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司馬遼太郎氏の関が原を読んでいます。
その一説に大谷刑部が石田三成の挙兵を思い止まらせるが失敗、同行した平塚為広とのやり取りに
大谷刑部「因州、そなたの命は今年限りと決まったぞ。」
平塚為広「望むところ、この歳になって大戦に参戦出来て嬉しく思います。江戸の老虎を撃つ戦、爽やかな死に花を咲かせることが出来るでしょう。」
と言うような一説が有ります。

自分でしたら、やっと大名になれたのに敗戦確実な治部少の味方など、冗談じゃねえよ。俺は垂井に帰るよ。
となります。

もちろんかなり脚色は有りますが、当時の二人の関係が伺い知れ、大谷刑部の家臣でもなく、出自も違う平塚為広の戦国武将としての心意気、敵の家康さえも自害を悲しんだと言う大谷刑部の武将としての資質、人格に胸が熱くなりました。

大谷刑部に心酔していた平塚為広との関係は関が原当時、どのようなものだったのでしょうか。

A 回答 (1件)

敗者は歴史から抹殺されますので、心情まで察するのは無理でしょう。


小早川秀秋は500年経った、今でも裏切り者の烙印のままですが、
義に生きた武将は語り継がれます。
弟の平塚久賀は捕らえられたが、徳川家康が放免したのも、義に殉じ、
名を惜しんだ生き方に共鳴したから、と推察します。
Wikiによれば、平塚久賀は放免後、紀州藩に仕官してますね。
文壇上で与謝野晶子とやり合った、平塚らいちょうは末裔だとか。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2021/12/22 18:51

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