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(第二次大戦末期、甲府市郊外に疎開していた「私」は、学童疎開でやって来て旅館で「梅ヶ枝」に預けられていた宋三・弁三という二人の子供と親しくなった。)
ある時、私が図書室を出て青物屋の店先で胡瓜の山を見ていると、宋三・弁三が梅ヶ枝の女中に連れられてリアカーを曳いてやって来た。二人はその日、疎開学童用の配給品を運ぶ当番にあたっていた。彼らは土間の中の胡瓜を、一本ずつ数えながら笊に入れた。よく青物屋が玉葱など数えるときにするように、「ええ二つ二つ、四つ四つ、六つ六つ…」と節をつけて数えながら彼らは胡瓜を笊に入れた。それがよく板についていて、青物を運ぶ当番を何回やったのかしれないが、A(子供にしては器用すぎた。)私がそれを見ていると、弁三が私を呼び止めた。
「おじさん、おじさん、いつかのプロペラの廻る話、あれどうなったずら。もう調べてくれたずら」
B(言葉づかいも土地訛りになっていた。)
「ね、あの童話はまだなの。今度、いつ東京へ行って来るの。今度は、きっと調べて来るずら」
「きっと調べて来る。でも、あんな話を専門家にきくと、笑って問題にしないかもしれないよ。今日は僕、忙しいからこれで失敬する」
私はこの「プロペラの廻る話」を、二人の前では避けたい気持になっていた。他愛ない話である。この話のきっかけも、子供の冗談ばなしのようなものから始まった。あるとき宋三・弁三が寮母さんひ引率されて文化映画を見に行くと、飛行機の離陸する直前のところを写した一場面があった。その飛行機のプロペラが回転をはじめると、すぐにそれが逆にまわりだしたように見えだした。宋三・弁三はそれを不思議に思ったので、翌日、学校の受持の先生に、プロペラの逆にまわるように見える理由を質問した。それが休憩時間でなくて、この地方特殊の風土病を媒介する宮入貝駆除のため、学童の勤労作業中だったのが悪かった。弁三の質問の言葉が足りないのを傍から宋三か補って、細かいことを言い足しながら二重に質問したのがさらに悪かった。二人がこんな質問をしたので、そのとき受持の先生の傍わらにいた挺身隊員の不興を蒙った。悪童二人が共同で難問を先生に持出したと挺身隊員は受取った。C(神聖な勤労作業中、敢えて唯物主義的な質問をしたものと解釈した。)受持の先生もこれには驚いて、宋三・弁三のために挺身隊員に詫びを言ってくれた。挺身隊員は「なんという不徹底だ。だから学童がますます邪道にはいって行くのだ」と先生を頭ごなしに叱り飛ばし、宋三・弁三に勤労奉仕の精神についてながながしい訓示を与え、「お前たちのいまの質問には、いま自分が答えてやる」と言って解説してくれた。
それによると、すべて、非常に速やかな速力を出すものは、その速力が速さの限界達すると逆に進んで行き、したがって未来に貫いて行くものが過去に向かって進んで行く。これはアインスタインの学説であるそうだ。その話を、宋三・弁三は私にそんな風な表現では言わなかった。彼らの受持の先生が疎開学童の家庭訪問に梅ヶ枝に来たついでに、挺身隊員の怖かったことについて、おかみさんにそういう表現で話したそうだ。それをまた、おかみさんが私に話した。宋三はこれと同じ意味を、子供らしい言い方で、「猛烈なスピードで進むと、過去に進むんだそうだ。ほんとだろうか」と言った。宋三は「プロペラの廻る速さ以上に進むと、過去の歴史の中に入っていけるんだ。そうすると、新井白石にも会えるね。スピードが出さえすればいいんだね」と寧ろあこがれるように言った。すると弁三が「僕は、新井白石よりも豊臣秀吉に会ってみたいよ。二十分間でも、三十分間でもいいから、会ってみたい」と言った。他愛ない話である。
私はその後、たびたび宋三・弁三にせがまれているうちに、ほとんど間抜けなほど他愛ないことを二人に約束するようになった。いずれ東京へ用事で出るついでのとき、誰か専門家に「速さと過去」の関係についてたすねてやると約束して、また二人を連れて過去の歴史のなかへ行く話を書いてやると約束した。常識で考えるまでもなく、死んだ人物に会える筈はないが、白石や秀吉に会いたいというD(宋三・弁三の気持には、私もある程度、同館が持てた。)宋三は、先ず白石に会ったら飛行機の製法や操縦法を伝え、徳川家宣に仕えるのをよして、河村瑞軒と協力で、大貿易家になるようにすすめたいと言った。白石は聡明で独学のしかたが手に入っているに違いない。飛行機に関する書物を一冊贈呈すれば、すぐに製法や操縦法を心得るだろうと言っていた。弁三は、もし秀吉に会ったら、日本の桃山時代の政治を代議制にするようにすすめ、利休を殺したり純金の茶席をつくずたりする代りに、師範学校をつくるようにすすめたいと言った。これは半ば私の入れ知恵の影響だが、二人の子供はそんなことを言うようになっていた。
私はこの二人の子供を素材にして、童話風な物語を書きたいものだと思った。二人の子供を連れ、過去の歴史のなかをそこかしこ漫歩して、せめて垣間見にでも二人のものに、秀吉や新井白石の風墓絵を見せてやるという物語である。私自身も、秀吉や白石の馨咳に接したい気持が充分にあった。
この計画を私はたびたび宋三・弁三に話して聞かせ、二人をモデルにして実際の名前で書いても差し支えないという承諾を受けた。その後な、私自身よりも宋三・弁三の方が、この計画に対して熱意を持つようになって来た。嘘八百の話にしても、何しろ彼等は過去の歴史のなかにはいって行けるのである。私かろ甲府の青物屋の前で二人に会ったとき、弁三が私を追いかけて来て「プロペラの廻る話」を持ち出したのは、彼等の熱意の現われの一端である。それより前、私は挺身隊員やプロペラの話と関係なく、ただその話から思いついて一つの童話を書き出していたが、二十枚あまりで行きどまりになっていた。
(出典 井伏鱒二「二つの話」)

問一 傍線部 A「子供にしては器用すぎた」とあり、傍線部Bには「言葉づかいも土地訛りになっていた」とある。これらの表現から二人の子供に対する「私」のどのような気持が読み取れるか。わかりやすく説明せよ。
問二 傍線部C「神聖な勤労作業中、敢えて唯物主義的な質問をしたものと解釈した」とあるが、これを諧謔表現の一種であると見た場合、
(1)そのおかしみはどこから生まれてくるのか、わかりやすく説明せよ。
(2)この表現から、挺身隊員に対する「私」のどのような気持を読み取ることができるか。二十字以内で説明せよ。
問三 挺身隊員の言動について、受持の先生と宋三・弁三との受けとめ方には違いがある。それはどのような違いであるか。わかりやすく説明せよ。
問四 傍線部D「宋三・弁三の気持には、私もある程度、同感が持てた」とあるが、それはどうしてだと考えられるか。気持が私」の置かれた状況を踏まえつつ、わかりやすく説明せよ。

どうかよろしくお願いします(><)
もしよろしければこのような小説文の解き方のコツなどあれば、そちらも教えていただきたいです..

A 回答 (3件)

問四 傍線部D「宋三・弁三の気持には、私もある程度、同感が持てた」とあるが、それはどうしてだと考えられるか。

気持が私」の置かれた状況を踏まえつつ、わかりやすく説明せよ。

( 私の入れ知恵の影響とはいえ、)常識ではありえないが、子供達がプロペラの話から話を発展させて、歴史上の人物に会いたいと思ったこと!
(私自身も秀吉や…に接したい気持ちが十分にあった。文章からわかる!)
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問一 傍線部 A「子供にしては器用すぎた」とあり、傍線部Bには「言葉づかいも土地訛りになっていた」とある。

これらの表現から二人の子供に対する「私」のどのような気持が読み取れるか。わかりやすく説明せよ。

胡瓜を入れる様子が板について手慣れていることと私に対して訛りで接してくれることで、彼らに親しさを覚えている。

問二 傍線部C「神聖な勤労作業中、敢えて唯物主義的な質問をしたものと解釈した」とあるが、これを諧謔表現の一種であると見た場合、
(1)そのおかしみはどこから生まれてくるのか、わかりやすく説明せよ。

大袈裟ではなく、(大人のように気を使わずに、サボリ等の悪気なく→他愛ない話である。文章から!)神聖な勤労作業中に質問したため

(2)この表現から、挺身隊員に対する「私」のどのような気持を読み取ることができるか。二十字以内で説明せよ。

貝の作業を神聖とし犯さざるものとし、他方を唯物論としたことで、恐らく逆らってはいけないと思っている!

(余談として、だから、子供達にプロペラの話を避けて、おそらく、また同じようなことが怒らないようにしたい気持ちを感じる!)
問三 挺身隊員の言動について、受持の先生と宋三・弁三との受けとめ方には違いがある。それはどのような違いであるか。わかりやすく説明せよ。

子供達は、何気なく質問しただけなのに怒られたことで、怖い印象をもった。
先生は、神聖な貝の作業時間に子供が質問したことで、傍にいた隊員に対して謝罪の気持ちがわかったので、すぐに謝ったことからもわかる!

問四 傍線部D「宋三・弁三の気持には、私もある程度、同感が持てた」とあるが、それはどうしてだと考えられるか。気持が私」の置かれた状況を踏まえつつ、わかりやすく説明せよ。

もしよろしければこのような小説文の解き方のコツなど
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日本の近代文学というのは、封建社会から脱した日本が理想の社会を実現できたかと思えば、決してそうではなく日本人が「近代」を目の前にしてそれにたじろいでいる、とそのように認識している節があります。


夏目漱石は、学校の先生になった若い人がそばを2枚食ってそれを生徒にからかわれる様を描きました。封建社会ではあり得ないことです。これは近代になって初めて頻発したであろう出来事です。
森鴎外は、海外留学したもののこれに挫折して現地女性に溺れる男を描きました。これもまた近代において初めて遭遇した出来事です。
さて、井伏鱒二です。夏目漱石が東京の出身であるのに対して彼は地方の出身です。
この人は都会人の如才なさにどこか辟易としていた、苦笑の対象としていた節があります。
それを踏まえると、問1は「子供の一連の言動に如才の無さを感じていた。それに対して気後れを感じていた」
何故気後れを感じていたと言えるのか。子供に対して他愛のない話を持ちかけたら思いもよらず食いついて来たので彼は彼ら子供たちを避けたがっているからです。これを一言で述べるとすれば気後れということになるでしょう。もう少し良い表現があればそちらでも良いのでしょうが。

問2
(1)貝の駆除作業の際子供が素朴な疑問を発した事象に対して大げさな表現を用いている、ということがおかしみを生んでいる。
(2)子供のすることへの過剰反応に辟易する。
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