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8月31日にNHK、BS2で放送されていた漫画家の成田美名子のドキュメンタリーを見ていた方、内容はどのようなものだったか教えてください。

A 回答 (1件)

アメリカン・ライフをリアルに描いた少女漫画が誕生した。


『CIPHER』 (1985-1990)作者は成田美名子。洗練された絵と繊細な心理描写で今も少女漫画界の第一線で活躍している。成田にとって『CIPHER』とは?
「今の自分のスタイル、描き方が決まった時期ですね。そういう意味で、わたしにはずせない話であります」

17才でデビュー。少女漫画のニューウェーブとして80年代をリードしてきた成田美奈子の代表作。それが『CIPHER』である。

【Scene 1.成田美奈子 誕生】
成田美名子は1960年青森県青森市の生まれ。音楽や美術を身近に感じる環境の中で育った。
「ウルトラマンのキャラクターデザインをしている成田亨が私の伯父にあたるんですけど、父自体もプラモデルとか習字もずっとやってましたし、絵を描いても意外と上手いんですよ」
ものこごろつくと絵を描き始めたという。

伯母・小笠原千恵さん「まず、お花が大好きで生き物が大好きでお絵かきが好きで…いつも鉛筆を持てるような時から描いてましたから…ちゃぶ台で」
時間があればひとりで絵を描いている子だった。
成田が小学校1年で描いた絵日記。人物や動物が巧に描いてある。箱やテーブルが立体的に描かれ、奥行きのある構図となっている。小学校1年生にして遠近法をマスターしていた。

小学校4年生の時1冊の本と出会った。石森章太郎の『マンガ家入門』
「毎日4コマの勉強をしろとか書いてあったんで、毎日4コマを描いて、とりあえずちょっとずつでも描いてるといつかは上手くなるかもしれないと思って…」
マンガのストーリー作りには知識も必要と考え、百科事典を持ち出し「あ」から順に読んでいった。
中学校の理科の教師だった父・幸男さん。書道など和風な趣味を嗜む一方、ハイカラな一面もあった。
「畑仕事から父がダイコン抱えて帰ってきて、『美名子、新しいレコードあるけど聴くか?』とか言うんですよ。なんかすごくアンバランスなウチではあったんですけど…」
成田家では食事が終わるとテレビを消してレコードをかける習慣があった。ジャズ・ソウル・R&B、父の影響で成田も自然とアメリカの音楽を耳にしていた。
お正月よりクリスマスのほうが賑やかだったという成田家。子供の頃からアメリカ文化に触れて育った。
青森には三沢の米軍基地があった。アメリカのもうひとつの顔がそこにあった。
「すごいと思っていたアメリカが、ベトナム戦争もしていたと気付いた時の、その裏表のギャップの驚きとか、実際三沢からベトナムに飛行機が飛んでいたという事とかもずいぶんありまして、まぁ…青森にいたからリアルに感じたということはずいぶんあったと思います」
見る角度によって異なる二つの顔。早くからそんな現実に気付かされた。

当時良く遊んだ、同い年のいとこ小笠原ちあきさん。
伯母・小笠原千恵さん「部屋の隅でひとり何時間も本を呼んでるの…おとなしい育てやすい子でした。ちあきは反対におてんばで…やっぱり反対の性格が良かったのかなと思ってました」
運動は苦手だが絵の才能に恵まれた成田。音楽に才能を発揮し活発だった小笠原さん。二人は正反対の個性を持ちながら支えあう双子のような存在と言われた。アメリカ文化と双子のような存在のいとこ。『CIPHER』のテーマは既にこの頃芽ばえていたのかもしれない。

【Scene 2.すべてはここから始まった】
1975年。成田は青森東高校へ進学。自分が通う高校を決めたのもマンガだった。
「市内でそこしか漫研というものがなかったので、そこに行ったんですけども、自分の中ではデザイン学校に行こうと思っていたので、その先大学ということは考えずにマン研に進学しましたっていう感じです(笑)」
入学するとすぐにマンガ研究会に参加。いとこの小笠原さんも一緒だった。
「萩尾望都先生と竹宮恵子先生にはまってしまって、それに影響されたと思います。どちらの先生も外国のお話を凄くリアルに自然に描いてらして、今までの少女漫画っていうとわりとフワフワしてるっていうんですか想像の世界で、絶対恋愛ものでっていう型があったんですけど、そこにハマっていないっていうところが凄く新鮮で…」
放課後は教室に集まってクラブ活動。しかし、マンガ研究会とはいってもマンガを描くだけではなく好きなことをやる自由なクラブだったという。

当時の漫研のメンバー寺田雅代さん・貝森敦子さん「美名子はひたすら描いてて、いついっても描いてて、ひたすら唄っているのがいて、走っているのがいて、喋っているのがいて…」「もうレベルが全然…格段に違っていました。美名子はマンガ家以外のものになるとは思えなかった」
青森市内で彫刻家として活動している田村進さん。高校時代の美術の先生だった。当時の成田の事を良く覚えているという。
「(前略)教師としては教えるものが何もないというくらいできてましたね。美名子の漫画はまるいんですよ。立体感がある。ただの立体感じゃないんだ、手を全く抜かない、ホネがピチっと入っている、デッサン力です、一番大事な表現者にとっては何よりも基本的な考え方ができていなければ描けないと思いますよ。いずれ絵としても彼女の漫画は残ると思いますよ、何度も見直されて、中身もそうだけれども、絵としての美しさはファンが増えると思いますよ」

漫画を描いたりおしゃべりをしたり、漫研の活動は楽しかった。ところがある日、いつも一緒だった小笠原さんが突然入院、成田は学校へ行く前と放課後1日2回も見舞いに行っていた。
8年間にわたる闘病生活が始まる。手術は9回に及んだ。何度も生死の境をさまよった。
「何かお見舞いを持っていこうと思ったんですが、親から貰ったお小遣いでお見舞いを買っていくのが釈然としなかった…」
そこで思い立ったのが、マンガ雑誌への投稿。入賞すれば賞金がもらえる。漫研の活動中に描いていた作品を仕上げ投稿した。これがある人物の目にとまった。

数々の少女漫画家を世に送り出した編集者・小長井信昌さん。
「これはいいと思った。何をぼやぼやしているんだ。っていうんですぐに電話した。他に行っちゃったら困るから」
結果は2位入賞。賞金3万円を手にした。
その賞金でお見舞いの品を買い、早速病院へ。
2ヶ月後、入賞作『一星へどうぞ』が誌面に登場した。(「花とゆめ」1977年15号)マン研仲間もキャラクターとして登場していた。
病気で視力が低下していた小笠原さんも目を凝らして読んだという。
小笠原ちあきさん「…小さい頃からいつかデビューすると思っていたので、凄く嬉しいんですよ、自慢ですよね。回りに言ってました病院中で」
大切の人の為に何かしてあげたい、その思いから生まれたデビュー作だった。

70年代後半、各出版社は成長してゆく読者層に合わせて複数の雑誌を発行していた。
後発の雑誌『LaLa』では顔となるマンガ家を探していた。
編集者・小長井信昌さん「やっぱり『LaLa』独自の人が欲しいわけで、そういう人にぴったりだと思ったわけですよ」
成田のデビュー作は大好評。すぐさま次の執筆の依頼が来た。学校に通いながら単発の読み切り作品を2ヶ月に1本のペースで描いていった。高校三年生のプロマンガ家の誕生だった。
しかし、それはあまりにもハードな日々だった。放課後や家で描くだけでは間に合わなかった。しかし、授業中に絵を描いていたのではバレてしまう。そこである方法を思いついた。メモ用紙に漫画のストーリーやアイディアを文字で書く。これなら授業中にやっても判らない。こうして編み出したスタイルが今も続いている。
編集者と打ち合わせをするときに使う下書きをネームという。一般的なネームはコマ割があって、人物がいて台詞が書き込まれたもの。ところが成田のネームは高校時代そのまま、文字が中心。絵やコマ割が全くない。かなり特殊なスタイル。
担当編集者・石原史朗さん「正直最初の1年ぐらいはこっちも文字を読むふりはするんですけど、今ひとつよく判らないところもあって戸惑いました」

【Scene 3.旅立ちのとき】
20歳のときに東京へ。その頃、いとこの小笠原さんは東京の病院で治療中。二人でアパートを借りて共同生活を始めた。
「一緒に住んでいたほうが、何かと親兄弟も安心だと…」
小笠原ちあきさん「うちの叔父さんが、あのふたりは二人で一人分だからって言って一緒に住んでたんですよ」
ふたりでひとり。成田は小笠原さんの車椅子を押したり、家事を分担したり、姉妹のような生活が始まった。
小笠原ちあきさん「…いつも心配事としてそばに私があったんですよ」
1980年。そんな生活の中からひとつの作品が生まれた。それが成田最初の大ヒット作『エイリアン通り』(1980-1984年)
「キャラクターだけが先にあって、舞台をどこにするかとかもドタンバまで決めていなかった気がします。その頃とにかくアメリカ西海岸っていうのが流行だったので、映画でも何でも西海岸文化って凄く入ってきていたので西海岸にしようかなっと…。日本で考えたら三つしか出てこないエピソードもL.A.なら10ぐらい出てきそうだなと、荒唐無稽な話を描こうと思った。いわゆるエンターテインメントを描こうと思ったので、これは絶対外国の方が面白いだろうと思ったんですよ」

成田最初のアメリカを舞台にした作品、『エイリアン通り』の連載が始まった。

「とにかく、簡単な話ですから。シャールの生い立ちが隠されていて、最後に明かされて、でも友人関係は変らないよっていう形ですかね…そんなに大きな話はないんですよね。子供が想像しそうな話じゃないですか、大人になって考えたら、考え付かない話なんですよ…ちょうどそのはざまっていうか、子供が考えそうな話に具体的な裏づけをちょっと付けてみたみたいな話なんですよね」

『エイリアン通り』は大ヒット。バレンタインデーにはキャラクター宛にチョコレートが数百個も送られてきた。
成田美名子は若干二十歳で一躍人気作家の仲間入り、成田の絵が毎号表紙を飾った。しかし…

「あんまり当時は読者の方のありがたみというのが判らなくて…やっぱりまだ若かったので、怖いっていうほうが強くて…あの当時とても熱心な読者であったらしい方が自殺なさっているんですよ。私は知らなかったんですけど、亡くなった子の遺書が掲載されていまして、『自分が死んだらお棺の中に「エイリアン」の何巻と何巻を入れてください』と…いじめで亡くなった子だったんですね。『エイリアン』の中にいじめられていた子っていうのが出てきてて…」
「…あの部分だと思うんですけど、どうせだったら何が何でもふんばって生き抜こうって話をどうしてかけなかったのかなって思って…本当に後悔したんです。その時は凄いショックだったんです。それは今でもずっと頭の中にあるんですけども…」
『エイリアン通り』は累計500万部の大ヒット。影響力の大きさを初めて知った。成田は次回作にはっきりとしたメッセージを込めたいと思った。

「とりあえず『CIPHER』ではうんと過酷な運命を与えてやれと。それでも何でも生きていれば何とかなる。いつか解決する時があるんだからなんとか生きていてくれっていう話を描こうと思ったんですよね」

【Scene 4.CIPHER -サイファ-】
1985年、成田は新連載『CIPHER』に挑む。

当時の担当編集者・田野倉伸さん「はじめに『CIPHER』の設定とか大まかな話の構成を伺った時に、前作の『エイリアン通り』とは雰囲気が大分違う作品になるなっていうんで少し驚いた印象がありますね。期待が半分と不安が半分という感じですかね」
成田の新作はふたりで一人の人生を生きる双子の物語。その頃、いとこの小笠原さんも退院しスタッフの一員として作品に関わることとなった。

「『エイリアン』が架空の話だったので、こんどはうんとリアルに描いてやろうと。仕事自体がもう大変でした。取材から全く違うので、全部調べなきゃいけないので、生活をすべてアメリカのものオンリーに切り替えました。形から入るっていうか、朝起きたらパン食べてコーヒー飲んで、ベットメイクもアメリカ式にして、向こうの行事も全部同じように…」

情報収集を手伝ってくれたのは、当時L.A.に住んでいたいとこ。
「ゴミ捨てるならちょうどいいからウチに送ってね。台所や生活の中で出るごみは全部下さいっていう風にお願いしておいて、定期的にごみを送ってもらって…資料として大切に保管して描いておりました」
ニューヨークの風景を写真を参考にリアルに描いた。サイファとシヴァの生活もアメリカの普通の暮らしが伝わるようにトイレットペーパーや蛇口に至るまでこだわって描いた。当時、日本ではほとんど知られていなかったデンタル・フロスまで誌面に登場。アメリカのライフスタイルが伝わってくる。そしてアメリカではよく見られる上げ下げ窓を描くにも苦労があった。
「あの頃、ちょうどいい具合に田舎の家の建て直しをしたので、上げ下げ窓を付けてと言って…カギの仕組みとかがわかんなかったんですよ。で、カナダ製のがあったからアメリカでも使っているはずだと思ってね写真を撮ってアシスタントに回して…」

「ほんと言うと漫画って衣食住のように人間の生活に絶対に必要なものじゃないじゃないですか…別に漫画がなくたってみんな生きていけますよね、…じゃあこれは何のためにあるのか?って考えると、どこかで読んでくださってるかたに役に立たなくっちゃって思ったんですよね。ちょっとでも元気になるとか、読んでいる間だけでも今の心配事を忘れてくれればとか、そういうことを考えてちゃんと描き出すようになったのが『CIPHER』ぐらいからかもしれないですね…」

『CIPHER』の中で成田は辛くても生き抜こうというメッセージを読者に投げかけた。『CIPHER』を描くことで成田自身も成長していた。その姿に小笠原さんも励まされた。そして小笠原さんの生き抜く姿に成田も力をもらっていた。
「…なんていうんだろうな…生きてる姿が好き、生命力…うまく言えないけど、この人って凄いって思うときがもの凄く好きなんですよ。人間って凄い!もっと自分も頑張らなきゃ…そういうものを盛り込んで描けたら、それは理想ですけどね。なかなかできないんですよ、それが」
現在小笠原さんはサイン会をサポートしたり、取材旅行に同行したり、成田の活動を支えている。

【Scene 5.成田美名子 原点に帰る】
アメリカン・ライフをリアルに描き80年代をリードした成田美名子。いま取り組んでいるのは、日本の伝統芸能「能」の世界。

「家から離れて外国に憧れて、外国に行ってみるんだけど、行ってみると日本とか自分の田舎とか自分の国の文化が新たに見えてきて戻ってくるって事があるじゃないですか。いまそれで、元に戻ったっていうか原点に戻った感じで「能」の話を描いているって思ってますけど」

現在連載中の『花よりも花の如く』(2003年~)では伝統芸能の世界に生きる若者の姿を描いている。

アメリカン・ライフを描いた時と同様に、成田は徹底的に取材をしている。

描く世界は変わっても、こだわりぬく成田の姿勢は変らない

(成田の仕事場)
2階に自分専用の部屋があり、キャラクターを描く。アシスタントとの作業は仕上げの段階だけだという。
「主に人が入ってしまうまでは上にいるんですけど、どうしても他の話を聞きながら他の話をしているキャラクターを描けないんですよ。で、アシスタントさんに口を利くなと言うわけにもいかないので、上でこの話をしているキャラクターを描いてしまってから下に来て、私が表情を全部(描き)終わってしまってから、アシスタントと直接会話をしています」
この日の作業は単行本陽の書き直し。連載時に入れられなかった装束の柄など細かい描写を仕上げていく。アシスタントに着物の柄やしわの付きかたなど、こと細かに指示していく。
アシスタント・辻春美さん「こだわりが凄く深いかただなぁと思いますけれど。画面の端から端までを細かく、すべてを大事にしているという感じです」
「服の柄っていうのは、描くとそれで人の体の形が判ってしまうんですよ。特に縞々のやつとかはある程度自分でやらないと体格が変っちゃうってところがあって、極力自分でやるようにはしているんですよ」

初めて「能」を見たのはデビュー作の原稿を出版社に持ち込んだ日。高校2年の終わりだった。この夏思い出の校舎が取り壊されると聞いて、母校を訪ねた。

迷いに迷って書いたのは、思い出の校舎と高校生だった頃の自分へのメッセージ
“お疲れさまでした。7.25.2005 成田美名子 (12回生)”と黒板に書き残す。「人物や生き物を描いてしまうと捨てられないんですよ」

「漫画も好きだったけれどもデビューしたくで応募したのではなくて、賞金稼ぎだったというのがそもそも大きいので、いまだに直接誰かの役に立つ仕事の方が向いているっていう気持ちがずっとあるんですよ、そういう意味では最初からほんとにズレてない。何かのどなたかの役に立つ仕事をしたいという気持ちはズレてないんですよ。ともかく見た方が何でもいいので、ちょっとでも元気になれば、悩みがあったけど一瞬でも忘れていてくれれば、それはずっと心がけて描いていますので、必然的に方向は決まりますよね。それはもう変らないです。多分これはもう一生変らないなって自分で想像つきます」

「バラバラになったら俺たちは俺たちじゃない」そう思っていたシヴァとサイファ。離れた時に気付いた思い。半身を切り取られたような痛み。「人間ふたり居れば諍いが起こるもんなんだよ。でもいいじゃん、その逆だってできるんだから…」
-END-

途中に挿入された作品紹介や一部インタビューなど細かい部分は省略してあります。
誤字脱字はご容赦ください。
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