感。としか今は言えませんが。

お礼日時:2022/08/31 13:07

ヒトは幼い頃から真の自分を守る為に偽りの自分を作り出しているそれを鎧としているのですがその鎧を脱ぎ捨てることなく着続けているためいつしか偽りの自分を真の自分と思い込み結果誤るようになるのです


誤りを正すには鎧である偽りの自分を脱ぎ捨てる真の自分を開放することです
この偽りの自分を脱ぎ捨てることこそが滅私なのです
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この回答へのお礼

確かに、そうも言えると思いますが、人から影響を受けたものを自分のものに血肉化させることもできるのが人間の能力と言えると思います。広い意味で「教育」です。

お礼日時:2022/08/28 01:13

見返りを求めない無私の心(無償の愛)は相手の心を揺さぶります


無私の人は英雄です、賢者です、聖人です、神です、仏です
だからこそ、その言説は後世まで信じられるのです

無私の人は寛大であり、他人の幸福を心から喜ぶことができます
その人こそが見返りを求めない無私の奉仕ができるのです
父母が、わが子のために何の見返りも求めずに愛情を注ぐのと同じです

ここで重要なことは、
仮に与えられる知識や情報量が同じであったとしても、
義務感から生まれる行動は、無私の奉仕に及ばない、と言う事です。
それは
奉仕の心や無私の愛情が義務感によっては生まれない、と言う事です
例えば
「両親」という職業があり、もし仮に母親に成り代わる仕事をした場合、
果たして無償の愛を注ぐことはできるのでしょうか
 子どもは親の無私の愛情に触れる中で豊かな感受性を育み、
自己を表現するすべを身につけていけるのです。
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この回答へのお礼

これは、自分の経験から言えることですが、例えば、子供のころ妹が体の具合が悪いとき(妹は体が弱かった)、私は母親と一緒に一生懸命世話をしました。これは「無私」の状態であったと言えるでしょう。

とにかく、治ってほしくて、心は昂ぶり、真剣でしたね。母親がそうだったから、自分も当然そうであるのが、当たり前、という感じでした。そして、他の人達誰に対してもそうであるのが、当たり前、と思っていました。

しかし、世間では必ずしもそうでないということがだんだんと分かってきて、同じような心を持っていた友達が、そうでなくなってゆくのを見て、寂しい気持ちになりました。

母親の影響はでかいですね。それから、それを維持しようとする「頑固さ」は私は父親から学びました。

お礼日時:2022/08/28 01:10

滅私の精神ですね


自分自身の中から沸き上がるメッセージに従って機械的に行う。その事をすることはに対する自分自身の損得とか意味意義等に囚われることなく行う。
それが真になすべきことでそれに従うことで真の自分を開放する事になります
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この回答へのお礼

「滅私」と「無私」、言葉のニュアンスでは、「滅私」は権威・権力に対する「忠」の心が強い気がしていますが、ムカリンさんの解釈はそうではないようです。

また、「機械的に」というところが、ムカリンさんらしさが出ているように思います。

お礼日時:2022/08/27 13:15

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