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人を好きになる不思議
少し哲学的に考えてみたくなりました。

私はまだ学生で分からないことだらけなのですが、そのうちの1つで親子愛が分かりません。
例えば、死産や流産で子どもを亡くされた親御さんはその子どもを思って涙を流しますよね。色々な理由があれ、その子どもが亡くなったことが悲しいとか愛おしいとか寂しいという感情を抱くと聞きます。
しかしその子たちは親御さんに対して何かをしたわけではない、例えば笑顔を見せて元気づけてくれたわけでも話しかけて勇気の出る言葉をかけた訳でもないと思います。つまり、その子たちがただ存在するだけで親は無条件に愛を持っています。

もちろんそうでない親子もいます。私自身は親に家事や兄弟の世話をすることで価値がある、それをしないのであれば出て行けと言われて育ちましたし、私の親が言う愛とは子どもにお金を使うことだと言っています。このような関係は、先述した無条件の愛というよりも損得で考える利益関係という方が近いと思います。

恋愛においてもそうです。顔がかっこいい、優しくしてくれる、協力して子育てできそうとか何かしら自分にメリットがあるから好きになって、相手にそのメリットを継続してほしいから自分も優しくしたりしますよね。
大学に入ってボランティアをしましたが、ボランティアだって、自分の知見が広がるからとか困っている人を助けることで自分が満たされるからとかお金以外の何かしらの報酬を望んでしている人しか見たことがありません。

だからこそ、親子愛のような「無条件の愛」を他のことにも応用できるなら、何か報酬を期待することなく愛を持てるのではないかと思い、なぜ無条件で愛が持てるのかを知りたいと思いました。
キリスト教の隣人愛などではなく、一般的に無宗教の日本で過ごされている人々にとっての無条件の愛について聞きたいです。

A 回答 (8件)

何で「親子愛≒無条件の愛」っていう定義が成立するのかまずそこから分かりませんけどね。

流産した子を悲しむ親心は、普通の所有欲やエゴで説明つきますよ。

そもそも、親子愛は「我が子」という限定された関係性の中で子供を愛しているわけでしょう。凄くけち臭い愛情モデルですよね。我が子さえ生きられるならいい、隣で飢えてる子は見捨てていい、それが親子愛の本質です。

子どもを産むプロセスを考えても無償の愛が生まれる余地があまりありません。恋愛は利益関係だとあなた自身おっしゃっていますね。自分が自分のエゴで恋愛して自分たちの一過性の性欲に従って異性と性行為をした、その結果できたものが子供だから、それに対しては執着心がものすごいっていうだけはないですか。ただの性衝動や自己愛の延長、あるいは単なる「種の保存本能」、その域を一歩も出られません。

あなたはなぜか「親子愛」を美化したがり、「宗教的な愛」は一段低く見下げてもいるようですが、キリスト教における隣人愛の教え、仏教における「出家」との概念などは、血縁者や親子間だけで成立するような狭い愛、エゴそのものの愛、そこにとどまってはいけないんだよ。ということを教えています。

親子愛や血縁主義は「よそもの」への敵意・排斥感情とワンセットです。血筋による対立・争い・差別を必ず生み出しますし、それを次世代へ、次世代へと持ち越し続けて終わらない地獄を生み出します。

それをおさめるには、もっと広くて深い愛が必要で、そっちこそが愛の本質なのだ…。伝統的で長く支持されるような宗教は、必ずそこをしっかり教えようとします。

もし親子愛から高尚な愛を考察したいのであれば、私としては、狼に育てられる人間の子どもの例、犬が猫を育てる例など、そういった例を研究する方が有益に感じます。異種間でも子育てが成立する例は、単なる利害関係・共生関係では説明がつかない例が色々とあります。そういうものを知る時、私は血縁や種の存続本能を超えた何か、もっと広くて深い「無償の愛」を示唆されるようには感じます。

他にも動物や植物、鉱物といった無生物とさえ、心を通わせることが上手い人は実際結構いますが、そういった例も、愛の本質を考えさせられる事例です。

>親子愛のような「無条件の愛」を他のことにも応用できるなら

上に書いたように、親子愛は別に「無条件の愛」の例ではありません。
あなたのように、恵まれない親子関係だった人は、親子愛を極端に理想化・美化したがる傾向にあります。

>なぜ無条件で愛が持てるのかを知りたいと思いました

「親子愛モデル」はこのさい無視しますが、たとえば太陽光や月光や雨のように、ほとんど誰にでも平等に降り注ぐようなものを自分もあなたも誰かもみんな浴びているんだなーと知ることや、森羅万象のすべては生まれて死ぬ、という単純なサイクルを延々と繰り返していることを知ること、そこに自然と共鳴する、自分もその一つなんだと感じて生きる、そういった感覚は、まあ結局「無条件の愛」っぽい行動や感じ方が増えることじゃないかな。とは思います。

>キリスト教の隣人愛などではなく

キリスト教で言えば「無条件の愛」の究極は「アガペー」という概念になると思います。

>一般的に無宗教の日本で過ごされている人々にとっての無条件の愛について聞きたい

勝手に無宗教にされるのは困りますね…日本には少なくとも「神道」ってもんが昔からあるんですよ。神道はアニミスムの世界で、八百万全て、路傍の小石ひとつさえもを神と崇め、同時に擬人化して人間と同格にしてしまうという、おそるべき宗教です。

天皇崇拝に成り下がった俗でカルトな部分は今切り捨てますが、そもそもの神道は、ありとあらゆる存在を神とも人間ともみなしてことほぐ(よろこぶ、祝福する、大切にする)ことにあるわけですから非常に気前がいいですし、そのセンスは「無条件の愛」に等しいと私は思います。

そして自分の中の愛が無条件の愛に近づけば近づくほど、それは透明化されて、ふだん意識もしなくなるでしょう。
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親子愛が分かりません。


 ↑
自己愛でしょう。

本能として、自分が生き残るために
自分を愛する、てのがあるわけです。

親子愛は、その自己愛の変形、ないし
拡張だと思います。


自己愛だから見返りを求めないのです。
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キリスト教の愛、仏教の慈悲、又、それを合体させた慈愛


これは人間自身が元々備えた優れた生命の傾向性と見たいのです
その慈愛は良い教育により、良い縁により発芽していくのです
それは生命の尊厳と密接につながっているのです。
冷たい家庭では、劣悪な環境では、生命軽視の教育では、慈愛は育ちません

その第一歩は「汝自身を知れ」の教育です
自分とは一体何であろうか。自己とは何か、自己というものをどうとらえるのか、どう求めていくか、毎日をどう生きていくか。なのです
そして、この世で最も愛おしい存在は自分であるとの自覚が大事になります、自己を愛する事です

つまり誰だって我が身可愛や。他の人だって同じじゃないか、と。そこで人と人との関係を反省するわけです。
 それならば、人に対して害を与え損なうということが一番悪いことで、
反対に人を愛し愛しむということがもっとも尊いことである、と。
これは誰にとっても同じことである、と。
 だからこの気持を人々の間で実現しようじゃありませんか、
となる訳です。

そこで大事なことは、無関心、傍観、対岸の火事と見てはならない
と言う事になるのです。
すなわち愛の敵は無関心となるのです

愛の反対である悪より忌むべき存在が
無関心やシニシズム(冷笑主義)だと思います
何故か。
致命的に欠けているのが「他者」だからです
「他者」不在の「自己」は、「他者」の痛みや悩みや苦しみへの
不感症に陥るからです。

無関心やシニシズムが支配する生命とは、
愛や憎しみ、苦悩や歓喜など人間的な情念というものを感じさせず、
どこか空々しく投げやりな、自己閉塞的な世界といってよい。

悪への無関心は、同時に善への無関心を意味しますから、
そこは、善と悪とが織りなす葛藤やドラマのもつ生々しい
リアリティーとは無縁の殺風景な生命空間があります、

「他者」の不在という精神病理こそ、
ファシズムやボリシェビズムなどの20世紀を席巻した
狂信的イデオロギーを生み出す格好の土壌であったのです。
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自分が愛し、一緒に居たい、


幸せにしてあげたい。
子供が出来たら、
産んで最後まで
育て上げる。

場合によっては恋人・妻・子供を守るために命も捨てる。
命を懸けて、この目的のために邁進する。

質問者さんにはこんなことできますか。
そういう事のために付き合ってくれる人はいますか。
そういう人を得てみたいと思いますか。
目の前に現れたら、どうしますか。

答えはこの中にあります。
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何かを大事に思える、その事が大事なのです。

対象は何でも構いません。
あなたが大事にすることによって、それがかけがえのない宝になります。
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・存在自体への愛(無条件。

無為可)…A
・金やモノやサービスを与える愛(無為不可)…B
死産児に対してはAしか持てず、(またはセルフケアとしての涙でもあるかもですが)
育児に際してはBが必要です、Aもあれば尚よしです、以下のCも。

愛は相手の関心に関心を持つことともいいます …C
親子愛は、親子間で互いの関心に関心を持つことです。赤ちゃんの世話では必須で、それ以降はおそらく対話のみが有効です。
AとBは対象の物質面、Cは心理面を相手にします(お金でなく心も使う)

人を好きになる理由は、欲望の三角形よる嫉妬といいます。(ルネ・ジラール
Cは内面が複雑化します。成熟した情緒は自己報酬というより副産物で
Bの内容はCを経由する条件で妥当なものになります。
ボランティアもCに基づくと自己満足や自己報酬より他者や他者満足を目的化できるかもです。
日頃のABCによるセルフケアや猫は「無条件の愛」の基礎になるかもです。

なぜ無条件で愛が持てるのか…?
A…はかないものへの共感。死や孤独などへの共苦。惻隠。オキシトシンのせい。
C…他者が他者だから。共生という相互利益のため。前頭葉の仕事だから。
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親子の愛は、愛の対象が血縁(または血縁に近い関係)、すなわち彼が私の子である限り、という明白な条件が付きます。


それは親にとっては、形をかえた利害関係になるものでしょう。

仮に一人の親が、我が子と、見ず知らずの子との二者のあいだで、命の択一の状況に迫られた場合、
他人の子を見捨てて我が子を選ぶのが、多くの親の人情でしょう。

継父(ままちち)や継母が、血縁のない連れ子に生理的に愛情をもてず、
虐めたり、ときにはその命を奪ったりすることは、昔からどこにでもある話のようです。



(また逆に、成長した子供が日常的に親に暴力をふるい続けた末、
親が子供を殺害してしまうという悲劇も耳にします。
たとえ血縁であったとしても、我が子が、我が子らしからぬ存在になった時、
親の愛情は変質してしまうのでしょうーー変質?いや、本質?。)


(キリスト教の話をするなら、ある信心深い男のエピソードを紹介しましょう。
その男は特異体質で、神と会話ができたらしく、
ある日、神を愛する証しとして我が子を差し出せと命じられたそうです。
男は愛する息子をバーベキューにすることに同意したそうな。)
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感情って


難しいから悩みますね

例えば質問者さんが結婚して子供に恵まれた時に、喜びの涙を流すのか?
その恵まれた子供が、哀しくも死産や流産!はたまた何らかの要因で堕胎などの状況に陥ったときに

本当に哀しくて涙が出るのか?

実際には、わからないですもんね

精神を防御するために、無意識に感情セーブしたり
現実から逃避させようとして、意識をあやふやにしたり

はたまた、悲しみや喜びなんてな感情に精神が追い付かなかったり
などなど
経験してみないとわからないですね

喜びや悲しみが愛の根元なのかと問われたら

( ̄~ ̄;)まったく無関係な人の喜びの悲しみをわけあったりもするのが人間であって

喜びの貰い泣き何てな現象もあるから

単純に感情の共有てな事柄を考えてみると

興味深いかも知れないですね

親子だから、無条件の愛てなのはあるけど

親子だからこそ、不条理な憎しみなんてなのもあって


愛って、生きていく上で必要な人にとっては必要なものなのかも知れないとは思いますよ

社会的に問題がある行動をする子供なんかに

親の愛情が足りないから、そのような行動をとってしまっている

なんてな話も聞くけど

愛情が足りてても、社会的に問題がある行動をとる子供なんかも存在してて

明確な愛情てのが伝えられないからこそ、質問者さんの両親なんかも

明確に愛情が伝えられないからこそ、損得を表してるだけなんじゃないかなぁ~

本当に損得だけの人だとしたら
それはそれで立派でもあるけどね
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