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幸福とは何だと思いますか?
私は貧困国に留学して、初めて富が幸福を生み出すわけではないと実感しました。
幼少期からプライベートスクールに通い、大手企業に就職し、日々高級レストラン、高級ホテル、高級車を利用する。
こんな生活を日本で送っても何一つ楽しくありませんでしたし、毎日死にたいと思ってました。

ですが、留学先ではどれだけ皆生活が苦しくても人々と支え合って良好な人間関係、愛情に囲まれ、とても楽しそうに見えました。
そこは「貧乏ほど子沢山で幸せ」な例の典型でした。

心の貧富と生活の貧富とは別物であり、心は日々の人間関係や男女の愛情でしか満たされないものなのではないかと思いました。
心が満たされなければ、どれだけ金や力を得ようが、人生は虚無であり、例えそれらがなくても愛さえあれば幸せに暮らせるのだと気付きました。

これについて皆さんはどう思いますか?

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A 回答 (38件中1~10件)

幸福とは何か。

金か愛か、という問題ではないように思います。というより、幸福とは何か以前に、幸福を感じないのはなぜかについて考えないといけないのではないか。

というのも、日本ではあなたのようにお金がある家庭で育たなくても、普通に公立学校に通って就職して、特に不自由ない生活を送っているにも関わらず、何も楽しくない、死にたいと考えている若者が五万といるからです。
あなたの家庭は愛がなかったですか?想像ですが、決してそんなことはなかったのでは?親の愛情がなかったのなら、別に留学先の外国と比べなくたって良いはずです。国内の愛情のある家庭とない家庭の比較で済むはずです。
親に虐待されていたり、友達にイジメられたり、落ちこぼれだったり、そういう分かりやすい不幸な状況ではないのに、なぜか幸せが感じられない、そういう人が今の日本にはたくさんいます。私も若い頃、ずっとそうでした。
親やその世代は、食っていくさえできない人が世界には愛しかない大勢いるのに、何を贅沢なことを言ってるんだ、と言います。でも自分の悩みが贅沢なんだと認識しても、決して自分の空虚感は埋まりません。
私が感じていたのは、自分が今ここにいる必要はあるんだろうか。自分じゃなくて、誰か他の人でも良いんじゃないか。いま、私に笑顔で話しかけてくれている人は、本当に私に向かってなのだろうか、というものでした。自分が代替可能でないと、誰が証明してくれるのか分からない。

社会に出て、仕事を通して、あるいは結婚して、少しずつ空虚感は埋まっていきました。一番大きな存在は、自分の子供だと感じています。

ただ、多くの若者が感じている居場所のなさ、生きづらさは何なのか。それは解決してはいない。
人生は答えのある問題集を解いていくことではない。愛も金も、幸せになるための大きな要因です。けれども心はもっと複雑で、答えのない問題をずっと問い続けていくしかないのかもしれません。
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愛さえあれば幸せに暮らせるなんて・・・メルヘンの世界に思えます。



金や力があり愛があれば最強な気がします。

心をまずこの世で満たそうと思うのがかなりハードル高いのかなと思いました。

もしあなたがもっと幸せになりたいのであれば今の環境下で自分の中で愛をもっとはぐくめば時々テレビで見るような感動するような人になっているのかもしれないなと思いました。
この人すごいって思う人はたくさんいます。

私のすごいって思う人って育った環境はある程度お金持ちでなんか人を助けるような仕事している人が身近にもいて・・・
その人に対する思いやりとか、誰かを幸せにしてあげたいとか思うのが自分とは比べ物にならないくらいで・・・あなたならそんな人になれそうです。
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貧困とは輝かしい世界に見えるかもしれない。


誰もが裕福になる為に、一緒懸命に生きる為に働いている。
あなたは、その人達に裕福になることは恐ろしい事なんだと言えるだろうか?
貧困の中にこそ、幸せがあるのだと言えるだろうか?

貧困者が貧困から抜け出す為に、もがき苦しみながらも、生きる喜びを感じている時にも、資本家の甘い言葉は掛けられる。もっと一緒懸命に働くと裕福になれるのだと。
それは、資本家にとっては、安い賃金で働く人の宝の山なのだ。
資本家と貧困者は、Win Winの関係なのだ。

貧困国が理想だというのは、あなたの幻影として消えて行く。
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>これについて皆さんはどう思いますか?



幸せについてとかはともかく、学校の宿題みたいな文章だなあと思いました
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あり得ないと思う



愛など幻想でありエゴの極み

経済力、つまり富こそが他人にも自分自身にも愛を与えられる余裕が生まれる
何より家族を守れる

バ◯や貧乏人が想像する金や金持ちは単なる欲と守銭奴であり富豪とは全くの別物
彼らは金を持っても使い方を知らない
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実際はわかりません。


一部のユーチューバーを見てればわかるように、
恋愛ができて、高級マンションや広い家に住み、有名人で金があればそれが幸せ、という人は実際にいます。

また若い時はそのような思考だったのが年をとって田舎で農作業をしてる有名人なんかもいますね。

僕は幸せの形というのはないのだ思います。
ただ、ぼくが思うに幸せな形というのは、8歳の子どもでも想像できるようなシンプルなものだと思います。

これは、例えば財形貯蓄や住宅ローン、キャリアパスや、老後5000万円必要であるとか、クレジットカード、受験やそれについての準備、就職先の優先順位や、恋愛結婚などの複雑な事情を否定するものではないです。
しかし、あまりに社会が複雑化さて、僕らは常に混乱してしまってる気がします。そして本来やらなくても良いものに関わってしまって消耗してしまってる部分はあると思います。

残念ながら僕らがアフガン人やバングラ人になることはできません。
そこで生き、暮らすことはできても、やはり僕らは外国人にしか過ぎないんです。

8歳の子供の幸せ、
つまり、今のぼくなら一応仕事があり、家がある。
家族がいて、大きな病気はない。
たまにスポーツしたり、飲みに行ったり。
仕事では嫌なこともあるが、なんやかんな続いてる。
(行くかどうかは別にして)たまに旅行に行きたいと思ったら行くことはできる。
じゃあ幸せじゃないか?
てことですね。
ここから「足りないもの」を羅列して行くことはできますし、それは事実かもしれないけど、
幸福感は削がれていきますよね。
また、
渇望状態というのは、意外とパワーのでないものですから、日々満足するというのは大切だと思います。
同様な部分で、8歳の子供は、日本の未来なんて考えないわけですから、
日本がイケてるとか、オワコンだ、というような無駄な論争に足を突っ込むのもよくないことです。
大切なのは
「ぼくが」「今」幸せかどうかです。
わがままだとか、アホだとかなるかもですが、
「自分のことや、目の前のことを大切にしていない人に何か言われる義理はない」と思いますし、
ずっと文句ばかり言って世界が悪いとか、未来は暗いとウダウダ言ってる人より、
例えば家族や友達など、目の前の人を具体的に大切にすることが、どう考えても、社会や世界をよくしていくことだと思います。
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相田みつをさんの言葉、「しあわせは いつも じぶんの こころがきめる」だと思います。


最低なのは、他人や周りと比較して、幸不幸を判断することですね。さらに、妬みや嫉妬は、いっそう自分を不幸に陥れるものです。
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いい生活をしてきた富裕層出身者の戯言だと思いました。


キツイ言い方なのはすみません。しかし本気でそう思ったのです。
例えば質問者さんは、日本での生活を完全に捨てて、その幸せな国の幸せな人達の一員になれますか? そこの暮らしができますか?
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今は無い、旧国鉄の駅名だと思います。


記憶にあって、今では実在しないもの...かな。
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心身ともに健康であり、嗜好や思想において健全であることだと思います。



海外での経験を通じて新たな視点を得たことは素晴らしいことです。その発見を共有したいという気持ちはよく理解できます。しかしここでは結論を急がずに「先輩方の過去の発見を振り返ることも人生の楽しみ」の一つだと考えましょう。

以下は長いので興味があればお読みください。

●欲求を充足するから幸せなのだと考えてみる

私たちは「世界を認知する機能」を脳の中に持っています。しかし人の欲求(マズローの欲求の定義によれば)で一番強いのが生理欲求です。これらが満たされなければ幸せを感じません(体の健康)。

そして次に安全・安心や親和欲求(最終的には自己実現や自己超越)へと欲求が昇華します。しかし生理的欲求以外は「体で感知できるものではない」のです。満たされたと自分が認知しなければならないわけです。認知は脳の学習によって変化します。つまりご本人の捉え方によっては「満たされた」と感じられなくなり、欲求が何時までも充足しないのです。

この流れをたどる人生は不幸であると思います。

●マズローの欲求について復習してみる

1.生理的欲求: 食事、睡眠、呼吸など生命維持に必要な基本的な欲求
2.安全の欲求: 安全、健康、経済的安定など安心して生活するための欲求
3.所属と愛の欲求: 家族や友人、コミュニティとのつながりを求める欲求
4.承認欲求: 他者からの評価や尊敬、自尊心を満たす欲求
5.自己実現欲求: 自分の可能性を求め、自己成長を追求する欲求
6.自己超越欲求:自己を超えて社会全体の幸福や発展に貢献する欲求

欲求は現在の欲求が満たされた段階で直ぐに次の段階へ移ります。

朝起きたばかりの時はトイレに行きたいという事しか考えず、ニュースをTV等で確認して安全であると感じると、友人や恋人の事を思い出し、遊ぶ約束などをしたくなる。その後は自分の趣味や成績などで悩み、それらが達成できた後は「次の楽しみ」を探すようになります。

●認知を鍛えないと幸福になれないという真実

マズローの欲求の2番目から6番目は全て「自分でそう感じた」というものでしかありません。つまり想像力を使った認知なのです。例えば他人に尊敬されているのに「想像力や観察力が足りない」ため気がつかないという事はあるでしょう。

「分かり易く言って欲しい。分かり易く感じさせてほしい」

と思ってもそうは成っていないという現実があります。

●「幸福」とは「幸福を感じる自分」である

ここまでから「共感力」「想像力」「観察力」が鍛えられていない「幼いうち」は「認知も正確ではないし敏感でもない」はずです。そのため心は満たされないと考えられますよね。

「青春時代を二度と繰り返したくない」

と言う年配の方もいます。つまり「訓練不足で過ごした期間は決して幸せではなかった」という話でしょう。幸福を感じるためには「基礎的な脳の訓練」を積み上げないと駄目だという事です。そのため幼少の頃は情操教育も含めて想像力や感性を鍛えさせられるのです。

●転落と言う現象

「想像もしなかった不幸な成り行きになる」場合があります。心の健康を損なった場合です。これらは以下の理由から生じます。

・幸福は長い時間をかけて研鑽した脳の学習(共感力、想像力、観察力)
 から生じる。認知の精度が必須の条件となる。

・体の痛みや苦しさ、疲れは、「強い不幸の学習」を実現してしまう。
 短期間で「幸福を感じられない脳」を作り上げてしまう

殆どの人は長い時間をかけて自分が成長したと喜ぶわけです。しかし「一瞬の肉体的疲労や苦痛」で積み上げが消し飛んでしまうのです。こういう危うさを知らないでいると転落(心の健康を失う)を招いてしまうわけです。

●過重労働や虐待が問題である理由

比較的短時間で「数十年分の成長を台無しにする行為」があるという事です。そこにはモラル的な問題もありますが、「肉体への負荷」という「生理欲求を使った」逆学習が存在します。これにより「脳を苦痛しか感じないシステム」へと改変してしまうわけです。

この非効率を認識して「社会のために成らない」と合理的に(人道的に)判断するのが現代社会です。けっして「可哀そう」「悪い事」の様な「反省すれば許される」的な軽い物じゃありません。取り返しがつかない損失であり、他の行為から起きる過失や事故などと比較して「より罪が重い」と(科学的に)考えられるのです。

●セロトニンと言うキーワード

「幸福を感じる自分」とは逆の学習が進行すると、うつ病を発症し「セロトニンの分泌」が行われなくなります。このセロトニンは「幸福を感じる脳内物質」です。つまり何をしても不幸に感じます。私も経験しましたが「まさに生き地獄」です(セロ活で検索してください)

●うつ病は自殺病である

うつ病は軽い症状であっても「自殺しようとする」のが特徴です。私の場合は「つきまとう疲労感」から逃れたいと常に考えていました。しかし「理由なく休めば他の人に悪く言われる」と余計なことを考えてしまうのです。

そんな時、

「あの車に少しかすって怪我をすれば病院でゆっくり休める。
 言い訳になる」

と思ってしまいました。それ以来、車が通ると体が自然に(吸い寄せられるように)車道へ飛び出そうとするんです。初期の状態でも(この様に)自殺しようとします。本当に恐ろしい病気であると思います。

●社会の恩恵と自分の幸福

社会に所属することで多大な恩恵を受けます。しかし現代社会は過去の時代と比較して恩恵の量は物凄い事になっています。私たちはその恩を返せているのでしょうか? 「みんなもタダどりしているので自分は悪くない」こんなことを言い張ってしまいますよね。しかし心はもつのでしょうか?

「負い目がくるしいです。自己肯定感下がります。若いうち
 に突き抜けたいです。何でも良いです。何者かになりたい。
 キラキラを続ければ良いんでしょうか? 何か暗い物に捕
 まってしまいそうです。逃げ切れるかどうか心配です」

この暗い物とは「過去の聖人が受けてきた以上の恩恵を社会からタダどりしている」自分に対しての負い目です。

●現代では古代の聖人以上のモラルが必要

「タダどり」の負い目は「逆切れ」「刹那的なカタルシス」「現実逃避」「諦め」などに結び付きやすいです。社会や政治を攻撃したり、お祭りやイベントに過剰に期待して騒いだり、「人道主義や環境保護」を肯定すれば免罪符を得られると自分に言い聞かせたり、「何をしても無駄だから皆であきらめよう」と呼びかけたくなります。

これらの右往左往としている状態はけっして幸福ではありません。夜寝ている間に高熱を発し、目を覚まさずに「のたうち回っている」のと似ています。今の自分の状態を冷静に分析し「必要な手当て」をする以上に救いは無いと思います。

●考えても良い事は限られている

「不幸を感じる脳に改編する」のを防ぐためには「普段の考えや嗜好」を矯正する必要があります。その時には「これはOK」と言う判断材料や規範が無ければ練習も出来ません。

しかし問題なのは「意味もないし悪くもなる」という”良い事”が流布されていることです。頑張っても体感で改善(快感)を感じなければやる気もなくなります。社会的には混乱も生じます。しかしそういう事態は過去からあったのです。そのため人間の歴史の初期の段階では「これ以外をやったらヤバいぞ?」と言う物が抽出されています。

より簡単に要約されているのが道徳の五常です。

●現代で一番使いやすい規範

道徳の五常は以下の通り。

仁:思いやり 義:社会秩序を願う気持ち 礼:全ての出会いに感謝する 智:合理的な解決を重要視する 信:損得を捨てて行動を共にする

これ以外の思考をしてはいけないと自分を律すると「健全な心」を得られ、「心の健康」を保ちやすいでしょう。勿論、肉体の苦痛はこれらの努力を無にするくらい強いので「体の健康」は第一です。

●まとめ

口の中を怪我していたり、舌が鍛えられていないと「どんなにおいしい物を食べてもおいしく感じない」でしょう。これでは食べ物が勿体ないですよね。楽しい事が無いのではなく「楽しいと感じる力を成長させていない」のでしょう。

世の中がどう変化しようとも「一秒一秒の感じ方」によって「幸福を感じる力」は成長しているのです。私たちは刹那の自分の感じ方を監視し、運転する必要があるのではないでしょうか

「俺は世間に囚われずに自分の心の防壁を作っていく作業
 を休まない」

このスタンスを「天上天下唯我独尊」と言います。幸福は自分の内面から生まれるものであるとは皆さんご存じです。しかし日々の小さな喜びを大切にすることは「思って居る以上に効能がある」と気がついていないのかもしれませんね。そこに気がついた自分を喜ぶことで幸福になるのだと思います。

以上、ご参考になれば。
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