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本性は醜いが、それを自覚した上で自分を戒め性格を正そうと努力をしている人は立派ですか。
それとも本性が本性な時点で醜い人間であることに変わりはありませんか。

A 回答 (9件)

自分の心を見て醜いと気ずいた人は、その時点で醜くありません。


それを知らずに、自分をいい人だと勘違いしている人が世の中に多いです

この世を去った後に本当の自分を見せられます。この世ではごまかせますが、あの世はその人の本質が表れるからです。

刑務所に入らないからいいというものではないのです。自覚もなく悪い事を思い、悪い事をする。他人を苦しめている。人のせいにする。本能なままに異性と関係を持つ。  その人に相応しい地獄に行きます。
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性格を変えることは不可能です。

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質問者さんの定義ではおそらく本性が醜くない人など存在しません。

人はみな心に悪を宿していますが、反面人間は社会的な生き物であり理性と法で正しさを担保しています。「努力する」ことは立派ではなく、結果として理性的で法を守った行動をしているのであれば社会人として立派な人間です。むしろ努力しないと人間らしさを守れないのであれば、努力しなくても守れる人より立派だとは言えません
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本性が「醜い」としても、それを自覚し、自らを戒め、よりよい人格を目指して努力している人は、間違いなく立派です




ただし、「醜い」人間と評価することについては、まずその定義を明確にする必要があります

最初から「本性が醜い」と定義されているなら、その部分については、たしかに「醜い」ということになります

しかし、努力している姿や改善しようとする心は「醜い」とは言えません、それはむしろ尊いものです

つまり、一人の人間の中に「醜い部分」と「立派な部分」が同時に存在することもあるのです。

人間全体としての評価を行う際には、どのように全体を判断するかという基準が必要になります

たとえば、

一部分でも醜ければ「全体として醜い」とするのか、

改善に向かう姿勢を重視して「全体として立派」とするのか、

など、評価の仕方によって結論は変わってきます。


つまり、最終的にはその人をどう見るかという判断は、評価する側の基準に委ねられるということです

ですが、少なくとも努力する姿勢は、誰が見ても敬意を払うに値するものですし、本性が「醜い」と定義するならば、そこは「醜い」と正確に表現する必要があるでしょう。
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性格の矯正は難しそうですが、思考や言動を主観的客観的に妥当なものへ近づける努力は立派です。

そうしない場合より倫理的なので。
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例えはわかりますが


「自分の本性が醜いことを自覚してそれを正そうと努力している」時点で
すでにその人の本性は醜いとは言えないのでは?
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立派です。

自覚していない人もいますから。
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あなたの言う「本性」って何ですか?


「本性は醜い」と「れを自覚した上で自分を戒め性格を正そうと努力をしている」ってもろ矛盾してますけど。
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この回答へのお礼

例えるなら嫉妬深い人間がいたとして、その一面を自覚した上で他人の足を引っ張ったりはせずに嫉妬深い一面を直そうと努力をしているということです。

お礼日時:2025/05/24 15:14

立派です。

世の中自分の至らないところと向き合い、悔い改められる程の余裕がある人は、あんまりいないから、自覚できないし、自分に向き合えるほどの知能を持ち合わせていないひとも、少ないからです。
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