出産前後の痔にはご注意!

自分の母親を亡くす経験は誰でも一回だけしか無いので困ってしまいます。落ち着かないです。

母とはもう大分前から会話不可能な状態です。脳梗塞なので。医者は老衰だと言ってます。ひどくやせていて何も食べません。ただ苦しそうに息をしているだけです。

哲学者は「母の死」について、何か書き残しているでしょうか?あるいは身近な者の死について。

あなたは母の死を経験された事がありますか?その時、何を感じ、どう納得されましたか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (10件)

つらいですね…。


もうぢき40歳になる独身女性です。

> 哲学者は「母の死」について、何か書き残しているでしょうか?あるいは身近な者の死について。

こちらについては、分かりませんので、

> あなたは母の死を経験された事がありますか?その時、何を感じ、どう納得されましたか?

こちらの立場から書き込みをしたいと思います。

私は2001年9月に母を亡くしました。
母は62歳、私が35歳の年でした。
私の誕生日の2日前に逝きましたので、あえて、私の誕生日に葬式をしてもらいました。

2001年3月に胃がんであることが分かり手術。
その後、細胞検査でスキルスであったこと、余命が半年であることを、医者は私に告げました。
その当時、家族は、父・母・私・弟・祖母(父の実母)・伯母(父の実姉)でしたが、祖母は入院しており、弟は勤務地が自宅から離れていたため勤務先の寮に入っていました。
父は定年退職した後で時間が自由に使えたことがせめてもの救いでした。
伯母も持病を患っていましたので、父と私の2人で、祖母と母の病院(別々の病院に入院していました)を1日に何度も行き来していましたね。
母の場合、肺梗塞を起こして5月に一度危険な状態がありました。
ですが、もちなおしてくれて退院もし、その後3度目の入院をし、病院で亡くなりました。
やはり食物を経口摂取することができませんでしたので、徐々に弱っていき、立てなくなり、亡くなる2日前、アメリカで同時多発テロが起こった9月11日から癌性昏睡に入り、13日の朝、亡くなりました。

12日から仕事を休み、父と2人で病室に泊まりこみ、2人で最期を看取りました。
鎮痛剤のおかげもあったのか、特に苦痛を訴えることもなく、最期が眠るようであったことだけは、せめてもの救いだったと思っています。

「ああ、いなくなっちゃったんだ。」と思いましたね。
納得-という点については、小学生の頃に祖父の死も見ておりますせいか、それとも、徐々に弱っていく母の姿を見ていたせいか、「母の死」も抵抗なく受け入れたカンジがします。
私にとって、「死」は「無」です。
母を思い出せるモノはたくさん残っていますが、母は「無」いんです。
特に、母の死後、自分が嬉しい体験や素敵な体験をするたびに、母がいないことを感じます。母にもこの体験をさせたかった-と感じて。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

母は死にました。
私がその晩書いたものを読んで下さい。

 「今日、母が死んだ。未知なる、畏敬すべきものから与えられた才能の全てを、生命エネルギーの全てを完全に使い切って死んだ。

 私には母の最期の写真が残された。誇り高く、かっと目を見開き、口をしっかりと結んだ写真だ。最後まで戦う事を止めなかった写真だ。私に負けるな、しっかりしろと言っているようだ。私に人生で最も価値あるもの、最も重要なものを、その最後の時となっても、なお教えようとしているようだ。脳の大部分を破壊され口もきけなくなった者は、もう何も価値あるものを伝える事はできないというのは誤りだ。

 もし、私が書いたものを読んでいる人の母親が健在なら、あなたはとても幸運な人だ。あなたは母親といくらでも話す事ができるのだから。あなたは例えば、レストランに母親と行く事ができるし、母親と何か簡単なゲームをする事だってできる。そして、できれば一日一度は母親を抱きしめてあげてほしい。

 あなたはできるだけ母親と長く過ごすべきだ。母親はあなたにとって唯一の偉大な教師だ。母親から学ぶ事より価値あるものを、あなたはどんな教師からも学ぶ事はできない。

 楽しい事ばかりでなくても良い。母親と日常のこまごまとした苦労を分かち合ってほしい。一緒に苦しみ悲しみ喜ぶ事だ。

 あなたは気づいているだろう。私がこんな事をいうのは私がそれらの事を何もしてこなかったからだという事を。そう、私はあなたがうらやましいのだ。あなたに嫉妬しているのだ。あなたは私が望んでも、もう時すでに遅くできない事を、いくらでもできるのだから。

 私が悔やんでも悔やみきれない事は、私が一度も母の事を好きだと言わなかった事だ。逆に、愚かにも嫌いだと言ってしまった。その時の母の悲しそうな顔が忘れられない。その時以来、母は私の顔を見て微笑まなくなった。

 しかし、まだその時は、私がどんなにかけがえの無いものを失ってしまったのか気づかなかった。私がその事に気づいたのは、母の死後、母がうれしそうに微笑んでいる写真を見た時だ。何という事をしてしまったのだろう!私は太陽を沈めてしまったのだ」

お礼日時:2005/08/12 15:30

お母様がお亡くなりになられたとの事、ご心痛お察し申し上げます。

実は私(男54歳)も昨年の6月に同じ思いを致しました。

丁度質問者さんと同じ状態で脳梗塞から始まって痴呆、老衰、臨終と相成りました。その間8年。始めの6年間は自宅療養、妻と二人で三度の食事を面倒見、残りの2年は入院し病棟と介護の往復。
一般的には悲しいのでしょうが私の場合は妻が長年看護してくれ自営と云う事も有って二人で充分面倒を見たつもりです。

ですから後悔は有りません、むしろ人は必ずその命をいずれ地球に返す時が来る訳で84年間有難うございました(母を生かしてくれて)と言う思いでした。
今でもあれ以上の面倒見は出来ないと思っています。肉体的にも精神的にも。妻にはとても感謝しています。

しかし感情面ではあのような状態でもやはり生きていて欲しかったとも思う事がありますがこれは自然な気持ちなのでしょうね。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

脳梗塞は恐ろしいですね。他の病気もそれぞれに恐ろしいですが。今思えば、脳梗塞になりにくい食事とか、方法が有ったのではないかと思ってしまいますが、後から言ってもしょうがない事です。

お礼日時:2005/08/24 10:46

前に死ぬ人は、耳が最後まで聞こえていると聞いたことがあります。



だとすれば、お見舞いに行ったときとか、耳元で今日はどんな事があったとか話しかけてあげるのが良いのではないでしょうか。
苦しんでいるのであれば、自分の子供が話をしてくれる事が唯一の救いとなれば良いのですが。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ありがとうございました。
母は死にました。もう永遠に苦しむ事はありません。少なくともその事は救いです。
母は残された唯一のそして最善の選択肢を選んだのだと思います。生きている時は「生きる」という唯一の選択肢を選び、そして死ぬ時が来れば「死ぬ」という唯一の選択肢を選んだのです。

お礼日時:2005/08/17 18:59

お母様が旅立たれたとのこと、心中お察し申し上げ、謹んでお悔やみを申し上げます。



お礼をありがとうございます。
「母親から学ぶ事より価値あるものを、あなたはどんな教師からも学ぶ事はできない。」
という一言に、私は特に胸を打たれました。
傍からみれば簡単なことかもしれませんが、特に毎日の食事を作っていて特に思います。
「母の味」に慣れ親しんでいる自分がいるんです。
それが出せないとき、いくら家族から「おいしい。」と言われても、「自分が欲しい味はこれじゃない。」って思っている自分がいるんです。
私の母は、さほど料理が得意な人ではありませんでしたが、それでも、得意料理はありました。
今、それが食べたくても食べることができません。
生前、作り方やコツを聞いておけばよかったと思います。

「そう、私はあなたがうらやましいのだ。あなたに嫉妬しているのだ。あなたは私が望んでも、もう時すでに遅くできない事を、いくらでもできるのだから。」
本当にそうです。
私は他人に嫉妬しています。
母親が生きている友人、知人に嫉妬します。
母の余命宣告をされた後、それでもそんなことは他人には言えず、日々を送っていた頃思いました。
お風呂の中で声を殺して泣きながら思いました。
他人に「大変だね。がんばってて、偉いね。」と声をかけてもらった後が多かったです。
「誉めてもらえなくてもいいから、私から母を奪わないでくれ。」と。

幸いにも、私は母に対して「嫌い」という言葉を言わずに済みました。
母と娘、2人の時間もたくさん持つことができました。
私は幸せだったのですね。
ありがとうございました。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

再びの回答ありがとうございます。
今はだいぶ冷静になりました。恐らく、これは私の勝手な思い込みでなければ良いのですが、母も残された私達がいつまでも悲しみ続ける事を望んでいないと思います。むしろ毎日を喜びと共に生きる事を望んでいるでしょう。そう考えるのが人間の文化、宗教なのだと。哲学者(忘れていましたが、ここは哲学カテですから一人位哲学者を登場させましょう)プラトンは「宗教は高貴な嘘である」と言ったとか。母は天国に行ったのだ。そうだとすれば、母の死は悲しむべき事ではなく、むしろ祝うべき事なのでしょう。

お礼日時:2005/08/17 18:43

お気持ち、お察しいたします。


精神的にも肉体的にも大変な時でしょうね。

以前読んだ本が多分お役に立てると思い内容をお知らせします。

潮文社刊「シルバー・バーチの霊訓」というシリーズです。イギリスの心霊シリーズで、この手の本のバイブルともいえる物で今まで(第一次大戦ころから)多くの欧米人に読み継がれているベストセラーです。

その中の悩みの相談で肉親を失った人が沢山出てきます。皆嘆き悲しみ、苦しみ、辛くて忘れられずに相談に来た人ばかりです。

そういう人にたいしてシルバー・バーチはこう答えます。
「そんなに嘆かないで下さい。あなたの肉親は、今でもあなたと共にいます。すぐそばにいるのですよ。いつも力になろうとしています。

死はあなた方にとって悲しみでも、死者にとっては苦しみからの解放です。自由になり、とても幸福な状態になります。あなた方は別れを悲しみますが、私たちからすれば、帰ってきたことを祝います。

お言葉ですが、あなたの涙は、あなた自身のための涙です。置いてきぼりにされる自分が寂しく辛いのです。

でも安心して下さい。いづれ霊界で再び会うことが出来ます。死は一時的なもので魂は永遠不滅です。あなたが勤めを果たしこの世を去るとき、いつもあなたと共に在り、見守っていた事に気づくでしょう。

この世は、負債を返すための修行の場です。あなたの肉親は見事その務めを果たし終えて、帰還されたのです。

死の床の苦しみはその人にとって最後の試練であり、修行です。それを乗り越えて、やり抜いて、見事に亡くなっていくのです。

ですから、あなたはそんな肉親の最後の戦いが滞りなく運ぶよう、安らかに旅立てる様、肉親の心の平和を祈りながら見とって差し上げて下さい。

あなたにそんな体験をする機会を与える事が、あなたへの肉親からの最後のプレゼントなのです。

あなた自身はその務めを厳粛に果たしてください。
その事が、その後のあなたと肉親にとっても大変大きな意味を持ってきます。

さあ、気を取り直し、心を静めて、冷静になって、自分の務めを自覚し、乗り切って下さい。あなたのまわりのたすけてたちが援助をするために沢山詰めていますよ。
ですから大丈夫です。心配しないで落ち着いてあなたのお母さんに今までの感謝の念を送り続けてください。
お母さんにはちゃんと伝わり、その念がお母さんを勇気付け、励まし、安らかに渡る助けになるのです。」

いかがでしょう。大体こんなことが書いてありました。
お役に立てれば幸いです。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ありがとうございました。
人類は長い時間をかけて死の苦しみ悲しみを克服する方法を考え出してきました。それが人間の文化であり芸術や宗教なのでしょう。もし死が無かったらそれらのものも無かったかもしれません。だとしたら、母の死も含めあらゆる死は無意味ではないのでしょう。そう思えば、いくらかは慰められます。

お礼日時:2005/08/17 18:25

わたしは両親ともなくしています。


母は今年の2月に逝きました。
思うことは、皆さんと同じです。居ないと言う事実。そこにいたという思い出。耳に残る言葉。このむなしさ、寂しさ。いったいいつ癒されるのか。約束された悲しみではあっても、そのための心構え、教えは体験でしか得られない。自分を慰められるのは自分だけ。
わたしの母は、大きな手術をして、処置室に戻ったとき、そばにいたみんなで大きな声で名前を呼びました。
回復してから、その時のことを母は「きれいな花畑を歩いていくと、後ろからみんなが呼ぶ声が聞こえて来て、踵を返してもどった」と言いました。
そして、逝ってしまったいま。母は「きれいな花畑」を今度は振り返らず歩いていったんだな、、、と思っています。
今、わたしにも子供がいます。いつか、わたしが死ぬとき、この子供も同じような、悲しみに合うのかなと思うと、それがかわいそうです。
母は、両親はもちろん、弟も先に亡くしています。その他に兄弟、子供、親戚が居ます。でも、その人たちとの、悲しみの別れをもうすることは有りません。それが良かったかどうか、、、、わたしはそう慰めています。もう、つらいことも、悲しいことも、、、感じずに済むんだよ、おかあさん。。。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

母が死んで、時間が経つと分析的な話をしてしまいます。母の兄弟の戸籍謄本とか見ると兄弟が何人も、それも生まれて数日で死んでいる事を始めて知って驚いたりしています。今でも例えばアフリカなどではそうなのでしょうが・・・

お礼日時:2005/08/17 18:17

哲学の話はできませんが・・・



今年の3月に母を亡くしました。何回も救急車のお世話になりながら約2年半の間、脳梗塞で7回も入退院を繰り返し、次第に体が弱っていました。

でもまさか死んでしまうなんて想像出来ませんでした。家にいるときは毎朝トイレの介助やら食事の介助をしていました。入院したときは仕事を終えて毎日のように母の顔を見にいきました。

はじめのうちは車椅子につかまりながらでも、自分で歩いていましたが、だんだんと自分では歩くことができなくなっていきました。病院食はまずいと言って食べずにいたこともあります。それでも意識ははっきりしていたし、私の顔を見て喜んでくれていました。

ある日、突然呼吸が困難になり緊急入院をしました。医者は危険な状態だと言いましが、本人は意識もあって「大丈夫だよ」と答えてくれました。でもその翌朝には最後の旅に出てしまったのです。

午前5時前に病院から呼び出しの電話が来て、あわてて見に行きましたが、すでにこの世の人ではなくなっていました。まだ暖かい母の体に触れながら泣きました。娘がついてきていましたが、恥ずかしいと言う気持ちはありませんでした。

その後、お通夜、葬式で忙しく振り回され、悲しんでいる暇はありませんでした。毎朝犬の散歩に出るときには、薄暗い中を歩きながら涙が止まりませんでした。もっといろいろお世話をしてあげられたら良かったのにと、悔いることしきりです。

悲しいとか寂しいという言葉ではとても表現できません。死んだことが信じられないです。でも現実は受け入れるしかありません。そういう気持ちになれるにはしばらくかかりました。

今あなたがお母さんにして上げられることは何でしょうか。少しでも永い時間、一緒にいてあげるのが最善のように思います。

取りとめのない文章ですみません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

誰が言ったのか「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭は皆それぞれに違っている」という言葉を聞いた事があります。人間がこのように感じるとすれば、恐らく、人間の脳細胞は不幸を処理する部分の方が幸福を処理する部分よりはるかに大きく多いのではありますまいか?だって人間は幸福では死にはしないでしょうが、不幸で死ぬかもしれませんから。だから、不幸の対処により多くのプログラムが用意されていても不思議ではないでしょう。

お礼日時:2005/08/17 18:05

男です。


母の死は体験していませんが父の死は体験しました。
せめて生きている間に孫の顔は見せたかったです。
今は子供2人に恵まれ、私の母と同居していますが
「オヤジも生きていれば孫に囲まれ楽しかっただろ
うな」と時々思います。

早いか遅いかの死骸でいずれ死はやってきます。
お母さんより先に逝かな
かった事がきっと親孝行になっていますよ。

たしかに悲しいですが、避けて通れません。
避けて通れないからには悲しんでばかりいないで
ください。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

確かに親を亡くした人は、まったく珍しくありません。正直言って人間はそれに耐えていけるのだなあと思っています。人類はそれに何万年も耐えてきたのですから。

お礼日時:2005/08/17 17:53

大変ですね。

なんて言葉をかければいいのかわかりませんが。
私は元葬儀社に勤めていました。母親を亡くした人をたくさん見て、話を聞いてきました。

たとえ、遠くにいたり年を取ったりして頼っていない親でも「親が亡くなるって感覚は、今までそこが壁だったのに、まるでのれんのようになった感じ」だと言ってました。あるはずだと思って壁に手をついてみても、のれんのように通り抜けてしまうような・・って。

私自身は親が健在なので、こんなアドバイスしかできません。
何年も前に母のおなかに腫瘍ができたときは、検査の結果が出る前にお互いに妙に覚悟して「前から言おうと思ってたけど・・」とお墓の話をしたことがあります。結果は良性だったのですが、あの時の不安な気持ちが百倍くらいになったような感じなのでしょうか。

なんのアドバイスもできないのですが、あんまり悲しくて書き込みました。
すみません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

悲しみには幾通りもの悲しみがある事が皆さんがたのメールで分かります。おかしな事を言うようですが、恐らく人間はそれに耐えるようにできているのだと思います。そうでなければ人間は滅んでしまっているでしょうから。

お礼日時:2005/08/17 17:45

亡母はガンで他界しました。

オイラは単身赴任中で自宅を離れていたので(同居ではないが同じ市内に暮らしてました)、死に目にも会えませんでした。親不孝な息子でした。
葬式のあと、がらんとした実家に入ったとき泣きました・・・。
その後、子供が産まれましたが、死んだ母には見せてやることも出来るはずがなく、後悔先に立たずというか、死というものは厳格で取り返しのつかないものなんだと痛感しました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

現在は時間が癒してくれるのを待つだけです。

お礼日時:2005/08/17 17:37

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q母の死

4/17 夕方、最愛の母が永眠しました。

昨年の10月に膵臓がんが見つかり、約半年の闘病をしていました。私は小さい時から母が大好きで、この世で絶対に起って欲しくないことは「母の死」でした。

母が死ぬくらいなら、自分が死にたい、死んだ後、精神的に耐えられないと思ってました。ですから、昨年夏頃から調子が悪く、行きつけの病院に行っても原因が分からないとの事で、地域の大病院で精密検査した結果、家族が先生に呼ばれ「病気と治療方針」について病院で説明がしたいと連絡を受けた時は、非常に嫌な予感がしました。

その日の朝は朝一番で近くの神社に行き、神主さんに祈祷をして頂きました。家族と病院に向かう途中「痛いのは胃だと言っていたので、最悪胃がんかも知れない、しかし、胃がんであれば手術が間に合うかもしれないし、今日はその説明かも知れない」とそれだけが頭の中にこだましていました。

しかし、医師から出てきた言葉は「膵臓にがんがある、進行がんでステージ4a、がん摘出手術は出来ない、バイパス手術も出来ない、ステント挿入手術をしたいがそれも成功するか分からない」との事でした。母はその時点でも毎日の様に嘔吐していましたので、元々小太りだった体型はかなり痩せてしまっておりました。

涙がボロボロと流れて止まりませんでした。医師からは具体的な余命は告げられませんでしたが、事の深刻さは分かりました。

それから母は放射線治療と抗癌剤治療を受けることを選択し、3週間後に退院してからは自宅からの通院治療を続けました。

退院後も母は前向きに生きていました。それは恐らく、がんになっても何年も生きている人が居ると言う事や治療の効果を期待していたんだと思いますが、私はネットや本、がん患者の家族会に参加したりして聞こえてくる手術が適応出来なかった場合の末期すい臓がんの現実を知ると1年は持たないだろうとは思っていました。

ただ、その時は現実には母は生きているし、同じ家に住んで話もしたり、TVを一緒に見たりしていたので絶望と言う気持ちではなかったのです。ただ、今年の正月の時に家族が集った時に全員で迎える正月は最後だろうなと思って凄く寂しくなりました。

今年の2月に主治医から「検査の結果、抗癌剤治療は中止し、今後は緩和ケアに移行したい」と説明を受けたと母が言いました。その時に母は非常に不安になり初めて弱気になりました。

母、そして家族と相談し、病院が斡旋する在宅看護を受けつつ、他の治療法を探す事にしました。
そこで、4月の初めにセカンドオピニオンとして国立がんセンターに資料を提出し、見解を聞きました。当初、母も同行する予定でしたが、すでに家から外出するだけの体力も無くなっており、私一人で訪問しました。

そこの先生の話では「データを見る限り、早ければ2週間後、長くても一ヶ月持たないでしょう」と言われました。私は久々に大泣きしました。

家に帰ると母は「どうだった?何か他の治療とか紹介された?」と聞いてきました。
私は本当の事は言えずに「先生は、薬は無い訳じゃないけれど、今は体力が落ちているので、その薬が飲めるようになるまで体力を戻す事が先決だと言っていたよ」と伝えました。

母は久々に嬉しそうな顔をして「じゃ、お母さん頑張って食事取るね」と言いました。私は自分の部屋でわんわん泣きました。

実はもう一つ、母には隠していた事がありました。3月一杯で10数年務めた会社を辞めていました。
退職は会社から解雇通告されたからです。解雇理由は「ここ一年の仕事のパフォーマンスが低い」からとの事でした。

私の会社は外資(アメリカ)で確かに成果に厳しく、社員の出入りは激しいです。自分自身良くこんな自分でも10年以上居れたなと思っていました。パフォーマンスの低下は精神的な影響は多分にあったと思います。会社からはパッケージの提案があり、私はそれを承諾しましたが、1つお願いをしました。

それは退職時期を1、2ヶ月遅らせて欲しいと言う事です。理由は、母は私が働く姿を喜んで居てくれていて、このタイミングで自分が無職になったら母に余計な精神的ストレスを与えてしまう、それで死期を早めるような事があっては絶対にならないと考えたからです。

会社が提示した退職は3月末でしたが、自分は母の状況の事を説明し、4月若しくは5月まで延期してくれないか。3月一杯で社員待遇は終わり、身分はバイトでも何で良いから、そして約束の時期がきたら必ず退社すると必死に食い下がりました。上司は一旦は懐柔を見せ、マネージャー会で検討させてくれと言ってきました。

1週間後に上司に呼ばれ「検討したが、決定は変更できない」と言われ3月退職が決まりました。
その時点で私は会社には完全に愛想が尽きていたので、すぐにパッケージにサインし、4月からは「会社からは家族の状況を相談したら介護休暇と言うのをもらえた、だから、当分は自分が母さんの身の回りの世話をする」と家族に説明しました。母は喜んでいました。

母が「あんたは良い会社に入っているね」と喜んでいるのを凄く苦々しく感じましたが、一方これで一緒に入られると嬉しかったです。

在宅でしたので、自力ではトイレも行けなくなっていて、おむつの交換、座薬を入れるなど私と家族で行いました。母は「男の子にこんな事してもらうの恥ずかしい」と嫌がっていましたが、私は「そんな事気にするな、恥ずかしがっている場合ではない」と言いました。確かにおむつの交換、座薬などは最愛の母とは言え、きついです。でも他人に任せたくなった。そう言う汚い部分だけ人に任せて、臨終の時に「お母さん」って泣くのは嫌だったからです。

そして、4/17 夕方母は家族全員に看取られて、最後は私の手を握って、痛みに苦しみながら、荒い呼吸が段々と小さくなって呼吸が完全に停止し、永眠しました。

そして、その日のうちに葬儀会社が来て、葬式が終わり今日に至るのです。

なんかだらだらと長くなってすみません。何が質問かと言うと私は母が死んでから、殆ど泣かないのです。がん告知を受けた時やがんセンターで余命を聞いた時はあれほど取り乱したのに今は何故か冷静なのです。一方、母の葬儀以降、毎日空虚で無気力になってしまい、無職だし、仕事探すとかしなければとは思うのですが、やる気が起きず、母の写真を見たりして過ごしています。

感情が消えたみたいです。抜け殻の様な感じです。
同じような経験をお持ちの方アドバイス頂けたら幸いです。
宜しくお願いします。

4/17 夕方、最愛の母が永眠しました。

昨年の10月に膵臓がんが見つかり、約半年の闘病をしていました。私は小さい時から母が大好きで、この世で絶対に起って欲しくないことは「母の死」でした。

母が死ぬくらいなら、自分が死にたい、死んだ後、精神的に耐えられないと思ってました。ですから、昨年夏頃から調子が悪く、行きつけの病院に行っても原因が分からないとの事で、地域の大病院で精密検査した結果、家族が先生に呼ばれ「病気と治療方針」について病院で説明がしたいと連絡を受けた時は、非常に嫌な予...続きを読む

Aベストアンサー

はじめまして。

今あなたの文章を読んで泣いてしまいました。

私のお父さんも膵臓ガンでした。
あれから約3年経ちましたが、記憶の中のお父さんと被って、久々に泣きました。

私のときは、お父さんが発病したのは、私が中学二年のときでした。
三人家族で私がまだ精神的に幼いと両親は考えたのか、お父さんの病気のことをまだ受け止められないと思い病気のことは黙っていました。

何時間にも及ぶ手術に集まる親戚、心配そうなお母さんの顔…
今思えば自分は本当に幼かった
そんな空気の中でさえ、事の異常に気付かず、盲腸の手術程度に思ってました。
その後の抗がん剤治療も順調に進み、やっとガンだったのかと知りました。

でも中学三年の秋、突然お母さんに涙目で一言
「パパ後3ヶ月しかもたないって…」

頭が真っ白でした。
ガンを克服し会社にまで復活して頑張ってたのに…
この世に神様はいないのかと本気で思いました。
夜一人部屋の中で色んな思いが溢れて泣きました。
私は身近な人で死んだ人がいなかったので、お父さんの死ということがあまり上手く理解できませんでした。
でも、ふとある時、よぎったのは
3ヶ月後は自分の誕生日……
ということ。
なんだか急に現実味がまして怖くなり、これからの人生の色々な思い出のなかにお父さんはあといくつ居られるのだろう…そう思うようになった。

それからお父さんは余命宣告よりも5か月も長く生きました。
でも、みるみる痩せていく体、何度も繰り返す嘔吐…色々なことが私には死が迫ってくるようで怖くて怖くて耳を塞ぎ目を閉じ、この世現実が夢だったらと願いました。
今までずっとお父さんを支えていたのはお母さんだったので、当時の私には一緒に支える方法を知りませんでした。
支えようとするどころか、部屋で一人で泣くことしか出来ませんでした。
だからお父さんはお母さんの前でしか泣きません。
それを見て、私は二人を困らせてはいけないと、泣いてはいけないと誓いました。

高校一年になってすぐ、お父さんは病気と闘いながら死にました。
今でも、お父さんが焼かれて骨になった姿は焼き付いて消えません。

お父さんが死んだあと、家は母子家庭になり、お母さんは自分が守らなくてはと思うようになりました。
当時私は私立の女子高に通っていました。
親の死は女子には格好の話のネタなのは以前別の人がそうだったので黙ってもらってました。
可哀想だとか惨めだと思われたくなくて、学校ではバカみたいにテンションをあげてましたが、家では、部屋で泣きながら勉強してました。
というのも、私立は学費が高かったので、あまり成績はよくありませんでしたが、奨学金を目指し必死で頑張りました。
そのお陰か、高一は奨学金ももらえ、クラスでも1位の成績でした。
でももう心はギリギリで高二の夏に精神を病み学校へは行けなくなりました。
半年ほど、何もやる気がせずただ泣いたり、今の自分に失望したり…
こんなんじゃ、お父さんより私が死んだ方が…なんてことを永遠と考えてました。

だけどある時、自分が心から楽しめるものを見つけ、その時からこんなんじゃダメだと思いました。
もう一度高二からやり直すために転入しました。
今私は一年遅れの高校三年生です。
やっとお父さんの死から立ち直ることができたんです。

私はあなたの文を読んで、隣でお母さんをずっと支えていたあなたを心から尊敬します。
私が目をそむけ、現実逃避しようとした現実から最後まで逃げなかったあなたは誰よりも強いと思います。
今まであなたもずっと闘ってきたのだから、何もやる気がしなかったり、脱け殻のような状態から無理に抜け出そうとしないでください。
そんないまを悲観しないでください。
今は少し心が疲れてるんです。

こんな私が言うのはなんですが、今はあなたのやりたいように、好きなだけ休ませてあげてください。
そうすれば、ある時からきっと生きる気力が湧いてきて前向きにいまを考えることができると思います。
私がそうだったように。

人にはいつか自力で乗り越えなければならないとてつもなく高くて厚い壁が一度は来ると思います。
それを乗り越えたらのなら、私は、あなたは人の痛みや苦しみを、人よりなん十倍も身に染みて理解し、やさしくなれるんです。

壁は逃げれば自分についてきてどんどん高く厚くなります。
だから、たまには外にも出て、壊そうとする努力をしてください。
努力なしに得られるものなんてたかが知れてます。

最後にあなたは一人ではありません。
苦しくなったら、こうやって、いまみたいな場で良いから、吐き出して見てください。

そうすればあなたが一人ではないことに気がつくでしょう。
だから、いまのこの自分をどうか否定しないであげてください。
長文失礼しました。

はじめまして。

今あなたの文章を読んで泣いてしまいました。

私のお父さんも膵臓ガンでした。
あれから約3年経ちましたが、記憶の中のお父さんと被って、久々に泣きました。

私のときは、お父さんが発病したのは、私が中学二年のときでした。
三人家族で私がまだ精神的に幼いと両親は考えたのか、お父さんの病気のことをまだ受け止められないと思い病気のことは黙っていました。

何時間にも及ぶ手術に集まる親戚、心配そうなお母さんの顔…
今思えば自分は本当に幼かった
そんな空気の中でさえ、事の異常に気...続きを読む

Q家族の死を受け入れるには

家族が残り僅かな命を宣告されて、それを受け入れる事ができずに毎日泣いてばかり。
かなりの高齢、しかも寝たきりなのでそろそろ...とはわかっていたつもりでも、いざ直面するとその時が来るのが辛くてつらくて堪りません。

迎える死を受け入れる、気持ちの整理をつけるはどうしたらできるものでしょうか。

(いただいたご回答の返事は遅れるかもしれませんが何卒よろしくお願いします)

Aベストアンサー

私は両親をガンで看取りました。
だからあなたの辛さが痛いほどわかります。

何年たっても家族の死を受け止める事も出来ないし、ずっと無理だと思う。日常生活では「笑ったり、ご飯食べたり、普通に会話」もできます。でも、どこか心の中にいつも家族の死があります。心の闇というか、家族の死に関しては心が凍ったままです。

家族の死を受け入れるというよりも、余命宣告された家族へ今までの感謝の気持ちを込めて精一杯の笑顔でお見送りするしかありません。家族との一日一日を大切にし、旅立つ人が「この子は私が死んだらどうなるんだろう」とあなたを心配しないように泣き顔は見せない事です。

私の両親も娘の私を気遣い、辛い治療の泣き言は言いませんでした。末期の病気になっても娘を気遣う両親の気丈な姿を見て、愛しくて抱き締めたくて、一人になると泣いてました。私も辛かったけど、泣いてばかりだときっと両親は残された私の行く末を心配するだろうな…と泣いてる姿は見せないようにし、元気なふりして乗り切りました。旅立つ家族としては、自分の肉親が泣いてばかりだと「この子は自分が死んだあと一人で大丈夫だろうか?」ときっと心配したまま亡くなって、心残りになると思います。

私はガンと闘う毅然とした親の姿を見ていると、そんな親がとても誇らしく「自分も負けていられないな」と思うようになりました。その親の強い思いが、今の自分を支えているような気がします。ヘタレな私でしたが「親が子供にできる最後の教育」と思い、がん闘病中の親の姿が目に焼き付いて離れません。未だにその気丈な姿に勇気をもらってます。

私は、亡くなった人はきっと自分の生きざまを天国で見ていてくれる。あの世で再会したら「よく頑張ったね」と誉めてくれることを楽しみにして、毎日をすごしています。気持の整理なんて何年たってもできないけど、時々亡くなった人の気配を感じる時があります。だから「見守ってくれてるんだな…見ててね」と恥じない生き方をしようと思ってます。

受け入れる事はできないけど辛い記憶は時間が癒してくれます。ふと…思い出して涙する時もあるけど、きっとあの世で会えると…私は思うようにして毎日を生きてます。

私は両親をガンで看取りました。
だからあなたの辛さが痛いほどわかります。

何年たっても家族の死を受け止める事も出来ないし、ずっと無理だと思う。日常生活では「笑ったり、ご飯食べたり、普通に会話」もできます。でも、どこか心の中にいつも家族の死があります。心の闇というか、家族の死に関しては心が凍ったままです。

家族の死を受け入れるというよりも、余命宣告された家族へ今までの感謝の気持ちを込めて精一杯の笑顔でお見送りするしかありません。家族との一日一日を大切にし、旅立つ人が「この子は...続きを読む

Q末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 

末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 
末期癌の母は現在ホスピスケアを受けています。
これから母の面倒を見るのは私の役目なのでこれからどうなるのか不安です。

母がすいぞう癌だと宣告されたのはおよそ1年前です。
肝臓にも転移しており既に手遅れでした。
今年の3月頃までは癌だと思えないほど元気な母でしたが
4月頃から急に階段を転げ落ちる様に容態が悪くなってしまいました。
あらゆる箇所の骨に転移し、強い痛みも出てきました。
肺へも転移し、咳がひどいです。
今ではほんの少し動いただけでも息切れがひどく、時々咳き込んで嘔吐してしまいます。
急に食欲もなくなりました。
一日、一日ごとにどんどん体力がなくなり弱くなっていきます。
母はこれからどうなっていくのでしょうか。
苦しみが増しますか? 
意識は最後まであるものですか?
自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?
この状態で、あとどのくらいと考えていればいいでしょうか。。。

文章がうまくまとまっていなくてすみません。
少しでも心の準備ができればと思います。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化学作用
が止ることになり、肝性昏睡などの様々な症状を起こします。
大きな血管にがんができて、血管が破れるということも起きます。
腎臓の機能が低下すれば……
脳の機能が低下すれば……

つまり、がんがどこにあり、その臓器は、どんな仕事をしているのか、
ということです。
何が起きても不思議ではない、ということです。

「苦しみが増しますか?」
軽くなるということはないでしょう。
出てきた苦しみを押さえるということになります。

「意識は最後まであるものですか?」
わかりません。
先に昏睡状態になる場合もありますし、最後まで、意識がはっきりしている
場合もあります。

「自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?」
状況によりますが、オムツということも考えてください。
尿はカテーテルを留置することになります。

残酷な言い方ですが、何らかの理由で昏睡状態になった場合、
「それを治療して、昏睡から醒めさせて、延命をする」ということを
しないという選択肢もあります。

末期症状は、医師や看護師がよく知っています。
まずは、医師や看護師と相談してください。

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化...続きを読む

Q親がある日突然死んだショックを引きずっています

去年母を亡くしました。父はすでに死んでいるので私は一人暮らしになりました。
ある日突然死んだので、心の準備ができておらず、今でもつらいです。

母が入退院を繰り返すなどしてたら心の準備もでき、母の死を受け入れられ、悲しみや寂しさも時間とともにやわらいでくると思います。突然死だったから辛いのです。それまでふつうに暮らしてたのに
ある日突然倒れ、そのまま死んでしまいました。70代でした。

私は独身男性ですので「お嫁さんをさがしたら?」と言う人もいますが、そう簡単に結婚相手が見つかるものではありません。

今でも時々母を亡くした悲しみや寂しさに襲われ、胸が締め付けられるような辛さを感じたり、うつ状態になることもあり病院で相談して薬を出してもらっていますが、それでもどうしようもない辛さに襲われることがあります。

「予測できる死」と「突然死」では同じ死でも悲しみの度合は違うと思いますか?

親の突然死の悲しみをやわらげるいい方法はありますでしょうか?

Aベストアンサー

申し訳ないけど、悲しみをやわらげるいい方法は無いです。

私も19の時と22の時に両親を突然死で無くしました。どちらも60に満たなくて、突然死という割には若年齢でしたが、その後、若いからと人の足元みたような態度や発言をする大人と喧嘩したり、それこそクスリも飲みましたが結局何も変わらなかったし、自殺未遂も、彼女やその他のことでそれを相殺すればしようすればするほど、精神的に浮き沈みが激しかったし随分苦しみました。

「予測できる死」と「突然死」の悲しみの値について安直には計れないんじゃないかなと思います。それでも貴方が現在おいくつか分からないですが、少なくとも20代、30代で両親を亡くすというのは普通じゃないことですし、「予測できる死」と「突然死」という死の基準よりも、死という現実を受け入れる年齢が、「早いのか」、「遅いのか」ということ。

親が死ぬと言うことは誰でも経験することではありますが、実際若い身空で親の死を経てフラットになった時、何にもない自分に喪失感が出てくる気持ちは非常によく分かります。

結論からいいますと22歳の私はその踏ん切りつまり親の死を乗り越えたと、自分で思えたのは26の頃でした。質問者さんと同じく22ぐらいの時にはわかったような口を聞く大人に「はやく結婚すれば?」と言われました。結果、26で結婚しました。そのとき初めて肩の荷が降りる思いでした。

19の頃は絶望感ばかりがあり22の時にその加速度が増しました。大学もやめ、バイトをしながら親の貯金を食いつぶし、親が残した有り難くないコトを整理して俺が何をしたっていうんだよ!って毎日思ってました。23、4のとき就職をきっかけに地元を離れ違う土地へ行き、それこそ色んな年相応のことを経験してに両親のことに対して前向きな諦めをつけた瞬間に彼女が出来て、すぐに結婚~という流れになりました。ただし結婚して全てのことが払拭されたわけでもなく10年経っても未だ悩みはつきません。
だけど、自分の経験したことは確実に同世代にはない経験でしたし、自分の友人らにもし突然のことがおきても冷静に対応できるだけの能力は備わったと思っています。

できれば10年前の絶望感ばかりだった自分に今、まともに生きていることを教えてあげたい。

質問者様へも私自身、早く結婚しろとはいいませんが、今すべきこと、10年後のよりカッコいい自分を想像してみてはいかがでしょうか?そのために今自分がなにをすべきなのかが見えてくると思います。
それが答えです。

申し訳ないけど、悲しみをやわらげるいい方法は無いです。

私も19の時と22の時に両親を突然死で無くしました。どちらも60に満たなくて、突然死という割には若年齢でしたが、その後、若いからと人の足元みたような態度や発言をする大人と喧嘩したり、それこそクスリも飲みましたが結局何も変わらなかったし、自殺未遂も、彼女やその他のことでそれを相殺すればしようすればするほど、精神的に浮き沈みが激しかったし随分苦しみました。

「予測できる死」と「突然死」の悲しみの値について安直には計れないんじゃ...続きを読む

Q点滴だけでどれ位生きられるのでしょうか?

86歳の祖母が今月5月の17日から点滴のみで寝たきり状態です。
4月に酸素濃度が低いと言われ入院。
そのままご飯を飲み込むのが難しくなり、鼻から食事を取るようになりました。
5月の15日に胃ろうの手術を行う予定でしたが、体調が悪そうなので断念。
そして17日の朝に危篤と言われ、あと30分しかもたないでしょうと連絡があり、家族で病院に駆けつけました。
病院に着いた時は安定しつつあり、それでも2.3日が山でしょうと言われました。

今10日以上経ちましたが、変わらず点滴のみで酸素を鼻から送っています。
心拍数は70くらいで酸素濃度は時々80代まで下がってしまうようですが基本的に95以上はありますし、おしっこもちゃんと出ているようです。
血圧も標準です。
何を言っているか聞き取れないのですが、1日2.3回は口を動かして言葉を発します。
寝返りもうちます。
時々笑ってくれたりもします。
帰りたいのに帰れない、言葉も伝わらないことで怒って弱々しくですがパンチしたりもしたそうです。

それでも病院側はまた鼻から管を入れて食事するのは難しいでしょうと言います。
このまま点滴だけで...と言う感じです。

重度ではないですがもともとパーキンソン病も持っています。
身長140cmない位で体重は今25kgあるかないか位です。
今は歩くことは不可能です。

身内として見てるのも辛い、可哀想で仕方ありません。
私達の家から祖母のいる病院まで片道3時間程かかるので、次また危篤の連絡が来た時、最後一緒にいてあげられないんじゃないかと母といつもヒステリックになってしまってしまいます。
私も仕事が忙しく、母も父方の祖父祖母の世話をしていてずうっと付きっきりにはなれない状態です。
鼻からの管がこれから先出来ないと断定された時、点滴だけでどれ位生きられるのでしょうか?
昼間はKN3号と言う点滴を入れているようです。

どなたかお返事くだされば嬉しいです(;_;)

86歳の祖母が今月5月の17日から点滴のみで寝たきり状態です。
4月に酸素濃度が低いと言われ入院。
そのままご飯を飲み込むのが難しくなり、鼻から食事を取るようになりました。
5月の15日に胃ろうの手術を行う予定でしたが、体調が悪そうなので断念。
そして17日の朝に危篤と言われ、あと30分しかもたないでしょうと連絡があり、家族で病院に駆けつけました。
病院に着いた時は安定しつつあり、それでも2.3日が山でしょうと言われました。

今10日以上経ちましたが、変わらず点滴のみで酸素を鼻から送っています。...続きを読む

Aベストアンサー

水分と最低限の栄養素だけ点滴で賄えれば、何年も生きる方もいますよ。
自発で呼吸ができず人工呼吸器をつけ、点滴だけで数年生きて、数年ぶりに目覚めたといった話を聞いた事はありませんか?

KN3は維持薬ですね。水分の維持をする為のものです。これだけでも生きられますが、胃ろうができない方に高カロリーの点滴を使う事もありますが、高齢でその状態ではちょっと難しいかも知れませんね。

人間は、食事をせずとも点滴だけで生きていられるんですよ。

ただし高齢で体重も少ないですからどうしても感染症等の危険もあるでしょうし、臓器の状態、おそらく血液検査や胸部、腹部エコー等もされているでしょうが書かれていませんからなんとも。。
前日まで元気そうに見えていても、翌日急変してその数時間後にはという方もいれば、数か月の方もいますしね。

余命は、現場にいても医師でも数時間前~数日前まで判断できないものです。

残された時間を大事にお過ごしください。お大事に。

Q母の死をどう乗り越えたらいいのか分かりません

母の死をどう乗り越えたらいいのか分かりません
 今年の4月に母を癌で亡くしました。62歳でした。若い時から“百五十歳ぐらいまで生きるんじゃないか?”とみんなに言われるほど元気な人でした。フルタイムの仕事を定年退職してからも、地域のボランティアで広報誌を作り、“若い頃の夢だった新聞記者に一歩近づけた”と、60歳を過ぎてからワードやエクセルを自由に操れるまでに覚え、あちこち取材に行っては記事を書き、楽しそうにしていたのに、去年の2月に末期寸前の卵巣癌と診断されてしまいました。

 それでも、手術を受け、半年間の抗がん剤治療をし、去年の年末には腫瘍マーカーの値も下がり、快方に向かっていた…はずだったのに、年明けに早くも癌が再発。その後は、脳梗塞・脳内出血・てんかんなどを立て続けに併発して抗がん剤治療ができなくなり、あれよあれよと言う間に逝ってしまいました。

 母とは大親友以上の仲だったので、亡くなった当初は天地がひっくり返るような感じだったけど、四十九日を終えて、少し落ち着いたつもりでした。でも、三ヵ月半たった今、なんとも言えない虚無感でいっぱいです。

 母はきっとどこかで見ていてくれるから、前向きに生きていかなければいけない。…とか、
 私が悲しんでばかりいたら、きっと母も辛いだろうな。…とか、
 40年間ほとんど我慢するだけだった結婚生活を送った母だから、きっと今ごろ若くして亡くした最愛の両親と、天国で平和に暮らしてるんだろうな。…とか、
 常に人への感謝の気持ちを忘れずに、いつも回りの人を笑顔にしていた母の心を受け継いでいかなければいけない。…とか、
 そんな心を、自分の子供にも引き継いでいかなきゃいけない。…とか、
 まだ3歳の子供の前で、しょっちゅう泣いているのはきっと良くないんだろうな、…とか、
 いつか母にもう一度会えた時に恥ずかしくないような生き方をしていくしかないかな、…とか、
 きっと時間にしか解決できないことなのかな、とか。

 頭ではいろいろ考えるのですが…。 

 飛行機と電車を乗り継いで6時間かかる実家に、職場にこれ以上ないくらい無理を言っては、しょっちゅう長期で帰って、してあげられるだけのことはしたつもりだし、最期にも間に合ったから、後悔はあまりしていないつもりです。だからか、亡くなる前や亡くなった直後の方が、悲しみは深いながらも上に書いたような前向きな悟り、みたいなものを心から感じていました。でも、ここに来て、なんだか時間が止まってしまったような感覚に陥ってしまっています。

 長い文章を読ませてしまい申し訳ないですが、皆さんはどうやって身近な人の死を乗り越えられましたか?乗り越える手助けになった本なども、もしあれば教えていただけませんか? 

母の死をどう乗り越えたらいいのか分かりません
 今年の4月に母を癌で亡くしました。62歳でした。若い時から“百五十歳ぐらいまで生きるんじゃないか?”とみんなに言われるほど元気な人でした。フルタイムの仕事を定年退職してからも、地域のボランティアで広報誌を作り、“若い頃の夢だった新聞記者に一歩近づけた”と、60歳を過ぎてからワードやエクセルを自由に操れるまでに覚え、あちこち取材に行っては記事を書き、楽しそうにしていたのに、去年の2月に末期寸前の卵巣癌と診断されてしまいました。

 それでも...続きを読む

Aベストアンサー

私は同居の祖父母の死を経験しました。
両親よりも接する時間が長かったので,存在も大きかったです。
年相応で,ある程度予想はできており,質問者さんほどの衝撃ではありませんでした。
しかし,

>母とは大親友以上の仲だったので
という部分,私が祖父に対して持っていたのと似ているようにも思えるので,お答えになるかどうか分かりませんが,ご参考になればと思い書いてみます。
私の場合は,親友というよりも,耐え難い日本の不条理に対する戦友のような感じでした。

私は祖父譲りの徹底的な無信仰です。
なので天国で~,といった感傷はありません。
でも,「生きていたらどう言うだろうか」というシミュレーションはします。
祖父はとくに
「死亡通知は出さない。形式ばかりのお悔やみをもらっても意味がない。知人から連絡があったときに,こういう事情で亡くなりましたが故人の意思によりご連絡しませんでした,と返信せよ」
と,若い世代でもなかなかできない思い切ったことを遺言しました。
「死者は生者を惑わすべからず」が信念でした。

また,私自身は非婚男性で,おそらくこのままだと思いますが,「先祖代々」といったつながりは重視していません。
よく言われる「たくさんの人が先祖にいてあなたがいる」というのも信用していません。

霊感商法が問題になったときに,祖父の言った言葉が強烈な記憶になっています。
「先祖が苦しんでいるから供養がどうのなんていうが,子孫を苦しめるようなことをするはずがない」
私はさらに拡張して,子孫を苦しめるような祖先はいなくても結構だ,と言っております。

でも,これだけ極端に過激な考えを持ってる私でも,純粋に今でも「かっこいいなあ」と思います。
現代の若い世代でもこんなこと言えるのは何人いるんだ?と,身内贔屓ながら思ってしまいます。

死後の世界を否定しても,受けた教育や影響,話してくれた体験談や直接見聞きした記憶というものはちゃんと残ります。
長所も短所も個人の記憶として残っています。
自分のDNAは残せなくても,こういう考えをした人がいる,という話は伝えられます。
教育は誰も奪うことのできない財産であり,絶対に消えないものだと信じています。
残っているのは過去の出来事であっても,そこから新たな法則性や価値基準は抜き出せると思います。

視点を,ちょっとだけ亡くなったお母様から外してみませんか。
~してはいけない,~しなくてはいけない,と考えるのはどんな場合にもつらいです。
お母様は,あなたをここまで育てあげたんだから,あなたは何をするにも自分の考えと都合に素直に従っていいと思います。
泣きたいなら泣いていいでしょう。そこで泣けるように育ててくれたんですから。
お母様がどう思うかと意識が集中しすぎるとつらいと思います。
親がどう思うかで動くのは,言い方は悪いですが,ある種子どもの考え方ですよね。「怒られるからしない」と同じような。
でも,一個人として成長すれば,誰が何と言おうと私は嬉しい,何と思われようと私は悲しい,といえるようになります。
それで必要かつ十分です。
いま,質問者さんはどうしても亡くなったお母様に視点を合わせてしまうために,どう思うだろうか・これではいけない,と自分を抑えつけてしまうのではと思います。
自分を信じてあげてください。自分を大事にしてあげてください。
ときに自信がなくなったら,「お母さんが私には合格出してくれたんだから私はこれでいい!」と考えてはいかがでしょうか。
ご参考になれば幸いです。

私は同居の祖父母の死を経験しました。
両親よりも接する時間が長かったので,存在も大きかったです。
年相応で,ある程度予想はできており,質問者さんほどの衝撃ではありませんでした。
しかし,

>母とは大親友以上の仲だったので
という部分,私が祖父に対して持っていたのと似ているようにも思えるので,お答えになるかどうか分かりませんが,ご参考になればと思い書いてみます。
私の場合は,親友というよりも,耐え難い日本の不条理に対する戦友のような感じでした。

私は祖父譲りの徹底的な無信仰です。
...続きを読む

Qもう逝く父を看取ります何て言葉を父に言えばいいのか

もう、ほとんど毎日、投稿しています。

父が3月11日に、

「余命1週間」と主治医の先生から言われています。

今日はもう、15日です。 たぶん?もう、父の時間が無いんですね…


私は匿名ですが、「nao913」です。

何度も質問をしているので、「質問履歴」を「公開」にしています。
http://okwave.jp/mypage/question/history
これで、見れるか分かりません。

それか、私のネームの「nao913」のところをクリックして貰えれば、見れるかと思います。

どうか、ご参考にしてください。



大好きな父の最期を、何としても「看取る」思いでいます。

私と母と弟の3人は、もう時間単位、分単位で、考え、動いています。

かなり極限状態かと思います。冷静さも無いかと思います。



でも、大好きな父の最期に、悔いを残したくなく、

大好きな父の最後に、何て言葉をかけてあげればいいのか分かりません……


父は3日前に、とうとう、言いました。

「ありがとう…… お世話になりました……」 って…

父さん!何言ってるの?! 世話になったのは私なのに。 

私と弟を育ててくれたのは父なのに。

父が働いて、私と弟を食べさせてくれたのに……


「運命は、運命は… 運命は、すべて天に任せるわぁ……」 と。

そうです、もう神様しか知らないことです。医師にも分かりません。

でも、時間が無い… 父が居なくなってしまう……


弟が家族を連れて、東京から関西に来てくれました。 間に合いました…

転院を考えていましたが、もう、そんなこと考えてなんかいられない状況になりました…

ヒゲを剃ってやりたいと思っていましたが、なんて「残酷」なことをしようとしていたのか、

「おばさん」から教えて頂き、やっと解りました…

医療関係者の方から、貴重な意見も頂きました。


もう、今までにたくさんの方から、良いアドバイスを、こんな私にかけて貰いました。


耳は最期まで聞こえる。と。

父が私たち2人の息子を育てるのに、どれだけの時間とお金と労力を使ったのか…と。

私たち子供が、父に孫を抱かせるまで育っただけでも、

私と母が、ずっと父の病室に居るだけでも、父は満足じゃないか?と。

「おばさん」からは、洒落者だった父の伸びたヒゲを剃ってやろうとしたら、

<今>、<生きている>、父に、そんな、「死の準備」みたいなことは、

父に<酷>と。 そう、悟らされました…


その他にも、いっぱい、いっぱい、いっぱい、貴重な、有り難い言葉を貰いました…

本当に皆様、ありがとうございました。 m(_ _"m)


冷静になって書きますね。


父は肝硬変末期で、肝性脳症で倒れて、2月1日に入院しました。

2月18日に、食道の静脈瘤破裂で血を吐いて、個室に移されました。

それ以後、水しか飲んでいません。 ゼリーも嫌がります。

点滴の栄養は1日、200キロカロリーです… 

主治医から、「餓死」することも考えてと…

腹水は3回、抜きました。 先週の土曜日が3回目。

でも、もう、腹水で、パンパンです。 脚もパンパンです。

昨日の体温が35.7度

血圧は、下が50台、上が100台

呼吸は特に変わったことが無いように思います。

母が24時間体勢で看てくれているので。

尿の量が、

3日前が360g 2日前が160g

160gと聞いて、看護師さんに「少ないですね…」と言われました。

昨日の18時の時点で、まだ80gでした……

以上です。 こんなこと、冷静に書いている自分が信じられないです…


父に、

「ありがとうね。」
「しんどいね。」
「大好きだよ。」
「ごめんね。」

とか言ってきました。
毎日、病院に行ってますので…

でも、本当の最期に何て言えばいいのか????


私のことですが、高校の時、父との確執があって、
国立のO大学をでて、有名家電メーカー勤務の父を、
全面的に、父の人格まで全て否定してしまいました。

そして、私は、鬱病(抑鬱神経症)になって、
大学は出たものの、就職も出来ず、家庭教師のアルバイト…
そんな私に父はどれほど失望させてしまったか…

幸い、今の妻と結婚出来たけど、
妻の収入で生活しています。 私は「主夫」です。

孫娘2人を抱いてもらいました…

いっぱい、いっぱい、「ありがとう」と「ごめんなさい」があります…

父に懺悔したい私
父に感謝したい私
口下手で思ったことが言うに言えない私

です…

父になんて言ってやれば良いですか???


雑な分で、本当に申し訳ありません・・・・・・・ m(_ _"m)

もう、ほとんど毎日、投稿しています。

父が3月11日に、

「余命1週間」と主治医の先生から言われています。

今日はもう、15日です。 たぶん?もう、父の時間が無いんですね…


私は匿名ですが、「nao913」です。

何度も質問をしているので、「質問履歴」を「公開」にしています。
http://okwave.jp/mypage/question/history
これで、見れるか分かりません。

それか、私のネームの「nao913」のところをクリックして貰えれば、見れるかと思います。

どうか、ご参考にしてください。



大好きな父の最...続きを読む

Aベストアンサー

おばさんです。おはようございます。

昨日はお疲れ様でした。
毎日挨拶をするお位牌ですから、満足いかれるものがみつかり良かったですね。

少しずつでも手続きを進めることによって、気持ちの中に静かに静かに<受け入れ>が忍び込んできます。
でも、それは決して<忘れる>ことを促すわけじゃなく、極限の気持ちの救け(?)になっていってくれるものなんだと思っています。

無理をされませんように。

またね。

Qがん末期の非常に危険な状態とは

がんの末期において危険な状態の血圧の低下というのはいくつぐらいまで下がっていくと危険なのでしょう。また呼吸の浅さはどうやってわかるのですか。酸素吸入の目盛りを上げると血圧が上がるのはなぜですか?脈拍数の低下の非常に危険なボーダーラインというのはいくつなのでしょうか。他に油断を許さない危険な状態というのは何で判断するのか教えて下さい。

Aベストアンサー

 兄が脳腫瘍で亡くなりましたが、そのときの状況でも。

 病院で血圧を測定する機械に触れましたが、上が60を切ると機械が電子音を出して緊急性を表していました。
 また、血中の酸素濃度が95%を下回ると危険な状態と言えるようです。逆に言うと、95%を上回るように酸素を送り込む必要があります。
 こういった状態のとき、脈拍数は180と非常に高い数値を示していました。血圧や血中酸素濃度が低いにもかかわらず脈拍数が落ちてきたら非常に危険だと言えるでしょう。

 本当に死の直前では、呼吸が見るからに弱弱しくなり、呼吸が止まることがどんどんと多くなりました。呼びかけると思い出したかのように呼吸を始める感じでしたが、まさに「息を引き取る」という表現そのままに死へ至りました。

 全体としては、「血中酸素濃度の低下」「急激な血圧の低下」「呼吸の力強さの低下」の順で危険度が増す感じでした。
 あくまで脳腫瘍の例ですが、参考になればと思います。

Q母が亡くなって3ヶ月…。まだ泣いてしまいます。

30代女性です。
2年間、病と闘った母が3ヶ月前に亡くなりました。
告別式を迎えるまでの4日間…ふいに溢れる涙を自分でもどうしようもなく、本当に泣き続けました。

告別式を終えても、本当はもっと泣き続けていたかったし、母の思い出に浸っていたかったけど、「毎日」は容赦なくやって来て日常生活に引き戻され…。

もう3ヶ月も経つのに、一人の時間に、またふいに涙が溢れてしまいます。

同じような経験をされた方がいらっしゃいましたら、ただお話しをかき聞かせて頂ければ…と思っています。

Aベストアンサー

お辛いですね・・・お察しいたします。

わたしは、随分前に、5年間闘病した母を亡くし、4年前には1年の入院のすえ、
父が亡くなりました。

母のときも長い間、道行く人に母の面影を重ね、枕を涙で濡らす毎日でした。

記憶に新しい父の死のときには、母のとき以上に毎日泣いていました。


最近もいろいろ考えると泣けてきますし、夢も見ます。

闘病のさいの可哀そうな姿を思い出すと、後悔もしますし、罪悪感も感じます。

もっとああすればなどと、際限なくハードルを高くして、できなかった自分を
責めてしまいます。

写真のなかの笑った父を見ると、会いたくてたまらなくなります。

今でもとても淋しいです。


亡くなって半年頃、うつのお薬も飲みました。(2週間くらい。)

特別なことではなく、こういうのもアリなのだと思います。

遺品整理でまた泣けて、父の手帳を見てまた泣けて。


でもそうやっているうちに、少しずつ、涙の量が減っていきました。

今でも思い出すといろんな気持ちが溢れてきます。

ただ、自分の悲しさと少し距離の取り方が学べた気がします。

母のときとはまた違うので、亡くなるたびに、また一からですね。


いつまでも泣いていると亡くなった人が悲しむといったことを聞きますが、
そうでもない気もします。

子どものとき、こけて痛くて泣いていたときのように、天国から、
あーあ、泣いてるね、と、笑って慰めてくれているような気がするのです。

kataomaさん、声が聞けなくて、触れなくて、とても寂しいですが、
きっとそばにいてくださっていると思います。

本当に鵜悲しいですよね、大切で、大好きだったのですから。
だからkataomaさんはとても正常なのだと思います。
(すみません、変な言い方ですが。)

どうぞ安心して悲しんでくださいね。
それが人の通る道なのだと思います。
そしてきっとその分、お気持ちに優しさが増えていくのだと思います。

お気持ちを逆なでしてしまったら申し訳ありません。

お辛いですが、悲しいお気持ちをしっかりとお受け止めになれるといいですね。

そうしながら、お気持ちはまた、少しずつ元気に向かわれていると思います。

悲しくて泣かないではいられないほどのお母様との思い出を、これからも
きっと大切にしていかれるのでしょう。

応援しています。

お辛いですね・・・お察しいたします。

わたしは、随分前に、5年間闘病した母を亡くし、4年前には1年の入院のすえ、
父が亡くなりました。

母のときも長い間、道行く人に母の面影を重ね、枕を涙で濡らす毎日でした。

記憶に新しい父の死のときには、母のとき以上に毎日泣いていました。


最近もいろいろ考えると泣けてきますし、夢も見ます。

闘病のさいの可哀そうな姿を思い出すと、後悔もしますし、罪悪感も感じます。

もっとああすればなどと、際限なくハードルを高くして、できなかった自分...続きを読む

Q親の容態が不安定な場合休みを貰うのは非常識でしょうか?

親の容態が不安定な場合休みを貰うのは非常識でしょうか?
仕事を休むべきか?出勤するべきか?悩んでいます。
一進一退の状態で、再起をかけて入院中の父の介護をしてきました。
特に、先週一週間、上司にお願いして、昼から休みを頂いて
午後から介護にあたってきましたが、昨日、主治医から
意識などは、現在ありますが、容態が急変して、急死する可能性もあります。
50/50の可能性です。覚悟しておいてください。と言われました。
他に家族もいなく、一人で病院において置くのは、あまりにもとも思いますが
意識不明とか、確実に死ぬという状態でもなく、どういった判断をするべきか
非常に悩んでいます。みなさんが同じ様な立場であったり
職場の人間だとすれば、どう思いますか?このような状態で
休みを貰いたいのは、甘え、非常識なことだと思われますか?

Aベストアンサー

職場側の立場です。建前論としては、有休を限度いっぱい申請し、それでも足りないなら無給の介護休暇・介護休職をとっても問題はないとの回答になります。
しかし、現実には、制度がしっかりしている大きな会社や公務員などと 仕事がいっぱいいっぱいの中小企業とでは異なります。前者なら 制度をフルに活用しても問題ありませんし、一人くらい欠けても支障を来たしません。ただし、後者では 一人が長期的に欠けるとなると仕事に支障を来たしてしまい、連続した休みには良い顔をしませんし、社内の人々も 表面はともかくとして内心では快く思っていません(あえて言えば 会社を辞めて看病に専念して欲しいと思っていたりします)
ということで 私も現実を言うだけで どうすべきかとは言えません。私は、親が亡くなった時は遠方のため死に目に会えませんでしたが、そういう人もいます。家族の全員が死に目に立ち会っているわけではありませんし、冷たいことを承知で言えば、死に行く人より これから長く生きるであろう人の状況を重視するという考えもあります。 


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング