プロが教えるわが家の防犯対策術!

頭が良い人、知識が豊富な人は本を読んでいるイメージがあります。でなくても本を読む人は意識や知恵があると思います。

そこで質問なのが、そういった皆さんは実際に1冊本を読む時に、自分の気になる部分だけ表紙で見て、そこだけ読みますか??それとも最初から最後までしっかりと読みますか?

私の周りで外国人なのに4カ国後も喋れて、もちろん全部の言語がカタコトではなく現地の人かのように話しています。

その人は本を読む時は自分の気になった部分だけを最初に目次で読んでそこしか読まないと言っていました。1ヶ月に30冊は本を読むそうです。
本の読み方は人それぞれですが、それってどうなのでしょうか??

A 回答 (5件)

様々な読書の形態がありますね


一室に籠り読書三昧の人も
電車や公園で、又はトイレで読む人もいますね
飛ばして読む人、同じ所を繰り返し読む人もいますし
吾輩はペンを持って、気に入った所は線を引きながら読みます
確かに豊富な知識を本から得る事ができます。


世の中
善人いれば悪人もいる、
本にも
良書もあれば悪書もある
人生は短い、
良書から読むべきだと思います
1ヶ月に30冊の悪書を読むと頭が腐ります
1ヶ月に1冊の良書でも人格が磨かれます

良書を読めば、人の心を知っていける。
人間の本質が見えてくる。
読書は、わが心の明鏡を磨いてくれる、と言っておきたい。


吾輩は、仮想現実の氾濫がもたらす弊害を憂いております
なぜ読書か。その第2の意義として、蓄えられた読書経験は、巷にあふれ返るバーチャル・リアリティー(仮想現実)のもたらす悪影響から魂を保護するバリアー(障壁)となってくれると思うからです。

映像などによって送り出されるバーチャル・リアリティーは、一定の利便性をもってはいますが、それは、人間が人間同士あるいは自然と直に触れ合うことによって生まれる共感性のリアリティーとは似て非なるものです。

のみならず、バーチャル・リアリティーは、その刺激性の強さゆえに、リアリティーの世界にのみ育まれるであろう「他者」の痛みや苦しみへの共感性、想像力を覆い隠してしまいかねない通弊を有しています。

さらに、つくられたイメージを受動的に受け取る環境ばかりに身を置いていると、能動的な諸能力――考える力、判断する力、愛し共感する力、悪に立ち向かう力、信ずる力等、総じて内発的な精神性が、どうしても衰弱していってしまいます。

読書は青少年のみならず、大人たちにとっても、日常性に埋没せず、人生の来し方行く末を熟考するよいチャンスとなるでしょう。

何といっても大切なのは、読書経験を通して、子どもたち自身の「問いかけ」を大切に育みながら、時間をかけて自分を見つめ直し、自分の力で「答え」を探し出す力を育んでいくことでしょう。
トルストイが描いた回心の劇
偉大なる文学作品とは、その意味で“問いかけの宝庫”といってよい。

、読書は青少年のみならず、大人たちにとっても、日常性に埋没せず、人生の来し方行く末を熟考するよいチャンスとなるでしょう。

かつて読んだことのある本であれ、初めてのものであれ、自分の全人格をかけて受け止め、感じとった“何か”がなければ、若者や子どもたちと感想を語り合うなど、とうてい不可能です。人生における“真実”は、口先ではなく、人格を通してしか伝わっていかないからです。

一つだけ、具体例を挙げれば、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の最終章に出てくる、レーヴィンの「われとは何か、なんのために生きているのか」に始まる問いかけの場面です。

そこでは、作家の自画像といわれるレーヴィンが、生きるための規範への求道を続けるなかで、ある農夫の言葉に触れて新しい境地を開いていく姿、その過程での心の動きが、見事なまでの筆致で描き出されています

「ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざその口で、ただうぬが腹をこやすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年よりですからな。あのひとは、魂のために生きてるです。神さまをおぼえていますだよ」

「魂のために」生きる――レーヴィンの心を電撃のように貫いたのは、こんな農夫の何気ない一言でした。それから彼は、広い街道を大股で歩きながら、「心のうちに新しい何ものかを感じて、まだその何ものであるかを知らないながらに、一種の喜びをもって、その新しいものを手さぐりしてみる」という、かつてない体験を味わいながら、自問自答を続けていく。

そして、ついに自分なりの「答え」にたどりついた彼は歩くことを止め、林の草の上に身を横たえ、こう心の中でつぶやきます。

「おれは何も発見したのではなかった。ただ自分の知っていることを認識したにすぎないのだ。おれは、過去においておれに生命をあたえてくれたばかりでなく、現在もこうして生命をあたえていてくれるその力を理解したのだ。おれは虚偽から解放されて、主人を認識したのだ」と。

こうした暗から明への回心のドラマは、トルストイの世界にしばしば登場するものですが、そこで織りなされているものこそ、「問いかけ」から「他者との魂と魂の触発」へ、そして「内省的な眼差し」を通して自身の中から「新しい自分」を発見し創造していく精神の営みといえるでしょう。

その健全な精神の営みを回復したレーヴィンであればこそ、戦争が覆い隠してしまう“人間が人間を殺す”という真実に気づき、セルビア戦争への参加を義挙として燃え上がる自己犠牲への民族的熱狂に水をさすように、「単に犠牲になるだけでなく、トルコ人を殺すんじゃありませんか」と叫ぶことができたのではないでしょうか。

「殺すなかれ」という不滅の徳目は、彼のような魂の苦悩と葛藤の果てに口にされる時、にわかに精彩を放ってきます。

そして吾輩が『アンナ・カレーニナ』の中で、最も圧巻だと感じるのは、レーヴィンが、“自分の実感した「善の法則」は、キリスト教徒だけのものなのか”“ほかのユダヤ教徒や、イスラム教徒や、儒教や仏教の信徒には、この最善の幸福は奪われているのだろうか”と懐疑する最後のシーンです。

人間の内なる精神性、宗教性に迫って、古今の大文学中での白眉であろうと、吾輩は思っております。
古典や名作と格闘する青春を
こういう古典を熟読吟味することが、どれほど自分の精神世界を豊かに、分厚いものにしてくれるか――優れた精神的遺産を“宝の持ち腐れ”にしておいては、もったいない限りであります。

トルストイに限りません。ドストエフスキーでもよい。ユゴーでもゲーテでも、何十年、何百年という時間の淘汰作用を経て生き延びてきた古典や名作には、必ず“何か”が含まれているはずです。外国の大文学が重すぎれば、日本の近代文学、あるいは河合隼雄氏などが推奨しているコスミックな児童文学の中からでも、いくらでも拾い出すことが可能でしょう。

いくら“活字離れ”がいわれても、否、“活字離れ”の時代であればあるほど、私は、時流に抗して、古典や名作と一度も本気で格闘したことのない青春は、何と寂しく、みすぼらしいものかと吾輩は訴えておきたいのであります。
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Q その人は本を読む時は自分の気になった部分だけを最初に目次で読んでそこしか読まないと言っていました。

1ヶ月に30冊は本を読むそうです。
本の読み方は人それぞれですが、それってどうなのでしょうか??

A ある程度のベースとなる基礎知識が備わっているからこそ、できることだとおもいます。

たとえば、調べ物をするときにGoogleで検索をかけたとして、基礎知識がなければ沢山の記事を読み、そこから突き詰めていくことになると思うけど、
事前にそれをしておいた場合には、そのときに必要な情報だけを読むことで、
基礎知識に更新情報が付帯されて、アップグレードができるわけです。

なので、同じことを知識量がまっさらな状態の人が行ったところで、その方と同じ認識度へ持っていくには、かなりの時間がかかるとおもいます。
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世界中で発売される本を全部、読む事は不可能だと思いますので、


興味、趣向、利益に関与しそうな本の必要だと推測する部分だけ、目を通しているのでは無いでしょうか。

私は知りませんが、本の読み方としては、上級者なのでは?

私は数年前から、本では無く、ネットサーフィン、ニュース、情報、教えて!GOOを読んでいます。

本では無く、ネット情報を読んでいます・・・・・・・・・・・・・・・

リアルタイム情報収集、興味、利益に関与、関係しそうな事だけ、読んでいます、本に換算すれば、数十万冊は越えていると思います。。。。。。。
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私は三国志を読んだら その中に書かれていた兵法が書かれている項羽と劉邦から中国の歴史書を読んで孔子という風に奥に進んでいきます


桂女から 神功皇后 日本書紀 古事記 同時代の渡来人 朝鮮半島 と進みます。開けて読んでわからない所は辞書を引いて読みますから一晩に1冊が限度です
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あなたも、死ぬ気で、本を読みまくってはいかがでしょうか?読み方のコツは、人それぞれで、あなたが、死ぬ気で本を読む経験から、これは駄目、あれは駄目で、トライアンドエラーで、つかめるものだとおもいます。

正解は一つではない。あなたがあなた自身で、経験を通して、つかむものだとおもいます。
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