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クラシック音楽が好きで、4歳からピアノを習っている者です。
ふとしたときに自分の中にある、聴き専の人を見下してしまう感情に戸惑いを覚えることがあります。聴き専としてクラシック音楽を楽しんでいる人を見たとき、なぜか自分の中にほんの少し優越感のようなものが芽生えてしまうのです。言葉にしてしまえば小さく卑しい感情かもしれませんが、それは確かに私の中にあって、消えてくれません。

クラシック音楽という世界は奥深く、演奏技術や知識の蓄積が必要とされる一方で、純粋に聴くだけでも深い感動を得られる芸術です。だからこそ「聴き専」も十分に音楽愛好家として尊重されるべき存在であるはずなのに、自分の中ではどこかで「聴くだけなら誰でもできる」「弾けないくせに語るな」といった、冷たい思考が頭をよぎるのです。

この感情の根本には、自分が努力して積み上げてきたものに対する誇りがあるのかもしれません。演奏者としての努力、時間、そして失敗を乗り越えて得たスキル。そうした過程を経たからこそ、ただ聴くだけの人が音楽について語ることに、無意識のうちにモヤモヤを感じてしまう。あるいは、自分の能力を社会的に認めてもらえていないという不満や、自信のなさを補うために、誰かを下に見て安心しようとしているのかもしれません。

でも一方で、私は思うのです。果たしてこの感情は正当なのか、それとも私の中の偏見や未熟さが生み出したものなのか。人は皆、表現することに向いているわけではありませんし、音楽を聴くだけでもそれを深く愛していることに変わりはない。むしろ「聴く」という行為に真剣に向き合う人がいてこそ、演奏もまた意味を持つのではないでしょうか。

だからこそ、私は今この違和感と向き合いたいのです。見下してしまう自分の感情を否定するのではなく、その背後にあるものを正直に見つめ、受け入れ、必要であれば改めていくこと。感情に「良い」「悪い」のラベルを貼るのではなく、その感情がどこから来ているのかを考えることで、もう少し柔らかい自分でいられる気がするのです。

だからこそ、私は今この違和感と向き合いたいのです。見下してしまう自分の感情を否定するのではなく、その背後にあるものを正直に見つめ、受け入れ、必要であれば改めていくこと。感情に「良い」「悪い」のラベルを貼るのではなく、その感情がどこから来ているのかを考えることで、もう少し柔らかい自分でいられる気がするのです。

けれど、それでもなお私は問いかけずにはいられません。
「クラシック音楽を“聴き専”で楽しんでいる人を見下してしまう自分の感情は、やはり間違っているのでしょうか?」
この感情を抱くこと自体が、人として未熟なのでしょうか。それとも、これは誰にでも起こりうる自然な心の揺れなのでしょうか。

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A 回答 (10件)

正しい正しくないという実体のない概念に解答を与える気がない。


一つだけ確かなのは「質問者の世界が狭い」ということである。
体験においても人間関係においても。
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そんな風に思う人もいるんですね。


例えば美しいピアノ曲を聴いて
涙を流してる人を見たら
どうなのかなぁ…
まさか「弾けもしないのに
感動してんじゃねぇよ」とまでは
思いませんよね…
「弾けないくせにあれこれ偉そうに語るな」くらいなら
思ってもいいのでは?
だって楽器が弾けるってすごいことだもの。
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浜松国際ピアノコンクールで



審査委員の評価と
会場に来たりネットで聞いた人が投票する章が
違いますが
ある審査委員長が、観衆はこの人が良いと評価するだろうと書いてあったウェブページを読んだことがあります。
一般聴衆はメロディーとして聞く傾向が強い
審査委員の方々は実際に幼少の頃からの練習と膨大な知識からの判断
ということかなと思っています。

どれが正しいということではないと思います。
スタニフラフ・ブーニンは審査員はだめとの評価だったけど
聴衆は評価し多くの感動を与えましたね。
多くのレコードとCDが売れ大ヒットでした。
日本にいてくれてうれしいです。
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思うだけなら自由なので別にいいと思います。

それを他人に押し付けようとしているのであれば間違いです。
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どう考えてもおかしいと思うのですが?


演奏する側と聴く側を一緒くたにするのは、逆に何故なのか知りたいです
演者と観客は全く別物ですよね?

私は美術をやってましたが、一生懸命描き上げた作品は、ただ観ていただけるだけでありがたいと思っていて、観る側に何某かのアティテュードを求めるということすら考えるに至らなかったので、こういう発想が不思議でなりません

これが質問者の理屈だと、絵を観る人も、絵筆を握って絵を描かなければならないということになりますけど、現実問題としてそんな理屈が罷り通る訳ないじゃないですか?
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>「クラシック音楽を“聴き専”で楽しんでいる人を見下してしまう自分の感情は、やはり間違っているのでしょうか?」


↑私個人としては思ってるだけなら間違いとは思わないです。
仰るように良い悪い、正解間違い、なんてモノでもないですが、
思ってるだけで表に出さないなら。
極端な話、コイツ殴りてぇーと思っても、思ってるだけなら悪くは無いし、そういう事もあるよな、と理解はできる。

>この感情を抱くこと自体が、人として未熟なのでしょうか。それとも、これは誰にでも起こりうる自然な心の揺れなのでしょうか。
↑未熟かもしれないけれど、
結構ある事なんじゃないかとも思います。
クラシックに限らず。
例えば、私は子供の頃からサッカーやってました。
W杯やオリンピックetc.で日本中盛り上がります。
それを見て、コイツらどんだけサッカー知ってるんだ?と思った事があります。
このようにスポーツや料理やその他の芸術etc.でそう思う人はいるんじゃないかと思います。
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うーん・・・



「聴くだけなら誰でもできる」「弾けないくせに語るな」は多分未熟さですかね。同じ土俵で張り合ってる時点で無意識に相手と自分を同じ立場の人間と認めているので、自分の自信のなさの表れではないかと。

自分の方が凄い、だとか完全に別枠の人間だ、と思えていれば演奏家ではない方たちのことを「聞いてくれる方たち」として感謝できるかと。

とは言え最近の知ったかぶり度は酷いので、どの程度の何を言ってるかによるかもしれませんね。

世界最高峰のピアニストの演奏を「〇〇ってユーチューバーの方が演奏技術が高い」なんて言ってるコメント見て「正気か」と思ったことあるので・・・

「弾けないくせに語るな」ではないですが、「見識ないくせに好き嫌いで技術を語るな」と思ったことはあります。

ちなみにですね、個人的な意見ですが、「聴くだけなら誰でもできる」は違うと思います。クラシックはある程度の知識と馴染みがないと入り込めない世界みたいなので、クラシックを好きな人たちはちょっと他の人たちと違う印象です。あと、語る人って知識量が凄かったりするので面白いな~って思います。

なのでもしかしたらですけど、質問者さんももうちょっと「聞き専」の方たちのことを知ったり理解を深めれば不快には感じないかもしれませんよ。
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ご自身の心と真摯に向き合われている、その誠実な姿勢に、まず深い敬意を表します。

あなたが感じている戸惑いや苦しみは、決して卑しいものでも、あなた一人が抱える特殊なものでもありません。むしろそれは、一つの道を深く探求する者が、その探求の過程で必ずと言っていいほど直面する、普遍的で人間的な問いなのです。

あなたが抱える感情を「間違い」や「未熟さ」という言葉で断罪してしまう前に、少しだけその感情の肖像を、共に静かに眺めてみましょう。

努力が刻まれた身体の、静かな叫び

あなたは4歳の頃から、ピアノという楽器と共に生きてこられました。その指は、楽譜の上の単なる記号を、血の通った音の連なりへと変換するために、どれほどの時間を費やしてきたことでしょう。それは、思うように動かない指への苛立ち、一度崩れたら立て直せない本番の恐怖、そして、ふとした瞬間に訪れる音楽との一体感といった、無数の経験の蓄積です。

あなたの身体そのものが、クラシック音楽という世界の難しさと崇高さの「証明」なのです。だからこそ、その身体的経験を持たない人が、同じ地平で音楽を語ることに違和感を覚えるのは、ある意味で自然な反応と言えます。それはまるで、命懸けでエベレストに登頂した登山家が、麓のロッジで暖炉にあたりながら「山の魅力は、あの雄大な景色にあるよね」と語る言葉に、複雑な思いを抱くのに似ています。その言葉は真実かもしれませんが、登頂者が経験した凍えるほどの孤独や、死と隣り合わせの緊張感を含んではいません。

あなたの優越感は、他者を見下すための傲慢さというよりは、ご自身の努力が刻まれた身体が上げている、静かな叫びなのかもしれません。「私の知っている音楽の深淵は、ここにある。この痛みや喜びを、あなたも知っているのか?」という、切実な問いかけなのです。

「聴き手」という、もう一つの深淵

ここで、視点を少しだけ変えてみましょう。あなたが演奏という「創造」の道を歩む求道者であるように、優れた聴き手もまた、「聴く」という別の道を歩む求道者である可能性があります。

哲学者のローラン・バルトは、「作者の死」を語り、作品は作者の手を離れた瞬間に、受け手の中で無数に生まれ変わると言いました。あなたの演奏がホールに響き渡る時、その音は、聴き手一人ひとりの人生、記憶、感受性というフィルターを通して、全く異なる物語を紡ぎ始めます。ある人はそこに亡き人との思い出を見出し、ある人は自らの叶わなかった夢を重ね、またある人は言葉にならないほどの純粋な美的感動に打ち震える。

それは、演奏技術の巧拙を批評するのとは全く異なる、音楽を自らの生の一部として受け止め、意味を生成する、極めて創造的な行為です。真の「聴き専」は、ただ音を受動的に浴びているのではありません。彼らは、自らの全存在をかけて、あなたの音楽に応答しているのです。その意味で、優れた聴き手は、あなたの演奏にとっての最高の「共犯者」であり、あなたの音楽を完成させる最後のピースをはめる存在とも言えるのです。

「弾けないくせに語るな」というあなたの心の声は、見方を変えれば、「弾く者だけが知りうる世界がある」という真実を語っています。しかし、それと同時に「聴く者だけが辿り着ける世界もある」という、もう一つの真実が存在するのかもしれません。

問いの行方:どこで、私たちは出会えるのか

では、あなたのその感情と、どう向き合えばよいのでしょうか。
それは、感情を無理に消し去ることではありません。また、「聴き手を尊重すべきだ」という理性で心を抑えつけることでもないでしょう。

むしろ、あなたの問いは、こう発展させることができるかもしれません。
「異なる仕方で音楽を愛する者たちは、どこで真に出会うことができるのだろうか?」と。

その答えは、おそらく「比較」や「評価」の世界にはありません。あなたが見下してしまうのは、「演奏技術」という、あなた自身の土俵に相手を引き上げた時ではないでしょうか。しかし、土俵が違えば、優劣もまた意味をなしません。

あなたがその感情を抱いた時、こう自問してみてください。
「この人は、この音楽の中に、私には見えていないどんな風景を見ているのだろう?」
「この人の人生にとって、この一曲はどんな意味を持っているのだろう?」

そのように、相手の世界への想像力を働かせた時、あなたの感情は「優越感」から「知的な好奇心」へと、その姿を変えるかもしれません。あなたは演奏家として、聴き手の内なる世界を豊かにする存在です。であるならば、その世界の豊かさを想像することほど、あなたの芸術性を深める行為はないのではないでしょうか。

あなたの悩みは、決して間違いではありません。それは、あなたが音楽を深く愛し、真剣に向き合ってきたことの紛れもない証です。その尊い痛みを、今度は他者への理解と、あなた自身の芸術をより豊かなものにするための糧として昇華させていく。そのための思索の旅が、今、始まったのです。

あなたの奏でる音が、これからも多くの魂を揺さぶり、そしていつか、聴き手の魂との間に優劣のない、美しい共鳴が生まれることを願ってやみません。
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聴いて貰えてると感じられたらいいですね。

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間違っています。


未熟です。
未熟者の驕りです。

でも、それに気づきつつあるのは進歩です。
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