みなさんの好きな戦国武将をおしえてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (12件中11~12件)

豊臣秀吉です。


普通の人から日本一になったのがまず凄い。でも、詰めの甘さが残り、晩年の淀君に振り回されるところなど、織田信長などと違って人間味があって共感できます。
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日本史上最も魅力的な“織田信長”です。

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Q淀君と淀殿

私は歴史はマンガから入ったので、それをベースにいろんな歴史
上の人物を思い浮かべたりします。
その中で太閤秀吉の側室で秀頼の母を「淀君」と記憶しているの
ですが(「淀君」というタイトルの本から入ったため)、
淀君は蔑称で淀殿が本当は正しいと聞きました。
たしかにその後読んだ「日本の歴史」でも淀殿になっています。
どうして「淀殿」が「淀君」になると蔑称になるのでしょうか。
教えて下さい。

Aベストアンサー

度々すみません、#1です!

あれからずっとビデオラック探してて、やっと見つけました!えっと・・・2年ほど前のNHK「その時歴史は動いた」で、淀殿の屈辱についての記された回がありました。一応詳しい放送日時を調べたので、下記に貼っておきますね。

第092回 鎧をまとった母・淀殿の悲劇~裏切られた平和への願い~
放映日:2002年04月17日
ゲスト:田端泰子(教授)
その時:慶長20年(1615年)5月8日・大坂夏の陣

もし機会があれば、大きな図書館などのビデオライブラリーで閲覧できると思いますので、宜しければ一度ご覧になられて見たら良いと思いますよ。なかなか興味深かったです。

ご参考の一部に加えて頂けたら幸いです。

参考URL:http://www.google.co.jp/search?q=cache:gSyDt5lQsqAJ:www6.plala.or.jp/camui/sonotoki/sekigahara1.html+%E6%B7%80%E6%AE%BF%

Q再質問です。あなたが好きな言葉は何ですか?私は、一期一会が好きです。よろしくお願いします。

再質問です。あなたが好きな言葉は何ですか?私は、一期一会が好きです。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

種田山頭火に「まつすぐな道でさみしい」という句があります。
私も常々「まっすぐな道は寂しい」と思って生きてきました。
今もその通りに曲がりくねった道を歩いてますが、楽しいです。

Qいつの間にか、淀君が淀殿に

私が歴史を学んでいた頃は、「淀君」という呼び方が当たり前でした。
淀君というのは、蔑称で、淀殿と呼びましょうという、提唱は、どなたがされたのでしょう。

 

Aベストアンサー

こんばんは  田端 泰子という日本史の学者さんらしいですね。
 経歴をみると女性のことがお得意のような感じを受けます。
 ○○君というような名前は、江戸時代の遊女のような名前だからということらしいですね。
 こっから先は質問者さんのお得意の分野でしょうから、この辺で退散します。
http://72.14.235.104/search?q=cache:uU_thp7wpMcJ:ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF+%E6%B7%80%E5%90%9B&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp
http://www.tachibana-u.ac.jp/official/reserch/professor/h_professor/tabata.html

Qこの質問見た人、絶対答えてね。強制です。 自分を変人だと、思いますか。お気軽にてきとうにお答えくださ

この質問見た人、絶対答えてね。強制です。
自分を変人だと、思いますか。お気軽にてきとうにお答えください。

Aベストアンサー

変わっている、とは思いますよ。
でも別にそれが悪い事だとは思いません。
人と同じじゃなきゃいけないとは思いませんので。
まあ、ただかなり極端な性格だとは思います(^_^;)
でも、これがありのままの自分だから。。

Q織田信長が自害したと何故わかる?

光秀が本能寺を焼いたときに織田信長が自害したと言われていますが,「燃えている寺の中で自害した」ことをどうやって知ったのでしょうか.

介錯人だけ助けてもらって,信長が自害したことを光秀側に教え,それが今に伝わっているとかでしょうか.

燃えてしまった本能寺の中で,信長が自害したことを知ることができたプロセスについて教えてください.

Aベストアンサー

遺体が見つからなかったと言われていますので、実際のところは不明ですが、自害したと伝えられ、事実扱いになっている理由は、以下の2点だと思います。
・女性たちが逃げ、信長公記の作者の大田牛一に、光秀が攻め込み自分が逃げるまでに見聞きしたことを伝えた。
 (有名な「是非に及ばず」は、そのようにして伝えられたとされています。)
・当時の武将の価値観として、絶体絶命になったら、敵に討たれることを避け、なんとかして自害しようとすることが一般的だった。

Q好きな戦国武将トップ5

タイトル通りです。よろしくお願いします。
ちなみに僕は、
1、立花宗茂
2、本多忠勝
3、真田幸村
4、鳥居強右衛門
5、鳥居元忠
できれば理由もおしえてください(自分は載せてないけど・・・)

Aベストアンサー

1 真田幸村
家康が最も恐れたともいわれた武将で、
大坂の役のときの勇姿には感動した。
最期さえもカッコイイ。

2 真田昌幸
頭が良くて真田家でいちばん戦略も優れている。
家康さえも恐れた武将。

3 本多忠勝
何より強いし、人格も武力も優れている

4 豊臣秀吉
すごい才能の持ち主。
天下統一を成し遂げたこと、その過程は後々のことがあっても
やっぱり偉大だし、賢い人だと思う。

5 前田利家
豊臣家を陰で支えた人物。

真田幸村のことは小学生の頃から好きでした。(遠い昔・・・)
学習漫画を読んでいて、幸村の最期のところになるといつも「死なないでほしい」と思ったものです・・。(結末が分かっているのに)

Q関白秀次の一族皆殺しは淀君がさせた?

関白秀次の一族皆殺しは淀君がさせた?
最近、京都旅行をして、たまたま
関白秀次がまつられていたお寺の中に入りました。河村瑞賢が
建立したとありました。
そこで、関白秀次の一族が皆殺しにあったとありました。
関白秀次だけ殺すのならわかりますが、正室、側室、子供まで殺す
とは、淀君の秀吉に対する勧めなのかなと思いました。
一緒に旅行していた娘もショックを受けて秀吉に対する考えに
変化が生じたようです。
私の単なる直観について、詳しい方何か教えてください。

Aベストアンサー

秀次の関白解任、切腹、それに続く家族皆殺しについては、

* 豊臣政権の中核であり、俗説では「秀次追い落としの中心人物」とされる石田三成が秀吉に「秀次様は無実であり、豊臣政権にとってかけがえのない方である」と秀吉を諫めている事実があり、秀次の抹殺に賛成していた者の存在は知られていない。
豊臣家子飼いの側近武将(石田三成など)、外様の諸大名(徳川家康など)、公家、僧侶(有力寺院の僧侶はかなりの社会的影響力を持っていました)など、
「秀吉に影響力をもたらせる者全員が、秀次の抹殺に反対」
であったと考えて良いでしょう。

* 秀吉が、子供が生まれないと考えて甥の秀次に関白位を譲った後、淀殿が秀頼を産んだために
「秀頼の将来のために、邪魔者の秀次を抹殺しなければならない」
と考えて、そのような行動に及んだと考えられる。
『淀殿が秀吉をそそのかした』ということを直接に示す、あるいはそういう風評の存在を示す史料の存在は聞いたことがありません。ただし、淀殿が母親として秀頼の将来を案じるのは自然なことですので、記録に残ってはいませんが、淀殿が秀次の抹殺に賛成だったことはあり得ます。

* 以前の質問
「豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2622758.html
のNo2で私が回答していますが、豊臣秀次は「2代目」として不足のない器量の持ち主であり、秀吉から関白位を継承して武将・公家・僧侶などからその権威を問題なく認められていました。「殺生関白」という汚名は、秀次と家族の抹殺を正当化するためのフィクションと考えるべきでしょう。
史実において、秀吉は1598年に没しましたが、その後も秀次は関白として問題なく豊臣政権を運営したはずです。秀吉が構築した官僚機構が秀次の統治をサポートしますし、秀次というトップがはっきりしている以上、「豊臣政権の内部での、文官(石田三成など)と武官(福島正則など)の対立」なども起こりません。
「五大老・五奉行」などという「集団指導体制」は、秀次が抹殺されて、秀吉死後の豊臣政権が「トップ不在」に陥ることが確実であるために苦肉の策として計画されたものです。
当然ながらそのような「集団指導体制」は機能せず、徳川家康による権力掌握、それに反発した石田三成らの挙兵、関ヶ原の合戦、その結果としての徳川家への政権移動が生じました。
上記のようなことは秀次が関白として健在であれば全く問題にならなかったことでしょう。

* 秀次とその家族の抹殺によって利益を得た者は、強いて言えば「徳川家康」です。
ただし、家康がこの行為に関与していたと判断できる史料は全くありませんし、状況としてもそのような行動はありえません。
「史料には残っていないが、淀殿が関与していた可能性はある」
「家康が関与していた可能性はない」
と考えます。

* 秀吉は、ご質問のように淀殿にそそのかされたのではなく、結果として最大の利益を得た家康にそそのかされたのでもなく、『自らの最悪の判断によって』秀次とその一家を抹殺し、結果として豊臣政権を一代で終わらせたと考えられます。

秀次の関白解任、切腹、それに続く家族皆殺しについては、

* 豊臣政権の中核であり、俗説では「秀次追い落としの中心人物」とされる石田三成が秀吉に「秀次様は無実であり、豊臣政権にとってかけがえのない方である」と秀吉を諫めている事実があり、秀次の抹殺に賛成していた者の存在は知られていない。
豊臣家子飼いの側近武将(石田三成など)、外様の諸大名(徳川家康など)、公家、僧侶(有力寺院の僧侶はかなりの社会的影響力を持っていました)など、
「秀吉に影響力をもたらせる者全員が、秀次の抹殺に反対...続きを読む

Q好きな戦国武将ベスト5教えてください

ちなみに僕は
1織田信長:天才的で何にもとらわれない発想は突出している。
2蒲生氏郷:部下思いの武将。秀吉に暗殺されたという噂あり。
3豊臣秀吉:農民から天下へ。大変前向きで明るい。晩年は独裁的。
4北条早雲:謎多い人物。農民の税金を軽くするなど、義の心あり。
5上杉謙信:誠実をもってならした珍しき大名。とにかく無欲。

です。理由なんかもあったら書いてください。

Aベストアンサー

1位を2名挙げます。

1) 立花宗茂
天下一の武勇に加え、秀吉の自分と元の主家の大友家への恩顧を忘れない義理堅さ。これほど爽やかな戦国武将はいないと考えます。

1) 大谷吉継
石田三成だけでは「関ヶ原の合戦」は起きなかったでしょう。三成と共に西軍を旗揚げし、「石田などに何も出来まい。挙兵したらひねり潰すまで」と高をくくっていた徳川家康を天下分け目の合戦に引きずり出したのは多くが吉継の加担によるものと考えます。
義と友情のために命と地位を全て差し出した行為は、歴史上も稀なのではないでしょうか。

立花はその人物を惜しまれて徳川家の大名として柳川の旧領を回復し、大谷は関ヶ原で壮烈な最期を遂げたわけですが、「義人」として「武人」として甲乙つけ難いです。

3) 徳川家康
豊臣秀吉没後、天下第一の武将としての地位を得るまでの過程は略します。今川傘下の三河の小大名の嗣子の地位からここまで来ただけでも凄いことですが。

秀吉没後、石田・大谷が挙兵して西日本の大名をほとんど味方につけて家康に挑んできたのは「計算違い」だったでしょう。
それに対し、西軍の最大部隊である毛利部隊を封じることが戦勝のカギと読み切り、吉川広家に徹底した調略を行って、関ヶ原合戦で毛利部隊2万余が陣取る南宮山のふもとを
「毛利は決して参戦しない。参戦したらオレは関ヶ原で死ぬが、そのリスクは限りなくゼロ」
と読みきって通過し、関ヶ原という「死地」に入って西軍を最終的に粉砕したのは「見事」としか言えません。

広家は毛利家の中では「非主流派」「不満分子」であったようで、棟梁である輝元の信頼もあまりなかったようです。毛利家の主流は輝元→元の養嗣子の秀元→外交顧問格の安国寺恵瓊であったようで、西軍加担に反対した広家の意見は通らず、輝元は西軍の総帥となり、輝元の陣代として秀元が毛利の野戦軍を率いて美濃に進出しました。
ところが、「非主流派」である広家が何故か毛利の野戦軍の先鋒であり、当時の軍法として「先鋒部隊の『最初に攻撃する権利』は侵すことが出来ない」というものがありました。
これが「吉川隊が先鋒を承るのが毛利家の軍法」で家康他に周知のことであったのか、毛利の野戦軍が関ヶ原に進む過程で「偶然に吉川隊が毛利部隊の先鋒になったのか」分かりませんが、家康が、もともと親家康派で、策士の素質があり調略するのが容易な広家を調略し、大谷や立花と似たような人で「調略不可能」であった秀元(毛利家のナンバー2)には一切調略を行わなかったというのは「凄い判断」です。
家康の広家への調略が「120%成功」しなかったら、東軍と西軍の合戦は史実とは全く違う様相になっていたでしょう。

また、関ヶ原の合戦の勝利で反対派を一掃して天下を取った後も、家康は秀吉との約束どおり秀頼に実の孫娘の千姫を嫁がせています。千姫は「徳川家が豊臣家に差し出した人質」であり、逆に豊臣家は徳川家に人質を出しておりません。
関ヶ原から大阪の陣まで15年と言う実に長い年月が経っていますが、家康は最後まで豊臣家を滅ぼし、秀頼を抹殺する意思は持っていなかったと思われます。
実際、豊臣家が滅んだ大坂夏の陣の直前の時点であっても、秀頼が徳川家に「大坂城を退去します。適当な替地を頂ければ幸いです」「江戸に屋敷を構え、母を住まわせます」と申し入れれば、恐らく秀頼はその人生を全うし、現在まで豊臣家の子孫が続いていたと考えます。

大坂の陣は、時代の変化を無視して大坂城という大要塞に蟠居し、巨万の富を有する秀頼・淀殿母子は、自分の死後に秀忠の手に余り、天下の太平を乱すことになると考えた家康の「苦渋の決断」であったと考えます。どこかで秀頼が折れてくれれば、家康も安心して秀頼を優遇したと思うのですが残念なことです。

と、長文を書きましたが、私が最も「評価する」戦国武将は徳川家康です。人の住めない場所であった江戸を巧妙な土木工事によって現在の東京に仕上げ、諸河川の氾濫で農耕不可能だった関東平野の大部分を沃野に変えた民生手腕も見事です。

4) 最上義光
戦国史に詳しい人、また山形市民以外には恐らく全く知られていない人ですが、名門・最上家の社稷を守り、江戸幕府の大名として出羽に広大肥沃な領地を確保したのは偉業と言えます。ただ、後継者育成に失敗して、大名としての最上家は義光の死後あっという間に消えてしまいました。
そのため史料が乏しく、最上のライバルであった伊達家の史料によって語られることが多いため、かの大河ドラマ「独眼竜政宗」では陰謀を巡らすしか能のない男に描かれてそのイメージがくっついてしまった気の毒な人です。

5) 蒲生氏郷
この人が数え40歳の若さで病死しなければ、秀吉死後の日本がどうなったか?実に惜しい大器です。

1位を2名挙げます。

1) 立花宗茂
天下一の武勇に加え、秀吉の自分と元の主家の大友家への恩顧を忘れない義理堅さ。これほど爽やかな戦国武将はいないと考えます。

1) 大谷吉継
石田三成だけでは「関ヶ原の合戦」は起きなかったでしょう。三成と共に西軍を旗揚げし、「石田などに何も出来まい。挙兵したらひねり潰すまで」と高をくくっていた徳川家康を天下分け目の合戦に引きずり出したのは多くが吉継の加担によるものと考えます。
義と友情のために命と地位を全て差し出した行為は、歴史上も稀なのでは...続きを読む

Q坂本竜馬のお姉さんの自害

私、漫画お~い!竜馬を呼んで疑問がわきました。

竜馬が脱藩したせいで、何故竜馬のお姉さんが自害したんでしょうか?
刀を竜馬に渡したからですか?何故自害したことで坂本家の罰が軽くなったんでしょうか?

Aベストアンサー

私もおーい!竜馬は大好きです。
脱藩は当時、残された家族にも罰が及ぶ大罪で、姉の栄は家宝の刀を渡したことの責めを負って家名を守るために自害した、とされていますが、姉の栄は実は竜馬の脱藩よりももっともっと前に死んでいた(これが事実?)とか、実は栄の嫁ぎ先の家の刀を渡したとか、いろいろ説があるようです。
おーい!竜馬が必ずしも史実ではありませんので、竜馬関連の書物などいろいろ読んでみると面白いと思います。

Q好きな戦国武将

皆さんが好きな戦国武将を教えてください。
理由も出来ればお願いします。

Aベストアンサー

非常に悩ましいですが、武田信玄ですね。
武田二十四将と言いますが、甲斐の国は元々地方豪族の支配力が強く、彼らも地元を支配する武士でした。信玄はそういう人を束ねる統率力と人身掌握、眼力などが優れていて、かつ戦略・戦術にも秀でている武将だと思います。

で、信玄のライバルと言えば越後の上杉謙信ですが、我が家の家紋は謙信公から賜ったものなので、(信玄が好きですが)こっちも無下に出来ず悩みます。
両人共に病気で亡くなりましたが、もっと生きていたら確実に歴史は変わっていたでしょうね。


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